失って初めて気付く恋心の小説

辻野 深月

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Lemon

Lemon (2)

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 早退したところで雨宮がいける場所なんて限られている。たかが一介の高校生だ。行動範囲なんて一都一県がやっとというところ。まして、たまった鬱憤を晴らすために見知らぬ土地へ傷心旅行に出掛けるなんてことを考えるほど弱ってはいない。

 だから、行き着く先も自然と絞られるのが道理だ。

 行きつけのゲームセンター。そこに隣接するカラオケボックスに乗り込んで、昼間のフリータイムで一部屋を確保し、喉が枯れるまで歌うことにした。

 さすがに今日ばかりはゲームに興じる気分じゃない。万が一にも遭遇することは避けたかったこともある。いまさらどんな顔をしてエリナの前に出て行けばいいのか覚悟もできていないから、筐体の側に寄りつくことすら憚られた。

 受付で昼間のフリータイムお一人様を注文し、部屋番号の札を片手に狭いボックスへと足を踏み入れる。四角いテーブルに投げ出したスマホが受信するエリナからのメッセージをひたすら無視し続けて、High Twilightのナンバーを曲の名前で『あ』からじゅんぐりに打ち込んだ。DAMに収録されている73曲は一通り流してしまえば夕方になっているはずだ。日が暮れたらフリータイムも終わって、適当に家に帰ってベッドに身を投げ出してしまえば虚無な一日が終わる。早く終わって欲しい。

 早速に始まる一曲目、最初の音から盛大に音程を外す。うんざりするような歌唱力だ。ただの引きこもりが本家本元の彼らのような鋼の声帯なんて持ち合わせがあるはずもない。聞くに堪えない。そうして小一時間もすればミックスボイスは維持できなくなってしまって、ダミ声でただ叫ぶように歌詞をなぞった。

 喉の痛みに耐えかねて、途中で何度か中断し、飲み放題のドリンクを片っ端から飲み干す。それでもひたすら歌い続けた。叫び続けた。感情を叩きつけた。

 どこへもいけない、吐き出せない、なのに抱えておくこともできない不純物を四畳半の空間に撒き散らす。どこかへ行けというメッセージを内包するHigh Twilightの曲たちに向けて『どこへもいけないんだよ』という慟哭を結びつけて殴りつける。素晴らしい歌詞に対する冒涜と背徳に押しつぶされそうになりながら、背を丸めて声高に絶唱する。



 気が狂いそうだった。



 ああ、そうだ。認めよう。認めざるを得ない。



 苛立っている。どうしようもなく狂ってしまいたい。




 世界が自分を置き去りにして、勝手気ままにきらきらと輝いていく。

 色褪せた自分の視界なんてまるで意にも止めないように、周囲は燦然と煌めき続ける。

 それが赦せなかった。
 耐えがたいのだ。

 勝手に恋愛をはじめるやつがいる。自分に関係のないことを面白おかしく騒ぎ立てる連中がいる。この世になんの不満も抱いていない顔をしてへらへらしている奴がいる。

 全員嫌いだ。いなくなればいい。消えてしまえばいい。

 なんで、そんな奴らより自分がこんなに苦しい気持ちを抱いていないといけない? 惨めを晒して生き続けないといけない?

 自分が死ぬくらいなら世界が死ね。だって、こんな世界に絶望して失望して、だからってこっちがサヨナラするなんて選択、馬鹿みたいだろ。

 絶望なんて生易しいものではない。憎悪なんて生温い闇ではない。嫉妬などという半端な感情では飽き足らない。そういう感情を抱えたまま自殺するなんてまっぴら御免だ。


「……クソッタレが」

 やがて一通り歌い終わって、部屋のソファーにマイクを放り投げる。自分の惨めさに笑いが込み上げてくる。本当にどうしようもない。救いようのない餓鬼だ。
 拳を握り、壁を殴りつけ、ソファーに腰を降ろす。インナーがびっしょりと濡れていた。引きこもりにしては珍しく汗をかいたらしい。運動すればストレス発散になると言うけれど、それが嘘だということもはっきりした。

 もう、どうでもいい。

 なにもかも、どうでもいい。

 青春なんてものはどこにも存在しない。しないんだ。

 一度失敗した人間は、青春なんて特権、二度と手に入れることはできないのだ。
 あのとき失敗さえしなければ、こんな風に虚無を感じることはなかったはずだったのに。

 それくらい分かっていたはずなのに。
 結局、あの日、エリナに伝えることすらできなかった。

 望んだはずのことすら実行に移せなかった愚かな人間が、青春なんて青臭くてきらきらしたものを手にできるわけない。

 決定的だった唯一のチャンスをふいにしなければ、色褪せた世界のなかで絶望しながら生きていくことができたはずだった。けれど、もう取り返しはつかないのだ。
 輝きを失った世界には、踏み出すあてもない。



 ふと気がつくと、頬が熱かった。

「ああ――」

 意識してしまうと、歯止めが利かなくて、嗚咽が込み上げてくる。
 堰を切ったように溢れてくる想いが目からこぼれ落ちてくる。




「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」



 絶叫した。喉がひび割れるまで叫んだ。

 なのに、気持ちは消化できないまま、ぐにゃぐにゃに歪んで、心のなかでつっかえて、身体の外へ出てきてくれない。

 この感情はなんだ?

