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朝の喫茶店はひどく静かで、土蔵を改装して作られた建物の中はしんと冷えていた。
この店の静けさは、どこか和音に似ている気がする。
なぜか安心できる静寂は音も立てずにそこにあって、かすかに優しい息づかいを感じられて、そんな雰囲気が和音に似ていると思った。
何が言いたいかと言うと、店に入って店内と一体化していた和音に気がつかず、とんでもなく驚いたという話だ。
約束の時間より少し早く店に着き、入り口の引き戸に手をかければ鍵が開いていた。
マスターたちはもう来ているのだな、と中に入れば、姿は見えず物音もしない。カウンター奥の調理場か二階の部屋にでもいるのだろうかと更に足を進めたところ、柱時計の横に立つ和音と鉢合わせて声も出ないほど驚いた。
荒ぶる心臓を必死でなだめつつ和音に挨拶をすれば、無表情ながらもかすかに頷くようなそぶりを見せてくれて嬉しくなる。
すっかり落ちついたころに店の入り口からマスターが入ってきた。聞けば、和音に鍵を渡して先に入るように言い、店の周りを見て回っていたらしい。
「庭木がずいぶん伸びてしまっているので、そろそろ切らないといけないのですが、なかなか手が回りません。長谷くんが雑草を抜いてくれているから、足元はずいぶんきれいになって助かっているのですが」
実家ではして当たり前、と褒められもしない草むしりが、ここではこんなに感謝される。
お客さんがいない時の時間つぶしくらいの気持ちだったのだけれど、喜んでもらえたなら良かった。
「草むしりくらいなら、任せてください。庭木の剪定も、素人丸出しでも良ければやりますよ。実家の庭木ならいつも切らされてますし」
軽い気持ちで申し出れば、いつも手が空いたときに邪魔にならない程度に切っているだけだから十分です、と嬉しそうにお願いされて張り切ってしまう。
「そしたら、今からやっちゃいましょうか。ちょうどお店は休みだし、よく考えたら俺ができることなんてないから、俺は木浦さんの大変身ぶりを見て驚く係、ってことで」
今回の話になんとなく流れで参加しているが、今日の役作りに俺はいる必要がない。
畑野浦さんの話では、鈴木娘のビデオはけっこうな数があるらしいので午前中いっぱいはビデオ鑑賞になると思われる。
ギャルっぽく変身した和音は見てみたいので帰るという選択肢はないが、正直なところ、まったく知らない他人のホームビデオを楽しく見られる気がしない。
だから、ぜひとも違うことをしていたい。この際、庭木の剪定でも喜んでやろう。
熱く訴えた俺は、マスターに断る隙を与えずさっさと店の外に出る。
剪定ばさみや軍手などの道具の在り処は草むしりのときに見つけてわかっていたから、迷わず装備して仕事を開始する。
目標は、門扉から店の玄関口までの間に生えている木を午前中のうちにきれいにする、だ。
喫茶店の庭は木が生い茂っており、隣接する家屋のおかげもあって日光に直接さらされることはないが、それでも夏の昼間はやっぱり暑い。
剪定をはじめて間も無くやってきた畑野浦さんと鈴木さんを見送ってから、ずいぶん経った。
途中でマスターが差し入れてくれた冷たい麦茶ももう無くなっている。
野放図に伸び放題だった庭木は想像以上に強敵だったが、ざくざくとこだわりも容赦もなく切ったため、どうにか終わりそうな雰囲気だ。
まあ、お客さんが通る部分だけだけれど。
「長谷くん、そろそろお昼だから、今日はおしまいにして中に入ってください」
切り落とした葉や枝を集めてゴミ袋につめていると、店から顔を出したマスターが声をかけてくれた。
目につく分は片付いたから、残りは草むしりの時にでも拾えばいいかと区切りをつける。
店に入るとマスターがタオルを貸してくれたので、遠慮なくがしがしと頭や首を拭いていると、俺のすぐそばのテーブルにグラスが置かれた。
よく冷えた水が入っているらしく、グラスは汗をかいている。さすがマスター、気が利いている。
ありがたくいただいて、一気に飲み干す。胸の真ん中を冷たい水が通る感覚がして、気持ちがいい。
「いやあ、水がうまい。ありがとうございま……す……?」
水をくれたマスターにお礼を言おうと顔を上げて、俺は固まった。
そこに立っていたのは、マスターでは無かった。
ふわふわした茶髪のツインテールをひらりとなびかせ、可愛らしく小首を傾げる女の子。
少し下がり気味の眉に黒い縁取りをした目元は、優しく垂れている。ピンク色に艶めく唇はぷっくりとしていて、柔らかそうだ。
黒髪薄化粧派だというのについついぼうっと見とれてしまうくらいに可愛い子だが、しかし、これは。
「……もしかして、木浦さ、ん……?」
まさか、と思いながらも聞いてみれば、ツインテールの女の子はふにゃりと眉毛を下げて笑った。
「そーですよぅ。でも、このかっこーのときは彩香って呼んでほしいなぁ」
笑ったまま、ゆるんふわんとした喋りで返ってきた応えを脳が処理できない。
これが本当にあの和音か?
