1 / 3
振袖を着た芋。
しおりを挟む
いつもなら遠くで微かに響くだけだったあの音が、この日はやけに近かった。
幼いころ、田舎の林でよく捕まえたカブトムシの羽音にも似ている。
あのときは虫籠をぶら下げて、夏草のにおいを胸いっぱい吸い込んでいた。
今はどうだ。爆撃機のプロペラを仰ぎ見て、死を吸い込んでいる。なんと、風流でない話であろうか。
「……中将!東雲中将!!」
周辺の航空基地が壊滅したという報が入ったのは、一週間ほど前のことだったか。
曇天を悠々と進む敵機。その行く手を遮るものは、もはや何もない。
「中将!……おられますか!」
錆びついた旧式の対空砲が二門。まるで笑えない冗談である。
神に仕える"神兵"だのと呼ばれたところで、射程の外を飛ばれては、あの鉄の鳥を撃ち落とせるはずもない。
上層の連中は、すっかり道理も分からぬ木偶の集まりになってしまったらしい。
「あっ!東雲中将!ここにおられましたか!」
伝令の声が、泥を踏み鳴らして近づいてくる。幼さの残る彼の顔には煤と汗が張りついていた。
「ああ、君か。」
返事もせず、外を眺めているだけだった男は、何とも白々しく答えた。
「敵影が迫っております! 我が兵の士気は高く……!」
必死に叫ぶその報告を、男は半ば聞き流していた。
口から出てくる言葉は嫌に長いが、要するに、「敵が来ております。ご指示を」と言いたいのだ。
男は思う、我ながらここまでよくやったと。
日を追うごとに軽くなる弾薬箱。食料も満足な量はない。
医療品の入った箱に至っては覗き込めば底が見える有様。
だが、味方の兵站は煽てても脆弱としか言いようがなく、これらの補給は絶望的。
やむを得ず敵の輜重部隊を襲えば、兵を大勢失う。
物資もない中、常に敵本隊へ接近しないよう細心の注意を払いながらの移動。
蝙蝠のように、あるいは虫のように崖下の穴や谷底に身をひそめ、夜襲奇襲を繰り返す毎日――とても誇り高き皇国軍人の姿とは思えない。
その上、決死の覚悟で破壊した野営地が、数週間もすればすっかり元の形に戻っているのだから、それはまるで酷い喜劇を見ているような気分だった。
圧倒的な物量差。
こちらばかりが消耗を続ける日々。
完全に包囲される日が近いことなど、とうに分かっていた。
ゆえに――今日という日が訪れても、男の胸には何らの感情も湧かなかった。
ほんの数刻前のこと。
周辺に展開していた部隊からの通信が、「接敵セリ」の一報を最後に沈黙した。
いよいよかと思ううち、今、こうして作戦本部への攻撃が始まったのである。
孤立した本部へ与えられた任務は、ただ一つ。
祖国より遠く離れたこの大陸の只中で、一秒でも長く時間を稼ぎ、一人でも多くの敵兵を道連れにすること。
――つまり、“犬死”せよ、という命令であった。
もっとも、その命令書自体は上品な言葉で飾られていたが。
「祖国のため」「名誉のため」「父母のため」――いくら綺麗に見せようと、要してしまえばつまり死ねというだけの話だ。
「……芋に振袖を着せたところで、芋は芋。そうは思わんかね。」
「はっ!!………は?芋、ですか。」
伝令の困惑する顔がどこか可笑しくて、男は笑みを漏らした。
自分にもし子供がいれば、これくらいの年齢であろう。
そんなことを思っての笑みだった。
男に家族はない。父母は既に、戦争と病でこの世を去っていた。
職業柄自らの命が長くないことも知っていたし、家族を作ろうという気は起らなかった。
戦況は次第に悪化し、戦場に縛り付けられる生活が続いたため、どちらにせよそんな暇もなかった。
「…いや、何でもない。……退路を確保していた部隊との連絡は途絶えた。ここを死守せよとの命もあった。……よって、我々はここに留まる。」
それだけを言い、静かに手を振った。伝令は敬礼し、駆け去っていった。
その一分後、彼は敵機の機銃掃射を受け、肉片と化した。
男はその光景を見ても眉ひとつ動かさなかった。見慣れた地獄だ。驚きもしない。
空を仰げば、爆撃機の影がついに真上へと迫っていた。
作戦本部などと大層な呼び名をつけられた穴倉が軋み、壁が崩れ、どこかで誰かの叫び声が途切れた。
焦げた油の臭いが立ちこめ、鉄と血の匂いが混ざり合う。
通信機からは雑音だけが流れ、時おり聞こえるのは、敵機の旋回する羽音と陽気に跳ねる銃声だけだった。
そして、花火が打ち上がるときのような、あるいはやかんの湯が沸くときのような――甲高く、耳障りな音が空気を裂く。
遥か上空に見える黒い点は、美しい真円を描いている。
