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六月の尾ノ道は湿気に沈んでいた。
瀬戸内の海から押し寄せる湿った空気が、港町の路地を白く霞ませている。造船所の骨組みだけが残った廃墟の間を、野良猫が一匹、のろのろと横切っていった。かつて二万人が暮らした町は、今では六千を割っている。若い者は出ていき、残ったのは年寄りと、ここにしか居場所のない者たちだ。
黒崎剛はその後者に属していた。
丹生組の事務所は港から三本入った筋にある。看板は出していない。暴対法以降、組事務所であることを公にするのは得策ではなくなった。鉄筋三階建ての雑居ビルの二階。一階は潰れたスナック、三階は空き部屋。ビルの持ち主は組のフロント企業だ。
事務所に入ると、若い衆の坂本が受付に座ってスマートフォンをいじっていた。黒崎の姿を認めて慌てて立ち上がる。
「お疲れさまです、黒崎の兄貴」
黒崎は軽く顎を引いただけで応接間を通り過ぎ、奥の事務室に入った。机の上に、今朝方片づけた債権の書類が積まれている。風俗店三件分の売掛金。締めて八百万。こういう地味な実務が黒崎の仕事だった。
上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。シャツの袖を肘まで捲ると、左の前腕に走る古い刃傷の痕が覗いた。二十代の頃、他所の組との諍いで負ったものだ。もう痛みはないが、雨の日には皮膚の奥が微かに疼く。
「兄貴、コーヒーいります?」
坂本が顔を覗かせた。黒崎は首を振った。
「山根は?」
「山根さんなら、下の駐車場におります。車磨いとりました」
「呼んでくれ」
坂本が引っ込み、一分もしないうちに山根太一が小走りで入ってきた。百八十センチの長身に、元ホストらしく整った顔。しかし目つきが軽い。どこか犬のような人懐っこさがあり、ヤクザにしては人を警戒させないタイプだった。
「兄貴、呼びました?」
「座れ」
山根がソファに腰を下ろす。黒崎は机の上の書類をまとめながら、低い声で言った。
「港南開発の高柳。飛びよった」
山根の表情が変わった。
「飛んだ? あの風俗の?」
「電話も繋がらん、店も閉めとる。嫁の実家に確認させたが、そっちにもおらん」
高柳は尾ノ道市内でデリバリーヘルスを三店舗経営していた男だ。丹生組から運転資金として一千二百万を借りており、月々の返済が三ヶ月滞っていた。先週、黒崎が直接店を訪ねて最後通告をしたばかりだった。
「舐めとるのう」
山根が目を細めた。軽薄な顔つきが消え、据わった目になる。こういうとき、この男がただの軽い若者ではないことが分かる。
「探す。見つけたら?」
「連れてこい。話はそれからじゃ」
高柳を見つけたのは三日後だった。
山根が当たりをつけた。高柳の愛人が福山市内のマンションに住んでおり、そこに転がり込んでいた。愛人のSNSから足がついた。山根はこういう追跡が上手い。ホスト時代に培った、人間の虚栄心を読む能力が活きていた。
黒崎と山根は、福山のマンションに乗り込んだ。
チャイムを鳴らすと、若い女が出た。二十代半ば。化粧が崩れ、目の下に隈がある。三日間ろくに眠っていない顔だ。
「高柳さん、おる?」
黒崎が静かに言うと、女の顔から血の気が引いた。奥から物音がした。裏口から逃げようとしているのだろう。黒崎が顎をしゃくると、山根が玄関から体を滑り込ませ、廊下を駆けた。
ベランダに通じる窓の前で、山根が高柳を取り押さえた。四十代後半、小太りの男。逃げようとしたが、山根の腕力には敵わない。床に押さえつけられ、顔をフローリングに押しつけられた高柳が、潰れた声で叫んだ。
「待ってくれ、金は、金は用意するけぇ——」
黒崎は靴を脱がずに部屋に上がった。高柳の横に膝をつき、男の頭を掴んで顔を上げさせた。脂汗にまみれた顔。恐怖で瞳孔が開いている。