仕事中こそてきぱきと動きはきはきと受け答えするが、仕事を終えれば途端に糸の切れた人形のように黙り込んで、よくて頷く程度の反応しか得られないあの和音か?
なるほど、思い出してみれば昨日の写真で見た鈴木さんの娘さんを思わせる外見になっている。
ぱっと見ただけなら、間違えるレベルだ。それだけならば、化粧ひとつでここまで変わるものかと恐ろしく思って終わりだ。
しかし、真に恐ろしいのはこの和音の変わりようである。
おそらく、朝から見ていた鈴木彩香のホームビデオを元に演じているのだろう。
そのビデオを見ていない俺には似ているか否か判断することはできないが、ただ、今の和音と街中で会ったとしても、和音だと気づかない自信がある。
俺がぽかんと間抜けな顔をしていると、奥のテーブル席から立ち上がった畑野浦さんがふふふ、と笑いながら歩いてきた。
「どう? 長谷くん。すごいでしょ。見た目もそうだけど、喋り方なんてそっくりだよ。いやあ、これだけ似せられるなんて、すごいねえ」
相変わらず我が事のように自慢げにしゃべる彼だけれど、今は腹も立たない。
畑野浦さんの後ろでパソコンを操作していた鈴木さんも顔をあげて、頷いた。
「私も驚きました。見た目は、さすがに親からすればそっくりとまでは言えませんが、それでもかなり雰囲気が似ています。喋り方なんて特によく似てる」
鈴木さんは感心したように和音を見ている。
実の親からそう言わせるのだから、本当に似ているのだろう。
それならば、病院で彩香のふりをするという話もあながち無理ではないのかもしれない。
「そうだよね、そっくりだよね。じゃあ、午後から病院に行っちゃう? 鈴木さんのおばさんの病室に行っちゃう?」
軽いのりで聞いてくる畑野浦さんに、俺は驚いた。
「ええ! ちょっと急すぎじゃないですか?」
声を上げた俺に同意して、マスターもうんうんと頷いている。それを見た畑野浦さんは、ふふふっと楽しげに笑う。
「いやあ冗談、冗談。できるだけ早く手術はしたいところだけど、予想よりも早く和音ちゃんの演技が完成しちゃったから、わたしのほうの手配がまだなんだよね。明日には作戦決行できるようにしておくから」
ウインクしかねない様子でそう言う畑野浦さんに、意外なところから声があがる。
「えー、まだ行かないのぉ? 彩香、いますぐ行けるのにぃ」
そう言ったのは彩音に扮した和音だ。これは和音の本心なのか、それとも彩香ならこういうだろうと想定して喋っているのか、どちらだろう。
判別できずにいると、畑野浦さんが片手を胸の前に立てて軽く謝る。
「ごめんね、すぐに準備するからさ。でも、まだやることあるから。今日のうちに鈴木さんと話して、彩香ちゃんがおばさんをお見舞いしに来た状況の設定を決めとかなきゃいけないし」
そう言われて、和音は口を尖らせて仕方ないなあ、という表情になる。わざとらしい仕草だが、可愛い。
「はーい。それじゃあ、おとーさん作戦会議しよー。長谷さんとマスターもあつまってー」
鈴木さんの横に立って手招きする和音に呼ばれて、マスターと俺も作戦会議に参加する。
畑野浦さんは呼ばれなくとも積極的に意見を出している。
明日に向けて、作戦が練られていった。
この店の静けさは、どこか和音に似ている気がする。
なぜか安心できる静寂は音も立てずにそこにあって、かすかに優しい息づかいを感じられて、そんな雰囲気が和音に似ていると思った。
何が言いたいかと言うと、店に入って店内と一体化していた和音に気がつかず、とんでもなく驚いたという話だ。
約束の時間より少し早く店に着き、入り口の引き戸に手をかければ鍵が開いていた。
マスターたちはもう来ているのだな、と中に入れば、姿は見えず物音もしない。カウンター奥の調理場か二階の部屋にでもいるのだろうかと更に足を進めたところ、柱時計の横に立つ和音と鉢合わせて声も出ないほど驚いた。
荒ぶる心臓を必死でなだめつつ和音に挨拶をすれば、無表情ながらもかすかに頷くようなそぶりを見せてくれて嬉しくなる。
