名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

18.神戸のレストランで

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 四月初旬。阪神・瀬戸内地方は、こんなに暖かいのかと葉子は驚いている。

「いらっしゃい、葉子さん。待っていたよ。元気かな」

 蒼と一緒に神戸に到着したその日の夜、葉子は矢嶋社長のレストランへと訪れた。

 グランメゾン的なレストランの大きさに、葉子は怖じ気づく。
 そんな葉子のそばにそっと、蒼が並んで寄り添ってくれた。

「俺たちさ。お客様がそうして怖がっているのが、めっちゃ困るのね。なんとか心をほぐしてやらなくちゃって、こっちも緊張しちゃうの。見て見て、いつもは俺たちがあそこに立っているでしょ。今日はあの人たちがめっちゃ緊張してる」

 そうして、グレースーツ姿の蒼が『やっほ、ひさしぶり』なんて敬礼をスタッフに飛ばしたので、あちらのスタッフがぎょっとしながらも、『篠田さん相変わらず』とぼやいたのが聞こえてきた。
 それを見て、ついに葉子は頬を緩め、笑ってしまっていた。

 そんな葉子を知って、ほっとした矢嶋社長が、テーブルまでわざわざ案内をしてくれる。

 社長が直々に案内をしているとあって、まわりのスタッフもあれこれ気遣ってくれる。
 それに、どのスタッフも簡単な手話を覚えてくれていて、葉子に問う時も手話を、葉子が返した手話もきちんと通じる。教育が行き届いていて、やはり仕草も佇まいも、誰もが一流だった。

 向かいに座っている蒼には、かわらずにスマートフォンのメッセージで話しかける。

『ここで、秀星さんも、蒼さんも、メートル・ドテルやっていたんだね。すごい!』
「そうだろ、そだろ。俺ってば凄いってやっとわかってくれた。惚れ直したでしょう」
『直した、直した。スーツもかっこいい』
「いやー、……俺は、今日の葉子ちゃんがあんまりにも大人っぽくて素敵なんで、もう、くらくらしてんの、どうしてくれるんだよぅ」

 自分が凜々しくシビアに勤めてきた職場だというのに、全然関係なく、ダラシーノモードになっているので、また葉子は笑っていた。

 あ、これ。葉子の緊張を解くためだな――と、やっと気がつく。

「ほんとに。黒のドレス、似合ってるよ」

 今度は、大人の眼差しで言われ、ここでやっと葉子は頬が熱くなり目をそらしてしまった。

 今夜は神戸で一泊する。蒼がほんとうに気遣ってくれて、ホテルの部屋は別々になっていた。
 もう、いいのに……。そう思っている。今夜も初めて、頑張って、大人の女に見てもらいたくて、ノーブルでも背伸びをしたドレスを選んできたのに。

 秀星に出会った時は、まだ二十三歳だった。
 こんなドレスなんて着る機会もなければ、余裕もなかった。
 男性と食事に行こうなんて考えたこともない。ましてや……、一緒に旅行しようだなんて。
 この三年。働いて、セルヴーズの修行をして、唄って、秀星さんのことしか見えなくて。ドレスなんて……。恋なんて……。秀星さんがいればそれだけで、あたたかな日々だったから、気にもしなかった。

「葉子ちゃん、お酒弱いだろ。アペリティフは、ちょっと軽めのあまーいの頼んでおくな。カシス系、シトラス系、ピーチ系もあるけど、どれがいいかな」
『カシス』
「了解」

 ワインリストを眺めていると、ギャルソンがオーダー伺いにやってきてくれる。

「彼女に、キールロワイヤルを。クラッシュしたラズベリーを入れてもらえるかな」
「かしこまりました」

 蒼より若いギャルソンが、そこで少し口角をくっと上げてぎゅっと笑いを堪えているように葉子には見えた。蒼もすぐに気がついた。

「ちょっと。浜田君、矢嶋社長に言っちゃうよ。俺がかっこつけてるのが面白くて、笑いが堪えられなかったってさー」
「申し訳ありませんでした」

『だって。ほんとに、かっこつけてるよね』

 葉子からのメッセージを見た蒼が、すぐさま『なんだと(*`Д´*)💢』というメッセージを送ってきた。それを彼の後輩に画面が見えてしまったようで、もう吹き出したいのか、さっとテーブルから離れていった。

『蒼さんが、このお店でもダラシーノだったってことがよくわかるね。笑わせてあげてよ。知り合いなんだから』
「お言葉ですが。十和田さん。プロなら知り合い来ても笑っちゃダメよ」
『ダラシーノは笑わせてなんぼの男でしょ』
「はぁ~、いいますねえ。最近の十和田さんってば」
『さっきのアペリティフ。おいしそう! やっぱり、かっこつけた男に甘えるのがいちばんだね!!』
「ほーら。ちゃっかりしてるんだからなあ」

