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絶望に伸ばされた手
リッテルの選択
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「それでも、あたしはあんたなんか選ばない」
口を引き結び、言い放ったリッテルの頭には、花を差し出してくれたライゼの笑顔が、リッテルを心配して崖を飛び降りてきたライゼの姿があった。
「ほう?」
リッテルの答えを聞いたシェンダリオンが見下すような視線を寄こすが、リッテルはひるまない。拒絶の意思を瞳に込めて、冷たい目をにらみ返した。
「あなたもまた、愚か者でしたか」
ため息をついて目を伏せたシェンダリオンに、リッテルが油断をしたのは寸の間。
その一瞬で間合いを詰めたシェンダリオンは、異形の腕でリッテルの首をつかみ上げて、素早く部屋の隅へと飛び退る。
「ぐっ……」
「リッテル!」
首を締め上げられたせいで悲鳴も上げられず、恐怖や苦しさで乱れた意識にライゼの声が届く。続いて、床を蹴りつけるような鈍い音とともに小さな罵声が聞こえた。
「おっと」
「っこの!」
身体がぐわんと移動した直後、ぶおん、と空を切る音がする。攻撃をかわされて苛立ったライゼが追撃を加えようとしたそこに、リッテルは首をわしづかまれたまま差し出された。
「っく!」
リッテルを盾にされたライゼはふり抜こうとしていた拳を慌てて引きとめ、足に乗せていた体重を無理矢理に切り替えて、飛び退った。
「っあ……はっ……」
かすみ始めた視界のなか、遠ざかってしまうライゼに向かって伸ばしたリッテルの手は、後ろから伸ばされたシェンダリオンの手に絡め取られてしまう。
細く、頼りないリッテルの指に絡みつく男の指は、獣の指を生やし獣の皮をかぶっているせいだけではなく、リッテルに嫌悪感を抱かせた。自分の首を掻きむしるのも構わずに、首を握るシェンダリオンの手を必死でひっかいた。
「ふふ、かわいい足掻きですね。その程度では、傷すらつけられませんよ」
耳の後ろに熱い息を感じ、あまりの気持ち悪さに体を固くしたとき、不意に、じたばたともがいていたリッテルの足が地に着いた。次いで、狭まっていた気道が解放されて冷たい空気が一気になだれ込んでくる。
「ぅえっげほっ、ぇほ、はっはっはあっ……」
むせ返り、うずくまりそうになったリッテルだったが、倒れることはなかった。胸のあたりに回された腕のおかげだと涙のにじむ目で振り返ると、リッテルを見下ろすシェンダリオンの瞳とぶつかった。
「ひっ」
思わず悲鳴をあげてしまったが、シェンダリオンはうれしげに目を細める。その瞳には、いっそ慈愛すらにじんでいるような気がして、リッテルの肌が粟立った。
「どう足掻いても己の手から逃れられない者というのは、こんなにも愛おしいものなのですね。いまの私には、すべての愚か者がかわいく思えます。その無力さが、愛おしい」
うっとりと言ったシェンダリオンは、すぐそばで歯を食いしばりいまにも飛びかかりそうな様子のライゼにさえ、微笑みかけた。
「お前の血も飲んで、その力を私のものにしてあげようと思っていましたが、後にしておきましょう」
「なにを……」
「お前の目の前で、この娘と交わることにしました。お前はそこで指をくわえて見ていなさい」
言って、シェンダリオンは胸元に回した腕をほどき、その手でリッテルの手首をつかむ。そして、何気ない風に伸ばしたもう一方の手でリッテルの体を覆う布に爪をかけた。
布が抵抗したのはほんの一瞬。びぃっと小鳥の断末魔のような音を立てて、リッテルの胸元が露わになる。
「……っ!!」
