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昨日の昼食はうまかった。
作戦会議を開く前にマスターがちょちょいと作ってくれたのだけれど、これがまあ短時間で作ったとは思えぬおいしい親子丼だった。
だしの匂いだけでよだれがあふれるというのに、そのだしを包む卵はふわふわのとろんとろん。
それだけでも十分うまいというのに、さらに香ばしく焼き目のついた鶏肉が肉汁まであふれさせてくるのだから、もうたまらない。
食べながら思わずにんまりと笑っていたらしくマスターが、長谷くんはいつも幸せそうに食べてくれるから食べさせ甲斐があるね、とにこにこ笑っていた。
子どものように喜んでしまっていたようで、恥ずかしい。
和音も黙々とだが手を止めずに食べていたから、きっとおいしいと感じているのだろう。
そう言うと、マスターが嬉しそうにしながらコツを教えてくれた。
きっと、和音に教えてあげたかったんだろう。
俺もおまけで教わったコツは、鶏肉を煮ないことだそうだ。
別の鍋でカリッと焼く、もし時間があるなら魚焼き器なんかで焼き目をつけた肉を卵でとじる寸前に入れるとのこと。
今度、母さんに作ってやろう。俺のことを見直すかもしれない。
とまあ、そんな話は置いといて。
本日は、ついに作戦決行の日である。
今は昼前。鈴木の伯母を説得して手術を受けてもらうため、姪っ子のふりをした和音を病院に連れてきた。
院長の発案で、目に負担をかけないようにという建前の元、できる限り暗くした病室で作戦は行われる。
病室に入るのは院長、鈴木さん、姪っ子に扮した和音と俺だ。
院長はわかる。
鈴木さんと姪っ子も、わかる。
だが、俺が病室に入る必要性はよくわからない。
院長いわく、事件を解決する場所には助手の存在が不可欠だとかなんだとか。
そもそも事件ではないのだけれど、このおっさんは何やら推理小説に憧れを抱いているようだから、そっとしておこう。
本当は和音を送ったら病室の外ででも待っていようと思っていたのだけれど、事前通知なしで三連休はできません、と店に残ったマスターに和音をよろしくと頼まれたから、とりあえず見届けねばならない。
嘘がばれたら、と思うと気は進まないが、ここまで来て止まる院長ではない。
ためらいもなく扉を叩いて「鈴木さん入りますよー」と声をかけている。
ずんずん進む院長、不安げな鈴木さんと姪っ子に扮して丈の短いスカートを履き爪をいじりながらだらだらと歩く和音の後に続いて、俺はカートを押しながら病室に入る。
病室に入っても不審ではない人物として看護師のふりをすることになった俺だが、さすがに本物の看護師の格好をするのはまずいだろう、ということで、パッと見それっぽく見えるように白いシャツと灰色のズボンを履いている。
暗がりならば、本物と見分けがつかないはずだ。
それでもどきどきしながら病室に入り、扉を閉めると室内はかなり暗くなった。
真っ暗ではないため人や物の輪郭は見えるが、人の顔を確認するには鼻がぶつかるほどに近づかなければいけないだろう。
扉を入ってすぐのところにあるカーテンを潜れば、ベッドに半身を起こしている女性の姿が見えた。
畑野浦さんが挨拶をし、手術をしようと声をかけるが、女性は静かに首を横に振る。それに対して意外なところから声があがる。
「ケーコおばさん、わがまま言ってちゃダメじゃーん」
院長と並んで立つ鈴木さんの後ろからベッドを覗き込んだのは、姪の彩香に扮する和音だ。
いつもより高い声、間延びした喋り方は彩音らしさを感じる。
しかし、打ち合わせではもうしばらく院長と鈴木の伯母が喋り、鈴木さんが手術を受けるように促して、それでもだめなら和音が出てくるはずだったのだが。
止める間もなく、和音はぐいっと前に出てベッドの横に立つ。
「彩香ちゃん……?」
確かめるように、驚きを含んだ声で鈴木の伯母が問う。
薄暗がりで、なおかつ視力が低下している彼女に人の判別は難しいのだろう。
和音のいるあたりに恐る恐る指を伸ばしている。
「そーだよ、彩音だよぅ。ケーコおばさんがわがまま言ってるって聞いて、来ちゃった」
「でも彩香ちゃん、あなた勉強合宿中は大丈夫なの?」
