魔女の托卵

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山道は険しく身体は重い

寝ざめの悪い朝

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「それでは、よい旅を。ね」

 明るい声が朗らかにそう言って、足音が遠ざかっていく。それを聞き取って、リッテルは外套のすき間から女の足音が向かったほうをそっと覗いてみた。

 月明りに黒くそびえる木立ちのなかへ向かう、女の後ろ姿。その全身を覆うのは布をぜいたくに使った、足首まである特徴的な服。つくべきところにむっちりと肉のついたその体にまとっているのは、あれは、修道服。

「……っ!」

 思わず外套を跳ねのけてその背に向かって駆け出そうとしたリッテルは、ライゼの腕に抱きこまれて引き留められる。

「だめだ。行くな」

 静かな、真剣な声を耳に吹き込まれてリッテルはびくりと震える。

 ―――でも、だって、村長は教会に、って。修道服を着ているなら教会のひとだもの。助けをもとめて、いっしょに村へ行ってもらわなきゃ。助けて、って言って、みんなのためにお祈りをしてもらわなきゃ。はやく、はやく!

 リッテルは、さきほどの女の視線や声に感じた恐怖など忘れて、もがいた。ライゼの腕を払いのけようと暴れ、口をふさぐ彼の手に抵抗した。
 けれど彼の力は強く、リッテルの動きなどかんたんに封じられてしまう。そのあいだに女は行ってしまう。耳が足音をとらえられなくなるとリッテルは落胆して、抵抗も忘れ体の力を抜く。

 ―――どうして。なんで邪魔するの。

 女の足音がすっかり聞こえなくなってしばらくたった、ライゼがそっと拘束を解いた。けれどリッテルはもう暴れたり大声をだす気になれなくて、ライゼの胸にもたれかかったままぼんやりとしていた。

 ―――このひとは、なにを考えてるの……。

 ライゼのことがわからなかった。

 リッテルの両親が死んでいたとき、彼はほほに血をつけて笑っていた。殺人鬼なのだと思った。
 リッテルが悲しみにくれて泣いていたとき、彼は花をくれた。やさしいひとなのだろうかと思った。
 リッテルの住んでいた村の住人がみんな死んでいたとわかったとき、彼は変わらず笑っていた。頭のおかしなひとなのだと思った。

 リッテルが両親や村のひとたちの遺体を前に途方にくれていたとき、彼はみんなのために墓を建ててくれた。みんなを殺したのは彼じゃないのかもしれないと思った。
 リッテルが異形の獣に襲われたとき、彼は傷つきながらもリッテルを守ってくれた。すなおに感謝の気持ちを抱いた。

 それなのに、教会のひとに助けを求めようとするリッテルを邪魔した。

 殺人鬼? あたまのおかしなひと? やさしい青年? それともやっぱり、怖いひとなのか。ころころと印象を変えるライゼがわからない。
 彼の目的がわからなかった。

 ―――でも、聞いてもきっとわけのわからないことを言うだけ。だったら、いまのうちに逃げてしまう? 怪我をしているから、きっと追ってこられない。だけど、またあの獣が襲ってきたら……。

 考えながら、リッテルは寄りかかっていたライゼの胸元から体を起こして彼の足に手を伸ばす。

「見せて。血がにじんでる。包帯を替えなくちゃ」

「だいじょぶだよ。これでじゅーぶん。ライゼ強い子、元気な子! 寝たら治るよ」

「そういうのいいから。おとなしくしてて」

「……はあい」

 有無を言わさず包帯を替えるリッテルに、ライゼは口先だけで抵抗してされるがままだ。

 ―――山を抜けるまで。それまでは、このひとを利用しよう。都についたらきっといい考えも浮かぶはず。やさしい誰かに相談すれば、きっとだいじょうぶ。

 ライゼの手当を終えたリッテルは、彼から離れて焚き火のそばで丸くなった。外套に包まれながらうつらうつらと考えごとをしていると、忘れていた疲れが一気にふくれあがっていく。抗いがたい眠気に襲われて、リッテルはわずかな腹の痛みを気にする間もなく、眠りのなかへと沈み込んでいった。



 とろとろとした眠気のなか、リッテルは夢を見た。

 リッテルと同じくらいの年の男の子の夢だ。
 夢のはしばしはとろけて、景色も男の子の顔もはっきりとは見えない。けれど、男の子が笑っているのはわかった。。楽しそうに走っていた男の子が、ふと振り向いてうれしそうに笑う。
 それが、大好きなひとに名前を呼ばれたからなのだと、リッテルにはわかっていた。

「×××!」

 名を呼ばれて立ち止まり、誰かを待つ男の子。その頭に大きな手が伸びてきた。そっと撫でてくれる暖かな手。夢のなかでリッテルも男の子といっしょになって幸せにほほを緩める。
 触れた手から伝わる愛おしいという気持ちが、胸を温かくする。男の子の感じる幸せが、リッテルにも流れ込んできていた。

