その牙っ娘にエサを与えないでください

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 布巾を洗ってしぼり終えたナツメグは、ほんのりくもりだした空を見上げてくちをとがらせた。

「んもう、せっかく洗ったのに。軒下に干したほうが良いかしら……」

 ナツ菓子舗にある物干し場は、店と離れのあいだに立てられた広い物干し台と、店の軒下に下げられた狭い物干し棒の二か所ある。すこし迷って、ナツメグが向かったのは広いほうの物干し台だった。
 朝、干した衣類がすっかり乾いて風に揺れている。

「お買い物はゼトくんが行ってくれてるし、もしも降り出したらリュリュナちゃんといっしょに急いで仕舞えば間に合うわよねえ」

 さっきまで青々と晴れていた空には濃い灰色の雲がじわりと広がりはじめているが、降り出すにはまだ猶予があるとナツメグは踏んだ。ならば弱くとも陽にあてて、風の通り抜ける場所に干しておこうと乾いたものを取り込み、濡れた布巾を広げて干していく。
 
「さあ、終わったわあ。リュリュナちゃん~、お洗濯もの乾いてたわよう」

 手早く片付けたナツメグは、台所の勝手口をあけて機嫌よく室内に声をかけた。
 けれど。

「……あら?」

 台所にリュリュナの姿はない。土間のほうに顔を出しても、見当たらない。
 水を張って食器を入れていた桶が空になってひっくり返され、わずかに水滴をしたたらせているのを見るに、すこし前までリュリュナがそこにいたのだと思われた。
 けれど、室内にちいさな緑の頭は見つけられない。

「二階、かしら……?」

 ナツ菓子舗の二階には、ナツメグとゼトの私室がある。リュリュナが上がることを禁止しているわけではないが、格別な用事があるか部屋の主であるふたりが招きでもしなければ、彼女が向かうとも思えない。
 それでも、もしかして、という思いを抱いて階段を上ったナツメグは、いくらもたたないうちに階段を下りてきた。小走りに階段を下りたその勢いのまま履物をつっかけて、台所の勝手口から離れに向かう。
 ナツメグ自身が勝手口のすぐ外で作業をしていたのだから、リュリュナがそこを通っていないことはわかっていたのだけれど、ほかに向かうべき場所がなかった。

「リュリュナちゃん、開けるわね?」

 離れの小屋にたどりついたナツメグは、とんとんとん、と素早く扉を叩いて返事も待たずに戸を引いた。
 どうかここに居て、と願いながらナツメグは室内に目をやった。

「いないわ……」

 開いた戸の先は、がらんとしたひと間の部屋があるばかり。リュリュナの持ってきた申し訳程度の荷物も、その横にきちんと畳んで置かれた布団もいつもどおりだけれど、ひんやりした室内に求める姿はなかった。

 呆然とつぶやいたナツメグは、顔を青くした。血の気の引いた頭に、数日前にノルやソルが忠告しに来たことが思い出される。「有名人と親しくしているリュリュナに目をつける輩がいるかもしれない」そんな意味のことを守護隊の彼らは言っていた。
 リュリュナもそれを聞いて、ひとりで外出しないよう気をくばっていたはずなのに、一言もなく姿を消したということは……。

「ああ、ああ。どうしましょう。リュリュナちゃんを部屋にひとりにしたから、こんなことに!」

 リュリュナの行方を思ってナツメグがおろおろと頭を抱えていると、不意に表の木戸が音を立てる。
 ごん、とつっかえ棒に当たった木戸がどんどんと叩かれるのを聞いて、慌てて戸を開けたナツメグの前に、ゼトが笑顔を見せた。

「おう、ただいま! 仕入れの話はつけてきたぜ。問題ないってよ」
「問題あるのよ! どうしましょう、ゼトくん!」

 用事が済んだことを伝えたゼトは、焦った表情の義姉にすがりつかれて笑顔を消した。
 どうしよう、どうしようとつぶやいてうろたえる義姉の肩をゼトはしっかりと握り、おろおろとさまよう視線をまっすぐに見つめた。

「ナツ姉、落ち着け! なにがあった。落ち着いて話してくれねえと、わからねえよ」

 そう言いながらも室内に視線をやったゼトは、義姉を青ざめさせている原因に思い至って眉間にしわを寄せた。
 違ってほしい、と願いながらもゼトは問いをくちにする。

「……リュリュナが、見当たらねえな。まさか」

 リュリュナは、知り合いが顔を青くしてうろたえていたとして、それを放っておくような人物ではないと、ゼトはよく知っていた。なんなら、知らないやつが道でおろおろしていただけでも、ほいほい近寄って「どうしたんですか」などと声をかける、危なっかしいほどのお人よしだと思ってもいる。
 そんなリュリュナが、困っているナツメグを放って離れに引っ込むとは考えづらい。それなのに、この場に姿がないということは。

「いないの。二階にも、離れにもどこにも、リュリュナちゃん、いなくなっちゃったのよ……!」

 ひとみをうるませた義姉の嘆きに、ゼトは舌打ちをこらえてくちびるを噛み締めた。悪態をつくのは、最悪の結果がわかってからだ、と気持ちを切り替える。

「いついなくなったかわかるか? 物音とかは、聞いてねえか」
「わからないの。音は聞こえなかった、と思う。わたしは裏で洗濯物を干してて、リュリュナちゃんはてっきりなかで食器を洗ってるのだとばかり思ってたから……」

 ナツメグが言うのを聞いて台所に視線を向けたゼトは、空の洗い桶に目をやって考える。
 ゼト自身が店を出てからいままで、一刻ほど。茶碗を洗って片付けてから店を出たのだとしたら、それほど時間は経っていない。
 
「……おれは、近隣を探してくる。いなくなってまだそんなに経ってないから、だれかあいつの姿を見てるかもしれない。ひとっ走り聞いてまわってくる。ナツ姉は、巡邏のとこ行ってくれ。リュリュナが居なくなった、って伝言をするんだ。巡邏に伝えれば、副長かノルさんあたりに話が通るはずだ」
「ええ。ええ、わかったわ」
「もしかしたら自分でちょっと遊びに出ただけかもしれない、戸につっかえ棒したの、ナツ姉じゃないんだろ? でもろくでもない連中がいる可能性もあるから、ナツ姉もひと気のない道は通るなよ。大通りだけを通って、伝言を頼んだらすぐ店に戻ってくれよ。おれも、暗くなる前にはいちど戻るから」
「わかってる。ゼトくんも、気を付けて」

 淡々としゃべるゼトと話すうちに、ナツメグもようやく落ち着いてきたのだろう。力強くうなずいたナツメグは、目じりの涙を払って駆け出した。
 それを追って店を出たゼトは、近くにある店の者たちに手あたり次第に声をかけていく。
 がむしゃらに走りたくなる足をなだめて、焦る心をねじ伏せて、万一リュリュナが自分で出かけたのだったとしても戻ってきにくくならないように「なあ、うちのちっこいやつ見なかったか」と聞いて回るのだった。



 それから数刻後。
 薄暗くなりはじめた通りを、尋常のようすではない男たちが駆け抜けた。
 息を切らし、額と言わず首と言わず汗を流した男たちは、閉ざされたナツ菓子舗の戸口にぶつかるようにしてようやく止まる。けれど息を整える間も惜しいと言わんばかりに木戸を叩いて、悲鳴のような叫び声をあげた。
 
「ちっちゃい嬢ちゃんが、さらわれた!」
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