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ユンガロスがリュリュナに髪を結ってもらい、帰って行ったその翌日。
朝も早くから、ナツ菓子舗の開店に合わせたかのようにチギがやってきた。
「仕入れる予定の物がまだ港に着いてねえんだってよ。積んできた荷物はもう片付けちまったから、何日か船待ちでひまになった。暇つぶしにリュリュの仕事、手伝ってやるぜ。もちろん、駄賃なんかいらない」
出迎えたリュリュナを見た途端、つんとあごをそらしたチギはそう言って耳をぴくぴくと震わせる。
突然のことにぽかんとくちを開けているリュリュナの反応をうかがって、チギの視線がそわそわとさまよっている。しかめ面をつくって「仕方ない」と言いたげに構えているチギだが、その胸にある期待と不安はまったく隠せていなかった。
リュリュナの後ろに立っていたナツメグとゼトは、かわいらしい少年の姿に微笑みそうになる顔を引き締めるのに力を尽くさなければならなかった。笑ってしまえば少年は、顔を真っ赤にして逃げ出してしまいそうだったからだ。
「えっと、どうしましょうか」
ぱちくりとまばたきしながらリュリュナが後ろのふたりを仰ぎ見れば、ゼトが悩むこともなくおおきく頷いた。
「ああ。だったら、クッキーを持ってリュリュナといっしょに表で売り子してもらおうか。リュリュナひとりで立たせるのはまだ心配だけど、ふたりなら大丈夫だろ」
いやにきりりと引き締まった顔のゼトが言えば、ナツメグも「そうねえ」と賛成する。
「でも、表の戸から見えるところに居てね。約束よ。リュリュナちゃんを頼むわね、チギくん」
「はいっ!」
ほほえましいと言いたげなナツメグの笑顔に、チギが威勢よく返事をするとナツメグの笑みがますます深くなった。うふふと笑いながら「これは副長さま、大変だわあ」とつぶやくナツメグの声が聞こえたゼトは、昨日のユンガロスを思い出して顔が引きつる。
リュリュナと何事かを話していたユンガロスは、大変に怖かった。口元はいつもどおりおだやかな曲線を描いていたが、目がぜったいに笑っていなかった、とゼトは断言できる。実際は黒眼鏡で隠れて見えなかったけれど、あの目を見ていたら叫んで逃げ出していた自信がゼトにはあった
いっしゅん遠い目をしたゼトが、チギに憐れみの視線を向けてしまうのは仕方のないことだろう。「あんな怖いひとと争わなきゃいけねえんだな……」そんな気持ちを抑えきれないゼトの視線に、チギは不思議そうに首をかしげている。
その頭をわしわしと乱暴に撫でてから、ゼトはチギの背中をばん、と叩いた。
「わあっ、なにすんですか!?」
ゼトの急な行動におどろいたチギが、耳をぴんと立てて目を丸くしている。それに構わずその背をばんばんと叩いたゼトは、チギの目をしっかりと見つめて顔を引き締めた。
「がんばれよ。チギ」
「え? お、おう!」
ゼトの突然の激励を、チギは売り子のことだと思ったらしい。「リュリュナだけで売るよりも、半分の時間で売り切ってやるぜ!」とチギは強気に笑って見せるのだった。
にっかり笑ったチギとにこにこ笑顔のリュリュナがそろって戻ってきたのは、まだ昼になる前のころだった。
チギがまとめて持っている二つの木箱はすっかり空になって、代わりにリュリュナが差し出す布袋がぱんぱんに膨れている。クッキーの売り上げを詰めた袋を受け取って、ナツメグがにっこりと笑う。
「おつかれさま、今日もたくさん売れたわねえ」
ナツメグのことばに、チギはうれしそうにほほを赤くした。
表情こそ強気に取り繕って笑み崩れてはいないが、頭のうえの猫耳がおさえきれない喜びにぴくぴくと揺れている。
「どうだ! いつもリュリュが売ってるより早く売り切れただろ?」
「うん! チギがたくさんがんばってくれたおかげだよ、ありがとう」
胸を張る少年に、リュリュナはすなおに笑ってお礼を言った。
リュリュナとしては、がんばった弟を褒めるような心地だ。実際、にこにこ笑顔の胸のうちでは「チギもすっかりお手伝いができるようになったんだね」などと思っているリュリュナだ。
そんなリュリュナの思いを知らないチギはますます得意そうに猫耳を動かして、吊りぎみな目をきらきらと輝かせている。
けれども素直にうれしいとは言えない年頃らしく、腕組みをしてふん、とそっぽを向く。
「ふん、礼なんていらねえよ。おれにかかればこんなの楽勝だぜ!」
「チギもルオンさんのとこでがんばってたんだもんね。お客さんと話すときのことばづかいもちゃんとできてたし、えらいえらい」