すっかり落ちついたころに店の入り口からマスターが入ってきた。聞けば、和音に鍵を渡して先に入るように言い、店の周りを見て回っていたらしい。
「庭木がずいぶん伸びてしまっているので、そろそろ切らないといけないのですが、なかなか手が回りません。長谷くんが雑草を抜いてくれているから、足元はずいぶんきれいになって助かっているのですが」
実家ではして当たり前、と褒められもしない草むしりが、ここではこんなに感謝される。
お客さんがいない時の時間つぶしくらいの気持ちだったのだけれど、喜んでもらえたなら良かった。
「草むしりくらいなら、任せてください。庭木の剪定も、素人丸出しでも良ければやりますよ。実家の庭木ならいつも切らされてますし」
軽い気持ちで申し出れば、いつも手が空いたときに邪魔にならない程度に切っているだけだから十分です、と嬉しそうにお願いされて張り切ってしまう。
「そしたら、今からやっちゃいましょうか。ちょうどお店は休みだし、よく考えたら俺ができることなんてないから、俺は木浦さんの大変身ぶりを見て驚く係、ってことで」
今回の話になんとなく流れで参加しているが、今日の役作りに俺はいる必要がない。
畑野浦さんの話では、鈴木娘のビデオはけっこうな数があるらしいので午前中いっぱいはビデオ鑑賞になると思われる。
ギャルっぽく変身した和音は見てみたいので帰るという選択肢はないが、正直なところ、まったく知らない他人のホームビデオを楽しく見られる気がしない。
だから、ぜひとも違うことをしていたい。この際、庭木の剪定でも喜んでやろう。
熱く訴えた俺は、マスターに断る隙を与えずさっさと店の外に出る。
剪定ばさみや軍手などの道具の在り処は草むしりのときに見つけてわかっていたから、迷わず装備して仕事を開始する。
目標は、門扉から店の玄関口までの間に生えている木を午前中のうちにきれいにする、だ。
喫茶店の庭は木が生い茂っており、隣接する家屋のおかげもあって日光に直接さらされることはないが、それでも夏の昼間はやっぱり暑い。
剪定をはじめて間も無くやってきた畑野浦さんと鈴木さんを見送ってから、ずいぶん経った。
途中でマスターが差し入れてくれた冷たい麦茶ももう無くなっている。
野放図に伸び放題だった庭木は想像以上に強敵だったが、ざくざくとこだわりも容赦もなく切ったため、どうにか終わりそうな雰囲気だ。
まあ、お客さんが通る部分だけだけれど。
「長谷くん、そろそろお昼だから、今日はおしまいにして中に入ってください」
切り落とした葉や枝を集めてゴミ袋につめていると、店から顔を出したマスターが声をかけてくれた。
目につく分は片付いたから、残りは草むしりの時にでも拾えばいいかと区切りをつける。
店に入るとマスターがタオルを貸してくれたので、遠慮なくがしがしと頭や首を拭いていると、俺のすぐそばのテーブルにグラスが置かれた。
よく冷えた水が入っているらしく、グラスは汗をかいている。さすがマスター、気が利いている。
ありがたくいただいて、一気に飲み干す。胸の真ん中を冷たい水が通る感覚がして、気持ちがいい。
「いやあ、水がうまい。ありがとうございま……す……?」
水をくれたマスターにお礼を言おうと顔を上げて、俺は固まった。
そこに立っていたのは、マスターでは無かった。
ふわふわした茶髪のツインテールをひらりとなびかせ、可愛らしく小首を傾げる女の子。
少し下がり気味の眉に黒い縁取りをした目元は、優しく垂れている。ピンク色に艶めく唇はぷっくりとしていて、柔らかそうだ。
黒髪薄化粧派だというのについついぼうっと見とれてしまうくらいに可愛い子だが、しかし、これは。
「……もしかして、木浦さ、ん……?」
まさか、と思いながらも聞いてみれば、ツインテールの女の子はふにゃりと眉毛を下げて笑った。
「そーですよぅ。でも、このかっこーのときは彩香って呼んでほしいなぁ」
笑ったまま、ゆるんふわんとした喋りで返ってきた応えを脳が処理できない。
これが本当にあの和音か?
