空想落下症

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新しい朝は希望の朝か否か

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 登校してくる生徒たちのざわつきが遠くに聞こえる生徒指導室で、俺とひなたはひよりを迎えた。

「ひよりさんはこっちに座りましょうか」

 じろり、ひなたをにらみつけてくるひよりを染谷先生が入口付近に置いた椅子に促す。
 染谷先生もまたひよりの隣に腰かけたのを見届けて、俺とひなたの側に座っていた平川先生が「よし」と膝を打った。

「矢野ひよりさん、矢野ひなたさん、木許優さん。三人そろったところで、話し合いをしようじゃないか」
「……プライベートな話なので、先生たちは出ていてくれませんか」

 ひよりが不満げに言うのに、平川先生は申し訳なさそうに笑いつつ立ち上がる気配はない。

「悪いけど、それはできないんだ。先生たちには生徒を見ている義務があるからな」
「ひよりさんはもう二度、ひなたさんのところで騒ぎを起こしているでしょう? ここであなたたちを生徒だけにするのは、教師としても大人としてもできないことなの」

 ふたりの教師から断られて、ひよりは諦めたらしかった。
 長いため息をついてから「それで?」とひなたを横目に見る。

「あたしは話し合うことなんて無いからね。ユウくんを置いてあんたがこの学校から出て行ってくれれば、文句なんてないんだから」
「それは出来ない」

 悲しげに視線を下げたひなたの代わりに、俺が断った。
 すると、ひよりは大きく目を見開いて立ち上がる。

「なんで、ユウくんがそんなこと! その女に同情してるの? ユウくんやさしいもんね」

 あは、と笑うひよりの目は俺を映す時だけひどくとろけていて、ひなたをとらえた途端に暗く燃えあがるようで。そのあまりの温度差が怖かった。

「ひよりさん、落ち着いて。座って話しましょう」

 なだめる染谷先生の手をすり抜けて、ひよりがひなたの前に立つ。
 平川先生が止めようと腰をあげたときには、ひよりはひなたのあごをつかんで叫んでいた。

「あんたは、わけわっかんない病気になっちゃった、かわいそう~な女の子だもんねえ? 家族みぃんな巻き込んで全部めちゃくちゃにして、ユウくんにも同情で構ってもらえるんだもん。いいよねえ!」
「矢野! やめなさい!」
「ひよりさん、やめて!」

 平川先生がひよりの手をつかんで引き離そうとし、染谷先生がひよりの身体をつかんで引き戻そうとするけれど、細い指はぎりぎりとひなたのあごに食い込んで離れない。

「いたぃ……」
「はあ!? 痛いですって!? あんたはそうやって泣けば、パパもママも来てくれたんでしょ。あたしにはユウくんだけだった!」
「やめなさい、矢野! 手を離せ!」
「ひよりさんっ!!」

 平川先生と染谷先生が叫ぶけれど、ひよりは止まらない。

「あたしが泣いても叫んでも、来てくれたのはユウくんだけだった。そばにいてくれたのはユウくんだけだったの! それなのに、あんたはあたしからユウくんまで奪ったんだ! 返してよ! ユウくんをあたしに返してよ!」

 ひなたのあごに食い込む爪の痛みが、つないだ手にすがるひなたの手から伝わってくる。
 何より、その痛みに耐えてでも、ひよりの言葉を受け止めようと黙っているひなたが悲しくて、俺はこらえきれずに立ち上がり叫んでいた。

「ひより、やめてくれ! ひなたを傷つけるな!」

 ぽとり。
 大の男が引き剥がそうとしても離れなかったひよりの手が、あっけなく落ちる。
 ひなたの血が赤くにじむ指先を体の横でぶらつかせ、ひよりが俺を見つめていた。
 ぞっとするほど暗いひよりの目に光はない。

