先生は、かわいくない

市來茉莉(茉莉恵)

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37.お帰りなさいも、かわいくない

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 初秋の夜明け、少しずつ太陽が昇る時間が遅くなっている。
 それでも開けている窓から入ってくる風は涼しく、心地よい。海猫の声が穏やかな目覚まし。

 寝る時に傍らに置いているスマートフォンから通知音。明け方は晴紀がシフト交代で仮眠前にとメッセージを送ってくることも良くある。
 今日はどこにいる、どこへ行くのか。そして夜空や夜明け、海峡の美しい画像もよく送信してくれるようになった。

 寝ぼけ眼でメッセージをなんとか確認する。

【ただいま。いま診療所の前。鍵、開けてそっちに入っていいかな。五分経っても気がつかなかったら、実家に帰る】

 びっくりして美湖は飛び起きる。たまたま海猫の声でうっすら目覚めていたから、通知音に気がついたけれど、もしかしたら寝入っていたかもしれない明け方。でも偶然にも気がついたから、美湖は薄着姿のまますぐにメッセージを打ち込んだ。

【いま目が覚めたところ。いいよ。鍵開けても】
 合い鍵を渡す云々しなくても、晴紀は大家だから元々、この家の鍵は持っている。でも、美湖の部屋を訪ねてくる時は突然でも勝手でもなく、きちんと断りを入れてから来てくれる。

 キャミソールとショーツだけで眠っていたので、美湖は慌てて部屋着のカットソーとラフなワイドパンツを手に取る。
 でももう階段から彼が上がってくる足音が聞こえる。ドアからノックの音。

『センセ、ただいま。開けていいかな』
 寝姿のままベッドを降りながら『いいよ』と答えてしまう。ドアが開く。待ちに待っていた彼のおかえり。……と、ひと目、晴紀を見て美湖は絶句する。

 そこには真っ白な制服姿の晴紀がいた。肩には黒い肩章、金色のラインついている。そして白と黒の制帽。『え、自衛隊さん???』と思ってしまった。

「ただいま、美湖先生」

 晴紀も初めて制服姿を見せたせいか、少し躊躇っていて、まだ部屋に入ってこない。

「ハ、ハル君……、その、かこっう??」
「今回の船は制服を着る船だったんだ。内航船だけれど大きなコンテナ船。それでいつもより派遣期間が長くて、しかもそこの郡中港で勤務終了だったから港からそのまま直帰。着替えるのがめんどうくさくて、このまま帰ってきた」

 やっと、照れている晴紀が美湖の部屋に入ってくる。

 立派で素敵すぎて。美湖は思わず自分のあられもない姿を思い出して、ベッドからタオルケットを引きずって胸元を隠した。

 なのに。ドアを閉めたばかりの晴紀が、そこで緊張がとけたようにくすっと笑った。

「え、なに? なんで笑うの」
「センセらしくて。ひと目見て、あー俺、島に帰ってきたんだとやっと思えて」
「だって! 寝起きに帰ってきたのハル君じゃないの。ズルイよ! 自分はそんな立派な素敵でかっこいい制服姿でビシッと決めて帰って来るだなんて! せめて、白衣を着ている勤務時間中だったら張り合えたのに!」

 いつもの気強さで言い返すと、もうそれだけで晴紀がお腹を抱えて笑い始める。

「あー、ほんっと、俺、いま島に帰ってきたんだ! そうそう、もうセンセのそのかわいげのなさ、たまんねえ! 白衣で張り合うってなんだよ、それ!」
「もう~! こっちだって、待ちに待っていたのにバカバカしい!!」

 ついにタオルケットを放り投げ、キャミソールとショーツ姿のまま美湖はひたすら憤慨。余計にハルが『あはは! やっぱ美湖先生だ』と笑っている。

 こんの生意気な男め。こっちは息子を案じるお母さんと泣きに泣いて、見合い相手も受け入れて、真っ正面から話し合って、なんとか『さよなら』して待っていたのに。許さない!

