先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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6.あいつ、わかってる

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「ハル、今日はアルバイトだったんだ」
「うん。市街に出たからいろいろ買ってきた。成夫なりおにも頼まれていたもん、あとで持っていくと言っておいてくれよ」

 スーツでアルバイト? 美湖は眉をひそめた。いったいなんの仕事かと勘ぐってしまうが、会ったばかりの人を詮索すまいと胸の奥に押し込める。
 今日はスーツのハル君が、またあの目で美湖をじっと見据えている。

「先生、お疲れ様。どうでした」
 少し眼差しが和らいだ。
「え、ええ。思ったよりこの地区の皆さんが利用してくださって、驚いたかな」
 背が高く身体もほどよく鍛えた肉体だったせいか、ビシッと着こなしているスーツ姿は不思議と品があった。だから美湖は上手く言葉が出なくなり気圧されていた。

 その彼が片手に持っていた紙袋を愛美に差し出した。
「これ差し入れ。甘いもん」
 愛美がそれを受け取って中身を確かめる。
「わー、TAKADAの塩シュークリーム!」
「それと塩パンな。それとそろそろ先生、こういうの食べたいんじゃないかと思って、ほかにも見繕ってきた。先生とわけな」
「ありがとう、ハル!」
「じゃ、母ちゃん待ってるからこれで」
 スーツのジャケットの裾をひるがえし、颯爽と彼が去っていった。

「彼……、なんのアルバイトしてるの」
「今治の、えっと、伯父様のお仕事を手伝っている……ですね」

 また愛美が妙に口ごもったような気がした。
 親戚のお仕事のお手伝い。アルバイト。フリーターぽい、そういう暮らし方? それにしては妙にスーツを着こなしていた気がした。



 愛美が自宅へと昼休みとして帰宅。美湖は広いダイニングキッチンでひとり食事を取る。
 ハルがもってきてくれた袋を開けると、焼きたてのパンがいっぱい入っていた。

「おいしそう!」

 そうだ。横浜にいたら思い立ったら素敵ベーカリーに行くことが出来た。いまは……、そこまで考える余裕もなかったけれど、冷蔵庫にあるものしか食べていない。島のどこにベーカリー的なものがあるのかも把握していない。
 それでも、おいしいと言われている冷凍クロワッサンが冷凍庫に入っていたから今日まで食べていたけれど。やっぱり焼きたてのパン屋のパンは格別。

 ブルーベリーとクリームチーズがたっぷり乗っているデニッシュパンやオレンジピールの香りがするマフィン、愛媛発祥と言われている塩パンに、甘い匂いがする食パンまであった。しかも、珈琲店のカップ用ドリップ、デカフェコーヒーまで入っていた。さらにさらに、おやつには『シュークリーム』! 塩シューなんてどんな味、早く食べたい!

 あいつ、わかってる。
 デニッシュをかじり、香り高いコーヒーを入れながら美湖は唸った。

 なのに翌日に見たハルは、またいつものラフなティシャツと短パンの島男姿に戻っていて、軽トラックに乗ってどこかにでかける姿しか見なくなる。
 アルバイトって不定期? 親戚の仕事だから気楽にやっているアルバイト? それがない間は島でなにしているのか。よくわからない暮らしぶりだった。



◆・◆・◆



 恐ろしく、順調だった。

 晴天の日々が続き、爽やかな風。でもあの甘い香りがなくなってしまった。
 同時に、雨が続くようになる。梅雨入りだと聞いた。
 二階の部屋から見える海の色がくすみ、白波がたち荒れ模様の日々が続く。

「最近、人が少ないわね。徒歩の人が多いみたいだから、この天気だと出づらくなるのかな」

 閑散とした診療時間を持て余しながら、美湖がそういうと薬剤を点検している愛美も溜め息をついた。

「そうですね。梅雨明けまでしばらくは、こんな状態かもしれませんね。それに、最近、この季節でも台風がくるようになったから、港周り、船持ちのおうちはそちらで大変なんですよ」
「ああ、そうなるのか。海がくすんでいると、こっちも気分が曇っちゃうね」
 溜め息混じりに言うと、愛美がくすっと笑った。
「え、おかしいこといった?」
「いいえ~。美湖先生、半月たらずですっかり海を気に入ってくれたんだなあと思って」
「そりゃあ、あんな綺麗な海が毎日窓から見えたら、荒れている日はがっかりするわよ」

 そして、蜜柑の花の匂いがなくなったのも残念に思っていた。
 凄く贅沢な季節にこの島に来てしまったと思っていたほどだった。初めての島の記憶がその花の匂い。一年に一度しか嗅げない匂い。
 愛美は『また来年も咲きますよ』なんて言ったが、それこそ島民の感覚だと美湖は思った。島の外から来た人間としてはその来年があるかどうかわからないのだから。
 島の外から来た人間の当たり前と島民の当たり前。そこに密かに隔たりを感じるのはこんな時かと美湖も時たま感じるようになった。