「どうして?」

 降ってきた声はひどく幼くて、まるで両親を求めて泣いていた小学生のころのひよりのよう。

「どうしてユウくんがそんなこと言うの?」

 心底不思議でならないと言いたげなひよりが迫ってくる。腰に染谷先生を引っさげたまま、目の前に立った彼女が俺の胸元にひたりとしなだれかかる。

 ひよりはそのまま首だけを動かして、ひなたを見つめた。俺からはどんな顔をしているのか、確認できない。

「ユウくんを返してよ」

 びく、とひなたと繋がる手が揺れた。

「パパもママもいらないから、ユウくんだけはあたしにちょうだい」
「や……やだ……」

 怯えながらも首を横に降ったひなたに、ひよりがずいっと顔を近づける。

「やだ? あたしだってやだ。大切な大切なユウくんがあんたなんかのとなりにいるのがやだ。あんたなんかのためにあたしのユウくんがだまされてるのがやだ。あんたなんかがこの世に居座ってるのがほんとにやだ」

 すらすらと、まるで用意されたセリフのようにひよりが言う。それだけ何度もなぞった思いなのかと思うと、俺は彼女を振り払うこともできず、ひなたを引き寄せることもできない。

 先生たちもひよりの様子に気圧されたように、動きを止めていた。
 部屋のなかで動いているのはひよりの口と、がたがたと震えるひなたの体だけ。

「ごめ、ごめんね、ひよりちゃん。あたしがパパとママをおかしくさせちゃったから……」

 謝罪を口にするひなたはしゃくりあげながら「でも」と続けた。

「でも、でもユウくんはひよりちゃんにあげられない。だってそれは、ユウくんが選ぶことだから……」

 ぱしんっ。
 乾いた音が響いたとき、何の音だかわからなかった。
 目を見開いたひなたの頬がじわりと赤くなっていく様と、振り抜かれたひよりの手のひらに気づいてようやくわかる。

 ――ひよりが、ひなたを叩いたのか。

「うるさい。あんたなんか早くいなくなっちゃえ」

 突き放すような声がひよりの口から放たれる。

「ひよ……」

 止めなければ、と思ったときには遅かった。

「消えて」
「あ……」

 ひなたが後ずさる。

「はやく」
「あああ……」
「ねえ、はやくいなくなって」

 ひよりは俺にしがみつき、言葉でひなたを押しのけていく。
 つないだ手がぴんと伸びて、遠ざかる。

「ひな」

 離れてしまう。繋ぎ止めようと呼びかけた唇は、ひよりによって塞がれた。
 やわらかく、熱い触れ合い。
 俺の体が冷え切っているせいか、触れた唇は燃えるように熱い。

「ふふ」

 熱い吐息が唇をくすぐる。

 ――キス、されたのか……?

「ユウくんはもらったげるから、あんたははやく堕ちちゃって?」

 ひよりが笑いかけたとき、俺とひなたを繋ぐ指がするりと離れた。

「あああああ……」

 ずるずると後ずさるひなたの足元が、床をすり抜けて空想世界へとずぶずぶ沈む。

「えっ、なんだ!?」
「ひいっ、足が! 沈んでる!!」

 先生たちの驚きの声が聞こえたけれど、構っていられない。

「ひなた!」

 すがるひよりを押しのけて、沈むひなたに手を伸ばした。

「あ……」

 ひよりのかすかな声が耳をかすめたけれど、振り向いている余裕はない。
 ひなたはもう胸まで空想の世界に沈んでいる。

「ひなた!」

 現実と空想のあわいにたよりなく浮かぶ腕をつかむため、俺はひなたに近づいた。迷いなんてない。

 ――届いた!