 ―――やさしい手が頭をなでてくれている。

 そんな夢を見ていたリッテルは、ふと、下半身に不快な冷たさを感じて目を覚ました。寝ぼけたまま下半身に触れた手が、脚のあいだでぬるりとしたものに触れて眠気が吹き飛んだ。

 恐る恐る外套をずらしたリッテルは思わず「あっ」と声をこぼした。

 夜明け前のうす明るい空のしたで、淡い色をしたズボンの股の部分が、濃い濁った色に染まっている。さっきそこに触れた指さきには、暗い赤色をしたぬめりが付いている。明け方の涼やかでさわやかな空気のなかに、生臭いような不快な鉄さび臭さがにじんでいるようだった。

 ―――血だ。寝てるあいだに、こんなに出たんだ。

 身じろぎすると、下ばきが股のあいだでぬちゃぬちゃと張り付いて気持ちわるい。寝る前に替え忘れた布が血まみれになって、下衣を汚しているのだ、とリッテルは気が付いた。
 そうっと音を立てないように、ライゼが寝ているだろう場所に視線をやる。

 ―――いない。

 焚き火あとのまわりにライゼの姿はなく、彼の持っていたちいさな布袋と古ぼけた外套がぽつんと置かれていた。見えるあたりにはいないが、荷物を置いてそう遠くへはいかないだろうから、きっとふらふらとあたりを歩き回っているはずだ。

 彼がいないことにほっとして、リッテルは素早く起き上がると、荷物を漁って着替えを取り出した。いつ家に戻れるかわからないからと、多めに服を詰めてきた自分をほめてやりたい。

 着替えを持って木立ちに駆け込み、あたりをうかがったリッテルは、汚れたズボンと下ばきを脱いだ。新しい当て布を用意して汚れていない服を素早く身に着け、すっきりした気持ちになった。不快感から解放されようやくさわやかな朝にほっと息をついたとき、リッテルはふと気になることを思い出した。

 ―――あれ、昨日の夜、燃やそうとしてた当て布って、どうなったんだったっけ……?

 汚れた服をたたたみながら思い出そうとしたとき。

「おっはよー。もう起きたんだね! ライゼ、寝坊しなかったよ。えらいねえ」

「!!!!」

 元気な声が背後から聞こえて、リッテルは飛び上がりそうなほど驚いた。慌てて腕のなかの汚れた服をまるめて抱え込んだリッテルが振り向くと、手を伸ばせば届きそうなところにライゼが立っていた。
 にこにこと笑顔を浮かべたライゼは、両手に持った木の実を誇らしげに見せてくる。

「すごいでしょ! 木に生ってたんだよ。あ、ちゃんとおいしかったよ。熟れてるのを選んで取ったんだよ。ライゼは木登りが得意だものね。まるで猿みたい、ふふふ」

「……そう、すごいね」

 ほめてほめて、と言わんばかりのライゼだが、まだ動悸がおさまらないリッテルはそっけなく返すので精いっぱいだった。彼の手元を見る余裕もなくそそくさと焚き火あとのほうへ足を進める。そんなリッテルの後ろをライゼが片足を引きずりながらひょこひょこと付いてくる。

 ―――もうすこしどこかに行っててくれてよかったのに……。

 まっすぐに自分の荷物にたどり着いたリッテルは、何でもない風を装って汚れた服を布袋にねじ込んだ。

 ―――どうか気にしてくれませんように。

 祈りながらぎゅっと口ひもを縛ったリッテルがようやく振り向くと、やはりすぐ後ろに立っていたライゼがにっこりと笑う。

「ふたりでわけっこしよう! 仲良くわけっこできてえらいね、ライゼ。いい子いい子」

 笑顔で差し出された手のうえには、おいしそうな木の実が山盛りだった。もう一方の手にも同じくらいの量の木の実が乗っている。

 それを差し出すライゼは、リッテルの布袋を気にする様子も、リッテルに何か聞きたそうにしている様子もない。ただうれしそうに笑って、木の実を分けてくれようとしているだけだと確認して、リッテルはようやく肩の力を抜けた。

「……ありがとう。いただきます」

 気持ちといっしょに顔もすこし緩む。ライゼから受け取った木の実は、ほんのりと甘くてやさしい味がした。そのころには、夢で聞いたはずの男の子の名前のことをすっかり忘れてしまっていた。

 ふたりは朝食代わりの木の実を食べ終えると、日が顔を出す前にふたたび山道を進み始める。
 そこからの旅路は楽ではなかったが、淡々と過ぎていった。昨日の速度では無理が生じると学んでだリッテルは、しばしば休憩をはさむことにした。そのおかげか、大きな不調に見舞われることもなく、心配していた異相の獣と再び会うこともなかった。
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