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20.吾妻先生の本気
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早苗の女性としての本心をダイニングで聞いてみる。
それでも彼女が何度も言うのは『本当に好きなの。だから泣きたくなる』だった。
いつものつめたい静岡茶を彼女に差しだし、美湖も向かいの椅子に座って落ち着く。
そんな早苗に、美湖は言ってみる。
「吾妻先生。寂しがりやだと思うんですよね」
彼女が冷えたガラスコップを手にして、お茶をひとくち。ほっとした顔になり涙が止まったようだった。
「そうでしょうね。だから……、島にいる女だから、ただその時、目の前にいたから手を出しただけ。横浜に戻ったらもう……」
その気持ちも女としてわかる。そしてこの隔離した島に長年住んでいたら、都市部に出るのは勇気が要ることだろう。
「でも。吾妻先生が二度離婚した様子を見てきた後輩としてはですね……。思うんです。吾妻先生は寂しがりやだけれど、その寂しさの穴もひとつだけで、それを埋められる女性が一人いれば先生は幸せ。ただ、家を空けることが多いし不規則になることもある。自分がいない間もきちんと待っていてくれて、帰ってきたら迎えてくれる。それだけでいいのに、それが通じあわない。そういう結婚生活でしたよ」
早苗さんは自信あるのだろうか。そういう生活。美湖はそう言いたくなったが聞ける訳もなかった。そこは吾妻と早苗、当人同士の問題。
「私はナースです。吾妻先生が仕事ならば待てます。逆に私だって……、ナースを続けながら……、彼とつき合えているのはやはり彼が医師だからだと思ってる」
「そうなんですよね。私もびっくりしました。吾妻先生、ナースの女性は極力避けていたみたいだったので。院内でごたごたになるのとか、仕事に差し支えるから『若い時に懲りた』と言っていたんですよね……」
あ、いけない。奥様以外の女性のことを口にしていた。しかも同業者のナースと遊んだ過去があることも言ってしまったと美湖ははっと我に返る。
でも早苗はさすが大人の女性なのかそこは平然としていた。
「私は絶対に職場では恋仲であることは匂わせたくありません。吾妻がふざけてきたら、二日は家に入れない」
おー、すごい。きっぱりしてる! 恋にほだされて崩れてしまう女では、院内恋愛はたしかに成り立たない。
そして美湖は『いつもの調子でうっかりふざけて、大好きな彼女の家に二日も入れずしょんぼりしている先輩』が浮かんでしまい、にやりと笑ってしまった。
「それ、吾妻先生には効果覿面ですね」
美湖が笑うと、やっと早苗が笑顔を見せてくれた。
「吾妻も……、息子も……、私も……二日が限界だっただけよ」
「わー、なにげに惚気てくれますね。吾妻先生が息子さんをとても可愛がっているのも目に浮かびますよ。子供も大好きなんです。だから……、先生は……家庭がずっと欲しかったんだと思います」
美湖なりの吾妻にあるだろう気持ちを伝えていいものかと思ったが、それが研修医のころから付き合いがある先輩の姿だと思っている。
「息子も父親がいないまま育ったから、あのように理想的なお父さんが出来たこと喜んでいるんです。別れたら、私もだけれど……、きっと息子が哀しむ……」
「それならば。もう少し話し合ってみてはどうですか。なによりも島で息子さんの子育てを続けたいのなら、それもお話するべきですよ。……あ、申し訳ないです。第三者が簡単に言うみたいで……」
早苗が首を振って、ゆるく微笑んでいる。
「いいえ……。誰にも相談できなかったんです。相良先生に会う機会もなかなかなくて、いつも吾妻がそばにいるものですから」
またなにげに惚気ているなと、逆に微笑ましくなってくる。それで吾妻が届けるはずだった資料や書籍を、彼女が自分が届けると言って持ってきてくれたんだと思った。
