未姫(ひつじひめ)の困惑  

布留洋一朗

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第24話 おしゃべりな刀と黒狐の名前

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 空を覆いつくすサメの灰色の巨体は、甲板にあるすべてをなぎ倒しつつ船を横切った。
 特大の牙と顎が迫っても、黒狐はだらりと二刀を下げたまま、ただなにかをつぶやいている様子だった。想定外の不幸に固まったとしか見えない。
 凄まじい風と水しぶきが過ぎ去り、ミゲルがふたたび確かめることのできた時、偵察艇の甲板上には一切の動くものが消えていた。

 –––– やれやれ、うまく行った。
 彼はようやく、美貌に似合った晴れやかな笑顔をとりもどした。
「待っていてくださいお姫様。これから、人を舐めてくれたふざけた家臣のツケを、御身から取り立てさせてもらいますからね、お覚悟を」
 手ずから育てたアギトは、みごとに不埒な獣人を一蹴してくれた。あとは未姫を捕まえ鐘を奪ったうえで、師匠の元に拉致連行する。そうすれば参州の勢力図は大きく書き換わる。
 もしかすると、褒美として姫様の身柄を下げ渡してもらえるかもしれないが、それはあとの楽しみとしよう。少なくとも、これで誰も彼に文句を言えなくなる。術師の仲間内および軍における彼の立場は格段に高まる。なにより期待したいのは、あの、お嬢さま育ちが過ぎて術師の苦労などさっぱり理解できない国主様についてだ。これで少しは態度を改めざるをえないだろう。

 だが、妖術師の気分が高揚したのは、ほんの短い間だけだった。
 水面に到達した化けザメの二重になった背ビレの手前に、朱線が走っているのにミゲルは気がついた。巨体はそこからくの字に折れはじめようとしていた。
「うそ、だろ」
 彼はようやく、サメから生命が失われているのを理解した。さらに信じ難いことに、サメのいなくなった甲板に、ふわりと紺色の塊が降りたった。あの獣人だ。ふざけたことに両刀を持った手で外套の裾をたくし上げたまま、着地した。
「汚すわけにはいかんのだ。いただき物だからな」彼はミゲルに弁解するように言った。
 海に衝突した化けザメ、アギトは血と内臓を波に揉まれながら、ずぶずぶと沈んでいく。

「ああーっ」観察中だったメグが素っ頓狂な声をあげた。
「どうしましたか」
「さっきのサメが、輪切りにされちゃった」
「むっ、黒狐めですか」お福が息をのんだ。「なんでもかんでも叩っ斬る。あれこそまことの死神」
「ほーんと。狐くん、ひどいことするなー」これはお蘭だ。
 偵察艇の周囲の海面が真っ赤に染まり、二つ折れになったサメの巨体が沈んで行く。ぶくぶくと湧き立つ水泡も赤い。大イカの動きも怯えるように鈍ってしまった。化けザメが斬れるなら、化けイカだって斬れるだろう。
「狐さん、どうやってあんなの斬ったのかな」美歌の呆れ声にお蘭が返した。
「勢いを利用したのでしょうけど、まず刀でできるかな?信じられない」
「こんどからお魚料理は任せましょうね。わたし、捌くのがどうも苦手なの」
「やつなら、鯨だって丸ごと解体してくれそうよ」

「よし。杞憂は一つ減った。それ、行きますよ」お福の断固とした声が響いた。お福は船の速度を上げた。その船影を認めただけで司令船は逃走を開始した。どうやら、舟を曳いている海獣は攻撃力を持たないようだ。
「油断はできません。ですがあれを足止めさえできれば、逃げるも狐めを迎えに行くも自由です」
「そうね、そうですね」メグはうなずきながら、海面から目を離せないでいた。
「でもね」彼女は思い切って打ち明けた。「水のすぐ下を、紐みたいなのが迫ってくるの。なにかしら。あら、はやいはやい。どうしよう」
「護衛の海魔でしょうか」お蘭が派手な刃のついた銛を構えた。「メグ様、敵はどこに」
「ほら、あれ」メグが海原の一点を指差した。
「あらっ、あれですか。これはたいへん、なかなか強烈」
 人の足ほどの太さの胴を持ち、頭部に毛のようなものを垂らした気味の悪い蛇がうねりながら水面に身体を跳ね上げた。
 だが、メグたちの船の手前まできたところで、大きく右にずれていった。船の防護機能が効いているらしい。
「化け物は単純ですからね」お福が落ち着いてつぶやいたが、
「なにあれ」「人の顔がついてるっ」「怖すぎるっ」メグたちが大声をあげたのが聞こえたのか、去ったはずの海蛇が、Uターンして寄ってきてしまった。