 細い腕をとらえたと感じた瞬間、その先のきゃしゃな体を抱きしめて力の限りに引き上げた。
 ずるり、引き上げながらひなたと額を合わせる。

「ひなた!」

 虚な瞳に映るのは虚無。
 ずぷり、沈む力に抗おうとしないひなたの名前を必死に叫ぶ。

「ひなた! 俺を置いて行くな!」
「……ぁ」

 全力の叫びに返ったのはかすかなうめき声。
 けれどもそのわずかな反応を逃すまいと、続けて名前を呼んだ。

「ひなた! ひなた、俺を見ろ。たのむ、俺を見てくれ!」
「あ……」

 闇に染まっていた瞳に光が射す。
 なんてことのない室内灯の明かりが、いまの俺にはひときわ輝いて見えた。
 ぱちり。瞬いたひなたの瞳に、俺の顔が映る。ひどく慌てて、泣きそうな顔だ。みっともない自分の姿を目にして、けれどみっともなくとも俺の姿をひなたが見ていることがうれしくて、俺はほっと息を吐く。

 途端に、ひなたの身体は沈んでいくのをやめた。引けば引くだけずるりと持ち上がり、瞬く間に元通り。座り込んだひなたの足は、床に投げ出されているだけ。

「ユウ、くん……」
「ああ、ひなた。おかえり」

 力が抜けて、ひなたを抱きしめたまま尻もちをついてしまった。地味に痛いけど、でも、うれしさのほうが強くて気にならない。
 だから、周りに誰がいるかなんてうっかり忘れてしまっていたんだ。

「木許……」

 恐々と名前を呼ばれて肩が跳ねた。

 ――見られた。

 室内には俺とひなただけじゃない。ひよりと平川先生、そして染谷先生もいるのだと気づいて、血の気が下がる。

「木許、矢野」

 なおも呼びかけてくる平川先生の声は聞こえていたけれど、腕のなかのひなたをなんか隠さなければと抱きしめた。
 隠せるはずがないことはわかっている。わかっているけれど、今の俺にはそうするほかなかった。

「ユウくん」

 とんとん、とやさしく胸を叩いたひなたの穏やかな声に、俺は硬く閉じていたまぶたをあげる。
 腕におさまるひなたが、ひどくおとなびた笑顔で俺を見上げていた。

「説明しなきゃ。先生たち、困ってる」
「でも」

 説明してわかってもらえるとは思えない。医者でさえ解明できていない現象を目の当たりにして「そうか」と納得してもらえるとはとうてい思えなかった。

 ――ハルさんを呼ぶべきなんじゃ。それか、父さん母さんに連絡をして。

 頼る相手を求めて右往左往する俺をよそに、ひなたは自分の足で立ち上がる。

「あたしの病気のことなんだもん。あたしが説明しなくちゃ」
「ひなた……」

 座り込んだままの俺を見下ろしたひなたの笑顔がまぶしかった。

 ――こんなにきれいだったろうか。

 見とれているうちに、ひなたは俺を置いて先生たちのそばへ行ってしまう。
 すたすたと近寄るひなたを前に、先生たちが後ずさる。それに気づいたひなたはぴたりと足を止めた。

「先生、今は大丈夫」
「今は、って……矢野、さっきのはなんだ。俺の目のさっかくか? いや、でも矢野の足が確かに床に沈んで……」
「ええ、私も見ました。見間違いじゃありません!」

 混乱ぎみな平川先生に染谷先生が何度も頷く。ふたりとも興奮しているのだろう、いつもより早口でひなたの呼び方もいつも通りに戻っている。

「そのひと、そういう病気なの」

 吐き捨てるように言ったのは、先生たちからやや離れたところにいたひよりだ。

「病気って……矢野は、精神的に不安定なところがあるとは確かに聞いているが。だから木許と常に隣り合うように指定されているし、授業中だろうと手を繋いでいるよう、医者からの指示があったと……」
 平川先生がぼうぜんとつぶやいたのを耳にして、ひよりが目を細める。

「ふうん。そうやって学校をだまして、ユウくんのこと縛り付けたんだ。じゃあさ、あんたの症状がひどくなると周りを巻き込むかもしれないってことは、ちゃんと言ったの?」
「巻き込む、って……? そもそも何なの、こんな病気、聞いたことないわ」

 染谷先生が答えを求めるように向けた視線を受けて、ひなたはうつむいた。

「空想落下症っていう病気。思い描いた空想の世界に落っこちちゃうの。ひどくなると、現実への影響が強くなることがある、ってお医者さんが……」
「それがわかってて、学校に言わずに入学してきたのか?」