「先生、唐突に申し訳ありませんでした」
「やめてくださいよ。早苗さんのほうが、私より大人で、島でも先輩ですよ」
「でも……。吾妻先生が、相良先生のことはとても信頼しているようだったので。あの人、付き合いは広いけれど、本心を見せるようなこと、本音を言わせるようなことはあまり見せない人です」
確かに、飄々としていて胡散臭いのは否めないと美湖も頷く。
「その吾妻先生が、結婚する時に奥様を紹介するほどの後輩はあなただけだったようなので……。女性として見ていないけれど、妹のようにかわいがっていて、それで診療所も任せるならあいつだと言いきっていて。私のような駄目な男に簡単にひっかかって離婚歴もあって、ずっと島にいるような女を見たら、吾妻のいまの女として『ああ、島で間に合わせたのね』なんて思われるのが怖かったんです」
吾妻の元恋人だったという噂が根拠でなかった。彼女が吾妻を愛するが故の恐怖を、美湖は煽っていたようだった。
「いいえ。私は早苗さんをひと目みた時に、綺麗な人。そして吾妻先生がすることに溺れずにきっぱり出来るクールな女性。ああ、先生の大好きなタイプ。あの先生のことだから、好きになったら一直線、猛アタックで落としたんだろうなと、感じましたけれど?」
涙目だった早苗がびっくりして目を見開いた。
「え、あの……。確かに、最初、とてもしつこかったんですけれど」
「何度もはね除けたでしょう。それそれ。先生はそういう女性に燃えちゃうんですよ」
彼女の頬が真っ赤になった。大人の女性のクールな面影はもうない。
「しかも、かわいい男の子が先生先生と慕ってくれたらもう、吾妻先生はふたりとも愛おしくて、毎日しあわせだったというのも目に浮かびますよ。信じてあげてください。吾妻先生は飄々としているけれど、自分が大事なものと決めたものには純情一筋。胡散臭いことをしてでも守りますよ」
最後に美湖は彼女にひとこと。『私はそうして、吾妻先生に医師として大事にしてもらってきたと思っています』と――。
おなじ科ではなかったが、吾妻とは連絡を取り合っていたし定期的に食事もしてきた。院内のことも彼が影ながらサポートしてくれた。男と女として危うくなったことは一度もない。不思議なほどに。だから、美湖は吾妻を信頼している。
「吾妻先生も言っていました。相良は信頼できるから。相良には院内で嫌な目に遭って欲しくない。でも、俺がいなくてもあいつけっこう図太くて見ていて面白いんだけれどな。ちょっと手伝うだけ――だと。だから、余計に……、あの人がいちばんの後輩と思っていたから……どのような素晴らしい女性かと」
また早苗が目の前でしゅんとしてしまう。吾妻が重症患者の搬送に『俺についてこい』と指名したほどのナースだからやり手でベテランなのは美湖にもわかった。でも『ひとりの女』となるとやっぱり大人の女性でも弱くなるんだなあと思えた。
「素晴らしいなんて幻想ですよ。清子さんとか晴紀君から聞いていません? 先生は冷蔵庫もひとりでいっぱいにできなくて『生活力ゼロ』だって――」
それは本当に聞いていたようで、早苗が目線を逸らして黙りこくる。そしてなにかを思い出したようにくすっと笑った。
「吾妻先生も。島に来たばかりの頃、『島の買い物はめんどくさい』とか言って空腹で、自宅にも戻りたくないと、不精ヒゲになって院内のソファーで寝転がっていたんですよね。見ていられなくて……、つい……。うちで食事を食べさせちゃったのが……」
あー、なるほど。だから吾妻は美湖が来た時に『食べ物いっぱいにしておけ』と食材をありったけ準備してくれたのかとわかった。そして、自分は空腹を満たしてくれる『美人な彼女』の家にまんまとあがりこみ、そこで念願のかわいい息子も……。ん? それってもしかして吾妻の策略? 空腹の顔をして面倒見がいい女性をその気にさせて、まんまと家に入れる許可をゲット?? ん? 美湖は急に吾妻の胡散臭い本性を思い出し、眉をひそめた。