 受付カウンターにある電話が鳴り、愛美が取りに行った。

「美湖先生。中央病院にいる吾妻先生からです。そちら内線通しますね」

 デスクにある電話が鳴り、美湖はそれを取る。

『おう、相良。なにごともなく順調のようでなにより』
「おかげさまで、なんとかこなしています。私が来るまで、吾妻先生が十二分に準備してくださっていたおかげです」

 ほんとうにそう思っていた。綺麗にリフォームされた自宅兼診療所の過ごしやすさも、そして、どの島民も『吾妻先生が推薦した女医さん』と理解してくれていて、すんなりと美湖を受け入れてくれたのも、吾妻が美湖を呼び寄せることを想定した尽力のおかげだった。

『おまえ、そろそろ食いもん大丈夫か』
 それには美湖も額を抱えて唸ってしまう。
「あの、商店街とやらがそちらの裏側の港近くにあって、しかも十八時で閉まってしまうのなんとかならないんですかね」
『日曜と午後休診の日を上手く使って買いだめしろと言っておいただろ』
「車のナビどおりに運転していたら、すっごい山奥みたいな、蜜柑ばっかりの段々畑の行き止まりにあったんです。そちらまで辿り着けないんですけれど」
『はあ? おまえ、そんな方向音痴だったか』
「方向音痴ではありません」

 いや、若干そうかもと思いながらも否定しておいた。

 お向かいのハル君が準備してくれた食材もそろそろ尽きそうになって、美湖もようやく買い物に行こうと行動を起こしてみた。
 だけれど『午後休診』は往診にあてることにしているから、帰ってきたら時間がないこともある。日曜の休診日も、ことごとく『先生、診てください。来てください』と急患が入り、診察したり往診に行くこともあった。

 ほっとひといきついて車を出してみれば、道が分からない。ちょっとした脇道に入ると鬱蒼とした森林、いや密柑山に入ってしまい、ほんとうにこの道を抜けたら向こうの港に着くの? 中央の町にたどり着くの? と恐ろしくなって引き返すともう時間がなくなっている。

 吾妻が連れてきてくれた道をそのとおりに進んでいるはずなのに、違う景色に出会ったように思えてわからなくなる。そうしてこの半月、美湖は買い物に行けずにいた。

『いいか。明日、午後休診だろ。マナちゃんを隣に乗せて買い物しておけ』
「そうします。愛美さんにも相談していたところでした」
『そうか、それなら安心だな。ああ、そうだった。連絡したのはな、俺、明日から神戸の学会に行くんで中央病院を留守にするんだ。なにもないとは思うが、まあ、そのつもりでよろしく』
「わかりました。お気をつけて」
『なんか、嫌な予感がするんだよな』
 そうですか? と美湖は首を傾げたが、吾妻が気になることを呟いた。
『海の色とか波の立ちかたな。こんな時は島を出て行きたくなくなる』
 美湖はなにも言い返せなかった。ちょっと驚いた。まるでもう島民のような言い方と感覚だと思った。二年もいるとそうなるのかと感じたほど。

 定期的に外部との情報交換なども出掛けているようで、吾妻も久しぶりに本州へ行くという。

 電話を切って、美湖も処置室の窓から見える海へと振り返る。
「愛美さん。明日の買い物、よろしくね」
「先生とお買い物、楽しみです。島のお店、いろいろ紹介しますね」
 ちょっと美湖と歳は離れているけれど、そこは女の子同士。島に来てもこういう楽しい女子との時間をもてるとはおもわなかった。そこも吾妻先生に感謝。


 その夜も海の波はざわついていた。風も少し強い。
 翌朝、診療を開始する時間になると、ハルがやってきた。
 外はもう雨が降っていて、風もある。ウィンドブレーカーやレインコートを羽織った姿で、彼がまた遠慮もなく診察室のドアを開けてやってきた。

「センセ、台風予報が来てるんで、ちょっと気になるところ補強しておくから。外で音がするかもしれないけれど気にしないで」
「え、そんなこと……してくれるの」

 さらに、リフォームしたばかりなのに、気になるところってなに――と住み始めたばかりのため不安になる。
 しかも晴天の時は穏やかな窓辺で気分も良くなるが、昨夜から徐々に荒れてくる海の音が思った以上に近くて、初めて海を怖いと思っていたから余計だった。

 それでもハルはそのままいつもの素っ気ない顔で行ってしまった。
 なんで、この家のことあれこれしてくれるんだろう? ものすごく気が利くし、気をつけてくれているのを感じずにはいられない。美湖は初めて不思議に思っている。
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