「揃いもそろってうろたえてどうします」お福が叱ったが、若い女たちはむくれた。「だって人の頭みたいだもん」「気持ち悪いもん」「だいたい蛇が嫌い」
 事実、海蛇の長い身体の先端にあるのは、蛇よりも人の頭をぐっと縮めたような不気味な物で、小さな口にはご丁寧に犬歯のような小さい牙があった。

「あの顔、もしや、海で死んだ高貴な人の魂が乗り移ったという……」
「メグ様っ、気をつけてくださいねっ、蛇になんか転生したらいやですよ」
「ええええっ」いまや船に伴走している海蛇を見つつ、メグたちが言い合っていると、
「つまり、このように敵を怖がらせるのが目的でしょうね、あの見た目は」いやらしいほど冷静に孔雪が言った。「爆雷をお供えしたらどうでしょう」
 行く手を防ごうとしたのか、今度はへさきの前に海蛇が飛び上がった。だんだんこちらの位置を把握しつつあるようで、さっきよりずっと近い。
「なあに、こっちが早い」
 気合とともにお蘭が長く持った銛を振り回して空中を薙ぐと、見事海蛇の胴をひっかけた。蛇は海面に落ち、それから姿が見えなくなった。


「死ね、このゲスめ」
 あたりを目眩しの黒い雲で覆いつつ、その陰から牙の生えた爬虫類らしき首をミゲルは何本も飛び出させた。鱗も牙もついているが、全体にどろどろしたままである。
 それを片端から黒狐が切断するうちに、「クボっ」と叫びながら妖術師は甲板を蹴って船から飛び降りた。
 偵察艇のすぐそばまで、小さな獣人の操る小型の帆船がやって来ていた。
「やるじゃないか、クボ」妖糸を操り船に飛び降りたミゲルが、ゆっくり立ち上がろうとすると、クボの目がまんまるく開かれているのに気がついた。ミゲルは振り向いた。

「判断がはやい」帆柱のそばから黒狐が褒めた。「こんな場合は無駄に粘るものなのに、さっさと逃げるのは賢い選択だ」褒めた口で黒狐は、ミゲルをまた無視してクボに話しかけた。
「君は、ウラの湖水族によく似ていると思ったのだが」
 クボは、驚いた目のままうなずくと、空いている方の手を上げて見せた。体には不似合いな、細長く人のような指が生えていて、革鎧の下に金属製の枷ものぞいている。
「そうか」黒狐もうなずいた。「天涯の乱の生き残りだろうか?少なくない湖水族が獣人にされたというのは本当なんだな。ということは、私とも似たようなものか」
 またクボは黙ってうなずいた。
「ちぇっ。妖獣どうし意気投合しちゃったってわけ」理解しがたいという表情でミゲルは首を左右に振っていたが、ふいに呪を発動する手の構えを見せた。付近が陰り、妖術師の手指の先に小さく火花が走った。
 だが、黒狐は前を向いたまま自分の後ろの空間を斬った。甲高い悲鳴があがった。

