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18.晴紀のこと、知っている?
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俺が今治から帰ってくるまで、考えておいて。
ハルが海上に船で行こうと誘ってくれた。
返事はまだしていない。また十日ほど、今治の伯父と従兄と仕事をすると島を出て行った。
水着なんて、あるか! もう何年も着ていないから!
濡れてもいいラフな服で行ってもいいかとハルに再度確認すると『ダメ』と言われた。『私の水着姿が見たくて言ってるの』と真顔で聞くと『そんなんじゃない』とまた怒り出した。
とにかく水着を着てこいと言われる。めんどくさいからやめようかと思ったけれど、なんとなく……。せっかく瀬戸内海に出てきて海に出たことがないのももったいないと思ったり、なによりも……。『商船会社にいた男が操縦する船』の興味が湧いた。
ハルの過去の片鱗が見られる気がして。
そんな気持ちになった自分はいったいなんなのだと思っている。
美湖はまだ目の当たりにはしていない重見母子の苦悩。でも、島に来てそろそろ三ヶ月。診療所で様々な島民を診て、往診でそれぞれの家を訪ね、またはたまにいく商店街での挨拶など。島の空気、人の声で、島民が暮らす事情を肌で感じるようになってきた。
やはり『重見親子』のことは、それとなく腫れ物扱いで遠巻きに見ているんだと。いま美湖のいちばん近しい存在である重見親子のことは、決して誰も話題にしない。それでも伝わる空気がある。
『晴紀君がよくしてくれるみたいね』とか『清子さん、元気になったみたいでよかったのう』と当たり障りないことを口にする人々のその表情が、美湖の反応を窺っているとわかる。
それはもしかすると、美湖が『ハルの噂』を聞く前から見せていた様子だったのかもしれない。美湖も知らないから気がつかず、でも『噂』を聞いてしまったから気になるようになったのかもしれない。
晴紀も清子もいちばんどん底だった辛い時期に、母子で支えてきたに違いない。辛いことは辛いままにして、出来るだけのことで立ち上がってきた三年間だったのではないだろうか。
ハルが留守の間も清子がかいがいしく世話をしてくれたり、おいしい料理や季節の食べ物でもてなしてくれると、彼女だって前の自分に戻ろうとしているのだと美湖は感じている。息子の晴紀だってそろそろお母さんにべったりばかりでもいけないのではないかと思い始めていた。
ハルが誘ってくれたから行ってみよう。なにか彼なりの美湖に伝えたいことが海にあるのかもしれない。そう思えてならず……。
庭のバラと紫陽花、そしてリビングにかけられた『よしず』には、若紫色と瑠璃色の朝顔のが巻き付いて涼しげ。
薄暗くなるリビングだったが、強い陽射し除けにはちょうどよく、よしずには夏の花、向こうには瀬戸内の青い海が見える。
ダイニングで清子がつくったおいしい昼食をいただき、いつもの季節のフルーツや清子特製のところてんに黒蜜をかけて食べたり……。瀬戸内の食生活を満喫。
「ごちそうさまでした。まさか、手作りのところてんが食べられるとは思っていませんでした」
「よろこんでいただけて、作りがいがあるわ。晴紀なんて、当たり前の顔で食べるのよ」
「それはもう、お子様の頃から馴染んでいたからでしょうね。それに子供ってきっとそうですよ。私も実家のことあまり考えていませんでしたが、瀬戸内の島に来ることになって母があんなに心配してくれるだなんて思っていませんでしたから……」
「横浜ならいつだって会えるとお互いに思っていたのでしょうね。それが海を渡らなくてはこられない遠い西の島ですもの。それは心配しますよ」
清子さんも晴紀君が東京にいる時はそうだったんですか――と、喉元まで出掛けて、美湖は慌てて飲み込んだ。
少し前ならば、きっと平気に聞いていたと思う。知らなかったから。
でもきっと。東京の商船会社を辞めたその理由を清子は絶対に思わずにいられなくなる。そう思って慌てて口をつぐんだ。
「ほんと、美湖先生のご実家から送られてきたお茶、おいしい」
美湖が水出ししている冷茶を、今日もおいしそうに飲んでくれている。その笑顔に曇りはない。そのままでいて欲しくなる。
「それでは。午後の診療に行って参ります」
