アイドルくん、俺の前では生活能力ゼロの甘えん坊でした。~俺の住み込みバイト先は後輩の高校生アイドルくんでした。

天音ねる(旧:えんとっぷ)

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夕食と新たな日常

「カレーの匂い。すごく、いい匂いがします」
「自信作でして。すぐできますから、手洗ってきてください」
「はい。先輩、タメ口で良いですよ」

 素直に頷いて洗面所へ向かう橘の背中を見送りながら、俺は不思議な気持ちになっていた。
 学校での、あの距離感が嘘のようだ。
 家に帰れば、俺たちは雇主と家政婦で、後輩と先輩で、そして、ただの同居人になる。

 食卓に向かい合って、二人でカレーを食べる。
 橘は、朝と同じように、夢中でスプーンを動かしていた。

「ん、美味しいです、これ」
「よかった。おかわりもあるぞ」
「します」

 即答して空の皿を差し出す姿は、どこか雛鳥を思わせた。二杯目のカレーを勢いよくかき込みながら、橘が不意に顔を上げた。

「学校で、先輩のこと見ました」

 その言葉に、俺はスプーンを止めかけた。

「…ああ」
「ちゃんと、知らないフリしてくれて、ありがとうございます」
「…まあ、ルールだからな」

 なんだか、むず痒い。
 同じ空間にいたのに、「知らないフリ」をしていたことを、こうして後から確認し合うのは、奇妙な共犯関係みたいで落ち着かなかった。

「先輩のご飯を食べるために、一日頑張ってるようなもんですから、俺」

 さらり、と。
 橘は、とんでもないことを言った。
 アイドルとしての経験からか、お世辞がうまい。
 俺は、その言葉をどう受け取っていいのか分からず、ただ「そ、そうか」と返すことしかできなかった。

 心臓が、また少し、うるさく鳴っている。
 顔が熱いのは、きっとカレーが少し辛かったせいだ。そうに違いない。

 食後、俺が皿を洗っていると、リビングのソファでテレビを見ていた橘が、ふらりとキッチンにやってきた。

「…あの、先輩」
「ん? どうかしたか?」
「明日の朝ごはんは、何ですか…?」

 もじもじと、少し言いにくそうに尋ねてくる。まるで、遠足のおやつを気にする子供だ。俺は思わず吹き出してしまった。

「はは、気が早いな。そうだな…フレンチトーストでも作ってやるよ」
「…! やった…」

 橘は、ぱあっと顔を輝かせると、満足そうにソファへ戻っていった。その単純さが、なんだか少し、弟みたいで面白い。

 洗い物を終えてリビングに戻ると、あれほど楽しみにしていたテレビもつけっぱなしのまま、橘はソファの端でこくりこくりと船を漕いでいた。やがて、その身体がゆっくりと横に傾いでいく。

「おい、こんな所で寝たら風邪引くぞ。部屋、戻れ」

 声をかけても、聞こえていないらしい。すーすーと穏やかな寝息が聞こえるだけだ。その無防備な寝顔は、年相応で、どこか幼い。俺はため息をつき、近くにあったブランケットをそっとその身体にかけた。

(本当に、手のかかる雇い主だ…)

 学校で見せる、あの完璧な王子様の姿はどこに行ったのか。家での彼は、生活能力ゼロで、放っておけないことばかりする。

 この生活は、まだ始まったばかりだ。
 嵐のような朝も、学校での奇妙な距離感も、二人きりの穏やかな夕食も。
 その全てが、俺の「日常」になっていく。

 不安がないと言えば、嘘になる。
 だけど、まあ、仕事だと割り切れば、悪いことばかりでもないのかもしれない。

(…しょうがないな、俺がいないと)

 家族のため、自分の夢のため。
 俺は、明日もまた、早起きをして朝食を作ろうと、静かに心に決めた。
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