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感情を手に灯す男
( 一 )
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甲斐美典はサイドテーブルに手を伸ばし、煙草とライターを掴んだ。
適当に掴み過ぎてぐしゃりと煙草の箱が潰れたが、気にせず潰れた箱から一本取り出し、口に咥えた。
絡まっていた女の腕を解き、煙草に火を着ける前に髪ゴムを解く。無造作に肩にかかった髪の毛を縛り直した。それから煙草に火を着け、一口含み煙を吐き出すと、隣に居る女が言った。
「相変わらず淡白な男」
女は前にからかってしつこく腕を絡めようとしたら、怖い顔で甲斐に睨まれたことがある。
彼はそういう時、無意識に眉間に皺を寄せる癖がある。その時、知ってしたけれどもたまにしか見ないその顔に、女は竦み上がったのを覚えている。
二口目を飲み込み煙を吐き出すと、甲斐は言った。
「わかっていることをわざわざ口にするとか、無駄な体力」
女は「甲斐らしいわ」とくすくすと笑った。
そんな女はわかっているからとうに着替えだしている。
甲斐という男は全くもってマイペースである。だが、女にはそれがちょうど好かった。
会いたい時だけ会って、相手の知らない顔を垣間見れば楽しいし、日常的でないのにまるでいつも通りなことが安心感をもたらす。
「じゃあ、あたし帰る。忙しいの」
「俺だって帰るよ。忙しいんだ」
「知ってる」
「忙しいのにわざわざ誘ったの?」
甲斐がそう尋ねると、女は冗談地味た言い方をした
「悪い? 会いたかったのよ」
その言い方に甲斐がくすくすと笑いだし、煙草を消すと着替えだした。
「早くしなさいよ、のんびりさん」
「ちょっと待ってよ、忙しいからって急かし過ぎ」
「あんたがのんびりし過ぎなのよ。忙しいんでしょ?」
「つれないのだか、なんだかわからないねぇ、俺たち」
そう言って甲斐は肩を竦めた。
帰り支度を終えて、一緒にホテルを出て駅まで歩くと、互いに別方向に別れた。女は電車へ、甲斐は自分の車を停めてある駅前のパーキングへと。
彼がたまにしか会わないその女と会ったのは、この日が最後となった。元々、彼女の方から誘われて時間が合えば共にするが、彼の方から誘うことはなかった。
甲斐は下の名前で呼ばれることがほぼない。もちろん家族は名前で呼ぶが、親友すら名前を呼ばない。甲斐と呼ぶ。
彼は名前を聞かれれば「甲斐です」と答え、下の名前を聞かれても「甲斐でいいです」と押し通す。
車の鍵を解錠してドアに手を掛けたら電話が鳴った。運転席に乗り込みながら、のんびりと電話に出る。
「かんちゃん、なにー? 俺忙しいの」
甲斐が開口一番にそう言うと、電話の向こうの相手、神田敏夫は苦笑いを浮かべずにはいられない。
神田が連絡すると甲斐は必ずそれを言うから、定型のように神田は甲斐に「つれないねぇ」とぼやく。
「でー? どうしたの。どうせさ夜来るんでしょ」
わざわざ電話をしてくるということは用事があるのだろうから、甲斐はそう聞いた。
「何故か小説の依頼が来てさー。いや、小説は大学の文芸部以来なんだけれどな、実は」
神田はフリーライターを生業にしている。それだけで食っている代わりに、年中飛び回っては缶詰になってと忙しい人間だ。
暇な時はだらだらと毎日のように甲斐の店に入り浸る。
「良かったね」
「あー、そうだねー」
自分のことなのに、神田は何故か他人事のように棒読みな言い方をした。それから彼は言った。
「書いていい?」
「書けば?」
「いいんだ?」
「止めても無駄でしょ、かんちゃんの場合。やだって言っても無視していつも書いてたじゃん」
甲斐の記憶力の正確さは素晴らしいが、覚えてなくていいことまで覚えられていて、神田は時々苦情を言いたくなる。
「それもそうだったな。無駄な時間使った。じゃあね」
そうして神田からの電話はぷりつりと切れた。
この二人の男は時間の使い方が似ている。人が無駄だと言うような事に限って、これは必要な時間だと費す。
毎度無駄なことを聞いてくるなと思いながら、長身で体格もそれなりの甲斐には不釣合いで窮屈な小さな車を発進させた。
甲斐はこの車をひどく気に入っている。
学生時代に安く買ったこの中古の車は、後部座席を倒せば荷物もそれなりに載るから仕入れには困らない。
女を乗せたことはない。乗せたことがあるのは極少数の気を置かない友人たちだけだ。
この車は甲斐にとって特別な空間である。彼にとっては自身の部屋も特別な場所であり、あまり人を入れない。
ただ稀に、招いてない人間が勝手に部屋で寛いでいることはある。苦情を言っても無駄な相手だから放ったままにしている。
その親友に甲斐は部屋のスペアキーを奪い取られたが最後、ことある毎にその始末だ。
鼻歌混じりに運転し商店街の端っこにある自宅へ戻ると、甲斐はシャワーを浴び直した。乾かした髪を丁寧に結び、ぱりっとしたシャツに袖を通す。
しっかりと身支度を終えると一階にある店へと降りていった。
甲斐は眉間に皺を寄せる癖とは裏腹に、不機嫌な時というのがとても少ない。ご機嫌に開店準備を済ませて、最後に店の看板を外へ出す。開店には少し早いからまだ灯りは点さない。
