カラスと、悪魔と呼ばれた聖女

クジラグモ

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7 触れさせる鳥

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◯月✕日
無断で人の寝台を使うのは許せないけど……



目が覚めたら、隣に気配があった。

「ルナ!」

駆け寄ってくる彼は、いつにもまして声が裏返っている気がする。

「無茶をしないでくれ」

安堵と共にため息を付く公爵様。私が眠る寝台に腰掛けると、彼は私に手を伸ばしてきた。かたく大きな手で、私のほおに慎重に触れてくる。
心配そうな顔をする彼は、それから右手をにぎった。

「触らないで」

「どうしてだ?君はこの手で俺を治してくれた。触れてはならないことなど、ないだろう?」

純粋にたずねてくる公爵様。その右手は、悪魔と呼ばれているのを彼は耳にしていなかったのだろうか。
それは怪我を、病を、他の生命に移し与える。触れた花は枯れ、代わりに人が助かり、私は恐れられる。
引き離そうとすると、彼の手はぎゅっと両手で右手を掴む。
温かい手に包まれると、胸の奥がズキズキと痛んだ。

「私を殺すんじゃないの?人間はこの領にはいらないのよね?」

だから私に向ける情などいらない。そういうつもりで言ったが、彼はますます手を握ってきた。
力強い手は、私の手を離さない。

「前言を撤回てっかいする。俺には君が必要だ。だから怯えないでくれ。俺は君の手を悪魔などとは思っていない。これは俺を治した手」

「よくそう言い切れるわね。花を枯らすような、命も握ることができるのよ。私はあなたにけ込んでいるとは思わないの?」

一度売った恩だけで、こんなにも信頼されるなんてありえない。彼には裏がある。
私を利用し、使い続ける奴ら。それと同じ予感がする。この手は思い通りに使えば、毒にも薬にもなり得るから。

「君の言葉を借りるなら」

彼は真っ直ぐ黒い眼をこちらに向けた。

「俺は君に危害を与えるつもりもないし、ただ君の手を握りたいだけだ」

「嘘よ。私のこと、殺そうとしたし。飛行中に落とそうとしたじゃないの」

「あれは冗談だ」

「本当に殺気を向けてきたじゃないの」

本当に最悪の出会い方だったと思う。魔物討伐に行っていると誤魔化された挙げ句に、彼は私のことを信用しなかった。
たしかに無理はない。翼は鳥人にとって大切で、傷つけられたら誇りを失う。ギラや公爵様に運ばれているとき、最高に爽快そうかいだった。
上空から見る景色はきもを冷やすが、それ以上に心地良いものがある。
飛ぶというのがこれほど素晴らしいものだとは知らなかった。この能力を失ったら恐ろしいのはわかる。
でも、彼は私に言った。

「『今ここで君を落としてもいいが』って、あなたは言ったわ」

「あれは…君に離れてほしくなかっただけで」

「それに私は『悪魔の右手』を持つのよ。今にわかったでしょう。離れてほしくないなんて、私にやすやすと言うもんじゃないわ」

そんなことを言って後で後悔するのは彼の方だ。殿下はいち早く、私の手のことについてビアンカから聞かされていたに違いない。だからあんな人が多い会場で、私に婚約破棄と言いだした。
幼い頃こそ、殿下は私に言ってくれたのに。

『君はきっと聖女になる。その手は癒しの手なんだろう』

あんなに優しい言葉を誰かにかけられたのは初めてだった。
それがあんなに酷い言葉になるとは知らなかったのだ。

『お前は『聖女』ではなく『悪魔』だ』

そういった彼は、私の手に怯えていた。
もう誰も信用しない。

父はパナケイア家と王族の縁談を取り持つために、私を利用した。妹が病から治るまでの間、そのつなぎに私を王妃候補にのしあげた。それでも幸せだった。

『必ず君を立派な令嬢にしてあげるよ』

父にさえも、だまされた。殿下のために立派な令嬢になると、甘い言葉で誘導された私はまんまと父のわなにもはまった。
だからもう、誰にも愛されずとも。怪我人がいるだけで、私は必要とされる、ただそれだけでいい。そうすれば母の約束と、彼女が少なからず私に与えた愛情を感じられるから。

「離して」

「ダメだ」

「どうしてよ!私はあなたの傷を治しただけよ。そこまでする義理は」

「君は俺の妻だ。夫が妻を求めて何が悪い」

彼が言うのはたしかに正しい。
私達は拒絶する以前に、夫婦だから。
そして殺意を向けられようと、相手がこちらを傷つけてこようと。それは自分が怪我をしていて、本当に危ない目に合っていたからだ。母様は、人は誰もがあやまちをするものだから許してあげてと言った。
だから殺そうとしてきた彼を憎むことなどなく、受け入れるというのは簡単なこと。

でも、それ以上を踏み込まれるというのは、わからなかった。彼はもう患者ではない。なのに私に、傷を治してあげるという以上のことを求めている。

どうすればいい?

私は傷を治すという受け入れ方はできるけど、彼はもう怪我人でも何でもない。
私はもう、殺気を向けられたことを憎まないようにするつもりだが。これ以上受け入れるということがわからない。

「信用できないなら、俺の翼に触れてくれ」

彼は私の右手を掴むと、広げた左の翼にもっていく。前、怪我していたところ。折れていたはずの翼に、そっと触れさせてくれた。

温かい羽毛。ふわふわと指の間を通り抜ける毛。
かすかに震えているのは気のせいだろうか。

鳥人とりびとの誇りなのでしょ。無茶しないでいいわよ」

「君だって無茶をした。無茶をしてまで、隊員を助けてくれたんだ。ありがとう。その分俺は、君に答えたい」

そっと、じっくり。
彼は時間をかけて私の右手を翼に押し当てる。硬く力強い。大気を切り裂く立派な羽。
ふと右手に包帯が巻かれているのに気がついた。打ち身で腫れていたはずの手を処置したのは、彼だろうか。
そう気づいたとき、ズキズキとまた胸の奥が痛くなった。

「あなたの翼は……強いわね。ギラのより、太くて分厚いわ」

「ジャック。俺のことはジャックと呼べ」

まっすぐに見つめてくる彼からは、目をそむけたくなった。疑っていた自分がおろかしいと思うほど、彼の瞳は影がない。
そういえば、獣人は恩に対してものすごく感謝を感じると言う。一度仲間だと認めた相手を、生涯大事にすると。だから彼は、そういう類の感情で私を信頼し始めているのだろう。

恩など、返されなくてもいい。もう二度と、ビアンカのような形で返されたくないから。

また胸が痛くなる。

「っっっ……」

静かに左手で胸元を抑える。もうあと、何年後なのだろうか。ビアンカの心臓の病は、私の体をむしばんでいる。

「ルナ、俺の名前」

「ジャック。わかったから、あなたをジャックと呼ぶわ」

彼の翼は不意にバサバサ動いた。嬉しいということだろうか。
彼の顔は硬くてあまり動かないけど、頬は少しゆるんでいる気がした。
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