それでも、プロポーズをしたということは本気。三度目の正直で、子供がいる女性だけれど、どちらも幸せになって欲しいなあと願わずにいられない。
それでも彼女が何度も言うのは『本当に好きなの。だから泣きたくなる』だった。
いつものつめたい静岡茶を彼女に差しだし、美湖も向かいの椅子に座って落ち着く。
そんな早苗に、美湖は言ってみる。
「吾妻先生。寂しがりやだと思うんですよね」
彼女が冷えたガラスコップを手にして、お茶をひとくち。ほっとした顔になり涙が止まったようだった。
「そうでしょうね。だから……、島にいる女だから、ただその時、目の前にいたから手を出しただけ。横浜に戻ったらもう……」
その気持ちも女としてわかる。そしてこの隔離した島に長年住んでいたら、都市部に出るのは勇気が要ることだろう。
「でも。吾妻先生が二度離婚した様子を見てきた後輩としてはですね……。思うんです。吾妻先生は寂しがりやだけれど、その寂しさの穴もひとつだけで、それを埋められる女性が一人いれば先生は幸せ。ただ、家を空けることが多いし不規則になることもある。自分がいない間もきちんと待っていてくれて、帰ってきたら迎えてくれる。それだけでいいのに、それが通じあわない。そういう結婚生活でしたよ」
早苗さんは自信あるのだろうか。そういう生活。美湖はそう言いたくなったが聞ける訳もなかった。そこは吾妻と早苗、当人同士の問題。
「私はナースです。吾妻先生が仕事ならば待てます。逆に私だって……、ナースを続けながら……、彼とつき合えているのはやはり彼が医師だからだと思ってる」
「そうなんですよね。私もびっくりしました。吾妻先生、ナースの女性は極力避けていたみたいだったので。院内でごたごたになるのとか、仕事に差し支えるから『若い時に懲りた』と言っていたんですよね……」
あ、いけない。奥様以外の女性のことを口にしていた。しかも同業者のナースと遊んだ過去があることも言ってしまったと美湖ははっと我に返る。
でも早苗はさすが大人の女性なのかそこは平然としていた。
「私は絶対に職場では恋仲であることは匂わせたくありません。吾妻がふざけてきたら、二日は家に入れない」
おー、すごい。きっぱりしてる! 恋にほだされて崩れてしまう女では、院内恋愛はたしかに成り立たない。
そして美湖は『いつもの調子でうっかりふざけて、大好きな彼女の家に二日も入れずしょんぼりしている先輩』が浮かんでしまい、にやりと笑ってしまった。
「それ、吾妻先生には効果覿面ですね」
美湖が笑うと、やっと早苗が笑顔を見せてくれた。
「吾妻も……、息子も……、私も……二日が限界だっただけよ」
「わー、なにげに惚気てくれますね。吾妻先生が息子さんをとても可愛がっているのも目に浮かびますよ。子供も大好きなんです。だから……、先生は……家庭がずっと欲しかったんだと思います」
美湖なりの吾妻にあるだろう気持ちを伝えていいものかと思ったが、それが研修医のころから付き合いがある先輩の姿だと思っている。
「息子も父親がいないまま育ったから、あのように理想的なお父さんが出来たこと喜んでいるんです。別れたら、私もだけれど……、きっと息子が哀しむ……」
「それならば。もう少し話し合ってみてはどうですか。なによりも島で息子さんの子育てを続けたいのなら、それもお話するべきですよ。……あ、申し訳ないです。第三者が簡単に言うみたいで……」
早苗が首を振って、ゆるく微笑んでいる。
「いいえ……。誰にも相談できなかったんです。相良先生に会う機会もなかなかなくて、いつも吾妻がそばにいるものですから」
またなにげに惚気ているなと、逆に微笑ましくなってくる。それで吾妻が届けるはずだった資料や書籍を、彼女が自分が届けると言って持ってきてくれたんだと思った。
「先生、唐突に申し訳ありませんでした」
「やめてくださいよ。早苗さんのほうが、私より大人で、島でも先輩ですよ」
