残響異譚

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目覚めれば青。

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男は困惑した。ひどく困惑した。
あまりの出来事に、息をしてよいのか、それさえも迷った。
無理からぬ話だ。先刻、自らが諦念とともに手放したはずの意識が、再び覚醒していくのだから。

この男――東雲が、生というものを心の底から望んでいたのであれば、この事態を手放しで喜んだかもしれない。
しかし残念ながら、今の彼からしてみれば、これはただただありがた迷惑という他なかった。

徐々に覚醒する意識の気配に、これは何かの手違いではないかと、往生際の悪い希望を抱いてみる。
そして、試しにと、息をひとつ吸ってみる。
するとどうだ。意識が明瞭になるではないか。
吸った甲斐もなく、ため息がこぼれた。

東雲は、観念したといった様子で渋々に目を開ける。
そこには溺れそうなほどの青空があった。
黒煙に焼き焦がされた曇天でもなく、血と泥が混ざりあう大地でもない。
――ただひたすらに穏やかな、草を撫でる風の音が彼を最初に迎えた。

東雲は、体を地面に放り捨てたまま、しばし動かなかった。
自らの体は――どうやら五体満足である。指を握れば関節がきしみ、胸には鼓動がしぶとく打っている。
それがかえって滑稽に思えた。自分は死んだはずなのだ。
四十年余りの重さが塵の如く吹き上げられる感覚が確かに残っている。

いや、あいにくと東雲には、これまで死の経験など一度もない。ゆえにあれが紛れもない死であるかと問われれば、答えに迷うだろう。
しかし、あの爆撃を直に受けて、そこに生身の人間が残る道理などあるまい。

ぐるぐると思考を巡らせてはみる。
が、草の海にぽつりと浮かんでいるばかりでは、この状況に対する答えが出るはずもない。
視界の端を、白い蝶が横切った。

東雲の口から、ひとつ、大きなため息が溢れる。
仕方がないので上体を起こしてみることにした。
恐る恐る力を込めていく東雲。その懸念とは裏腹に、彼の体は拍子抜けするほどいうことを聞く。

青ばかりだった景色がぐるりと回る。
遠くでは、見知らぬ花が一面に咲いている。木が数本立っているだけで、見渡す限りの草原。
空はどこまでも高く、澄み渡っていた。

そこで東雲は、改めて自らの姿を目視する。
――やはり、あった。
今生の別れと覚悟した自らの肢体が、先にこの地にいたであろう草花を太々しくも踏みつぶしている。
あるどころか全くの無傷だ。

無傷なのは身体だけではない。
服にも、焦げ跡ひとつついていない。
東雲は、軍服の上に冬用の外套を纏っている。
これは、たしかに分厚く頑丈な代物ではあるものの、しかしあの爆発で焦げ跡の一つもつかないというのは、どう取り繕っても不可解としか言いようがない。

伸びともため息とも知れない大きな息が草原に落ちる。
理解のための思考などとっくに放棄しているが、それでも、東雲は自身の外套をめくり、中の軍服を確認する。
僅かにこもった熱が逃げていき、まったく心地がいい。

「どうしたものか――。」

かすれた音が唇からこぼれた。
広い草原の中で、東雲の声だけが妙に浮いた。
眼も四肢も耳も喉も、全て無事。――あの爆発で。

いよいよもって常識の皮が剥がれ落ち、乾いた笑みがひとつ、口の端からこぼれた。
それもまた、緑と青ばかりの世界に溶けて消える。
この場には、飛び交う弾丸の耳障りな鳴き声も、痛みに悶える人間の叫喚もない。
平穏が、まるで罪のように漂っていた。

ここまでくれば誰だって自分が死んだのだという事実に気づく。
東雲は思う。――つまりここは地獄か。と。
それは、自らの知るものと比べ、幾分かマシなところに見える。
その皮肉さに、また一つ、乾いた笑みが落ちる。

立ち上がろうかと地面に手をつく。
すると右手に、見知った冷たさが触れた。
目をやると、小銃が一挺、草に埋もれて転がっていた。小さな花が寄り添うように咲いている。それが似合わず、なんとも可笑しい。
最期のその時に持っていたものに違いない。

それだけではない。
服ばかり気にしていたが、腰には拳銃と銃剣、そして軍刀として戦場へ持ってきた先祖伝来の刀まで吊られている。
革製の盒を開けば、わずかばかりの弾薬と手榴弾が二つ。