 いつの間にか緊張も解け、いつものハコとダラシーノになって楽しんでいる。
 声は出なくても、文字とのやりとりもだいぶ慣れて、たまに言葉でダイレクトに伝えられないもどかしさはあれど、特に支障はなかった。

 父とは違う趣のスタイリッシュな料理が続いて出てきて、葉子は蒼と笑いながら食事を進めていた。
 そのうちに遠くのテーブルで、クレープフランベをしているメートル・ドテルの男性を見つける。

 葉子はその男性の背中に、秀星と蒼を重ねる。
 このハイクラスのフレンチレストランで、あのように。なにもかも洗練された佇まいで仕事をする男の背中――。

 ひさしぶりに、ちょっぴり涙が出てきて、赤ワインのグラスを傾ける。

「な、かっこいいだろ。俺も散々憧れたよ。とくに秀星先輩はすぐ目の前にいる目標だったからムキになってね」

 葉子がなにを見て目を濡らしているのか、蒼はもうお見通しだった。

『うん、かっこいい。やっぱり好き』

 蒼が納得できないように、赤ワインを飲みながら首を傾げている。

「え、メートル・ドテルが? 秀星先輩が? 俺が??」
『メートル・ドテルに決まってるじゃん!』

 彼がわざととぼけて聞いてきことは葉子にもわかっているから、どちらの男性と決めずに切り返した。
 でも、その後に一時、じっと黙り込んだ間があった。
 葉子もうつむく。ふたりでふざけるものの、そこをどうするのか。それを決める旅行でもあるのだろうなと思っている。
 蒼も。踏み込むか踏み込まないか、まだ躊躇っているのだ。


 食事が終わると、矢嶋社長の社長室へと来るようにと案内された。

「葉子さんの楽しそうな笑顔が見られて安心したよ。お料理はどうでしたか」

 手話で『とっても、おいしかったです。そして、勉強になりました』と伝えると、矢嶋社長も学んでくれていたのか、『良かった』と手話で返してくれる。

「篠田。厨房に行って、なにか飲み物を。あ、もうお腹いっぱいかな」
『では。冷たいお茶を』
 社長は簡単な手話しかわからないようで、蒼になにを彼女が伝えたのかという視線を向けている。
 蒼がすぐに答えてくれる。
「わかった。冷たいものだね。社長はいかがいたしますか」
「珈琲をお願いするよ」
「かしこまりました」

 元々の職場。蒼は慣れた様子で社長室を出て、厨房へ向かった。

 立派な社長室の応接ソファーで、社長とふたりきり、向き合う形になっていた。
 これは、蒼はわざと外されたと葉子は悟った。

「声、戻らないんだね。もどかしいね」

 葉子もこっくりと頷く。

「秀星の写真集の編集。お疲れ様でした。ほんとうに、よく頑張りましたね。誰も知らなかった秀星の写真をあそこまで――。元雇い主だった者としても、嬉しく思っているよ。発売が楽しみです。私もサポートしていきますからね」

 ありがとうございますと手話で示して、葉子も頭を下げた。

「お元気そうで良かった。私の店まで来てくれて、ほんとうに嬉しいよ。きっとこれからもあなたは、フレンチの世界で生きていくでしょうから、秀星が働いていたここを、一度は見てもらいたかったからね」

 私も来られて嬉しいです――と、今度は持っているメモ帳で筆談をする。
 笑顔で答えたのに。その目の前で、急に、矢嶋社長が目元を覆って唸り始めた。泣いている?

「……なんで。唄が好きな貴女から声を奪うなんて。どうしてこんなことばかり……」

 そんな社長さんに、葉子はおこがましい思いを抱きながらも、メモ帳にその言葉を記した。

『エゴを押し通したからです。秀星さんとおなじです』

 その文面を見た社長が、非常に驚いた顔に固まっている。

「秀星は命を、貴女は声を? それでもうあなたは満足なのですか。唄は――」

 葉子は一生懸命に、メモ帳に文章を綴る。

『満足です。もう声が出なくても。唄えなくても。秀星さんは、私にたくさんのことを遺してくれました。矢嶋社長も、そのうちのひとつ。ご縁があって良かったです。これからも父の店ともども、よろしくお願いいたします』

 このフレンチレストランを頂点に、様々な飲食店を展開させているやり手の社長さんだと聞いている。いつも厳格な佇まいを崩さないその人が、まるで父親が泣いた時のような顔に崩れていた。

 どうしよう。今度はなんて言えばいいのかな。
 戸惑っていると、そこに蒼がトレイに飲み物を乗せて戻って来た。

「え、え。なに……、どうされちゃったの、かな?」

 彼女は困惑顔で、社長は泣き顔だしで、今度は蒼が戸惑っている。
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