「なにを!!」
「おっと」
リッテルが音にならない悲鳴をあげた瞬間、ライゼが怒りに目を見開いて拳に力を込めた。しかし、殴りかかる隙も与えずシェンダリオンがリッテルののどに鋭い爪を添えて、ライゼは踏みとどまる。
「私を攻撃するならば、この娘は殺しましょう。すこし惜しいですが、腹に力を宿した女ならば、また作ればよいのですから」
「くっ……」
「ふふふ、そう。それでよいのです。力を正しく使えない出来損ないは、悪態をつくことしかできないのですよ」
にらみつけるライゼを笑って、シェンダリオンがリッテルの肌をなでる。
「ひっ」
「やめろ!」
リッテルが身をすくめ、ライゼが叫ぶ。
「ふふ、ふはは、いいですね。良い演出ですよ! せいぜいそうやって吠えていなさい。吠えれば吠えるほど、私のやる気は増すのですから!」
愉快そうに笑ったシェンダリオンが見せつけるようにリッテルの胸に手を這わせた、そのとき。
どん。
鈍い音がしたのは、リッテルの後ろだった。音と同時に、いやらしく動き回っていたシェンダリオンの手も止まる。
「え?」
次に聞こえたのは、不思議そうな声。リッテルのすぐそばで聞こえたその声は、シェンダリオンのくちからこぼれたものだった。
そして、不意につかまれていた手首が解放されて、リッテルはたたらを踏んだ。
「え?」
目のまえのライゼもまた、驚いたように目を丸くしている。
何が起きたのかわからなくて、ライゼの視線を追って振り向いたリッテルは、そこにあった光景に目を見開いた。
立ち尽くすシェンダリオンの胸に、刃が生えていた。鈍い銀色をしていた刃は、赤く濡れている。そして刃のささった彼の胸には、赤黒い血がじわじわと伝っていた。
「な、にを……」
呆然と自身の胸元を見下ろしていたシェンダリオンがつぶやいた。ゆっくりと振り向いた彼の背後に立っていたのは、やせ細った男だった。かつての信者であり、死を恐れて呪われた男だ。
おぼつかない足取りで立つ男の宙で震える両手は、赤く濡れている。
「あ……ああ……」
半開きになったその口からもれるのは、痛みをこらえる声か、はたまた歓喜の声なのか。
リッテルがはっきりと聞き取るよりも早く、やせ細った男は床に叩きつけられていた。
「あっぎぃ……!」
悲鳴を上げようとしたそのくちが、横から踏みつけられてことばを失くす。
「き、さま! 貴様、ごときが! 成り損ないのくせにっ、この私に歯向かうかっ!」
やせ細った男を殴り倒したシェンダリオンは、それだけでは飽き足らず倒れた男を何度も何度も踏みつける。
「きさま、ごときがっ、きさまごときがあぁ!」
怒り狂ったシェンダリオンがぶつかるたび、そのつま先に生えた獣の爪が男の体を傷つけて、赤いしぶきが飛び散る。
ぴしゃり、ぴしゃりと床やシェンダリオンの足を汚していた血しぶきのひとつがその顔に飛んで、ほほを伝う。反射のようにぺろり、と赤いしぶきを舐め取ったシェンダリオンは、ふと足を止めてにたりと笑った。
「……喜びなさい。貴様も役に立たせてあげましょう。最後ぐらい、ね」
言うが早いか、倒れた男をつかみ上げたシェンダリオンは、その胸に指を突き入れ、引き抜いた。
ごぽり、とくちから血を吐いた男を投げ捨てたシェンダリオンが掲げた腕には、赤く脈打つ臓器。抜き取られてなお、動き続ける心臓があった。
「……!!」
あまりの光景に息を飲んだリッテルの脳裏を幾人分もの命を吸い取ったという、やせ細った男の話がよぎる。死を恐れて呪われたという男は、心臓を抜き取られて血反吐を吐きながらも、床のうえでびくびくと痙攣している。
―――死ねないの? あんなになっても、あのひとも心臓も、まだ生きてるの?
