その牙っ娘にエサを与えないでください

exa

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ドーナツにはぽっかり穴があいている

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 楽しいおいしい時間が終わった、次の日。
 開店準備をすっかり終えて、さあ暖簾を出そうというとき。
 クッキーを入れた木箱を首から下げたリュリュナの横に、ナツメグがすすす、と寄ってきた。
 昨日、リュリュナが帰宅してからは、仕入れたばかりの材料を使って総出でクッキーを焼いていたため、ゆっくり話す時間がとれなかった。今朝も、仕込みの量が増えたことでいつもよりばたばたとしており、雑談を交わす暇がなかった。
 ようやくおとずれたこの隙に、とナツメグはさっそく切り出す。

「ねえ、きのうのお出かけは楽しかった?」
「はい! とっても! あの、完売のご祝儀もありがとうございました」

 リュリュナが間髪入れず答えるのに、ご祝儀? と首をかしげかけたナツメグだったが、思い当たってにっこりとうなずいた。

「ああ、副長さまに預けておいたお小遣いね! ふたりでおいしいもの、食べてくれたかしら」
「はいっ! おぜんざい食べたんです。あずきがたっぷりで、おもちが香ばしいのにとってもやわらかくて、すごくおいしかったです」

 海はとてもきれいだったが、春先の海風は冷たかった。早く帰って火鉢にあたろう、と急ぐリュリュナを引き留めたのはユンガロスだった。
 「温かいものを食べて暖を取りましょう」と誘われたリュリュナが懐を押さえて困ったような顔をしたのを見たユンガロスが取り出したのが、ナツ菓子舗から預かったという小遣いだった。

「もちが香ばしいぜんざいって言うと、海辺のほうか。ずいぶん遠くまで歩いたんだな」

 リュリュナのことばだけで、ゼトは店にあたりをつけた。菓子舗の人間だけあって、甘味屋にはくわしいらしい。ナツメグも「あそこかしらね」と相槌を打つ。
 
「そうなんです。天丼でおなかいっぱいになっちゃったから、腹ごなしに歩こう、って海まで連れて行ってくれて……」

 思い出しながら話していたリュリュナは、そこでことばを途切れさせると頬をじわじわと赤くさせた。
 海辺でユンガロスの羽織に包まれて、抱きしめられたことを思い出したのだ。
 リュリュナの顔色に目ざとく気が付いたナツメグがにんまり笑ってなにか言おうとしたとき、ゼトがぱちん、と手を鳴らした。

「よしっ、そろそろ暖簾出すぞ。きょうの売れ行きによっちゃあ、新商品も考えなきゃいけねえからな。ナツ姉も、リュリュナも、ゆるんだ顔してないで、気合いれてくぞ!」
「はいっ」
「はあい」

 ゼトが玄関の引き戸を開けて暖簾を出し、通りに声を張る。

「ナツ菓子舗、開店、開店ー!!」

 その声を聞きつけて、寄ってくるのはいつもであればまんじゅうを朝飯にしようという職人の男や近所の奥方だ。けれど、今日はいつもとすこし違う。

「待ってたわ!」
「くっきぃ、副長さまがお食べになってたくっきぃをちょうだい!」
「ユンガロスさまがおくちにした特別な香りをあたしにも!」

 ゼトが言うが早いか、待ち構えていたお姉さまがたが一斉に駆け寄ってきて、ゼトを取り囲む。
 ユンガロスがいなくとも、彼が食べた菓子として求める人たちが待っていたらしい。

「うおっ、ちょ、くっきぃなら、そこのちびっこが……!」

 慌てたゼトが視線をさまよわせたときには、リュリュナはすでに店の外に出ていた。ゼトに群がる女性たちのすき間をすり抜けて、昨日と同じく店の前に移動していたのだ。
 ゼトの声で鋭い視線を素早く四方に巡らせた女性客たちに、リュリュナは大きな声で告げる。

「クッキーをお求めのかたは、あたしの前に一列に並んでください! ユンガロスさまもみなさまが安全に買えるように、と願っています!」

 ユンガロスが、と聞いて、ぎらついていた女性客たちが颯爽と列を作る。昨日よりは短い列だが、それでもナツ菓子舗の前に収まらないほどの長さになった。
 
「それでは、販売をはじめます! たくさんの方に食べていただきたいので、本日もおひとりふた袋限定とさせていただきます!」

 そこまで言ったリュリュナは、呆けたように戸口に立っていたゼトに視線を送った。
 ゼトが邪魔でなかに入れない客が数人、戸惑うようにゼトの周りを囲んでいる。
 きりり、と気合のはいったリュリュナの視線を受けて、ゼトははっと我に返る。ここは大丈夫だから店のなかへ、という視線に込めたリュリュナの思いが通じたのか、ひとつうなずいたゼトは客を引きつれて店のなかに入って行った。

 忙しかった。
 昨日ほど鬼気迫る顔の客はいなかったが、それでも客はひっきりなしにやってくる。ユンガロスが食べたクッキーだという噂を聞きつけて来たという女性もいれば、昨日買ったひとからおいしかったと聞いて興味を持ったという客もいた。
 昨日よりさらにたくさん焼いたクッキーは、どんどん売れていく。
 クッキーを客に渡し、引換に小銭を受け取る。クッキーが無くなれば店に補充しに行き、小銭がたまれば店に置きに行って、そしてまた客にクッキーを売る。その繰り返しだ。

 忙しかった。けれど、充実した忙しさだった。
 この調子で売り上げを確保して新しいお菓子の試作をしたいなあ、などとリュリュナが考えていたときだった。
 昼前になり、いくぶん短くなってきた行列が、不意にさあっと割れたのだ。

 右と左に別れた人垣の向こうに、天使がいた。
 純白の羽根を背中に生やし、羽根に負けない白いまっすぐな長髪を赤いリボンで飾った着物の天使がそこに立っていた。長い髪のあいだからとがった耳をのぞかせたそのひとは、割れた人垣の向こうから、まっすぐにリュリュナを見ていた。

「わああぁ……!」

 リュリュナはその天使の美しさに、思わず感嘆の声をもらした。
 天使ではない、翼という人外の特徴を持つひとなのだということはわかっていたけれど、それでも、その羽根の美しさに、それを持つそのひとの美しさに見とれてしまった。

 その美しいひとは、音もなく人垣の間を歩いてきた。
 侍女だろうか、後ろに付き従うひとを当然のように引き連れて。左右から向けられる好奇の視線など感じていないかのように、リュリュナだけをまっすぐに見て歩いてきたそのひとは、リュリュナの目の前まで来るとちいさなくちをそっと開いた。

「買うわ、その菓子」
 
 鈴の鳴るような、可憐な声だった。
 
 ―――声までかわいい!

 衝撃を受けたリュリュナだったが、クッキーを差し出すことはなかった。あまりの可憐さに思わず渡しそうになったが、ぐっとこらえて首を横にふる。

「申し訳ないですが、お渡しできません」

 すまなそうに言ったリュリュナに、天使のようなその人はふと目を細めた。美人の真顔は怖い。リュリュナはおびえそうになる心を叱咤して、背筋を伸ばして立った。
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