「高柳さん。わしが先週なんて言うたか覚えとるか」
「覚えて……覚えとります」
「なんて言うた?」
「逃げたら……あかんと……」
「ほうよ。逃げたらあかん、言うたよのう。逃げたら話し合いの余地がのうなる、言うたよのう」
黒崎は高柳の髪を掴んだまま、もう片方の手でズボンのポケットからペンチを取り出した。工具店で買った、何の変哲もないペンチだ。
高柳が見て、泣き始めた。四十を過ぎた男が、鼻水を垂らして泣いた。
「頼む、頼むけぇ……金は、嫁の実家に頭下げて——」
「それを三ヶ月前に言えや」
黒崎は高柳の右手を取り、人差し指を固定した。山根が背後から高柳の体を押さえている。
ペンチの先端を、爪の隙間に差し込んだ。
高柳が絶叫した。まだ何もしていない。ペンチの冷たさが爪の下の肉に触れただけだ。
「静かにせぇ」
黒崎の声は平坦だった。業務上の手続きを説明するときと同じトーンだ。
「歯ぁ食いしばれ。噛んだら舌が切れるけぇ、横を噛め。奥歯でな」
助言のように言ってから、ペンチを握り、爪を剥いだ。
乾いた音がした。ぺきり、と。飴を割ったような、あるいは薄い貝殻を踏んだような、軽い音。それに続いて高柳の喉から低い呻き声が漏れた。声にならない。痛みが一定の閾値を越えると、人間は叫ぶことすらできなくなる。
爪が剥がれた指先は、想像よりも赤くない。最初は白い。爪の下の、守られてきた柔らかい肉が露出する。空気に触れたことのない皮膚。それが一瞬白く見え、次の瞬間から血が滲み出す。一滴、二滴。やがて赤い膜が指先を覆い、ぷるぷると膨らみ、重力に負けて垂れた。フローリングの床に、径二センチほどの血溜まりができた。
高柳の股間が濡れていた。失禁している。尿が太腿を伝い、ズボンの生地を黒く染めた。尿の匂いと血の匂いが混じり、部屋に膜のように張りついた。有機物の匂いだ。人間の中身は、どれもこれも温かくて、臭い。
「爪は十枚ある」
黒崎は剥がした爪をペンチから床に落とした。薄い三日月型の破片が、血溜まりの横に転がった。
「足の分も入れたら二十枚じゃ。一千二百万を二十で割ったら一枚六十万。今日は一枚でええ。残りの返済計画を、明日の正午までに事務所に持ってこい」
高柳はもう言葉を発する状態ではなかった。白目を剥きかけている。黒崎は立ち上がり、手を洗うために台所に向かった。蛇口をひねり、ペンチと指を洗う。高柳の血が水に混じり、薄いピンク色の渦を描いて排水口に消えた。
指を拭きながら振り返ると、愛人の女がリビングの隅で壁に張りつくようにして震えていた。目が合った。女は黒崎の目を見て、小さく悲鳴を上げた。
黒崎はその反応に、何も感じなかった。
これが仕事だ。暴力は道具であり、恐怖は通貨だ。痛みを与え、恐怖を売り、金に換える。その循環の中に倫理を持ち込む余地はない。持ち込めば、この世界では生きていけない。
黒崎は丹生組に入って十七年になる。中学を出てすぐ、地元の先輩に連れられて盃を受けた。以来、この世界の外に出たことがない。出ようと思ったこともない。ここが自分の場所だと、疑ったことがなかった。
マンションを出ると、六月の湿った空気が顔に貼りついた。山根が煙草に火をつけながら言った。
「兄貴、あれ払いますかね」
「払うよ。痛い目見たけぇな」
「まあ、あの泣きようなら大丈夫でしょう。泣けるうちは正気ですけぇ」
黒崎は無言で頷いた。泣けるうちは正気。それはこの世界の経験則だった。本当に壊れた人間は泣かない。笑うか、黙るか、どちらかだ。
三日後の夜、黒崎は丹生組長に呼び出された。
組長の丹生義勝は、尾ノ道市内の料亭「瀬川」の奥座敷にいた。丹生はこの店を月に四、五回は使う。接待や密談に適した、完全個室の老舗だ。