それの意味するところを彼は知っていた。
ここに至っては、もはや暴れても仕方がない。
静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
光のない世界。硝煙と血の匂いだけが鼻を刺したが、それでもいくらか胸はすっとした。
恐怖もない。後悔もない。安堵もない。
――ああ、終わるのだ。
男の中にあるのは、ただそれだけだった。
刹那、世界が反転した。体が浮いた。
肉体から魂をまるごと剥がし取られるような衝撃が、外から内まで、おしなべて男の全身を貫いた。
痛みはなかった。
崩れゆく意識。それをここに留めようとも思わなかった。
そして、『北部戦線の残響』と呼ばれた男は、静かに、音もなく、この世界から姿を消した。
幼いころ、田舎の林でよく捕まえたカブトムシの羽音にも似ている。
あのときは虫籠をぶら下げて、夏草のにおいを胸いっぱい吸い込んでいた。
今はどうだ。爆撃機のプロペラを仰ぎ見て、死を吸い込んでいる。なんと、風流でない話であろうか。
「……中将!東雲中将!!」
周辺の航空基地が壊滅したという報が入ったのは、一週間ほど前のことだったか。
曇天を悠々と進む敵機。その行く手を遮るものは、もはや何もない。
「中将!……おられますか!」
錆びついた旧式の対空砲が二門。まるで笑えない冗談である。
神に仕える"神兵"だのと呼ばれたところで、射程の外を飛ばれては、あの鉄の鳥を撃ち落とせるはずもない。
上層の連中は、すっかり道理も分からぬ木偶の集まりになってしまったらしい。
「あっ!東雲中将!ここにおられましたか!」
伝令の声が、泥を踏み鳴らして近づいてくる。幼さの残る彼の顔には煤と汗が張りついていた。
「ああ、君か。」
返事もせず、外を眺めているだけだった男は、何とも白々しく答えた。
「敵影が迫っております! 我が兵の士気は高く……!」
必死に叫ぶその報告を、男は半ば聞き流していた。
口から出てくる言葉は嫌に長いが、要するに、「敵が来ております。ご指示を」と言いたいのだ。
男は思う、我ながらここまでよくやったと。
日を追うごとに軽くなる弾薬箱。食料も満足な量はない。
医療品の入った箱に至っては覗き込めば底が見える有様。
だが、味方の兵站は煽てても脆弱としか言いようがなく、これらの補給は絶望的。
やむを得ず敵の輜重部隊を襲えば、兵を大勢失う。
物資もない中、常に敵本隊へ接近しないよう細心の注意を払いながらの移動。
蝙蝠のように、あるいは虫のように崖下の穴や谷底に身をひそめ、夜襲奇襲を繰り返す毎日――とても誇り高き皇国軍人の姿とは思えない。
その上、決死の覚悟で破壊した野営地が、数週間もすればすっかり元の形に戻っているのだから、それはまるで酷い喜劇を見ているような気分だった。
圧倒的な物量差。
こちらばかりが消耗を続ける日々。
完全に包囲される日が近いことなど、とうに分かっていた。
ゆえに――今日という日が訪れても、男の胸には何らの感情も湧かなかった。
ほんの数刻前のこと。
周辺に展開していた部隊からの通信が、「接敵セリ」の一報を最後に沈黙した。
いよいよかと思ううち、今、こうして作戦本部への攻撃が始まったのである。
孤立した本部へ与えられた任務は、ただ一つ。
祖国より遠く離れたこの大陸の只中で、一秒でも長く時間を稼ぎ、一人でも多くの敵兵を道連れにすること。
――つまり、“犬死”せよ、という命令であった。
もっとも、その命令書自体は上品な言葉で飾られていたが。
「祖国のため」「名誉のため」「父母のため」――いくら綺麗に見せようと、要してしまえばつまり死ねというだけの話だ。
「……芋に振袖を着せたところで、芋は芋。そうは思わんかね。」
「はっ!!………は?芋、ですか。」
伝令の困惑する顔がどこか可笑しくて、男は笑みを漏らした。
自分にもし子供がいれば、これくらいの年齢であろう。
そんなことを思っての笑みだった。
男に家族はない。父母は既に、戦争と病でこの世を去っていた。
職業柄自らの命が長くないことも知っていたし、家族を作ろうという気は起らなかった。
戦況は次第に悪化し、戦場に縛り付けられる生活が続いたため、どちらにせよそんな暇もなかった。
「…いや、何でもない。……退路を確保していた部隊との連絡は途絶えた。ここを死守せよとの命もあった。……よって、我々はここに留まる。」
それだけを言い、静かに手を振った。伝令は敬礼し、駆け去っていった。