戸惑う彼女の手をすり抜けてベッドにぽすん、と座った和音は、鈴木の伯母の手を握ってけらけらと笑う。
「ちょびっとくらい大丈夫、大丈夫。それよりケーコおばさん、どうして手術やだー、なんて言ってんの?」
「別に、嫌だなんて。あなたの顔を見るまで、ちょっと待って欲しかっただけよ……」
軽い調子で訊ねる和音に対して、鈴木の伯母は歯切れが悪い。
和音も納得していないようで、茶色い髪を揺らして首をかしげている。
「そーかなあ。なんか、違和感。おばさんならちゃっちゃと手術しちゃって、退院したらすぐに旅行とか行っちゃってそうなのにぃ」
へんなのー、と和音が言う。
これは恐らく鈴木さんが口にしていた言葉を彩香風にアレンジしたものだろう。
普段の伯母はなんでもさっさと行動に移す人だから今回の騒動は伯母らしくない、と鈴木さんが言っていた。
そして、それは鈴木さんだけではなく伯母本人も思っていたことらしい。
少し黙ってから、ふふっと笑った彼女の声は、苦笑が混じっていた。
「彩香ちゃんは本当にもう、ずばずば言うわね。誰に似たのかしら」
呟くように言って、彼女はベッドに深く座り直した。
「そうなのよ、わたしらしくない。だけど、自分らしくいるのって、けっこう疲れるものなのよ」
そうして彼女はため息とともに、胸の内に隠していた思いを吐き出し始めた。
目に違和感を覚えて訪れた病院で、予期せぬ病を告げられた。ショックだった。
同年代の友人たちと比べて活動的な自覚があったし、まだまだ老いぼれには遠いと思っていた。
なのに、体はそうではなかった。高齢者に多く見られるという病気を発症し、心も弱る。
そういえば、近ごろひざが痛むようになった。
長い距離を歩くのか億劫になった。
大好きだった食べ放題ツアーに行かなくなったのは、いつからだったろう。
振り返れば、いつの間にか歳をとっている自分がいた。
けれど、隣に立って支え合える人はいない。自分が積極的に探さなかったから。
そのことに気がつけば、ふと不安になった。
近くに住む妹夫婦は自分とそう年が変わらないから、あてにできるものではない。
甥っ子は気にかけてくれるし、その娘も姪のように可愛がったためか懐いてくれてはいるが、遠くに住んでいる上、頼りにするのは気がひける。
そう考えたら、このまま失明してしまって介護施設の世話になったほうが周囲に迷惑をかけずに済むのではないかと思ってしまった。
そこで彩香が来られないことがわかっていながら、彩香の名前を出して手術を渋ってみたのだという。
そこまで話して、伯母は困ったように息をついた。
「だめね。みんなに迷惑をかけたくなくて言ったのに、あなたが来てくれてほっとしてる。結局みんなに迷惑をかけてしまってる」
薄暗い中、彼女がゆるく頭を振るのが見えた。
表情は見えないけれど、悲しげに自嘲しているような気がする。室内の空気が重く、息がつまりそうな気配を漂わせはじめる。
それを打ち砕いたのは、和音だった。
「ケーコおばさんがごちゃごちゃ考えてるのはちょっと良くわかんないけど。迷惑とかどうとかの話、それねぇ、彩香知ってる。水くさいって言うんだよ」
間延びしたしゃべりで得意げに言う。
決して早口ではないのに、口を挟む隙を与えず和音は続ける。
「おばさんさあ、彩香のおばあちゃんが入院したときずっと付き添いしてくれたじゃん。お父さんが仕事でこの町に来たとき、いっつもご飯に連れてってくれるじゃん。旅行に行ったときには彩香にお土産、買ってくれるでしょう」
ひとつひとつ挙げていく和音のとなりで、その話を教えたのだろう鈴木さんが頷いている。
「だからねえ。おばさんが病気になったらおばあちゃんたちが付き添うし、お父さんだって様子を見にくるよ。彩香も来ちゃうよ。だってケーコおばさんが心配だし、大好きなんだもん」
和音は恥ずかしげもなく、普通のことのように言う。いや、彩香がそういう風に言うのだろう。
「だから、もしかしてうまくいかなかったときのこととか、もっと年取ったときのことなんかはそのときにみんなで一緒に考えることにしてさ。とりあえず、手術うけちゃってよ」
調子を変えず、何も気負わずにそう言う和音に、伯母がどんな顔をしていたのか、見ることはできなかった。
けれど、少しの沈黙を挟んで答えたその声は、暖かく濡れているような気がした。