 悲しい?
 違う。

 憎い?
 否だ。

 裏切られた?
 馬鹿を言うな。

 嫉妬?
 そんなものじゃない。

 失意?
 あり得ない。
 
 後悔? 
 断じて違う。

 失敗。

 ……そうだ。
 駄目だったのだ。

 失敗したから、こんなにも苦しい。

 もがいてもあがいても、吐き出しきれないほどの感情がうねっている。
 消化できないほどの肥大してしまった想いが、この狂った心を苛む。
 まるで吐き損なった猫の毛玉のようだ。

 胸に詰まったまま窒息して死ぬことができればどれだけ楽だったろうと想像して、あまりの虚しさに乾いた笑いが嗚咽に混じる。そんな死因、夏目に笑い飛ばされてしまう。無様な気持ちを抱いたまま死ぬなんてあり得ない。

 ああそうだ。
 やっぱりこんな感情の荒波にもまれて溺死するのだけは勘弁だ。

 涙に塗れた雨宮を嘲笑うかのようにスマホが明滅を繰り返す。この期に及んでエリナからはひっきりなしに新着のメッセージが送られてきていた。LINEを開かずとも閲覧できる最新のコメントを一瞥し、「ふざけんじゃねぇよっ!」と叫ぶ。

 暇だから遊ばないか、だって? 
 調子づきやがって。
 馬鹿にすんじゃねぇよ。

 彼氏ができたくせにどの面引っ提げてくるつもりだよ。
 勝手にそいつと遊んでろよ。


「そっちから捨てたんだから、もう、放っておいてくれよ……っ」


 情けなく漏れる声が、カラオケボックスに置かれたテレビから流れてくるCMに掻き消されていく。


「なんなんだよ……クソッ、タレがっ!」

 畜生が。
 ふざけるな。

 ふざけるな。ふざけるな。


 ふざけんじゃねぇ。



 吠えた。


 事切れるまで吠えて、噎び泣いて、金切り声を上げた。
 このまま力尽きて、泥に塗れるようにして眠りたかった。

 けれど、腹に巣くった憎悪や喪失が邪魔をする。
 どうあがいても願っても、雨宮の希望はひとつだって叶わない。

「…………馬鹿みてぇだ、ほんと」

 ひとしきり慟哭したら、少しだけ落ち着いた。
 学ランで雑に目尻を拭い、テーブルの上に置いてあった空のコップを手にして部屋を出る。





「あれ、雨宮じゃん」

 コップにウーロン茶を注いでいたら、背後から名前を呼ばれた。
 取りかけだったコップを手元から滑り落としそうになる。


「あ、ああっ……?」
「もしかしてヒトカラってやつ?」
「……な、なんで、秋葉あきはが……、どうして、ここに」

 秋葉かえで。
 茶髪で、清楚ぶった感じのかわいい系女子で、きゃぴきゃぴしていて、クラスでも存在感のある、雨宮とはまるで対局にいるような女子の代表格。

 しまった。あまりにも想定外の遭遇だ。
 泣き腫らしたばかりの顔を見られたくなくて、雨宮は咄嗟にそっぽを向く。手短な挨拶だけで済ませておけばよかったと後悔をしても、もう遅い。

「あー、それ聞いちゃう?」

 その場つなぎの言葉だったのに、急所を突かれたとでも言うかのように、顔を歪めた秋葉が頬を掻いた。

「言いたくないなら詮索はしないけど」

 誰だってカラオケくらい、理由があってもなくても来るだろうに。それに、誰だって聞かれたくないことの一つや二つはあるだろう。

 今朝から彼女の様子がおかしいのは確かだった。学校にいるときと違って浮かない表情をしている。見たところ仲の良い誰かと一緒に来たというわけでもなさそうだ。

「いや……ごめん。今日ここにいたことさ、誰にも言わないでくれる? その代わり、あんたには教えてあげるから」
「秘密にはしてやるから、無理して打ち明けてもらわなくていいって」
「でも、ごめん。仲いい子には話せないけど、誰かに話して楽になりたいの。ほら、そういうのってあるじゃん?」
「同意を求められても困るけど」
「あたしさ、彼氏にふられちゃったんだよね……」
「……………………」

 咄嗟にうまい言葉が出てこない。こんなときにそんなカミングアウトをされても、受け止めるだけの余裕なんてこれっぽっちもないというのに、困った。

「だから、気持ちを発散させたくて、ヒトカラ。流石に友達と一緒にってのは違うしさ、振られたのはまだ誰にも打ち明けてないの。だから、秘密にしておいて」
「……そう、か」
「あー、なんかちょっとだけスッキリした。いいね。全然関係ない誰かに共有すると、少しだけ気持ちが晴れるもんだね」
「良かったのかよ。俺、言いふらすかもしれないのに」
「あたしが振られたって情報ばらまいても雨宮が得することなんて何もないじゃん」
「決めつけるなよ。まぁ、実際そのとおりだけどさ……」
「そういうわけだから。じゃあね」
「どうせ夕方までフリータイムで部屋取ってるんだろ? 終わったら飯でもどうだ?」
「……そういうキャラだったっけ?」
「いつも学校で言ってるけどさ、安易に決めつけるなって言ってるじゃんか」

 キャラ付けなんて、所詮は自分が他人の人となりを把握するためのツールでしかない。

「キャラもなにも……、学校で素性をひけらかしたことなんかほとんどねぇっての……」
「じゃあ、そっちの奢りなら行く」
「分かった。出すよ。どうせゲーセンで使うはずだった金が余ってるしな」
「え……っと、冗談のつもりだったんだけど……」
「こっちも秋葉に似たような感傷に浸ってるところでさ。そんなわけだから今日ばかりは仲良くできると思うんだよ」

 正しくは、仲良く傷を舐め合うというべきだろうが。

「それって……」

 今度は秋葉が言葉を詰まらせた。
 だから、その続きを雨宮は攫ってやる。

「想像してるとおりだよ。こっちも、まぁ、気持ちにきちんとケリつけられなかったってだけなんだけどな」
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