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52.綺麗な男
しおりを挟む晴紀の目の前で死んだのは何故か。
その男が執着していた女性に対して晴紀が助けたから?
男の執念が怨念が、晴紀にも向いていたようだった。
「あいつ、彼女を見せびらかすために、学生時代も会社での集まりがあるときも呼び出すくせに、人前でもひっぱたいたり、彼女の長い髪をひっぱったり、小学生のガキがするみたいなこと平気でやって笑っていたんだ。俺がやめろと助けたことが何度かあって。その時、あいつが『重見先輩、こいつが気に入っているなら貸してやる。こいつも先輩を気に入っているから。そのかわりヤっているところ俺に見させてくれ。婚約者だから俺の権利だよな』とバカなことをいうから、ぶん殴りそうになったことがある。でも、それも彼女が止めてくれたんだ。その後、彼女がこっそり俺に会いに来てくれて。婚約者の彼がなにを言っても反応しないでほしい、暴力沙汰になったらあっちの親が黙っていなくて、いくら重見先輩の伯父様に権威があっても大変なことになるはずだからって。それ以降、あいつがことあるごとに『俺の女に手を出すな』と今まで以上に目の敵にしてきた。実家のことより、彼女のことばかり気にして『俺の女だ、重見先輩が気に入っても渡さない』だけになっていた。だから、もしかして、なにかあるなら彼女絡みかと……」
「そうだったんだ」
晴紀から男の話を聞いても強烈なあくどさで、美湖は溜め息をつく。でもそうして目に浮かぶ中で感じたこと。
「きっと……、彼女にはハル君はとても綺麗な人に見えたと思うよ」
姿形のことではない。モラルと通常の情緒を破壊している男に縛られていたなら、彼女にとって、真っ直ぐで正義感の強い晴紀はそれだけで美しい心を持った男に見えたはずだから。
そして美湖にも覚えがある。大学病院の様々な人間関係から離れて、田舎の島でまっすぐに生きている男のその裏表のなさに美湖はいつのまにか癒されていたのだと思う。
「彼女の、妹も……そう教えてくれた。姉は、どうしてもあなたと結ばれたかったわけではない。でも、あなたのような男性と生きていくのを望むなら、この男と縁を切らなくてはならない。でも切れないから道連れで破滅することを選んだのだと教えてくれた」
「会ったの。彼女に……」
晴紀がまた黙って頷いたので、美湖は驚いてなにも言えなくなった。
「東京の商船会社の友人や後輩にいろいろと話を聞きに言って、彼女の実家の住所だけなんとかわかったんだ。俺、なにも知らないで会いに行ったから、連絡に応じてくれた妹さんが『今治の社長さんとした約束と違う』と怒り出して、なんのことかわからなかった」
晴紀には知られないことを条件に証拠を渡してくれたご家族としては、それは晴紀が話をしたいと会いに来たら怒るのも当然かと美湖も思う。
「でも、俺もなんのことかわからないけれど、俺自身が疑問に思っていることを知りたい、母にも今治の伯父にも誰にも言わずにここまで辿り着いたと主張したら、妹さんだけ外で会ってくれた」
そこで晴紀が正直に事情を話し、明らかにしたいと望んでも、妹さんは今治の伯父と従兄同様に『姉は結婚して、当時の誰とも会いたくないと言っている』と説明し、姉の連絡先は教えてくれなかったと晴紀が話す。
晴紀も諦めたが、そこで『妹さんが教えてくれないのなら、一人で嫁ぎ先を調べる。彼女に会うまで諦めない。こっちも自分と母親と、これから関わる人との将来にかかわるから絶対に引かない』と強い姿勢を見せると、そこで妹が折れてくれたとのことだった。
「彼女が……。そんな俺を見て『姉があなたに憧れて、泥沼から抜け出ようと決心したのがよくわかりました』と訳がわからないことを言いだしたんだ。そこで、彼女の実家に連れていってもらって……、彼女の部屋……で、その……」
もう寝ているだけの意志があるのに言葉も交わせない彼女と再会したと晴紀が涙混じりに教えてくれる。美湖も悲痛の表情しか表せない。
「彼女、意志はあるんでしょう」
「少し、目が動いて。それでここ数年で少しだけ疎通が出来るようになったと妹さんが……」
「彼女、晴紀君を見られた?」
晴紀が少し申し訳なさそうに頷いた。でも美湖は毅然と答える。
「嬉しかったと思うよ。きっと二度と会えないと彼女は思って死のうとしていたんだから。しかも晴紀君から会いに来たんだから」
「でも。彼女は知られたくなかったはずだから……」
「どうかな……。でも……、彼女は状態はともかく、開放されたんだもの。でも、毎日がとても長いと思う。三年経っても悪夢にうなされるかと思う。でもそのなかで辛くて暗い毎日の中でも、唯一、自分の尊厳を守ってくれた晴紀君の姿を何度も思い出したと思う」