「でも……。吾妻先生が、相良先生のことはとても信頼しているようだったので。あの人、付き合いは広いけれど、本心を見せるようなこと、本音を言わせるようなことはあまり見せない人です」
確かに、飄々としていて胡散臭いのは否めないと美湖も頷く。
「その吾妻先生が、結婚する時に奥様を紹介するほどの後輩はあなただけだったようなので……。女性として見ていないけれど、妹のようにかわいがっていて、それで診療所も任せるならあいつだと言いきっていて。私のような駄目な男に簡単にひっかかって離婚歴もあって、ずっと島にいるような女を見たら、吾妻のいまの女として『ああ、島で間に合わせたのね』なんて思われるのが怖かったんです」
吾妻の元恋人だったという噂が根拠でなかった。彼女が吾妻を愛するが故の恐怖を、美湖は煽っていたようだった。
「いいえ。私は早苗さんをひと目みた時に、綺麗な人。そして吾妻先生がすることに溺れずにきっぱり出来るクールな女性。ああ、先生の大好きなタイプ。あの先生のことだから、好きになったら一直線、猛アタックで落としたんだろうなと、感じましたけれど?」
涙目だった早苗がびっくりして目を見開いた。
「え、あの……。確かに、最初、とてもしつこかったんですけれど」
「何度もはね除けたでしょう。それそれ。先生はそういう女性に燃えちゃうんですよ」
彼女の頬が真っ赤になった。大人の女性のクールな面影はもうない。
「しかも、かわいい男の子が先生先生と慕ってくれたらもう、吾妻先生はふたりとも愛おしくて、毎日しあわせだったというのも目に浮かびますよ。信じてあげてください。吾妻先生は飄々としているけれど、自分が大事なものと決めたものには純情一筋。胡散臭いことをしてでも守りますよ」
最後に美湖は彼女にひとこと。『私はそうして、吾妻先生に医師として大事にしてもらってきたと思っています』と――。
おなじ科ではなかったが、吾妻とは連絡を取り合っていたし定期的に食事もしてきた。院内のことも彼が影ながらサポートしてくれた。男と女として危うくなったことは一度もない。不思議なほどに。だから、美湖は吾妻を信頼している。
「吾妻先生も言っていました。相良は信頼できるから。相良には院内で嫌な目に遭って欲しくない。でも、俺がいなくてもあいつけっこう図太くて見ていて面白いんだけれどな。ちょっと手伝うだけ――だと。だから、余計に……、あの人がいちばんの後輩と思っていたから……どのような素晴らしい女性かと」
また早苗が目の前でしゅんとしてしまう。吾妻が重症患者の搬送に『俺についてこい』と指名したほどのナースだからやり手でベテランなのは美湖にもわかった。でも『ひとりの女』となるとやっぱり大人の女性でも弱くなるんだなあと思えた。
「素晴らしいなんて幻想ですよ。清子さんとか晴紀君から聞いていません? 先生は冷蔵庫もひとりでいっぱいにできなくて『生活力ゼロ』だって――」
それは本当に聞いていたようで、早苗が目線を逸らして黙りこくる。そしてなにかを思い出したようにくすっと笑った。
「吾妻先生も。島に来たばかりの頃、『島の買い物はめんどくさい』とか言って空腹で、自宅にも戻りたくないと、不精ヒゲになって院内のソファーで寝転がっていたんですよね。見ていられなくて……、つい……。うちで食事を食べさせちゃったのが……」
あー、なるほど。だから吾妻は美湖が来た時に『食べ物いっぱいにしておけ』と食材をありったけ準備してくれたのかとわかった。そして、自分は空腹を満たしてくれる『美人な彼女』の家にまんまとあがりこみ、そこで念願のかわいい息子も……。ん? それってもしかして吾妻の策略? 空腹の顔をして面倒見がいい女性をその気にさせて、まんまと家に入れる許可をゲット?? ん? 美湖は急に吾妻の胡散臭い本性を思い出し、眉をひそめた。
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