餓神

よん

文字の大きさ
1 / 14

しおりを挟む
 血の匂いが鼻腔にこびりついて剥がれない。

 黒崎剛は臥竜山の獣道を登りながら、自分の呼吸が獣のそれに似てきていることに気がついた。短く、浅く、荒い。肺の底に溜まった空気が熱を持ち、吐くたびに白い靄となって闇に溶けた。二月の山中は凍てつくはずだった。だが寒くない。背中が灼けるように熱い。シャツの下で、あの文様が脈打っている。

 足元がぬかるんでいた。雨は降っていない。山から滲み出した何かが、地面を湿らせている。踏むたびに、靴底が粘る音がした。生温かい。温度がある。地面に温度がある。

 そのことの異常さを、今の黒崎は冷静に受け止めていた。もう驚かない。驚く余裕がない。

 背中の荷が重い。

 人ひとり分の重さ。いや、それよりずっと軽い。中身がないのだから当然だ。皮だけになった人間は、驚くほど軽い。毛布ほどの重さもない。

 山根太一だったもの。

 弟分の顔が、黒崎の右肩にぶら下がっていた。風に揺れるたびに、空っぽの目がこちらを向く。目蓋がなかった。剥製の獣のように皮膚が引き攣れ、乾いた眼球がむき出しになっている。鼻も唇もある。人間の顔のパーツはすべて揃っている。しかし厚みがない。ゴムの仮面のように薄い。

 こんなもんを始めるんやなかった。

 声に出したつもりはなかった。だが唇が動いていた。白い息が言葉の形に千切れ、霧の中に溶けた。

 臥竜山から降りてくる霧。三日前から麓の町を覆い始めた、あの霧が、山の中ではもっと濃い。五メートル先が見えない。懐中電灯の光は霧に呑まれ、足元の二メートルほどを薄く照らすだけだ。それでも登る。登るしかない。この山の頂に、磐座がある。そこで逆の詞を唱えなければ、町ごと喰われる。

 黒崎はヤクザだ。

 広域指定暴力団旭道会系丹生組の若頭補佐。人を脅し、金を巻き上げ、逆らう者には暴力を振るう。神も仏も信じたことはない。死んだ人間が化けて出るなどと考えたこともない。他人の信仰を利用して金を搾り取ることに、当初は何の躊躇いもなかった。

 それが、こうだ。

 弟分の皮を背負い、真夜中の山を登っている。化け物を封じるために。

 笑える話だ、と思う。いや、笑えない。山根の空っぽの目がこちらを見ている。

 霧の奥で、音がした。

 咀嚼音。

 何かが、何かを、喰っている。湿った、粘りのある、くちゃくちゃという音。それが霧の向こうから、四方八方から聞こえてくる。一つではない。山全体が咀嚼している。
甘い匂いがした。

 腐りかけの果物のような、生温かい甘さ。この匂いを、黒崎はもう何度も嗅いでいる。あいつの匂い。餓えた神の匂い。

 黒崎は拳銃の感触を確かめた。組長から預かったトカレフ。弾は残り五発。もっとも、銃が効く相手ではない。山根に撃ったとき、弾丸は頭蓋を貫通したが、穴はすぐに塞がった。黒い粘液が傷口を埋め、何事もなかったかのように。

 それでも手放せない。人間にとって銃は、護身の道具であると同時に、正気の錨だ。鉄の重みが手のひらにある限り、自分はまだ人間の側にいられる。

 足を止めた。
 
 目の前の霧が揺らいだ。何かが近づいてくる。人の形をしている。歩き方がおかしい。膝が逆に曲がっている。一歩ごとに関節が外れるような、ぐにゃりとした歩行。

 懐中電灯を向けた。

 山根が立っていた。

 背負っているはずの山根が、二メートル先に立っていた。全裸。皮膚は蝋のように白く、体の至るところに口が開いている。胸に一つ、腹に二つ、左の掌にも一つ。すべての口が同時に開閉し、祝詞を唱えていた。あの祝詞を。黒崎が古書店で見つけ、響きがいいからと教団の儀式に採用した、あの祝詞を。

 「——嘘じゃ」

 黒崎は呟いた。山根は背中にいる。皮だけになって背中にいる。

 目の前の山根が笑った。口のない顔で。胸の口が三日月のように吊り上がり、

 「兄貴」

 山根の声で言った。

 「こっちは、気持ちええですよ」

 黒崎は走った。山根だったものを背負ったまま、獣道を駆け上がった。足元の泥が粘りつき、靴が沈む。地面の下で何かが蠢いている。足首を掴もうとする何かの感触を振りほどきながら、走った。

 背後から咀嚼音が追いかけてくる。山が喰っている。山全体が一つの巨大な口で、黒崎はその舌の上を走っている。

 腹の底から、笑いがこみ上げてきた。

 ヤクザ十七年。修羅場は幾度もくぐった。刃物で刺されたことも、銃口を向けられたこともある。しかしこんな修羅場は想定外だ。化け物に追われて山を登る極道など、任侠映画にもない。

 こんなもん、始めるんやなかった。

 もう一度、唇が勝手に動いた。

 ——事の始まりは、八ヶ月前に遡る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

漆黒の闇から

一宮 沙耶
ホラー
邪悪な霊が引き起こす事件の数々 若い頃から霊が見え、精神を病んでいた私が事件を解決していく ただ、自分も黄泉の世界に巻き込まれてしまう

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2026/3/5:『まよなかのあしおと』の章を追加。2026/3/12の朝頃より公開開始予定。 2026/3/4:『ぎいぎいさま』の章を追加。2026/3/11の朝頃より公開開始予定。 2026/3/3:『やま』の章を追加。2026/3/10の朝頃より公開開始予定。 2026/3/2:『いおん』の章を追加。2026/3/9の朝頃より公開開始予定。 2026/3/1:『のぞいてくる』の章を追加。2026/3/8の朝頃より公開開始予定。 2026/2/28:『そうしき』の章を追加。2026/3/7の朝頃より公開開始予定。 2026/2/27:『でんしゃ』の章を追加。2026/3/6の朝頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

意味が分かると、分からないと怖い話【体験談+】

緑川
ホラー
ショートショートの寄せ集め。 幻想的から現実味溢れるものなど様々、存在。 出来の良し悪しについては格差あるので悪しからず。

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

処理中です...