 責めるような響き。平川先生のいつになく硬い声に、俺は慌てて立ち上がる。

「医師からは、進攻がゆっくりだから気をつけていれば大丈夫だろう、と説明を受けてます! 実際、去年だって、発症はしてもこんなに急激に深く沈むことはなかった。だから」
「だったら、これからは周囲への影響があるかもわからない、ということね……?」

 顔を青ざめさせた染谷先生に問われて、俺は答えられなかった。
 ひなたもまたうつむき、「それは……」と口ごもっている。
 平川先生と染谷先生は低い声でいくつか言葉を交わし、頷き合う。

「矢野ひなたさん。あなたの症状は、入学時には当校で受け入れ可能と判断されたのだろうけど、現状を見て再考すべきと判断しました。この件を校長ほか教員たちと共有し、結論を出すまでの間、矢野ひなたさんには休学をしてもらいたい」
「そんな! ひなたは誰も傷つけてないんですよ。俺が手をつないでいれば、発症しても絶対に引き戻せる。これまでだってそうだった。それなのに、どうして!」

 平川先生の発言が受け入れられなくて思わず叫ぶと、染谷先生が後を継いだ。

「今はまだ傷つけていなくても、他の生徒に危険が及ぶ可能性があるのなら、私たちは教員として見過ごせないの。ひなたさん自身にとっても、誰かに危害を加えてからでは遅いわ。情報をしっかりと共有して、公正な判断を下すよう私たちも最善を尽くすから」
「だったら俺も休学します」

 自然と口を突いて出ていた。
 驚いたように目を丸くするひよりとひなたの視線を受けながら、俺は平川先生をまっすぐに見る。

「ひなたをひとりにしたら、それこそどうなるかわからない。だからひなたが休むなら、俺も休学します」
「そんなの、ユウくんじゃなくても良いじゃない!」

 叫んだのはひよりだ。ひなたは唇をかみしめ、立ち尽くしている。

「俺が嫌なんだ」 

 引き留めるかのように俺の腕にすがるひよりをそっと押しのけて、言って聞かせる。

「ひなたをひとりきりにして、その間に消えてしまったらと思うと、俺が平気じゃないんだ」

 立ち尽くすひなたの手を取り握った俺を見て、平川先生が深いため息を吐いた。

「……木許さんの休学は保留。保護者の方と話し合ってから決めるから、今日の所は帰っていいですよ」
「はい。ひなた、行こう」
「ん、うん……」

 ひなたを連れて部屋の扉に手をかけたとき。

「待ってよ!」

 駆け寄ってきたひよりが俺の腕をつかんだ。

「その女といたら、ユウくんまで危ないんだよ! 空想だとか、わけわかんない世界に連れて行かれちゃうんだよ!」
「ひより……」

 ひよりの叫びを聞いて俺は悲しくなった。
 良心の不在を寂しがる幼いひよりに、ひなたの症状を伝えたのは俺だ。
 俺の父さんから話を聞いたときは、幼すぎて理解できなかったのだろうと、できるだけわかりやすく、ひなたへの思いやりを持てるようにと、何度も話して聞かせたつもりだったのに。

「行かないでよ、ユウくん!」

 ひよりがひなたから俺を引き離そうと髪を振り乱す。

「ねえ、ユウくんがいなくたってそんなやつ大丈夫だよ! だって空想なんて、そいつが勝手に作り出してるものなんでしょう? だったら自分で空想をやめればいいのに、そうしないんだもの。それってただの構われたがりなだけで」
「ひより」
「だってそうでしょ? 頭のなかの空想をまわりにまき散らして迷惑かけるなんて、あり得ない。自分の頭のなかで生み出すのが空想なんだから、そんなものにユウくんを巻き込むほうがおかしいのに」
「ひよりッ!」