黒崎が襖を開けると、丹生は一人で酒を飲んでいた。六十二歳。痩せた体に仕立てのいいスーツ。白髪を丁寧に撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけている。一見すると地方銀行の頭取か、中小企業の会長に見える。実際、丹生は合法ビジネスの顔も持っていた。不動産管理会社と、建設会社のオーナー。しかしその本業は暴力と恐喝だ。
「親父、お呼びですか」
「座れ、剛」
丹生が手元のグラスを傾けながら言った。黒崎は正座して向かい合った。
女将が酒を運んできた。黒崎の前にも冷酒が置かれる。丹生は女将が出ていくのを待ってから、眼鏡を外した。
「高柳の件、片づいたか」
「はい。明日、返済計画を持ってくることになっとります」
「そうか」
丹生は焼き魚の骨を箸で丁寧にほぐしていた。この男は食事の所作が美しい。暴力団の組長には不似合いなほどの育ちの良さが、所作に出る。
「なあ剛。最近、シノギが細うなっとるのは分かっとるな」
「はい」
黒崎は即答した。分かっている。度重なる暴対法の改正に加え、コンプライアンスの締め付けが年々厳しくなっている。銀行口座の開設すら困難になり、フロント企業の維持にも金がかかる。債権回収のような旧来型のシノギは利幅が薄くなる一方だ。
「わしの知り合いにな、関西で宗教をやっとる男がおる」
唐突な話題の転換だった。黒崎は表情を変えずに聞いた。
「宗教ですか」
「宗教法人。信者が三千人おるそうじゃ。月の収入がなんぼか分かるか」
「……見当がつきません」
「四千万」
黒崎は瞬きをした。
「お布施、祈祷料、グッズ販売。信者が増えれば増えるほど、雪だるま式に膨れる。しかもな——」
丹生が箸を置き、黒崎を見据えた。
「宗教法人は非課税じゃ。坊主丸儲けとはよう言うたもんよ」
黒崎は丹生の目を見返した。この男が世間話をするはずがない。
「親父。何を仰りたいんですか」
丹生が薄く笑った。
「お前、宗教やれ」
数秒の沈黙があった。
「……宗教を」
「そうじゃ。お前が教祖になって、宗教を始めるんじゃ」
黒崎は丹生の顔を見た。冗談を言う顔ではなかった。丹生義勝は冗談を言わない男だ。
「お前はの、剛。腕っぷしは並じゃが、口が立つ。人にものを信じさせる才がある。債権回収でも、お前が話すと相手が大人しゅうなるのは、おどしだけやない。お前の話し方には、人を説き伏せる力がある」
「しかし、宗教言うても——」
「教義なんぞ適当でええ。世の中には寂しい人間が山ほどおる。とくにこの町はそうじゃ。年寄りばかりで、話し相手もおらん。家族に先立たれた者、生きる意味を見失った者。そういう連中に、居場所と、もっともらしい言葉を与えてやれ。それだけで金になる」
丹生が冷酒を一口含み、続けた。
「信者は金を運んでくる羊や。羊飼いになれ、剛。シマの上前をはねるより、よほど安全で、よほど儲かる」
黒崎は黙っていた。
反論の余地がないわけではない。宗教法人の設立には手続きが必要だし、教義も組織も一から作らなければならない。何より、黒崎自身に信仰がない。神も仏も、霊も魂も信じていない。人の心を動かすのは暴力と金だけだと、十七年間の極道生活で学んできた。
だが、丹生の「命令」に否とは言えない。これは相談ではなく、業務命令だ。
「……分かりました」
「おう」
丹生が満足そうに頷いた。
「山根をつけたる。あいつはSNSだの何だの、若い者向けの宣伝が上手いやろ。お前が教祖で、山根が広報。まあ、半年もあれば形になるじゃろう」
黒崎は冷酒を手に取り、一気に呷った。喉を焼く冷たさが、胃の底に落ちた。
「一つだけ聞いてもええですか、親父」
「何じゃ」
「なぜ、俺なんですか。この手のことなら、もっと適任がおるでしょう」
丹生は黒崎をじっと見た。
「お前は嘘が上手いけぇよ」
短い言葉だった。黒崎は何も返せなかった。
「嘘が上手いいうのは、褒めとるんじゃ。この世界では最上の才能よ。お前の口なら、石ころでも御神体にできる。わしはそう見とる」