作戦会議を開く前にマスターがちょちょいと作ってくれたのだけれど、これがまあ短時間で作ったとは思えぬおいしい親子丼だった。
だしの匂いだけでよだれがあふれるというのに、そのだしを包む卵はふわふわのとろんとろん。
それだけでも十分うまいというのに、さらに香ばしく焼き目のついた鶏肉が肉汁まであふれさせてくるのだから、もうたまらない。
食べながら思わずにんまりと笑っていたらしくマスターが、長谷くんはいつも幸せそうに食べてくれるから食べさせ甲斐があるね、とにこにこ笑っていた。
子どものように喜んでしまっていたようで、恥ずかしい。
和音も黙々とだが手を止めずに食べていたから、きっとおいしいと感じているのだろう。
そう言うと、マスターが嬉しそうにしながらコツを教えてくれた。
きっと、和音に教えてあげたかったんだろう。
俺もおまけで教わったコツは、鶏肉を煮ないことだそうだ。
別の鍋でカリッと焼く、もし時間があるなら魚焼き器なんかで焼き目をつけた肉を卵でとじる寸前に入れるとのこと。
今度、母さんに作ってやろう。俺のことを見直すかもしれない。
とまあ、そんな話は置いといて。
本日は、ついに作戦決行の日である。
今は昼前。鈴木の伯母を説得して手術を受けてもらうため、姪っ子のふりをした和音を病院に連れてきた。
院長の発案で、目に負担をかけないようにという建前の元、できる限り暗くした病室で作戦は行われる。
病室に入るのは院長、鈴木さん、姪っ子に扮した和音と俺だ。
院長はわかる。
鈴木さんと姪っ子も、わかる。
だが、俺が病室に入る必要性はよくわからない。
院長いわく、事件を解決する場所には助手の存在が不可欠だとかなんだとか。
そもそも事件ではないのだけれど、このおっさんは何やら推理小説に憧れを抱いているようだから、そっとしておこう。
本当は和音を送ったら病室の外ででも待っていようと思っていたのだけれど、事前通知なしで三連休はできません、と店に残ったマスターに和音をよろしくと頼まれたから、とりあえず見届けねばならない。
嘘がばれたら、と思うと気は進まないが、ここまで来て止まる院長ではない。
ためらいもなく扉を叩いて「鈴木さん入りますよー」と声をかけている。
ずんずん進む院長、不安げな鈴木さんと姪っ子に扮して丈の短いスカートを履き爪をいじりながらだらだらと歩く和音の後に続いて、俺はカートを押しながら病室に入る。
病室に入っても不審ではない人物として看護師のふりをすることになった俺だが、さすがに本物の看護師の格好をするのはまずいだろう、ということで、パッと見それっぽく見えるように白いシャツと灰色のズボンを履いている。
暗がりならば、本物と見分けがつかないはずだ。
それでもどきどきしながら病室に入り、扉を閉めると室内はかなり暗くなった。
真っ暗ではないため人や物の輪郭は見えるが、人の顔を確認するには鼻がぶつかるほどに近づかなければいけないだろう。
扉を入ってすぐのところにあるカーテンを潜れば、ベッドに半身を起こしている女性の姿が見えた。
畑野浦さんが挨拶をし、手術をしようと声をかけるが、女性は静かに首を横に振る。それに対して意外なところから声があがる。
「ケーコおばさん、わがまま言ってちゃダメじゃーん」
院長と並んで立つ鈴木さんの後ろからベッドを覗き込んだのは、姪の彩香に扮する和音だ。
いつもより高い声、間延びした喋り方は彩音らしさを感じる。
しかし、打ち合わせではもうしばらく院長と鈴木の伯母が喋り、鈴木さんが手術を受けるように促して、それでもだめなら和音が出てくるはずだったのだが。
止める間もなく、和音はぐいっと前に出てベッドの横に立つ。
「彩香ちゃん……?」
確かめるように、驚きを含んだ声で鈴木の伯母が問う。
薄暗がりで、なおかつ視力が低下している彼女に人の判別は難しいのだろう。
和音のいるあたりに恐る恐る指を伸ばしている。
「そーだよ、彩音だよぅ。ケーコおばさんがわがまま言ってるって聞いて、来ちゃった」
「でも彩香ちゃん、あなた勉強合宿中は大丈夫なの?」
戸惑う彼女の手をすり抜けてベッドにぽすん、と座った和音は、鈴木の伯母の手を握ってけらけらと笑う。
「ちょびっとくらい大丈夫、大丈夫。それよりケーコおばさん、どうして手術やだー、なんて言ってんの?」