「いってらっしゃいませ。相良先生」
そうして丁寧に送り出してくれるのも、美湖には嬉しいことだった。
◆・◆・◆
その日の夕、診療時間を終え、愛美が帰宅してから一人で診察室と受付の点検をしていると『お疲れ様です』とナース姿の女性が訪ねてきた。
吾妻の恋人、河野早苗だった。
「河野さん。お久しぶりです」
「お疲れ様です。相良先生。吾妻に頼まれたものをお届けにきました」
論文で使いたい書籍に資料だった。吾妻が届けに来てくれると思っていたので意外だった。
「ありがとうございます。わざわざお届けてくださって――」
美湖に負けず、仕事の時はあまり笑わない女性だった。
もうこれが初めての対面でもなかった。島に来てから美湖も東港の中央病院のスタッフと顔合わせをする機会があった。その時に、吾妻に紹介されて『先輩の恋人と、恋人の後輩』としての挨拶も済ませていた。
だが素っ気ないものだった。彼女が美湖に対してまだ警戒していると感じていたから。
今日も吾妻と美湖を会わせないために? もしかして彼女から届けに来たのだろうかと勘ぐってしまう。
「先生。いまお一人ですか」
「はい。愛美さんも帰宅しましたよ」
彼女が待合室を眺める。
「今日はハルはいないみたいですね」
何故、ここで晴紀のことを口にしたのか。今度は美湖が警戒する。
「今治の伯父様のところに出掛けています」
「清子さんもいまは向かいの自宅に?」
「はい……、そうですよ」
歳は美湖より少し年上の三十六歳。中学生の子供がいるようにはみえず、大人の女性の落ち着きが窺える。そして診療所の窓から差し込む夕陽があたる肌と瞳は綺麗で、色香があった。
「先生、なにかお困りのことはないですか」
その美しい瞳が美湖を見た。そしてその問いが、美湖がいま『嫌な噂』をどうしようもなく飲み込んでいることを直撃する。それが美湖が『困っている』ことだと。
「いえ、特にはありません。皆さんが良くしてくださるので、思った以上に暮らしやすいです」
そんな簡単には聞けないことだった。それにまだ彼女のことをよく知らない。彼女がハルや愛美に慕われている、島民に信頼されているナースであったとしてもだった。
だからなのか。彼女はまだ静かに美湖を見ていた。
「晴紀のこと、もう聞いてしまった……のですね」
年上の女性だから? 見抜かれていた。わりと平然を装ったつもりだったのに。
ハルが海上に船で行こうと誘ってくれた。
返事はまだしていない。また十日ほど、今治の伯父と従兄と仕事をすると島を出て行った。
水着なんて、あるか! もう何年も着ていないから!
濡れてもいいラフな服で行ってもいいかとハルに再度確認すると『ダメ』と言われた。『私の水着姿が見たくて言ってるの』と真顔で聞くと『そんなんじゃない』とまた怒り出した。
とにかく水着を着てこいと言われる。めんどくさいからやめようかと思ったけれど、なんとなく……。せっかく瀬戸内海に出てきて海に出たことがないのももったいないと思ったり、なによりも……。『商船会社にいた男が操縦する船』の興味が湧いた。
ハルの過去の片鱗が見られる気がして。
そんな気持ちになった自分はいったいなんなのだと思っている。
美湖はまだ目の当たりにはしていない重見母子の苦悩。でも、島に来てそろそろ三ヶ月。診療所で様々な島民を診て、往診でそれぞれの家を訪ね、またはたまにいく商店街での挨拶など。島の空気、人の声で、島民が暮らす事情を肌で感じるようになってきた。
やはり『重見親子』のことは、それとなく腫れ物扱いで遠巻きに見ているんだと。いま美湖のいちばん近しい存在である重見親子のことは、決して誰も話題にしない。それでも伝わる空気がある。
『晴紀君がよくしてくれるみたいね』とか『清子さん、元気になったみたいでよかったのう』と当たり障りないことを口にする人々のその表情が、美湖の反応を窺っているとわかる。
それはもしかすると、美湖が『ハルの噂』を聞く前から見せていた様子だったのかもしれない。美湖も知らないから気がつかず、でも『噂』を聞いてしまったから気になるようになったのかもしれない。
晴紀も清子もいちばんどん底だった辛い時期に、母子で支えてきたに違いない。辛いことは辛いままにして、出来るだけのことで立ち上がってきた三年間だったのではないだろうか。
ハルが留守の間も清子がかいがいしく世話をしてくれたり、おいしい料理や季節の食べ物でもてなしてくれると、彼女だって前の自分に戻ろうとしているのだと美湖は感じている。息子の晴紀だってそろそろお母さんにべったりばかりでもいけないのではないかと思い始めていた。
ハルが誘ってくれたから行ってみよう。なにか彼なりの美湖に伝えたいことが海にあるのかもしれない。そう思えてならず……。
庭のバラと紫陽花、そしてリビングにかけられた『よしず』には、若紫色と瑠璃色の朝顔のが巻き付いて涼しげ。
薄暗くなるリビングだったが、強い陽射し除けにはちょうどよく、よしずには夏の花、向こうには瀬戸内の青い海が見える。
ダイニングで清子がつくったおいしい昼食をいただき、いつもの季節のフルーツや清子特製のところてんに黒蜜をかけて食べたり……。瀬戸内の食生活を満喫。
「ごちそうさまでした。まさか、手作りのところてんが食べられるとは思っていませんでした」
「よろこんでいただけて、作りがいがあるわ。晴紀なんて、当たり前の顔で食べるのよ」
「それはもう、お子様の頃から馴染んでいたからでしょうね。それに子供ってきっとそうですよ。私も実家のことあまり考えていませんでしたが、瀬戸内の島に来ることになって母があんなに心配してくれるだなんて思っていませんでしたから……」
「横浜ならいつだって会えるとお互いに思っていたのでしょうね。それが海を渡らなくてはこられない遠い西の島ですもの。それは心配しますよ」
清子さんも晴紀君が東京にいる時はそうだったんですか――と、喉元まで出掛けて、美湖は慌てて飲み込んだ。
少し前ならば、きっと平気に聞いていたと思う。知らなかったから。
でもきっと。東京の商船会社を辞めたその理由を清子は絶対に思わずにいられなくなる。そう思って慌てて口をつぐんだ。
「ほんと、美湖先生のご実家から送られてきたお茶、おいしい」
美湖が水出ししている冷茶を、今日もおいしそうに飲んでくれている。その笑顔に曇りはない。そのままでいて欲しくなる。
「それでは。午後の診療に行って参ります」
「いってらっしゃいませ。相良先生」
そうして丁寧に送り出してくれるのも、美湖には嬉しいことだった。
◆・◆・◆
その日の夕、診療時間を終え、愛美が帰宅してから一人で診察室と受付の点検をしていると『お疲れ様です』とナース姿の女性が訪ねてきた。
吾妻の恋人、河野早苗だった。
「河野さん。お久しぶりです」
「お疲れ様です。相良先生。吾妻に頼まれたものをお届けにきました」
論文で使いたい書籍に資料だった。吾妻が届けに来てくれると思っていたので意外だった。
「ありがとうございます。わざわざお届けてくださって――」
美湖に負けず、仕事の時はあまり笑わない女性だった。
もうこれが初めての対面でもなかった。島に来てから美湖も東港の中央病院のスタッフと顔合わせをする機会があった。その時に、吾妻に紹介されて『先輩の恋人と、恋人の後輩』としての挨拶も済ませていた。
だが素っ気ないものだった。彼女が美湖に対してまだ警戒していると感じていたから。
今日も吾妻と美湖を会わせないために? もしかして彼女から届けに来たのだろうかと勘ぐってしまう。
「先生。いまお一人ですか」
「はい。愛美さんも帰宅しましたよ」
彼女が待合室を眺める。
「今日はハルはいないみたいですね」
何故、ここで晴紀のことを口にしたのか。今度は美湖が警戒する。
「今治の伯父様のところに出掛けています」
「清子さんもいまは向かいの自宅に?」
「はい……、そうですよ」
歳は美湖より少し年上の三十六歳。中学生の子供がいるようにはみえず、大人の女性の落ち着きが窺える。そして診療所の窓から差し込む夕陽があたる肌と瞳は綺麗で、色香があった。
「先生、なにかお困りのことはないですか」
その美しい瞳が美湖を見た。そしてその問いが、美湖がいま『嫌な噂』をどうしようもなく飲み込んでいることを直撃する。それが美湖が『困っている』ことだと。
「いえ、特にはありません。皆さんが良くしてくださるので、思った以上に暮らしやすいです」
そんな簡単には聞けないことだった。それにまだ彼女のことをよく知らない。彼女がハルや愛美に慕われている、島民に信頼されているナースであったとしてもだった。
だからなのか。彼女はまだ静かに美湖を見ていた。
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