男を思ってリッテルが苦く、苦しい気持ちを覚えたとき。
シェンダリオンがぱかりとくちを開けて、脈打つ心臓に食いついた。
くちゃり、くちゃり、くちゃり。
目を細めて心臓を咀嚼するシェンダリオンの吊り上がったくちの端を赤い血が伝い落ちる。
「うっ!」
あまりにおぞましい光景に口元を押さえてうめくと、ライゼがそっと肩に手を添えてシェンダリオンから遠ざけてくれた。ふたりでじりじりと後ずさる、そんななか。
ごくり、と音を立ててシェンダリオンの喉が上下し、かみ砕かれた内臓が彼の腹に落ちた。異様に赤い舌がぺろりとくちの端をぬぐい、シェンダリオンが恍惚の表情を浮かべた、そのとき。
みしり、という音をリッテルは確かに聞いた。
それは、シェンダリオンの身体が作り変えられる音だった。
口を引き結び、言い放ったリッテルの頭には、花を差し出してくれたライゼの笑顔が、リッテルを心配して崖を飛び降りてきたライゼの姿があった。
「ほう?」
リッテルの答えを聞いたシェンダリオンが見下すような視線を寄こすが、リッテルはひるまない。拒絶の意思を瞳に込めて、冷たい目をにらみ返した。
「あなたもまた、愚か者でしたか」
ため息をついて目を伏せたシェンダリオンに、リッテルが油断をしたのは寸の間。
その一瞬で間合いを詰めたシェンダリオンは、異形の腕でリッテルの首をつかみ上げて、素早く部屋の隅へと飛び退る。
「ぐっ……」
「リッテル!」
首を締め上げられたせいで悲鳴も上げられず、恐怖や苦しさで乱れた意識にライゼの声が届く。続いて、床を蹴りつけるような鈍い音とともに小さな罵声が聞こえた。
「おっと」
「っこの!」
身体がぐわんと移動した直後、ぶおん、と空を切る音がする。攻撃をかわされて苛立ったライゼが追撃を加えようとしたそこに、リッテルは首をわしづかまれたまま差し出された。
「っく!」
リッテルを盾にされたライゼはふり抜こうとしていた拳を慌てて引きとめ、足に乗せていた体重を無理矢理に切り替えて、飛び退った。
「っあ……はっ……」
かすみ始めた視界のなか、遠ざかってしまうライゼに向かって伸ばしたリッテルの手は、後ろから伸ばされたシェンダリオンの手に絡め取られてしまう。
細く、頼りないリッテルの指に絡みつく男の指は、獣の指を生やし獣の皮をかぶっているせいだけではなく、リッテルに嫌悪感を抱かせた。自分の首を掻きむしるのも構わずに、首を握るシェンダリオンの手を必死でひっかいた。
「ふふ、かわいい足掻きですね。その程度では、傷すらつけられませんよ」
耳の後ろに熱い息を感じ、あまりの気持ち悪さに体を固くしたとき、不意に、じたばたともがいていたリッテルの足が地に着いた。次いで、狭まっていた気道が解放されて冷たい空気が一気になだれ込んでくる。
「ぅえっげほっ、ぇほ、はっはっはあっ……」
むせ返り、うずくまりそうになったリッテルだったが、倒れることはなかった。胸のあたりに回された腕のおかげだと涙のにじむ目で振り返ると、リッテルを見下ろすシェンダリオンの瞳とぶつかった。
「ひっ」
思わず悲鳴をあげてしまったが、シェンダリオンはうれしげに目を細める。その瞳には、いっそ慈愛すらにじんでいるような気がして、リッテルの肌が粟立った。
「どう足掻いても己の手から逃れられない者というのは、こんなにも愛おしいものなのですね。いまの私には、すべての愚か者がかわいく思えます。その無力さが、愛おしい」
うっとりと言ったシェンダリオンは、すぐそばで歯を食いしばりいまにも飛びかかりそうな様子のライゼにさえ、微笑みかけた。
「お前の血も飲んで、その力を私のものにしてあげようと思っていましたが、後にしておきましょう」
「なにを……」
「お前の目の前で、この娘と交わることにしました。お前はそこで指をくわえて見ていなさい」
言って、シェンダリオンは胸元に回した腕をほどき、その手でリッテルの手首をつかむ。そして、何気ない風に伸ばしたもう一方の手でリッテルの体を覆う布に爪をかけた。
布が抵抗したのはほんの一瞬。びぃっと小鳥の断末魔のような音を立てて、リッテルの胸元が露わになる。
「……っ!!」
「なにを!!」
「おっと」
リッテルが音にならない悲鳴をあげた瞬間、ライゼが怒りに目を見開いて拳に力を込めた。しかし、殴りかかる隙も与えずシェンダリオンがリッテルののどに鋭い爪を添えて、ライゼは踏みとどまる。