丹生が笑った。目は笑っていなかった。
こうして黒崎は、教祖になることが決まった。
瀬戸内の海から押し寄せる湿った空気が、港町の路地を白く霞ませている。造船所の骨組みだけが残った廃墟の間を、野良猫が一匹、のろのろと横切っていった。かつて二万人が暮らした町は、今では六千を割っている。若い者は出ていき、残ったのは年寄りと、ここにしか居場所のない者たちだ。
黒崎剛はその後者に属していた。
丹生組の事務所は港から三本入った筋にある。看板は出していない。暴対法以降、組事務所であることを公にするのは得策ではなくなった。鉄筋三階建ての雑居ビルの二階。一階は潰れたスナック、三階は空き部屋。ビルの持ち主は組のフロント企業だ。
事務所に入ると、若い衆の坂本が受付に座ってスマートフォンをいじっていた。黒崎の姿を認めて慌てて立ち上がる。
「お疲れさまです、黒崎の兄貴」
黒崎は軽く顎を引いただけで応接間を通り過ぎ、奥の事務室に入った。机の上に、今朝方片づけた債権の書類が積まれている。風俗店三件分の売掛金。締めて八百万。こういう地味な実務が黒崎の仕事だった。
上着を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。シャツの袖を肘まで捲ると、左の前腕に走る古い刃傷の痕が覗いた。二十代の頃、他所の組との諍いで負ったものだ。もう痛みはないが、雨の日には皮膚の奥が微かに疼く。
「兄貴、コーヒーいります?」
坂本が顔を覗かせた。黒崎は首を振った。
「山根は?」
「山根さんなら、下の駐車場におります。車磨いとりました」
「呼んでくれ」
坂本が引っ込み、一分もしないうちに山根太一が小走りで入ってきた。百八十センチの長身に、元ホストらしく整った顔。しかし目つきが軽い。どこか犬のような人懐っこさがあり、ヤクザにしては人を警戒させないタイプだった。
「兄貴、呼びました?」
「座れ」
山根がソファに腰を下ろす。黒崎は机の上の書類をまとめながら、低い声で言った。
「港南開発の高柳。飛びよった」
山根の表情が変わった。
「飛んだ? あの風俗の?」
「電話も繋がらん、店も閉めとる。嫁の実家に確認させたが、そっちにもおらん」
高柳は尾ノ道市内でデリバリーヘルスを三店舗経営していた男だ。丹生組から運転資金として一千二百万を借りており、月々の返済が三ヶ月滞っていた。先週、黒崎が直接店を訪ねて最後通告をしたばかりだった。
「舐めとるのう」
山根が目を細めた。軽薄な顔つきが消え、据わった目になる。こういうとき、この男がただの軽い若者ではないことが分かる。
「探す。見つけたら?」
「連れてこい。話はそれからじゃ」
高柳を見つけたのは三日後だった。
山根が当たりをつけた。高柳の愛人が福山市内のマンションに住んでおり、そこに転がり込んでいた。愛人のSNSから足がついた。山根はこういう追跡が上手い。ホスト時代に培った、人間の虚栄心を読む能力が活きていた。
黒崎と山根は、福山のマンションに乗り込んだ。
チャイムを鳴らすと、若い女が出た。二十代半ば。化粧が崩れ、目の下に隈がある。三日間ろくに眠っていない顔だ。
「高柳さん、おる?」
黒崎が静かに言うと、女の顔から血の気が引いた。奥から物音がした。裏口から逃げようとしているのだろう。黒崎が顎をしゃくると、山根が玄関から体を滑り込ませ、廊下を駆けた。
ベランダに通じる窓の前で、山根が高柳を取り押さえた。四十代後半、小太りの男。逃げようとしたが、山根の腕力には敵わない。床に押さえつけられ、顔をフローリングに押しつけられた高柳が、潰れた声で叫んだ。
「待ってくれ、金は、金は用意するけぇ——」
黒崎は靴を脱がずに部屋に上がった。高柳の横に膝をつき、男の頭を掴んで顔を上げさせた。脂汗にまみれた顔。恐怖で瞳孔が開いている。