「別に、嫌だなんて。あなたの顔を見るまで、ちょっと待って欲しかっただけよ……」
軽い調子で訊ねる和音に対して、鈴木の伯母は歯切れが悪い。
和音も納得していないようで、茶色い髪を揺らして首をかしげている。
「そーかなあ。なんか、違和感。おばさんならちゃっちゃと手術しちゃって、退院したらすぐに旅行とか行っちゃってそうなのにぃ」
へんなのー、と和音が言う。
これは恐らく鈴木さんが口にしていた言葉を彩香風にアレンジしたものだろう。
普段の伯母はなんでもさっさと行動に移す人だから今回の騒動は伯母らしくない、と鈴木さんが言っていた。
そして、それは鈴木さんだけではなく伯母本人も思っていたことらしい。
少し黙ってから、ふふっと笑った彼女の声は、苦笑が混じっていた。
「彩香ちゃんは本当にもう、ずばずば言うわね。誰に似たのかしら」
呟くように言って、彼女はベッドに深く座り直した。
「そうなのよ、わたしらしくない。だけど、自分らしくいるのって、けっこう疲れるものなのよ」
そうして彼女はため息とともに、胸の内に隠していた思いを吐き出し始めた。
目に違和感を覚えて訪れた病院で、予期せぬ病を告げられた。ショックだった。
同年代の友人たちと比べて活動的な自覚があったし、まだまだ老いぼれには遠いと思っていた。
なのに、体はそうではなかった。高齢者に多く見られるという病気を発症し、心も弱る。
そういえば、近ごろひざが痛むようになった。
長い距離を歩くのか億劫になった。
大好きだった食べ放題ツアーに行かなくなったのは、いつからだったろう。
振り返れば、いつの間にか歳をとっている自分がいた。
けれど、隣に立って支え合える人はいない。自分が積極的に探さなかったから。
そのことに気がつけば、ふと不安になった。
近くに住む妹夫婦は自分とそう年が変わらないから、あてにできるものではない。
甥っ子は気にかけてくれるし、その娘も姪のように可愛がったためか懐いてくれてはいるが、遠くに住んでいる上、頼りにするのは気がひける。
そう考えたら、このまま失明してしまって介護施設の世話になったほうが周囲に迷惑をかけずに済むのではないかと思ってしまった。
そこで彩香が来られないことがわかっていながら、彩香の名前を出して手術を渋ってみたのだという。
そこまで話して、伯母は困ったように息をついた。
「だめね。みんなに迷惑をかけたくなくて言ったのに、あなたが来てくれてほっとしてる。結局みんなに迷惑をかけてしまってる」
薄暗い中、彼女がゆるく頭を振るのが見えた。
表情は見えないけれど、悲しげに自嘲しているような気がする。室内の空気が重く、息がつまりそうな気配を漂わせはじめる。
それを打ち砕いたのは、和音だった。
「ケーコおばさんがごちゃごちゃ考えてるのはちょっと良くわかんないけど。迷惑とかどうとかの話、それねぇ、彩香知ってる。水くさいって言うんだよ」
間延びしたしゃべりで得意げに言う。
決して早口ではないのに、口を挟む隙を与えず和音は続ける。
「おばさんさあ、彩香のおばあちゃんが入院したときずっと付き添いしてくれたじゃん。お父さんが仕事でこの町に来たとき、いっつもご飯に連れてってくれるじゃん。旅行に行ったときには彩香にお土産、買ってくれるでしょう」
ひとつひとつ挙げていく和音のとなりで、その話を教えたのだろう鈴木さんが頷いている。
「だからねえ。おばさんが病気になったらおばあちゃんたちが付き添うし、お父さんだって様子を見にくるよ。彩香も来ちゃうよ。だってケーコおばさんが心配だし、大好きなんだもん」
和音は恥ずかしげもなく、普通のことのように言う。いや、彩香がそういう風に言うのだろう。
「だから、もしかしてうまくいかなかったときのこととか、もっと年取ったときのことなんかはそのときにみんなで一緒に考えることにしてさ。とりあえず、手術うけちゃってよ」
調子を変えず、何も気負わずにそう言う和音に、伯母がどんな顔をしていたのか、見ることはできなかった。
けれど、少しの沈黙を挟んで答えたその声は、暖かく濡れているような気がした。
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