その一分後、彼は敵機の機銃掃射を受け、肉片と化した。
男はその光景を見ても眉ひとつ動かさなかった。見慣れた地獄だ。驚きもしない。
空を仰げば、爆撃機の影がついに真上へと迫っていた。
作戦本部などと大層な呼び名をつけられた穴倉が軋み、壁が崩れ、どこかで誰かの叫び声が途切れた。
焦げた油の臭いが立ちこめ、鉄と血の匂いが混ざり合う。
通信機からは雑音だけが流れ、時おり聞こえるのは、敵機の旋回する羽音と陽気に跳ねる銃声だけだった。
そして、花火が打ち上がるときのような、あるいはやかんの湯が沸くときのような――甲高く、耳障りな音が空気を裂く。
遥か上空に見える黒い点は、美しい真円を描いている。
それの意味するところを彼は知っていた。
ここに至っては、もはや暴れても仕方がない。
静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
光のない世界。硝煙と血の匂いだけが鼻を刺したが、それでもいくらか胸はすっとした。
恐怖もない。後悔もない。安堵もない。
――ああ、終わるのだ。
男の中にあるのは、ただそれだけだった。
刹那、世界が反転した。体が浮いた。
肉体から魂をまるごと剥がし取られるような衝撃が、外から内まで、おしなべて男の全身を貫いた。
痛みはなかった。
崩れゆく意識。それをここに留めようとも思わなかった。
そして、『北部戦線の残響』と呼ばれた男は、静かに、音もなく、この世界から姿を消した。
0
あなたにおすすめの小説
悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業
ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。
World of Fantasia(ワールド・オブ・ファンタジア)
緋色牡丹
ファンタジー
生きる意味を見出せない三十二歳の男・山田緋色。
夏の夜、光の渦に呑まれ、彼が目を覚ましたのは――幻想の森だった。
壊れた愛車、知らない空、そして湖に浮かぶ青髪の少女。
異世界での出会いが、“止まった人生”を再び動かしていく。
異世界叙情ファンタジー、開幕──
※この小説は、小説家になろう、カクヨムにも同時掲載しています。
挿絵はAIイラストを使ったイメージ画像です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
幻獣を従える者
暇野無学
ファンタジー
伯爵家を追放されただけでなく殺されそうになり、必死で逃げていたら大森林に迷う込んでしまった。足を踏み外して落ちた所に居たのは魔法を使う野獣。
魔力が多すぎて溢れ出し、魔法を自由に使えなくなっていた親子を助けたら懐かれてしまった。成り行きで幻獣の親子をテイムしたが、冒険者になり自由な生活を求めて旅を始めるつもりが何やら問題が多発。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
チート魔力はお金のために使うもの~守銭奴転移を果たした俺にはチートな仲間が集まるらしい~
桜桃-サクランボ-
ファンタジー
金さえあれば人生はどうにでもなる――そう信じている二十八歳の守銭奴、鏡谷知里。
交通事故で意識が朦朧とする中、目を覚ますと見知らぬ異世界で、目の前には見たことがないドラゴン。
そして、なぜか“チート魔力持ち”になっていた。
その莫大な魔力は、もともと自分が持っていた付与魔力に、封印されていた冒険者の魔力が重なってしまった結果らしい。
だが、それが不幸の始まりだった。
世界を恐怖で支配する集団――「世界を束ねる管理者」。
彼らに目をつけられてしまった知里は、巻き込まれたくないのに狙われる羽目になってしまう。
さらに、人を疑うことを知らない純粋すぎる二人と行動を共にすることになり、望んでもいないのに“冒険者”として動くことになってしまった。
金を稼ごうとすれば邪魔が入り、巻き込まれたくないのに事件に引きずられる。
面倒ごとから逃げたい守銭奴と、世界の頂点に立つ管理者。
本来交わらないはずの二つが、過去の冒険者の残した魔力によってぶつかり合う、異世界ファンタジー。
※小説家になろう・カクヨムでも更新中
※表紙:あニキさん
※ ※がタイトルにある話に挿絵アリ
※月、水、金、更新予定!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる