先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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9.嵐の夜、急患あり

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 医師の予感、当たった!

 早めの入浴を終え、それでも美湖は診察室で医療書などを読んでいた。
 時間は22時。窓は激しい風が叩きつけ、うねる波の音も聞こえる。
 テレビの天気予報で、高知沖に台風が来たと云っていた。その影響で愛媛地域も暴風雨になっている。

 松山市街と直結している東の港、そして、島の山を越えて美湖がいる西側の港。山のトンネルを抜けると近道。その比較的新しい道がいま通行止めになっている。東側の市街コースのフェリーも、西側の諸島を結ぶフェリーも運休状態。

 向かいの家が一段敷地が高かったのは何故か、少し解った気がしてきた。
 この家、大丈夫だよね。高潮てここまで来ないよね、だからここに集落があって残っているんだよね。そんなことが頭に過ぎった。

『先生!』
 診療所玄関からそんな声、聞いたことがない男の声だった。
 診察室から白衣のまま出てみると、雨合羽姿の男たちが数人、担架に人を乗せて駆け込んできた。

「先生! 船上で胸打ってから苦しんでるんだ!」
 五十代ぐらいの男性がまず叫んだ。
「わかりました。こちらの処置室の寝台まで運んでください」
 男たちが雨合羽を濡らしたまま、担架に乗っている男性を診察室と隣接している処置室に運んだ。

 男たちに指示をして、寝台に患者を乗せてもらう。
 聴診器を首にかけた美湖は、駆け込んできた男たちをひと眺めする。見知った男が誰もない。
 苦しそうに顔を歪めている男性の顔を確認する。あちこちを触診して、ほんとうに胸を打っているか確認する。

「この男性の名前、教えてください」
 運んできたリーダーらしき五十代の男性が答える。
成夫なりお。小嶋成夫や」
 その男性がさらに付け加えた。
「マナの兄貴だ」
 さすがに美湖も一瞬、息が止まる。

「愛美さん? 仙波愛美さんの?」
「ほうや、ここで看護師しとるやろ」
「わかりました。あと、どのような状況から、このように苦しみ始めたかわかりますか」

「船を守るために、嵐の前にロープなどで固定するんじゃが、成男の船がそれが上手くいってなかったようで、思った以上に揺れて他の船にぶつかりそうになった。それを直しに行こうと船に飛び乗ってきちんと修復したんじゃが、高波が来て甲板で転げた。そんとき、倒れる前に船端のポールで打ったとか言ってた」

 男性がふりかえり、後ろに控えている若い男たちに『ほうやったよな』と確認をした。男たちが揃って頷いた。

「救急に連絡したんじゃけど、やっぱこの雨で回り道になると言われた。中央病院から、この診療所に運べて言われて連れてきた。先生、なんとかなるんかね。ここで!」
 落ち着いているように見えて、その男性が最後に険しく声を張り上げた。
「いま、確認します」
 聴診器を耳に当てた時、先ほど、美湖が確かめたかったその顔が急にドアの向こうに現れた。

「成夫が倒れたって、ほんとか!」
「ハル、やっときたか!」
 誰が誰だかわからない状況の中、やっと知っている人間が現れる。
「岡ちゃん、悪い。母ちゃん見ていたから」
「そりゃ、かまんけどよ!」
 そのハルがすぐに美湖を見た。
「センセ。マナ、呼んだ方がいいよな」
「お願い。彼女のお兄さんらしいけれど、呼んで」
 わかった。彼がすぐにスマートフォンを耳に当てた。

 港の男たちが言うとおり、胸に打撲痕を確認。
 美湖は聴診器で胸の音を確認する。
 なのに、『岡ちゃん』と男衆が急に落ち着きをなくして、美湖につっかかってくる。

「先生、今日、吾妻先生がおらんのやろ。もし、ここで出来んことやったらどうしたらええ!」
「ほうじゃった、それに、トンネル道も遮断されたままや!」
「この雨風じゃ、ヘリ無理やろ! どうすればええんや。救急艇も怪しいで!」
 その先の不安が募ってきたようだったが、美湖は顔をしかめる。
「静かにしてください。胸の音が聞こえない!」
 美湖の一喝で男たちがシンと静まりかえる。

 聴診器を当て、胸部数カ所の音を確認する。
 美湖は聴診器を外す。

「気胸だ」

 愛美がまだ来ないため、一人で血圧を確認、さらにレントゲン撮影の準備をする。

「美湖先生! いま来ました」
 愛美が来た。だが、彼女は寝台にいる男を見て顔色を変えた。
「お兄ちゃん!」
 駆け寄るその姿はナースではなく、家族、妹の姿そのものだった。

 それでも美湖は指示をする。
「ショック状態になっている」
 美湖は処置室の棚へと一人向かう。そこにある手術用の手袋を急いではめる。
「ドレナージするから準備して、愛美さん」
 しかし愛美は兄にすがりついたままだった。そう、医療従事者は肉親のオペには携わらないほうがいい。いまそれにあたるのだと美湖は判断する。
 それもしかたがない。美湖はひとりで器具の準備を始める。

「いえ、先生。私、やります。大丈夫です」

 気持ちが落ち着いたのか、愛美が棚の扉を開ける。これまで美湖を頼もしくサポートしてくれた愛美の横顔に戻っている。

「レントゲン、確認した。肺尖は鎖骨の上に見えたからそれほど肺は潰れていない軽度。たぶんドレナージだけで、あとは様子見になると思う。でも、ここでは入院できない。処置後に手配して」
「はい」
 ナースだけあって、気胸がどのようなものか理解しているぶん、逆に愛美も落ち着いてきた。

「愛美さん、お兄さんはおひとり? ご両親は?」
「近所に一緒に住んでいます。両親にも連絡しました。直に来ます」
「搬送時に付き添い、出来るよね。搬送時間、わかる? 近道のトンネル道、いま使えないんだよね」
「付き添い、出来ます。搬送は、ここ診療所から港病院まで、海周りで30分です」
「わかった。ドレナージが終わったら搬送しよう」

 愛美がオペ用の器具を兄のそばへと準備しているその傍らで、美湖は固唾を呑んでいる男たちを見据えた。

「胸を打ったことで、肺から空気が漏れています。その漏れた空気が胸部を圧迫しています。空気を抜くための処置をします。その後、搬送が必要です。手配、お願いできますか」
「わかった。港病院で大丈夫って先生は判断した。それで、ええんやな」
 岡氏の再確認に美湖は頷く。
 男たちが『よっしゃ』と、まるでもう解決出来たとばかりに明るく叫んだ。
「早く手配してください」
「わかった」
 岡氏が受付の電話へと走ってくれる。

「酸素も準備して」
「はい」

 愛美も私服のまま、落ち着いて行動している。それでも酸素の準備をしながら『兄ちゃん、大丈夫やけんね。美湖先生がしてくれるけん。ちょっとの我慢やから』と話しかけている。

 美湖も彼女の兄が着ている服を脇下で切り開く。イソジンのボトルを傾け消毒。
「先生、準備できました」
 愛美が横についた時点で、美湖も頷く。
「メス」
 手を出すと、息が合ったように愛美がそこにメスを差し出してくれる。
 処置室の入口から男たちの目線。それに美湖は気がつく。その時、ハルと目が合ってしまった。

「愛美さん、処置室のドア。閉めて」
 メスを受け取ってすぐ、愛美も気がつき男たちの目線を避けるようドアを閉めてくれた。
 愛美が戻ってきて、再度脇下に集中する。刃先を脇下、胸の横に当て切開。
「ペアン」
 切開したそこを器具で開く。慎重に差し込み、胸膜まで……。
「空気、出た。チューブを」
 胸の空気を出すための管を挿入する。
 患者の容態が落ち着いたのを、ナースの愛美が確認し、彼女もやっとほっとした顔になる。
「美湖先生……、ありがとうございました」
 ありがとうと言われることがないよにするのが……。そういう諍いを日中に晴紀としたことを思い出してしまった。

「ううん……。出来ることしただけ。重度の気胸ではなかったみたいで良かったね」
 自分でそう言えて、受け止められて。美湖はここで初めて、あの時、あの小さい空君に素直に微笑んでおけば良かったと後悔していた。
「もし、相良先生が……こっちの西側にいなかったら……大変だったかも。吾妻先生、今日は留守だったし……」
 愛美も同じだった。空君ママと同じ、差し迫った表情に崩れた。

「あとは搬送だね。この暴風雨の中、海沿いの道、ほんとうに大丈夫?」
 それでもこの状態なら、この診療所に雨風が収まるまで置いていてもいいかもしれないと、美湖も幾分かほっとした。
『先生! 成夫の親が来た!』
 岡氏の声が聞こえると、愛美がすぐに処置室のドアを開けて両親を呼んだ。

「成夫!」

 愛美の両親も驚いた様子で、処置室に駆け込んできた。
 それでも、苦しそうだった表情が和らいでいる。それだけで、愛美のご両親が安心し、それでも母親は泣き崩れている。

「お父さん、お母さん。大丈夫だよ。相良先生が処置してくれたから、あとは中央病院に入院して経過確認するぐらいだから」

 ナースである娘からの説明で、ご両親もさらに安心したようだった。そのご両親がまた美湖へと揃って頭を下げてくれる。

「先生、相良先生。ありがとうございました」
「ほんとうに、この診療所があって……。先生が来てくださっていて、ほんとうに良かった。ありがとうございます」

 それにも美湖は素直に一礼をして受け止める。

「まだ油断は出来ませんが、重度のものではなく良かったです。港病院に引き継ぎます」

 吾妻以外の内科医がいるはずだから、大丈夫だろう。なんとかなりそうだった。
 そうしてひと安心した途端だった。

 また診療所の入口が騒がしくなる。

「先生、また急患や!」

 今度はもっと騒々しい。だが、診療所の入口に現れたのは男性二人。

「こっちの診療所が近かったけん、連れてきた」

 足をだらんとさせて歩行ができない中年男性を、また初老の男二人が担いで連れ込んできた。
 二人とも作業服、ヘルメットをかぶっている。

「そこの道の復旧工事しよったんやが、重機が倒れて、こいつ足を挟まれよった。でも意識あるんよ。なんとかならん!?」

 しかし、美湖もひと目見て息が止まる。そして、密かに愕然とする。これは一筋縄では行かない損傷、出血量だとわかったから。

 それでも美湖は『処置室へ』と促した。
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