まるで死の直前の瞬間が、そっくりそのまま切り取られて、ここに貼りつけられたようだった。

「……地獄に銃を携行できるとは。」

東雲の口から出た渾身の皮肉は、誰の耳に届くこともない。
それでも東雲本人が笑っているのだから問題もない。

草に沈んだ銃帯を掴んで引き寄せる。
そして、近くの木陰へ移動すると、そっと腰を下ろした。
その木は見慣れぬ種類で、白い幹は滑らかに光り、葉は銀色めいた艶を放っていた。
広い草原の中、白銀の木がぽつりと立つその様は、まるで絵画の中にでも入り込んだような美しさだった。

しかし、東雲の視線は美しい景色ではなく、無愛想な鉄の塊に向けられる。
それらに慣れ親しんだ体は、さも当たり前かのように点検を始めた。

掌に馴染むこの小銃は四八式騎銃。備え付けの折り畳み銃剣により、腰に差した銃剣がただの短刀に成り下がるという、銃剣泣かせの名銃である。
拳銃の方は二十四年式拳銃。中折れ式で回転弾倉を備えた低威力低反動の銃。

各装備、損傷無し。動作不良も無い。
軍刀、銃剣、ともに刃こぼれもせず、鞘口も正確に閉じる。
爆発の痕跡は本当に何一つとしてない。

こんな状況に置かれてなお、冷静に装備の点検をしている自分に、失望にも似た笑みがこぼれた。

「……まずは、場所の特定か。」

軍人の習性は、状況がいかに異常でも変わらない。
ここがまだ敵地であれば、地形の把握こそが生死を分ける。
東雲は立ち上がり、太陽の位置を確認する。
日は傾いている。正午より前だろうか。影の方向から、おおよその方角を割り出す。

「東はあっちか。」

そう呟いて歩き出す。
草原は遥か先まで続き、地平線の向こうには、かすかに森の影が見える。
そこを目指すことにした。

足音とも呼べないようなものが、さらさらと鳴る。
靴底の下には芝生と土の感触。
どこまでも続く空には、鳥が旋回していた。

光が燦燦と降りしきる景色の中、ふらふらと歩く男が一人。
忌々しいほどに長閑。

こうしてただ歩いていると、東雲の胸に、ふと奇妙な思いがよぎる。
――ここは本当に死後の世界だろうか。

呼吸をしている。
鼓動がある。
腹も減る。

すべてが、生の感覚に思えてならない。
それに、やはり武器があるという違和感は、軽口程度で拭えるものではない。

考えれば考えるほど、現実が遠のいていく。
けれども、足は止まらなかった。
軍靴が草を踏む音――自分はまだ、生きているのではないか。
それを確かめるように、一歩、また一歩と進んでいく。

どれほど歩いたか。やがて、森の入り口が見えてきた。
先ほど見たものと同じ種類の樹木。
一本でも美しかったが、森となるとまた幻想めいた美しさを湛えている。

空気が少し、ひんやりと変わった。森から吹く風が、東雲の頬を撫でる。
鳥の鳴き声――いや、鳥かどうかも分からぬ、不思議な音が、木々に間を通り抜けた。

そのとき。

「……っ?」

風に乗って、森の奥から、わずかに人の声がした。
低く、しかし確かに言葉の調べを持っていた。
東雲は即座に姿勢を落とし、近くの遮蔽へ滑り込む。
戦場で培った反射は死んでも消えないらしい。

風が止む。草が沈黙する。
茂みの向こうで何かが動く。
薄闇の森に映るのは、”それ”の影だけ。

「(速い。獣……いや身を屈めた人間か。)」

東雲は、じっと気配を消して観察する。自然と目は見開き、姿勢が前のめる。
木から木へ、身を隠すようにして動くその姿をはっきりととらえることはできない。
が、ふと、それが手に持つものに既視感を覚えた。

――弓だ。

気づくと同時に、東雲の指は引き金へとかかる。

相手の動き方から感じていた明確な違和感。
おそらく、すでに、相手もこちらの存在に気づいている。
影を見失わないよう、照準を覗き込む。

そして――

互いの視線が交錯した、東雲は確かにそれを感じた。

空気が張り詰める。
自然と呼吸が浅くなる。
銃床を握る手が、わずかに汗ばむ。

すっと息を吐き、無駄な思考を削ぎ落していく。
引き金を絞るべきか否か――。
そればかりが東雲の中に残る。

どこまでも静かで澄んだ空気の中、遠くで弓を引き絞る音が響く。

東雲の中に生じつつあった微塵子ほどの違和感が、急速に輪郭を得ていく。
やはりここは地獄ではないのかもしれない。
かといって、自分が天国など、げらも笑わん冗談だ。

だが、地獄でも天国でもないのなら、自分はいったいどこに放り込まれたというのか。
得体のしれない何かが始まったのだという胸騒ぎが、静かに東雲を満たしていく。

そして、再び、風が吹いた。
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