 許さない、許さない!! そう怒りたくなればなるほど……。美湖は立派な船乗り制服姿のハルを見て、涙が滲んできた。

「センセ?」
 ハルもやっと気がついた。
「待っていたんだから」
 まだ薄い紅紫が差してきた夜空に残る星、明け方の黄金が滲む水平線、朝の空気の中に海猫の声が響く。

 淡い紫色に染まる女医の部屋、晴紀もやっと笑い声を収め、美湖の顔を真顔で見てくれる。

「ごめん、センセ。でも、すぐに会いたくて、俺も、このまま……来たんだ」
 男の切なそうな目を見て、美湖も堪らなくなって薄着姿のまま、部屋に入ってこない白い制服姿の男に歩み寄り抱きついた。
「おかえり、待っていたよ。なんか、今回……、長く感じた」
 それはこの男に恋をしてから、初めての航海で留守だったからかもしれない。

 晴紀の白い制服の胸、そこに彼も美湖の頭をぎゅっと抱きしめてくれる。
「俺もだよ」
 やっと目と目が間近で合う。
「センセ、なんで泣いてんの」
 もうバカ。聞くな。むしろそこんとこ『俺が待ち遠しくて泣いてくれたんだ。センセもかわいい』としてくれないかと美湖も思ったが、そんな恥ずかしいことヤダと至り、無愛想にむくれた顔のままにしかなれない。

「かわいくない口ぶりの先生に会えるの、楽しみにしていたんだ」

 帰ってきたばかりの晴紀の黒髪は潮の匂いがした。
 本当に彼は海の男なんだと思った。


・◇・◇・◇・


 晴紀が帰ってきた。夜明けなのに、すぐに美湖の部屋に来てくれた。

「もうね。帰ってくるなり、ぐったりして眠っているのよ。久しぶりに制服で帰ってきてびっくりしたけれど、最後のシフトが夜中でそのまま朝、郡中の伊予港から帰ってきたらしくて疲れているみたい」

 晴紀が朝方帰ってきたその日の昼食時。キッチンへお世話に来てくれた清子がそう言ったことに、美湖は思わず身体を硬直させた。

「あー、朝方。帰ってきたよーというメッセージがスマホに入っていましたね……。あの後、ご実家で寝ちゃったんですね」

 息子がいちばんに女医に会いに来たことには、美湖もとぼけておく。

「あの子ね。いつもスーツで島を出て行くでしょう。あれね……。船乗りの制服姿になると、ご近所さんが腫れ物に触るように敬遠しちゃったり、また船乗りに戻ったのか、事件はどうなったのかと気にしちゃうから。晴紀も周りと留守番をする私に気遣って、兄の会社で着替えて船に乗っていたらしいの。それが、今回は制服で帰ってきたりして……」

 どういう心境の変化かしらと清子がいいながら、美湖を見た。清子が作ってくれた海鮮塩焼きそばを食べながら、美湖は目線を逸らす。

「美湖先生に見せたくなったのかしらね。白衣の立派な女医さんですもの。お姉様だし、対等になりたいと思ったのかもしれませんわね」

 ……そうだったのかな。だから朝一、帰ってきていちばんに美湖のところに来てくれたのかな。初めてそう思った。

 晴紀が目覚めたら、清子は留守の間に起きたことをなんと報告するのだろう。泣いたあの日のように『美湖先生のことは諦めなさい』と母親として諭すのだろうか。

 それでも美湖も報告済み。『小澤先生とのお見合い話は正式に破談となりました』と伝えている。清子は『そうでしたか。残念でしたね』と答えたが、その顔はただの真顔で本当はどう思っているのか美湖にはわからなかった。

「目が覚めたら、美湖先生のところへ晴紀が行くと思います。よろしくお願いします」

 なんだか頭を下げられてしまった。つまりのところ……、いまのところはお付き合いしてもいいのかなと思いたかったが、いろいろと複雑な思いを抱えている母親に『おつきあいしていいですよね』なんて自分勝手なことは聞きたくなかった。

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