「妹さんも……、そう、言ってくれた。だから、会わせる気になったと……。それに……、姉さんは今日、少しだけ頬が赤くなって穏やかな顔をしているって」
晴紀が彼女の手を握って『会えてよかったよ』と声をかけると、彼女が涙を流してくれたという。それを見た妹さんが、その後、なにもかも話してくれたとのことだった。
「伯父さんが俺と母ちゃんを守るために、あいつの実家の両親を撃退してくれたことも、彼女のその後のケアを万全にして守ってくれていたことも感謝している」
だがそこで、晴紀は頭をうなだれる。
「ただ、戦うための交渉条件として彼女の事実を俺に隠すことが必要だったとはいえ、母も真実を知らずに苦にして命を絶とうとしていたことだけが、申し訳なくて。ほんとうに危うく、違う事実で母を失うところだった」
「ハル君……。伯父様はなんて言っているの。このままだと、清子さんはハル君の気の強さが災いして起きた出来事で、母親の私の責任だとずっと思っていくことになるよ」
「ごめん。彼女のことはやっぱり言えない。彼女の妹さんは、お母様が苦にしているならばお話ししてもかまわない。ただ話した時はこちらに連絡をしてほしいと許可はくれたんだけれど」
美湖も溜め息をつく。
「そうだね。ちょっと惨い話だものね。いまやっと清子さんは明るく外に出始めたところなのに」
「彼女が結婚を苦に死のうとしたから、後輩のあいつも後を追ったことにしようかと思っている。でも、そうしても、あいつが俺の真横にいた時に死ぬタイミングを選んだことは、どうあっても俺とあいつの険悪な関係が原因なのは逃れようがない。母はそこを、俺がきちんとできなかったことは悔いていくと思う」
「そっか……、そうだね。でもぼかしても、そう伝えた方が幾分か清子さんは救われると思う。だってハル君のなにもかもが死ぬ理由ではなかったんだから」
やっと晴紀も落ち着いたいつもの顔に戻ってきて、頷いてくれた。
美湖も落ち着いてきた。やっとコーヒーが届いて、ふたり一緒にひと息ついた。
カジュアルでもきちんとした服装で彼女に会いに行ったんだなと改めて思った。
「先生、今日のうちに島に帰るつもりなのかよ」
「え、ハル君と一緒にと思っているけれど」
「母さんには連絡しておくからさ。今日だけは、俺と一緒に一日、ここで過ごそうよ。島に帰ったら診療所の先生になってしまうだろ」
診療所の先生になってしまう、だから、今日はそうでない美湖と一緒にいたいと晴紀が言ってくれて……、美湖は年甲斐もなくちょっと頬が熱くなってなにも言えなくなった。
「お父さんと泊まっていた旅館はチェックアウトしたんだろ」
「うん。した」
美湖の足下には旅行カバンがそのまま。晴紀もそれに気がついていた。
「今夜は俺と一緒な。そこの新しいホテルを予約したから」
「う、うん。わ、わかった」
今日は俺と一日一緒なと言ってくれたうえに、頼もしく男らしいリードに、かえって美湖のほうが慌ててしまっていた。
やっと男の余裕とばかりに満足そうにコーヒーを味わい始めた晴紀を見て、美湖も微笑む。
「私、わかっちゃうな。彼女の気持ち。ほんとうに、ハル君が綺麗に見えたんだと思う」
「綺麗って、なんだよ、それ」
「心が綺麗な人という意味。それでも、ハル君みたいなかっこいい子なら、白馬の王子様に見えたかもねえ」
「はあ? かっこいい『子』てなんだよっ」
せっかく男らしく年上の彼女をリードしたのに、そうやってすぐに俺を年下扱いすると晴紀がむくれているのがわかる。
「またセンセ、俺をからかってんだろ! 先生だって、心では俺が白馬の王子なんて思ってないくせに!」
「うん。私はね、ハル君の綺麗なお尻が好きだから」
目の前でアイスコーヒーをすすっていた晴紀が咳き込んだ。飲み込む時に力が入って気管支に入ってしまったようだった。
「あのな! なんだよそれっ」
「いつも私が見とれていたの気がついてなかったんだあ。だよね、後ろ向いている時に私が見とれているんだから」
「あ、くっそ。気に入っていたハンカチにコーヒーの染み付いただろ。もうほんっとセンセは、」
「かわいくない?」
美湖から言ったが、晴紀がむくれながらも黙った。
「その、かわいくない……に会いたかった」
「もうハル君しかいないね、ほんとに」
「あたりまえだろ。もう、センセには俺しかいないんだからな」
やっといつものふたりに戻れた気がした。でもそこで晴紀がその強い目線のまま美湖に言った。
「来月、相良のお父さんが来たら。『美湖サンをください』ていうつもりだけれど、先生、いいよな」
今度は美湖がコーヒーを飲み損ねて咳き込んでしまった。
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