反り返るチギのことばをうん、うんとうなずきながら聞いたリュリュナは、背伸びをして腕を伸ばしチギの頭をよしよしとなでた。
同じ目線だった幼なじみにリュリュナが背を抜かれたのは、ずいぶん前だ。それでも、リュリュナのなかで自分のほうがお姉さんだ、という気持ちは変わらない。
「わっ、わわっ! や、やめろよリュリュ! 子ども扱いすんなっ!」
チギはそう言いながらも、背伸びしたリュリュナの手のしたにおとなしく自分の頭を差し出していた。撫でやすいようにぺたりと伏せられた猫耳の間をリュリュナが撫でるたび、すこしうつむいたチギの口もとがうれしそうにふにゃりと緩む。
けれど喜びをそのまま表すことは、少年の自尊心が許さないらしい。
チギはふにゃりと緩んだ口元を引き締めて、撫でられてはまた引き締めてをくり返す。
猫耳少年と、背伸びして彼を撫でる少女の図はたいそうなごやかで、ナツメグは「うふふ、かわいいわあ」とつぶやきながらにこにこと笑って見ている。
ゼトはふと「おれと姫さんもあれくらいの身長差か」などと考えてしまい、ひとりで赤面した。さいわいナツメグには気づかれなかったようで、ほほの熱をはらったゼトはこっそりと気持ちを切り替える。
「ふたりともよく働いてくれたな。ちょっと早いがお前ら先に昼飯だ。何が食いたい? くっきぃは売り切れたが、まんじゅうもどら焼きもまだあるからな、遠慮なくほしいやつ言ってくれ。すぐ作るぞ」
「えっ、いいんですか!」
ゼトの声に喜んだのは、リュリュナだ。リュリュナは夕方の仕込みのときにでも、余分に餡を作らせてもらってぜひチギにナツ菓子舗の商品を食べてもらおうと思っていた。もちろん代金は支払うつもりで、それくらいの甘えなら許してもらえるだろうか、と考えていたリュリュナだが。
ゼトはそれを上回ってリュリュナとチギを甘やかしてくれるつもりらしい。
「もちろん、食べられるのなら全種類を食べてもらってもいいのよ。チギくんのお駄賃の代わりだから、ふたりとも遠慮なくね」
ナツメグまでも当然のように言う。
一瞬だけ「どうしようか」と視線を合わせたリュリュナとチギだったが、迷うひまもなくナツメグとゼトに背を押されて「じゃあ、遠慮なく!」と言って笑い合った。
朝も早くから、ナツ菓子舗の開店に合わせたかのようにチギがやってきた。
「仕入れる予定の物がまだ港に着いてねえんだってよ。積んできた荷物はもう片付けちまったから、何日か船待ちでひまになった。暇つぶしにリュリュの仕事、手伝ってやるぜ。もちろん、駄賃なんかいらない」
出迎えたリュリュナを見た途端、つんとあごをそらしたチギはそう言って耳をぴくぴくと震わせる。
突然のことにぽかんとくちを開けているリュリュナの反応をうかがって、チギの視線がそわそわとさまよっている。しかめ面をつくって「仕方ない」と言いたげに構えているチギだが、その胸にある期待と不安はまったく隠せていなかった。
リュリュナの後ろに立っていたナツメグとゼトは、かわいらしい少年の姿に微笑みそうになる顔を引き締めるのに力を尽くさなければならなかった。笑ってしまえば少年は、顔を真っ赤にして逃げ出してしまいそうだったからだ。
「えっと、どうしましょうか」
ぱちくりとまばたきしながらリュリュナが後ろのふたりを仰ぎ見れば、ゼトが悩むこともなくおおきく頷いた。
「ああ。だったら、クッキーを持ってリュリュナといっしょに表で売り子してもらおうか。リュリュナひとりで立たせるのはまだ心配だけど、ふたりなら大丈夫だろ」
いやにきりりと引き締まった顔のゼトが言えば、ナツメグも「そうねえ」と賛成する。
「でも、表の戸から見えるところに居てね。約束よ。リュリュナちゃんを頼むわね、チギくん」
「はいっ!」
ほほえましいと言いたげなナツメグの笑顔に、チギが威勢よく返事をするとナツメグの笑みがますます深くなった。うふふと笑いながら「これは副長さま、大変だわあ」とつぶやくナツメグの声が聞こえたゼトは、昨日のユンガロスを思い出して顔が引きつる。
リュリュナと何事かを話していたユンガロスは、大変に怖かった。口元はいつもどおりおだやかな曲線を描いていたが、目がぜったいに笑っていなかった、とゼトは断言できる。実際は黒眼鏡で隠れて見えなかったけれど、あの目を見ていたら叫んで逃げ出していた自信がゼトにはあった
いっしゅん遠い目をしたゼトが、チギに憐れみの視線を向けてしまうのは仕方のないことだろう。「あんな怖いひとと争わなきゃいけねえんだな……」そんな気持ちを抑えきれないゼトの視線に、チギは不思議そうに首をかしげている。