看板には、「BAR comet」と書かれている。
それが彼の営む店の名前だ。
彼は若くして店を持つバーテンダーである。
適当に掴み過ぎてぐしゃりと煙草の箱が潰れたが、気にせず潰れた箱から一本取り出し、口に咥えた。
絡まっていた女の腕を解き、煙草に火を着ける前に髪ゴムを解く。無造作に肩にかかった髪の毛を縛り直した。それから煙草に火を着け、一口含み煙を吐き出すと、隣に居る女が言った。
「相変わらず淡白な男」
女は前にからかってしつこく腕を絡めようとしたら、怖い顔で甲斐に睨まれたことがある。
彼はそういう時、無意識に眉間に皺を寄せる癖がある。その時、知ってしたけれどもたまにしか見ないその顔に、女は竦み上がったのを覚えている。
二口目を飲み込み煙を吐き出すと、甲斐は言った。
「わかっていることをわざわざ口にするとか、無駄な体力」
女は「甲斐らしいわ」とくすくすと笑った。
そんな女はわかっているからとうに着替えだしている。
甲斐という男は全くもってマイペースである。だが、女にはそれがちょうど好かった。
会いたい時だけ会って、相手の知らない顔を垣間見れば楽しいし、日常的でないのにまるでいつも通りなことが安心感をもたらす。
「じゃあ、あたし帰る。忙しいの」
「俺だって帰るよ。忙しいんだ」
「知ってる」
「忙しいのにわざわざ誘ったの?」
甲斐がそう尋ねると、女は冗談地味た言い方をした
「悪い? 会いたかったのよ」
その言い方に甲斐がくすくすと笑いだし、煙草を消すと着替えだした。
「早くしなさいよ、のんびりさん」
「ちょっと待ってよ、忙しいからって急かし過ぎ」
「あんたがのんびりし過ぎなのよ。忙しいんでしょ?」
「つれないのだか、なんだかわからないねぇ、俺たち」
そう言って甲斐は肩を竦めた。
帰り支度を終えて、一緒にホテルを出て駅まで歩くと、互いに別方向に別れた。女は電車へ、甲斐は自分の車を停めてある駅前のパーキングへと。
彼がたまにしか会わないその女と会ったのは、この日が最後となった。元々、彼女の方から誘われて時間が合えば共にするが、彼の方から誘うことはなかった。
甲斐は下の名前で呼ばれることがほぼない。もちろん家族は名前で呼ぶが、親友すら名前を呼ばない。甲斐と呼ぶ。
彼は名前を聞かれれば「甲斐です」と答え、下の名前を聞かれても「甲斐でいいです」と押し通す。
車の鍵を解錠してドアに手を掛けたら電話が鳴った。運転席に乗り込みながら、のんびりと電話に出る。
「かんちゃん、なにー? 俺忙しいの」
甲斐が開口一番にそう言うと、電話の向こうの相手、神田敏夫は苦笑いを浮かべずにはいられない。
神田が連絡すると甲斐は必ずそれを言うから、定型のように神田は甲斐に「つれないねぇ」とぼやく。
「でー? どうしたの。どうせさ夜来るんでしょ」
わざわざ電話をしてくるということは用事があるのだろうから、甲斐はそう聞いた。
「何故か小説の依頼が来てさー。いや、小説は大学の文芸部以来なんだけれどな、実は」
神田はフリーライターを生業にしている。それだけで食っている代わりに、年中飛び回っては缶詰になってと忙しい人間だ。
暇な時はだらだらと毎日のように甲斐の店に入り浸る。
「良かったね」
「あー、そうだねー」
自分のことなのに、神田は何故か他人事のように棒読みな言い方をした。それから彼は言った。
「書いていい?」
「書けば?」
「いいんだ?」
「止めても無駄でしょ、かんちゃんの場合。やだって言っても無視していつも書いてたじゃん」
甲斐の記憶力の正確さは素晴らしいが、覚えてなくていいことまで覚えられていて、神田は時々苦情を言いたくなる。
「それもそうだったな。無駄な時間使った。じゃあね」
そうして神田からの電話はぷりつりと切れた。
この二人の男は時間の使い方が似ている。人が無駄だと言うような事に限って、これは必要な時間だと費す。
毎度無駄なことを聞いてくるなと思いながら、長身で体格もそれなりの甲斐には不釣合いで窮屈な小さな車を発進させた。
甲斐はこの車をひどく気に入っている。
学生時代に安く買ったこの中古の車は、後部座席を倒せば荷物もそれなりに載るから仕入れには困らない。
女を乗せたことはない。乗せたことがあるのは極少数の気を置かない友人たちだけだ。
この車は甲斐にとって特別な空間である。彼にとっては自身の部屋も特別な場所であり、あまり人を入れない。
ただ稀に、招いてない人間が勝手に部屋で寛いでいることはある。苦情を言っても無駄な相手だから放ったままにしている。
その親友に甲斐は部屋のスペアキーを奪い取られたが最後、ことある毎にその始末だ。
鼻歌混じりに運転し商店街の端っこにある自宅へ戻ると、甲斐はシャワーを浴び直した。乾かした髪を丁寧に結び、ぱりっとしたシャツに袖を通す。
しっかりと身支度を終えると一階にある店へと降りていった。
甲斐は眉間に皺を寄せる癖とは裏腹に、不機嫌な時というのがとても少ない。ご機嫌に開店準備を済ませて、最後に店の看板を外へ出す。開店には少し早いからまだ灯りは点さない。
看板には、「BAR comet」と書かれている。
それが彼の営む店の名前だ。
彼は若くして店を持つバーテンダーである。
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