 ミゲルが船尾に膝をついていた。左腕を右腕で押さえている。
 黒狐は、刀の一閃によって幻惑術を打ち破ると、すかさず足元に転がる琥珀色をした美しい環を一撃した。環はその場に砕けて散った。苦しそうな呻き声がした。
「これでようやく、本日の目標が果たせた。ああ、しんど」黒狐は軽く首を回した。
「あんたをただ斬っても、海魔はやすやすとは滅びないっていうからさ」
「それは、俗説だよ」荒い息をしながらミゲルは言った。
「そうかい。北門法院系統の術師は呪具にこだわり、せっかく肉体が滅んでも、呪具が残れば術を継続して面倒だとも聞いた。術者が死ぬと呪具はひとりでに逃げたりもするから、倒すには順番があるともな。誰に教わったかは、忘れたな」
 眉間にシワを寄せてミゲルは黒狐をにらんだ。長い髪が額にかかって、凄惨な雰囲気だ。だが息が乱れ、次の行動に移ることができない。
「そっちのボケ老人が」黒狐は続けた。「我らが姫様の守り手に執着する理由も、どうせそのあたりだろう。己の魂を移して永遠の生命を得ようとでも考えているんじゃないのか。だけど、身の程を弁えてほしいな、あれは田舎術師の持つ物ではない」
「わが師を、あのお方を矮小化するな」
「あ、そう。いい弟子だな。ちゃんと庇うなんて」

 ようやく息のおさまりつつあるミゲルが言った。「しかし、おまえこそなんだ。剣もふざけてる。呪具を壊すなんて。ふつう逆だろ、折れるもんだろ」
「そうかい」
「それは特製の剣か。鍛えたのは誰だ、教えろよ」妖術師の声は、さっきよりずっと妖しい響きを持っていた。
「内緒。とっても素敵な刀とだけ、思っておいてくれ」
 あっさり答えられ、ミゲルはひどく悔しそうに舌打ちをした。「つくづくムカつく。ゴミ以下のくせに刀だけが立派なクソ獣人に手こずるとは僕もヤキが回ったよ。あっ、どうせその二刀も便所で拾った糞ベラじゃないのか。それこそテメエにふさわしい」

 ふいに、どこからかささやき声がした。
「これは無礼な。先日の賢げなヌイイの法師は最初からわれらを存じておったぞ」
「この者の学が足らぬのだ。それに目もひどい。小弥太は呪具など錆刀でも斬ろうとする無茶な奴だ。立ち会っていながら、この気組と業前が見抜けんとは、情けない。多少褒められても嬉しくない」
「糞ベラ呼ばわりもされたぞ」
「それは小弥太にかたをつけさせよう」
 明らかに黒狐とは違う声が言い合っているのに、ミゲルはぎょっとした顔になった。
「おいおい、頼むから死人の名は出さないでくれ」黒狐がつぶやいた。
「おまえ」ミゲルの声が低くなった。「いったい、なにものだ?」

「フラームの声刀」とされる黒狐の佩刀はまだ刀同士でささやきあっていた。
「この三文術師、われらが名を欲するとは、呪いをかけようとしたのか」
「剣槍転跋とかいう北門の術だ。処刑のため、術師に銘刀を振り上げた首切り役を、逆に自刎させたというあれだな」
「ふざけておる。子供騙しにわれらがかかると信じておるのか」
「だから、学も見識もない莫迦だと言っただろう」
「いつもは無口なのだが」黒狐は弁明した。「術師を前にすると多弁になるんだ。見逃してやってくれ」

 突然、晴れた海面に稲光が飛んだ。
「いまだ、クボっ」ミゲルは吠えた。前に飛び出てなにか術をかけろということらしい。
 しかしクボは横に首をふるばかりだった。
「目眩しだろ、わかるよ」黒狐がぽつりと言った。「とっさに本物の雨や雷を呼べるのは、真正の霊能力者だけだそうだな。それに、仲間に自殺技を強要するのは考えものだ。ぬいぐるみじゃないのだから」
「くそっ、くそっ」ミゲルの顔が醜く崩れた。元が整っていただけに、迫力がある。彼は呪いを込めて手持ちの小さな瓶やら針やらを次々投げつけ、逃走の隙を作ろうとした。
「このクズっ。僕への非礼はいつか必ず後悔させてやる。覚えておくぞ、名はコヤタだったな、つまんねえ名だ」とまで言ってから、なにかを思い出したミゲルの表情がゆがんだ。
「……冗談だろう」彼は一瞬だけ黒狐を見て、妙に気弱な笑みを浮かべた。
「魔は滅びた。滅びなければならない。それに」唇が呟いた。「もっと美しいはず」