「高柳さん。わしが先週なんて言うたか覚えとるか」
「覚えて……覚えとります」
「なんて言うた?」
「逃げたら……あかんと……」
「ほうよ。逃げたらあかん、言うたよのう。逃げたら話し合いの余地がのうなる、言うたよのう」
黒崎は高柳の髪を掴んだまま、もう片方の手でズボンのポケットからペンチを取り出した。工具店で買った、何の変哲もないペンチだ。
高柳が見て、泣き始めた。四十を過ぎた男が、鼻水を垂らして泣いた。
「頼む、頼むけぇ……金は、嫁の実家に頭下げて——」
「それを三ヶ月前に言えや」
黒崎は高柳の右手を取り、人差し指を固定した。山根が背後から高柳の体を押さえている。
ペンチの先端を、爪の隙間に差し込んだ。
高柳が絶叫した。まだ何もしていない。ペンチの冷たさが爪の下の肉に触れただけだ。
「静かにせぇ」
黒崎の声は平坦だった。業務上の手続きを説明するときと同じトーンだ。
「歯ぁ食いしばれ。噛んだら舌が切れるけぇ、横を噛め。奥歯でな」
助言のように言ってから、ペンチを握り、爪を剥いだ。
乾いた音がした。ぺきり、と。飴を割ったような、あるいは薄い貝殻を踏んだような、軽い音。それに続いて高柳の喉から低い呻き声が漏れた。声にならない。痛みが一定の閾値を越えると、人間は叫ぶことすらできなくなる。
爪が剥がれた指先は、想像よりも赤くない。最初は白い。爪の下の、守られてきた柔らかい肉が露出する。空気に触れたことのない皮膚。それが一瞬白く見え、次の瞬間から血が滲み出す。一滴、二滴。やがて赤い膜が指先を覆い、ぷるぷると膨らみ、重力に負けて垂れた。フローリングの床に、径二センチほどの血溜まりができた。
高柳の股間が濡れていた。失禁している。尿が太腿を伝い、ズボンの生地を黒く染めた。尿の匂いと血の匂いが混じり、部屋に膜のように張りついた。有機物の匂いだ。人間の中身は、どれもこれも温かくて、臭い。
「爪は十枚ある」
黒崎は剥がした爪をペンチから床に落とした。薄い三日月型の破片が、血溜まりの横に転がった。
「足の分も入れたら二十枚じゃ。一千二百万を二十で割ったら一枚六十万。今日は一枚でええ。残りの返済計画を、明日の正午までに事務所に持ってこい」
高柳はもう言葉を発する状態ではなかった。白目を剥きかけている。黒崎は立ち上がり、手を洗うために台所に向かった。蛇口をひねり、ペンチと指を洗う。高柳の血が水に混じり、薄いピンク色の渦を描いて排水口に消えた。
指を拭きながら振り返ると、愛人の女がリビングの隅で壁に張りつくようにして震えていた。目が合った。女は黒崎の目を見て、小さく悲鳴を上げた。
黒崎はその反応に、何も感じなかった。
これが仕事だ。暴力は道具であり、恐怖は通貨だ。痛みを与え、恐怖を売り、金に換える。その循環の中に倫理を持ち込む余地はない。持ち込めば、この世界では生きていけない。
黒崎は丹生組に入って十七年になる。中学を出てすぐ、地元の先輩に連れられて盃を受けた。以来、この世界の外に出たことがない。出ようと思ったこともない。ここが自分の場所だと、疑ったことがなかった。
マンションを出ると、六月の湿った空気が顔に貼りついた。山根が煙草に火をつけながら言った。
「兄貴、あれ払いますかね」
「払うよ。痛い目見たけぇな」
「まあ、あの泣きようなら大丈夫でしょう。泣けるうちは正気ですけぇ」
黒崎は無言で頷いた。泣けるうちは正気。それはこの世界の経験則だった。本当に壊れた人間は泣かない。笑うか、黙るか、どちらかだ。
三日後の夜、黒崎は丹生組長に呼び出された。
組長の丹生義勝は、尾ノ道市内の料亭「瀬川」の奥座敷にいた。丹生はこの店を月に四、五回は使う。接待や密談に適した、完全個室の老舗だ。
黒崎が襖を開けると、丹生は一人で酒を飲んでいた。六十二歳。痩せた体に仕立てのいいスーツ。白髪を丁寧に撫でつけ、銀縁の眼鏡をかけている。一見すると地方銀行の頭取か、中小企業の会長に見える。実際、丹生は合法ビジネスの顔も持っていた。不動産管理会社と、建設会社のオーナー。しかしその本業は暴力と恐喝だ。