「私を攻撃するならば、この娘は殺しましょう。すこし惜しいですが、腹に力を宿した女ならば、また作ればよいのですから」
「くっ……」
「ふふふ、そう。それでよいのです。力を正しく使えない出来損ないは、悪態をつくことしかできないのですよ」
にらみつけるライゼを笑って、シェンダリオンがリッテルの肌をなでる。
「ひっ」
「やめろ!」
リッテルが身をすくめ、ライゼが叫ぶ。
「ふふ、ふはは、いいですね。良い演出ですよ! せいぜいそうやって吠えていなさい。吠えれば吠えるほど、私のやる気は増すのですから!」
愉快そうに笑ったシェンダリオンが見せつけるようにリッテルの胸に手を這わせた、そのとき。
どん。
鈍い音がしたのは、リッテルの後ろだった。音と同時に、いやらしく動き回っていたシェンダリオンの手も止まる。
「え?」
次に聞こえたのは、不思議そうな声。リッテルのすぐそばで聞こえたその声は、シェンダリオンのくちからこぼれたものだった。
そして、不意につかまれていた手首が解放されて、リッテルはたたらを踏んだ。
「え?」
目のまえのライゼもまた、驚いたように目を丸くしている。
何が起きたのかわからなくて、ライゼの視線を追って振り向いたリッテルは、そこにあった光景に目を見開いた。
立ち尽くすシェンダリオンの胸に、刃が生えていた。鈍い銀色をしていた刃は、赤く濡れている。そして刃のささった彼の胸には、赤黒い血がじわじわと伝っていた。
「な、にを……」
呆然と自身の胸元を見下ろしていたシェンダリオンがつぶやいた。ゆっくりと振り向いた彼の背後に立っていたのは、やせ細った男だった。かつての信者であり、死を恐れて呪われた男だ。
おぼつかない足取りで立つ男の宙で震える両手は、赤く濡れている。
「あ……ああ……」
半開きになったその口からもれるのは、痛みをこらえる声か、はたまた歓喜の声なのか。
リッテルがはっきりと聞き取るよりも早く、やせ細った男は床に叩きつけられていた。
「あっぎぃ……!」
悲鳴を上げようとしたそのくちが、横から踏みつけられてことばを失くす。
「き、さま! 貴様、ごときが! 成り損ないのくせにっ、この私に歯向かうかっ!」
やせ細った男を殴り倒したシェンダリオンは、それだけでは飽き足らず倒れた男を何度も何度も踏みつける。
「きさま、ごときがっ、きさまごときがあぁ!」
怒り狂ったシェンダリオンがぶつかるたび、そのつま先に生えた獣の爪が男の体を傷つけて、赤いしぶきが飛び散る。
ぴしゃり、ぴしゃりと床やシェンダリオンの足を汚していた血しぶきのひとつがその顔に飛んで、ほほを伝う。反射のようにぺろり、と赤いしぶきを舐め取ったシェンダリオンは、ふと足を止めてにたりと笑った。
「……喜びなさい。貴様も役に立たせてあげましょう。最後ぐらい、ね」
言うが早いか、倒れた男をつかみ上げたシェンダリオンは、その胸に指を突き入れ、引き抜いた。
ごぽり、とくちから血を吐いた男を投げ捨てたシェンダリオンが掲げた腕には、赤く脈打つ臓器。抜き取られてなお、動き続ける心臓があった。
「……!!」
あまりの光景に息を飲んだリッテルの脳裏を幾人分もの命を吸い取ったという、やせ細った男の話がよぎる。死を恐れて呪われたという男は、心臓を抜き取られて血反吐を吐きながらも、床のうえでびくびくと痙攣している。
―――死ねないの? あんなになっても、あのひとも心臓も、まだ生きてるの?
男を思ってリッテルが苦く、苦しい気持ちを覚えたとき。
シェンダリオンがぱかりとくちを開けて、脈打つ心臓に食いついた。
くちゃり、くちゃり、くちゃり。
目を細めて心臓を咀嚼するシェンダリオンの吊り上がったくちの端を赤い血が伝い落ちる。
「うっ!」
あまりにおぞましい光景に口元を押さえてうめくと、ライゼがそっと肩に手を添えてシェンダリオンから遠ざけてくれた。ふたりでじりじりと後ずさる、そんななか。
ごくり、と音を立ててシェンダリオンの喉が上下し、かみ砕かれた内臓が彼の腹に落ちた。異様に赤い舌がぺろりとくちの端をぬぐい、シェンダリオンが恍惚の表情を浮かべた、そのとき。
みしり、という音をリッテルは確かに聞いた。
それは、シェンダリオンの身体が作り変えられる音だった。
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