 黒狐が二刀をふるい、海上に跳び出そうとしたミゲルを斬った。水面に血が広がったが、妖術師の肉体は、そのまま波間に消えてしまった。
「雉子も啼かずば、を地でいったな」
「手応えはあったぞ」また刀が言った。
「わからんよ。首を刎ねてもあっさり死んでくれないのが術師だろ」しばらく海を見つめたあと、黒狐は礼を言いながら刀身を拭って鞘に収めた。
 クボはだまってその様子を見ながら、帆を操作して船を走らせている。
「悪いが、わが姫様の船に寄ってくれるかな。まだ海魔も司令船も残っている」
 クボはうなずいた。
「それと、さっきの名は聞かなかったことにしてくれ。伊達男は正しい。もう滅びたんだ」
 さらに一度、クボはうなずいた。さっきより首の動きが深かった。


「やだっ、ガッキーがこっちを見てるわよ」
 哨戒艇を、大イカと取り囲んでいた巨大ミノカサゴは、急にあちらこちらに鼻面を向け出し、しばらく混乱していたようだったが、メグたちのいる方角を向いて止まった。指令船から救援命令が伝わったのかもしれない。
「さっきの海蛇ちゃんは、どこいったかな」
「消えちゃいましたよ。照れて隠れてるのかな」
 すると、メグたちの船の目の前で、司令船は大きく方向を転じた。
「あ、逃げる気だ」
「とりあえず、あの船の足を止めましょう」お福が宣言すると、
「こちらに鉄砲がないのが残念ですね」そういいながら孔雪が爆雷の点火を指示した。

 お福が船首を司令船に向けると、「それそれそれ、いくよっ」お蘭はノリノリでへさきに足をかけ、爆雷の壺を覆った縄をぶるんぶるんと振り回している。
「あの人魚みたいなのに、爆雷をあげるの?」美歌が心配そうに聞いた。
「それは寝覚めが悪いでしょうし、後ろの舵を狙うのが合理的かと思います」孔雪が答えた。
 逃げ回る司令船にじりじりと接近する。現時点で速度は互角というところか。
「お福さまっ」お蘭の声に合わせ、お福はさらに船を加速させた。虫の羽ばたきのような妖精たちの音が増し、敵の船尾を捉えた。

「しっかり捕まってなさい、それ」離れようとした敵船をお福は追った。いったん追いついたところで帆が船首に合わせて角度を変え、船は速度を緩めずにターンする。
 美歌が声に出して数を数えるのに合わせ、「残り四十っ」遠心力を利用し、お蘭がタコ壺そっくりの爆雷を続けざまに投じると、水面を滑るように壺は飛んだ。最初のは離れ過ぎて波に飲み込まれてしまったが、次の爆雷の縄がうまく敵の船尾にひっかかった。
「ひやっ」耳を押さえたメグの悲鳴に遅れて轟音が響き、水しぶきが上がった。船に引っ掛かった方も遅れて水柱を上げた。

「効いた?はずれた?……あっ、焦げてる」
 船体に爆発の影響はあったようだ。帆布製と見られる天蓋の隙間から煙が上がっている。船を曳いている海獣が動きを止め、振り返って懸命に船体を見ている。敵の司令船はいま、海上を漂い出していた。的確な指示が行われなくなったようだ。
 するといきなり蓋が開いて、弓矢があちこちに放たれた。船内にいるはずの呪術師はまだ生きていたらしい。何本かが船まで届いたが、そばにくると矢は急に勢いをうしなって海に落ちた。
「ほほう」孔雪の感心したような声が聞こえた。「強い呪力など篭っていない矢と見えます。ミゲルのような戦闘を得意とする術師ではないうようですね。とりあえず初期の目的は達しました。皆様ご苦労様。それと、まだ油断しないように」

 敵船と一定距離を置き、「これからどうする?」と相談していると、相変わらず望遠鏡を構えていたメグが海上を指差した。
「あれ、なんでしょう。手を振ってますが、さきほどの妖術師ではなさそうです。黒狐に似ていますね。あ、そうなのか」
 風に乗ってやってきた小型の船の帆柱を掴んで手を振っているのは、黒狐だ。
「ああっ、狐くん」お蘭があきれたような声を出した。「次は舟を奪っちゃった」
「やるなあ。でも、お金持ちが趣味で乗るような舟ね」
 すぐさま、お福が船首をクボの操る船へと向けた。
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