その頭をわしわしと乱暴に撫でてから、ゼトはチギの背中をばん、と叩いた。
「わあっ、なにすんですか!?」
ゼトの急な行動におどろいたチギが、耳をぴんと立てて目を丸くしている。それに構わずその背をばんばんと叩いたゼトは、チギの目をしっかりと見つめて顔を引き締めた。
「がんばれよ。チギ」
「え? お、おう!」
ゼトの突然の激励を、チギは売り子のことだと思ったらしい。「リュリュナだけで売るよりも、半分の時間で売り切ってやるぜ!」とチギは強気に笑って見せるのだった。
にっかり笑ったチギとにこにこ笑顔のリュリュナがそろって戻ってきたのは、まだ昼になる前のころだった。
チギがまとめて持っている二つの木箱はすっかり空になって、代わりにリュリュナが差し出す布袋がぱんぱんに膨れている。クッキーの売り上げを詰めた袋を受け取って、ナツメグがにっこりと笑う。
「おつかれさま、今日もたくさん売れたわねえ」
ナツメグのことばに、チギはうれしそうにほほを赤くした。
表情こそ強気に取り繕って笑み崩れてはいないが、頭のうえの猫耳がおさえきれない喜びにぴくぴくと揺れている。
「どうだ! いつもリュリュが売ってるより早く売り切れただろ?」
「うん! チギがたくさんがんばってくれたおかげだよ、ありがとう」
胸を張る少年に、リュリュナはすなおに笑ってお礼を言った。
リュリュナとしては、がんばった弟を褒めるような心地だ。実際、にこにこ笑顔の胸のうちでは「チギもすっかりお手伝いができるようになったんだね」などと思っているリュリュナだ。
そんなリュリュナの思いを知らないチギはますます得意そうに猫耳を動かして、吊りぎみな目をきらきらと輝かせている。
けれども素直にうれしいとは言えない年頃らしく、腕組みをしてふん、とそっぽを向く。
「ふん、礼なんていらねえよ。おれにかかればこんなの楽勝だぜ!」
「チギもルオンさんのとこでがんばってたんだもんね。お客さんと話すときのことばづかいもちゃんとできてたし、えらいえらい」
反り返るチギのことばをうん、うんとうなずきながら聞いたリュリュナは、背伸びをして腕を伸ばしチギの頭をよしよしとなでた。
同じ目線だった幼なじみにリュリュナが背を抜かれたのは、ずいぶん前だ。それでも、リュリュナのなかで自分のほうがお姉さんだ、という気持ちは変わらない。
「わっ、わわっ! や、やめろよリュリュ! 子ども扱いすんなっ!」
チギはそう言いながらも、背伸びしたリュリュナの手のしたにおとなしく自分の頭を差し出していた。撫でやすいようにぺたりと伏せられた猫耳の間をリュリュナが撫でるたび、すこしうつむいたチギの口もとがうれしそうにふにゃりと緩む。
けれど喜びをそのまま表すことは、少年の自尊心が許さないらしい。
チギはふにゃりと緩んだ口元を引き締めて、撫でられてはまた引き締めてをくり返す。
猫耳少年と、背伸びして彼を撫でる少女の図はたいそうなごやかで、ナツメグは「うふふ、かわいいわあ」とつぶやきながらにこにこと笑って見ている。
ゼトはふと「おれと姫さんもあれくらいの身長差か」などと考えてしまい、ひとりで赤面した。さいわいナツメグには気づかれなかったようで、ほほの熱をはらったゼトはこっそりと気持ちを切り替える。
「ふたりともよく働いてくれたな。ちょっと早いがお前ら先に昼飯だ。何が食いたい? くっきぃは売り切れたが、まんじゅうもどら焼きもまだあるからな、遠慮なくほしいやつ言ってくれ。すぐ作るぞ」
「えっ、いいんですか!」
ゼトの声に喜んだのは、リュリュナだ。リュリュナは夕方の仕込みのときにでも、余分に餡を作らせてもらってぜひチギにナツ菓子舗の商品を食べてもらおうと思っていた。もちろん代金は支払うつもりで、それくらいの甘えなら許してもらえるだろうか、と考えていたリュリュナだが。
ゼトはそれを上回ってリュリュナとチギを甘やかしてくれるつもりらしい。
「もちろん、食べられるのなら全種類を食べてもらってもいいのよ。チギくんのお駄賃の代わりだから、ふたりとも遠慮なくね」
ナツメグまでも当然のように言う。
一瞬だけ「どうしようか」と視線を合わせたリュリュナとチギだったが、迷うひまもなくナツメグとゼトに背を押されて「じゃあ、遠慮なく!」と言って笑い合った。
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