仕事中こそてきぱきと動きはきはきと受け答えするが、仕事を終えれば途端に糸の切れた人形のように黙り込んで、よくて頷く程度の反応しか得られないあの和音か?
なるほど、思い出してみれば昨日の写真で見た鈴木さんの娘さんを思わせる外見になっている。
ぱっと見ただけなら、間違えるレベルだ。それだけならば、化粧ひとつでここまで変わるものかと恐ろしく思って終わりだ。
しかし、真に恐ろしいのはこの和音の変わりようである。
おそらく、朝から見ていた鈴木彩香のホームビデオを元に演じているのだろう。
そのビデオを見ていない俺には似ているか否か判断することはできないが、ただ、今の和音と街中で会ったとしても、和音だと気づかない自信がある。
俺がぽかんと間抜けな顔をしていると、奥のテーブル席から立ち上がった畑野浦さんがふふふ、と笑いながら歩いてきた。
「どう? 長谷くん。すごいでしょ。見た目もそうだけど、喋り方なんてそっくりだよ。いやあ、これだけ似せられるなんて、すごいねえ」
相変わらず我が事のように自慢げにしゃべる彼だけれど、今は腹も立たない。
畑野浦さんの後ろでパソコンを操作していた鈴木さんも顔をあげて、頷いた。
「私も驚きました。見た目は、さすがに親からすればそっくりとまでは言えませんが、それでもかなり雰囲気が似ています。喋り方なんて特によく似てる」
鈴木さんは感心したように和音を見ている。
実の親からそう言わせるのだから、本当に似ているのだろう。
それならば、病院で彩香のふりをするという話もあながち無理ではないのかもしれない。
「そうだよね、そっくりだよね。じゃあ、午後から病院に行っちゃう? 鈴木さんのおばさんの病室に行っちゃう?」
軽いのりで聞いてくる畑野浦さんに、俺は驚いた。
「ええ! ちょっと急すぎじゃないですか?」
声を上げた俺に同意して、マスターもうんうんと頷いている。それを見た畑野浦さんは、ふふふっと楽しげに笑う。
「いやあ冗談、冗談。できるだけ早く手術はしたいところだけど、予想よりも早く和音ちゃんの演技が完成しちゃったから、わたしのほうの手配がまだなんだよね。明日には作戦決行できるようにしておくから」
ウインクしかねない様子でそう言う畑野浦さんに、意外なところから声があがる。
「えー、まだ行かないのぉ? 彩香、いますぐ行けるのにぃ」
そう言ったのは彩音に扮した和音だ。これは和音の本心なのか、それとも彩香ならこういうだろうと想定して喋っているのか、どちらだろう。
判別できずにいると、畑野浦さんが片手を胸の前に立てて軽く謝る。
「ごめんね、すぐに準備するからさ。でも、まだやることあるから。今日のうちに鈴木さんと話して、彩香ちゃんがおばさんをお見舞いしに来た状況の設定を決めとかなきゃいけないし」
そう言われて、和音は口を尖らせて仕方ないなあ、という表情になる。わざとらしい仕草だが、可愛い。
「はーい。それじゃあ、おとーさん作戦会議しよー。長谷さんとマスターもあつまってー」
鈴木さんの横に立って手招きする和音に呼ばれて、マスターと俺も作戦会議に参加する。
畑野浦さんは呼ばれなくとも積極的に意見を出している。
明日に向けて、作戦が練られていった。
応援ありがとうございます!
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