アイドルくん、俺の前では生活能力ゼロの甘えん坊でした。~俺の住み込みバイト先は後輩の高校生アイドルくんでした。

天音ねる(旧:えんとっぷ)

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橘へのごはん(豚の生姜焼き)


(この人が、橘さん…?)

正直、この豪邸の家主とは思えない、あまりにも「もさもさ」とした雰囲気に、俺はまたしても拍子抜けしてしまった。むしろ、服装のダサさで言えば、俺といい勝負かもしれない。勝手ながら、少しだけ親近感が湧いてくる。

「桜井さん、ですね。どうぞ、中へ」
「は、はい!お邪魔します!」

促されるままに中へ入ると、そこはホテルのロビーかと見紛うような、広大なエントランスホールだった。磨き上げられた大理石の床に、天井からはシャンデリアが吊り下がっている。

「リビング、こちらです」

青年に案内されて通されたリビングは、さらに規格外だった。壁一面が窓ガラスになっていて、陽光がさんさんと降り注いでいる。窓の外には、これまた立派な庭と、青い水をたたえたプールまで見えた。

しかし、その豪華な空間とは裏腹に、部屋の中は驚くほど散らかっていた。
ソファの上には脱ぎっぱなしのスウェットが放置され、ローテーブルにはコンビニ弁当の空き容器やペットボトルが散乱している。床には雑誌が積み上げられ、足の踏み場も限られている状態だ。

「それで…早速ですけど、仕事内容の説明を」

青年――橘さんは、ソファの上のスウェットを無造作に床へどかしながら言った。

「勤務は平日の週五日。住み込みが条件です。家事全般をお願いしたい。掃除、洗濯、それと食事の用意。みなし労働で一日八時間として、日給は一万六千円。どうですか?」
「は、はい!ぜひ、それでお願いします!」

俺は食い気味に答えた。こんな好条件、断る理由がない。深夜バイトもすぐに辞められる。

「分かりました。…あと、これは一番大事なことなんですけど」

橘さんは、それまで眠そうだった瞳で、まっすぐに俺を見つめた。

「ここで見たこと、聞いたことは、絶対に他言しないでください。俺のプライバシーに関わることは、特に。それが、この給料の対価だと思ってください」

真剣なその眼差しに、俺はゴクリと喉を鳴らす。
どんな秘密があるのかは分からない。だけど、俺にはお金が必要だった。

「はい!約束します!口は堅いのが取り柄なので!」

胸を叩いてそう宣言すると、橘さんはふっと表情を緩め、「なら、よかったです」と小さく呟いた。

「じゃあ…これはテスト、みたいなものですが。早速、このリビングと、キッチンを片付けてもらえますか?あと、夕食もお願いしたい。冷蔵庫の中身は、自由に使ってください」
「は、はい!分かりました!お任せください!」

願ってもない申し出だった。ここで俺の家事スキルを存分にアピールできれば、正式に採用されるはずだ。
俺は腕まくりをすると、早速リビングの片付けに取り掛かった。

まずはゴミの分別からだ。ペットボトルと弁当容器をまとめ、雑誌を紐で縛る。掃除機をかけ、窓を開けて空気を入れ替えると、淀んでいた部屋の空気が一気に澄み渡っていくのが分かった。

次にキッチンへ向かうと、そこもまた壮絶な状態だった。
シンクには食器が山積みになり、調理台にはいつのものか分からない食材の袋が放置されている。しかし、最新式のシステムキッチンは、俺のやる気に火をつけた。見たこともない海外製の食洗機や、巨大なオーブンレンジ。使い方に少し戸惑いながらも、持ち前の勘で次々と機能をマスターしていく。

二時間後。
リビングは見違えるように片付き、キッチンはシンクからコンロまでピカピカに磨き上げられていた。我ながら、完璧な仕事ぶりだ。

さて、次は夕食の準備だ。
巨大な冷蔵庫を開けて中を物色する。高級そうな食材が色々と入っているが、そのほとんどが賞味期限切れだった。まともに使えそうなのは、豚のバラ肉、玉ねぎ、そしていくつかの調味料だけ。

(さて、どうするか…)

メニューはすぐに決まった。男が好きなガッツリ飯の定番。俺の得意料理でもある。

トントントン、と小気味よい包丁の音がキッチンに響く。玉ねぎをスライスし、豚肉に片栗粉をまぶす。熱したフライパンに油をひき、肉を投入すると、ジュワッという音とともに香ばしい匂いが立ち上った。

醤油、みりん、酒、そして隠し味のすりおろし生姜。
黄金比のタレを絡めれば、あっという間に食欲をそそる照りが生まれる。炊き立てのご飯を丼によそい、千切りにしたキャベツを添え、その上に熱々の生姜焼きをたっぷりと乗せる。

仕上げにマヨネーズを少しだけ。完璧だ。

「橘さん、夕食できましたー」

リビングへ呼びかけると、ソファでスマホをいじっていた橘さんが、のそりと立ち上がった。

ダイニングテーブルに、豚の生姜焼き丼と、インスタントのわかめスープを並べる。質素なメニューで申し訳ないと思いつつも、今の冷蔵庫の中身ではこれが限界だった。

「どうぞ、召し上がってください」
「…いただきます」

橘さんは無言で箸を手に取ると、生姜焼きを一口、パクリと食べた。
そして、動きが止まる。

(…え、まずかった!?)

心臓がどきりと跳ねる。味が濃すぎたか、それとも薄かったか。そもそも、こんな庶民的な料理は口に合わなかったのかもしれない。ぐるぐると不安が渦巻く中、俺は固唾を飲んで橘さんの次の反応を待った。

沈黙。
気まずい空気が流れる。
やがて、橘さんはゆっくりと顔を上げると、また一口、今度はご飯と一緒にかき込むようにして食べた。
一口、また一口。
そのペースはどんどん上がっていく。まるで、生まれて初めて美味しいものを食べたかのように、夢中で丼にくらいついている。

そして、あっという間に丼を空にすると、橘さんは箸を置き、まっすぐに俺を見た。その瞳には、さっきまでの眠そうな色はなく、どこか切実な光が宿っているように見えた。

やがて、彼はぽつりと、しかしはっきりとした声でこう言った。

「…おかわり、ありますか」

その一言は、どんな賛辞よりも、俺の心を達成感で満たしてくれた。

「は、はい!もちろんです!今すぐお持ちします!」

俺は喜び勇んでキッチンへ向かった。
この瞬間、俺はこの家で働くことができるのだと、確信した。
まさか、この「おかわり」が、俺の人生を根底から揺るがす始まりの合図になるなんて、この時の俺は知る由もなかった。
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