「親父、お呼びですか」
「座れ、剛」
丹生が手元のグラスを傾けながら言った。黒崎は正座して向かい合った。
女将が酒を運んできた。黒崎の前にも冷酒が置かれる。丹生は女将が出ていくのを待ってから、眼鏡を外した。
「高柳の件、片づいたか」
「はい。明日、返済計画を持ってくることになっとります」
「そうか」
丹生は焼き魚の骨を箸で丁寧にほぐしていた。この男は食事の所作が美しい。暴力団の組長には不似合いなほどの育ちの良さが、所作に出る。
「なあ剛。最近、シノギが細うなっとるのは分かっとるな」
「はい」
黒崎は即答した。分かっている。度重なる暴対法の改正に加え、コンプライアンスの締め付けが年々厳しくなっている。銀行口座の開設すら困難になり、フロント企業の維持にも金がかかる。債権回収のような旧来型のシノギは利幅が薄くなる一方だ。
「わしの知り合いにな、関西で宗教をやっとる男がおる」
唐突な話題の転換だった。黒崎は表情を変えずに聞いた。
「宗教ですか」
「宗教法人。信者が三千人おるそうじゃ。月の収入がなんぼか分かるか」
「……見当がつきません」
「四千万」
黒崎は瞬きをした。
「お布施、祈祷料、グッズ販売。信者が増えれば増えるほど、雪だるま式に膨れる。しかもな——」
丹生が箸を置き、黒崎を見据えた。
「宗教法人は非課税じゃ。坊主丸儲けとはよう言うたもんよ」
黒崎は丹生の目を見返した。この男が世間話をするはずがない。
「親父。何を仰りたいんですか」
丹生が薄く笑った。
「お前、宗教やれ」
数秒の沈黙があった。
「……宗教を」
「そうじゃ。お前が教祖になって、宗教を始めるんじゃ」
黒崎は丹生の顔を見た。冗談を言う顔ではなかった。丹生義勝は冗談を言わない男だ。
「お前はの、剛。腕っぷしは並じゃが、口が立つ。人にものを信じさせる才がある。債権回収でも、お前が話すと相手が大人しゅうなるのは、おどしだけやない。お前の話し方には、人を説き伏せる力がある」
「しかし、宗教言うても——」
「教義なんぞ適当でええ。世の中には寂しい人間が山ほどおる。とくにこの町はそうじゃ。年寄りばかりで、話し相手もおらん。家族に先立たれた者、生きる意味を見失った者。そういう連中に、居場所と、もっともらしい言葉を与えてやれ。それだけで金になる」
丹生が冷酒を一口含み、続けた。
「信者は金を運んでくる羊や。羊飼いになれ、剛。シマの上前をはねるより、よほど安全で、よほど儲かる」
黒崎は黙っていた。
反論の余地がないわけではない。宗教法人の設立には手続きが必要だし、教義も組織も一から作らなければならない。何より、黒崎自身に信仰がない。神も仏も、霊も魂も信じていない。人の心を動かすのは暴力と金だけだと、十七年間の極道生活で学んできた。
だが、丹生の「命令」に否とは言えない。これは相談ではなく、業務命令だ。
「……分かりました」
「おう」
丹生が満足そうに頷いた。
「山根をつけたる。あいつはSNSだの何だの、若い者向けの宣伝が上手いやろ。お前が教祖で、山根が広報。まあ、半年もあれば形になるじゃろう」
黒崎は冷酒を手に取り、一気に呷った。喉を焼く冷たさが、胃の底に落ちた。
「一つだけ聞いてもええですか、親父」
「何じゃ」
「なぜ、俺なんですか。この手のことなら、もっと適任がおるでしょう」
丹生は黒崎をじっと見た。
「お前は嘘が上手いけぇよ」
短い言葉だった。黒崎は何も返せなかった。
「嘘が上手いいうのは、褒めとるんじゃ。この世界では最上の才能よ。お前の口なら、石ころでも御神体にできる。わしはそう見とる」
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