 我慢ならなかった。ひなたと俺を引き離そうとするひよりの発言に我慢がならなくて、感情のままに言葉が飛び出す。

「どんなひなたでも、手を離さないって決めたんだ! もう、決まったことなんだよ!」

 駄々をこねても変わらない。ずっと前から、幼稚園生のあのときから決まっているのだから。
怒鳴りつける形となったことでひよりは怯え、後ずさる。その身体が震えているのが視界の端に映ったけれど、俺はひなたを連れて扉をくぐった。

 ちいさくしゃくりあげるような音が聞こえたが、振り向かない。振り向きたそうに立ち止まろうとするひなたの手を引いて歩き出す背中に、追いかけてくる声は無かった。
 
 ***

 ――空想の世界を覗いているとき、ひなたの意識は現実世界にないのだからどうしようもない。だから、症状が出ているときのひなたを責めてもどうしようもない。

 足早に帰る道中、さっきのひよりの発言への反論が俺の頭のなかをぐるぐる回る。

 ――危険性があるから学校に来るなって言うなら、誰にだって危険性はあるだろ。いつどの生徒がカッとなってナイフを振り回すかなんて誰にもわからないのに。

 悶々と考え続ける俺のやや後ろを歩くひなたは、黙り込んだまま。ときおり自然をやって異変はないかと確認するけれど、今のところ落ち着いているようだ。

 慌ただしい朝の時間を終えた、そろそろ昼を迎えようという時刻。
 通学路でもある住宅街にひとの姿はない。春の陽射しにゆるゆると暖められていく空気のなか、俺とひなたは黙々と家を目指していた。

 ハルさんには学校側から連絡をとっていた。すぐには帰れないようで、迎えには行けないけれどできるだけ早く帰ると返答があったらしい。
 保健室か生徒指導室でハルさんが迎えに来るまで待つという選択肢もある、と白川には言われたけれど、断った。

 ――ひなたを危険人物扱いする場所になんて居たくない。

 言葉にはしなかったけれど、視線を合わせない俺の態度で先生も察したのだろう。今すぐ帰ります、と告げた俺たちを引き留めはしなかった。

 もしかしたら、単にひなたに早く学校からいなくなってほしかったのかもしれない。

 ――それはそれでムカつくな。

 鞄の中身は教室に置いてきてしまったけど、家の鍵や小銭の入った財布は手元にあるので、困らない。

 教員も生徒も授業中で、ほとんど物音のしない校舎に背を向けて俺たちは歩き出した。監視のつもりだろうか。校門のところまで出てきた白川が、ずっともの言いたげに見ている視線を感じていたけど、一度だって振り向かずに歩き続ける。

「あの、あの、さようならっ」

 ひなたは律儀に振り向いてあいさつをしていたけど、それに対する白川の声は聞こえなかった。もしかしたら頷いたり、手ぐらい振ったのかもしれないが、前だけを向いて歩く俺には関係のないことだ。

 さっさと学校から遠ざかりたい一心で歩く。
 苛立っているせいだろう、いつもの景色にも腹が立つ。

 見ようと思わなくとも視界に入る電信柱が、ぼうっと突っ立っているのがうっとうしい。どこかの家の塀を超えて茂る木の葉のざわめきが耳障りだ。ひなたが絡んでいたポストの毒々しい赤色が、見たくもないのにやけに目についた。

 ――いっそひどい嵐でもやってきて、みんなぐちゃぐちゃになってしまえばいいのに。

 なんて小学生みたいなこと、考えてもどうしようもない。

 実際は何も起こらず、イライラするほど平穏な春の陽射しのなかを歩くことしかできなかった。
 何を見ても聞いても陽射しの温かさにさえムカついてきたから、足元だけを見つめて歩き続ければ、すぐに家が見えてくる。いつもなら十五分ほどかかる道のりだが、脇目もふらずに進んだおかげで早く着いたらしい。

 あと十数歩で門扉に辿り着くというところで、つないだ手がくんと引っ張られた。

「ひなた?」

 振り向けば、うつむいたひなたが立ち止まっている。
 俺とひなたの間には、互いの腕を伸ばしたぶんの距離があいていた。

「ひなた、どうした?」

 家はもうすぐそこだ。
 ひなたの足が沈む様子はないけれど、動こうともしない。宙ぶらりんのつないだ手をゆすってみるけれど、動かない。

「ひなた?」

 ――はやく歩きすぎたか。疲れてしまったんだろうか。

 反応のないひなたが心配で、せめてうつむいた顔をあげてほしくて一歩近づく。
 するとひなたが一歩下がって、ふたりの間の距離は変わらないまま。

 ――なんだ?

 不思議に思ってまた一歩近づけば、ひなたもまた一歩下がる。
 もう一度、今度は大股で距離を詰めようとしたとき。

「ねえ、ユウくん」

 ひなたがうつむいたまま俺を呼んだ。

「どうしたの、ひなた」
「あのね……」

 口ごもるひなたの指が、じりじりと俺の手の中から逃げていく。

 ――どうして逃げるんだ。なんで俺から遠ざかっていく。

 じわりとにじんだ不安を押しつぶすように手に力を込めたけれど、それでもひなたの指を引き留めることはできなくて。ほんのわずかに、指先だけが俺の手のなかに残るところでひなたは手を止めた。

「ユウくんは、どうしてあたしのそばにいてくれるの?」
「どうしてって、そりゃひなたが好きだからだよ」

 唐突な問いに迷うことなく答えられたのは、からかうような学校の友たちからの言葉を幾度となく受けてきたためだろう。
 我ながら恥じらいもなく堂々としたものだ、と感心してしまう。
 けれどひなたは照れもせず、喜びもしないままちいさくつぶやく。

「ほんとに?」

 自問するような、ちいさな声。

「ほんとに、そうなのかな。ユウくん、優しいからあたしに同情してるだけなんじゃないかな」

 独り言のように言って、ひなたは「うん」と肯いた。

「そうだよ、ユウくんはあたしのこと可哀
想だと思って、それで助けてあげなきゃって思ってそばにいるの。まわりのみんなに変に思われないよう、あたしのことが好きだから、って言ってるうちにほんとにそんな気になっちゃってるだけなんだよ」

 俺を見つめているはずのひなたの視線がどこか遠かった。けれど幻想に沈む気配はなくて、ただ、俺を映すひなたの瞳には寂し気な色がにじむ。

「ひなた……」

 なんて言えば良いのか。わからなくて名前を呼んだのに、かろうじて俺の手のなかに残っていたひなたの指先がするりと抜けて、離れていく。

 俺を陽射しの中に残して、ひなたは道路に落ちた影のなかへ。
 ひっそりとした薄闇をまとい、ぽとりと落ちるように身体の横に垂らされたひなたの手が、すがる先を探すように彼女の制服のすそを握りしめるのが見えた。

「ユウくん、あたしたち一度、離れたほうがいいと思うんだ」
「ひなた、なにを言って……」

 わけがわからない。

 俺は呆然と立ち尽くすことしかできず、ひなたはただ寂しそうに笑う。
 静かな住宅街の道路では、俺たちの間に流れる気まずい空気を乱すものもない。

 ――なんで? なんでひなたはあんなことを言ったんだ? なんで、離れたほうがいいだなんて……。
 考えても考えても考えても、わからない。

 そうして俺たちは、どれだけの時間を立ち尽くしていたのだろう。

「矢野さん、木許さん!」

 まとまらない思考に翻弄されていた俺は、不意に名前を呼ばれて驚いた。振り向けば、駆けて来るジャージ姿の小野。と、そのやや後方で息も絶え絶えな蓮の姿が見えた。

「千明っち! レンレン!」

 うれしそうに笑うひなたの横顔がいつになくはっきりと見て取れる。どうしてだろう、と考えて、気が付いた。

 ――ひなたのことをこんなに離れて見るの、ずいぶんと久しぶりなんだ。

 やわらかな陽射しのなかで笑うひなたは、俺の記憶のなかにあるよりもずいぶんと大人びた笑顔をしている気がした。
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