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【後日談2】トロワ・メートル
22.名もなき朝の散歩
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葉子に聞かれてはいけないことを聞かれたとばかりに、蒼も矢嶋社長も頭を重たく垂れて、沈んだ顔を揃えた。
だが蒼がデスクの椅子から立ち上がると、給仕長室の入り口に佇んだままの葉子の腕を掴み、中へと引き込んだ。
葉子の背後になったドアが、蒼の長い腕で引かれて閉められる。
矢嶋社長も前髪をかき上げながら、ため息をついた。
「うっかりだな。そこに誰も居ないと思い込むだなんて。ここに来ると心が安まる分、気が抜けてしまうな」
「社長のせいではありませんよ。自分も迂闊でした」
閉められたドアの前で、葉子はワインを抱えたまま、訳がわからずまだ呆然としていた。
そんな葉子の背を、蒼が押していく。
「はい、葉子ちゃんは、ここに座る」
「え、でも、給仕長はまだお仕事……」
「ちょっとだけ妻に戻ろうね。もういいですよね。矢嶋さん」
「そうだな。できれば葉子さんには、なにも知らないまま、素直に接してほしかったんだがね」
矢嶋社長も観念したようにして、顎をさすって口元を曲げている。少々不本意と言いたそうな顔に、葉子には見えた。
そのままパソコンデスクの椅子に座ると、蒼だけ立ったまま、今度は躊躇いもなく葉子に告げた。
「甲斐さんね。奥さんを亡くされてから、しばらく、ちょっとした引きこもりになっていたんだって」
「引きこもり……?」
「一生懸命看病している時は気力が張っていたんだろうね。葬儀も終えて、その後のご挨拶なども済ませてしばらくしたら、ぜんぜん、なにもしなくなったんだって、同居している長男さんが教えてくれたよ」
葉子は目を見開く――。いまだって、あんなにキビキビしているおじい様が、なんにもしなくなって引きこもっていた? 信じられなかった。
「もう何日も同じ服を着て、髪も髭もボーボーで、お部屋で食事をしていたんだって」
「信じられない……。だって、いまだって何事にも、きちんとされているから……」
「俺も信じられない。だって、いつもキリッと厳格な姿しか見せていなかった上司だったんだから」
「いや、私は少しわかるな。毎日忙しさに追われていたのに、急にやることがなくなったら、どうして良いかわからなくなると思う。相手をしてくれる妻がいれば、また違うのかもしれないが、その奥様も失ってというのなら、看病から開放されたのも手伝って、なにもしたくなくなるのかもしれない」
そこは年の功である年配の矢嶋社長のほうが、なんとなく想像しやすいようだった。
だが葉子も違うところで、少しわかる……。
奥様を亡くされた喪失感の大きさは、どれほどのことだったか。ある日突然、秀星を失ったあの気持ちを思い出すと、葉子は師匠のその気持ちを思っても涙が出そうになる。
「かと言ってさ。もう勤め上げたおじいちゃんが、部屋に閉じこもっているからってニートとは言えないでしょ。引きずり出す理由に困り果てていたみたいだよ。息子さんがご兄弟で大分に揃っているんだけど。奥様やお孫ちゃんまで総出で、あの手この手で引き出そうとしたけれど、全然ダメだったんだって。鬱病になるんじゃないか、なっているんじゃないかと、ご家族一同で話し合った結果、いよいよ診察につれていこうとしたら……」
「したら……?」
蒼が言葉を止めたので、葉子はその先を急かす。
なのに彼はどうしてか、葉子を見下ろして窺っているように見える?
「いきなり部屋から出てきて、散歩をしたり、規則正しい生活に戻ったり、きちんと生活するようになったらしい。葉子ちゃんは、どうしてだと思う?」
「どうしてって……」
答えられるわけがなく、葉子は蒼の問いに訝しむ。
遠い大分で起きていたことを、しかも尊敬する師匠のそんな姿など信じられなくて驚いているのに、北海道までやってくるほどの元気をどう取り戻したかなど、葉子にわかるわけがない。
だが蒼は、先ほどから葉子の目の色を追うようにして、ずっと見つめていて、その答えをきちんと伝えるためだからなのか、葉子を優しく諭すときの大人の目を見せている。
「ハコチャンネルだよ」
葉子は首を傾げる。
意味がわからなかった。どうしてそこで、最近になって少し距離ができた動画配信のことが出てきたのかわからない。
「えっと……。ハコチャンネルが、どうして」
「矢嶋さんから、秀星先輩が他界した知らせを聞いたときは、甲斐さんはまだ奥様の看病で必死だった。奥様を看取って見送って、落ち着いた頃に引きこもりになった。その数ヶ月後、矢嶋さんから、再度の連絡が来る。そこで、秀星先輩の写真を世に送り出そうと、湖畔でたった一人で唄っている女の子が動画配信の活動をしていると教えてもらった。それを視聴したら、部屋から出るようになったんだって」
あまりにも驚いて、葉子は言葉が出てこなくなった。
どうしてその配信が? ひきこもりのおじいちゃまを部屋から出すことに?
「それから、甲斐さんの日課は、朝の散歩、そして帰宅したら『ハコチャンネル』を視聴する。SNSにアップされる『北星秀』の写真を閲覧する。俺みたいに毎朝『いいね』をする。それが日課になった。そうして、毎日、配信を追っていると、ある時になって、ついにハコちゃんがやり遂げた。自分の部下だった男が死んで去っても、遺した写真が生き返る。前より輝きを増して――。ハコちゃんが引き寄せた結果が、また甲斐さんを駆り立てたんだろうね」
「え、甲斐チーフもアカウントを持っていて、蒼君みたいに、毎朝??」
「そう。俺と一緒に、毎朝『いいね』をタップしていたらしいよ。どのアカウントか知りたいくらいだよ。まさかの、元上司と一緒になって『いいね』をしていたなんてね」
元部下の最後の教え子と知って、ただチャンネルを観ていたわけではなかった?
では。甲斐チーフは、随分前から毎朝、葉子を観てくれていたことになる?
その時、葉子の中で、緑の東屋でランチをする『ハコ』を一生懸命になって追いかけて来た甲斐チーフが蘇る。息を切らして追いかけて来て、唄っている葉子を見つけた時の、あの笑顔――。
「つまり、甲斐さんは、秀星さんに会いに来たのと同時に、ハコちゃんにも会いに来ていたんだ。もう一度、働きたい。でももう年寄り。ご自分がサービスに厳しかった分、復帰は容易くない仕事だと諦めていたんだろうね。でも本心は『復帰したい』。そう素直に認められたのは、ハコちゃんが無駄だと言われながらもやり遂げた姿を見たからだそうだよ。できれば、ハコちゃんと、元部下だった俺と、そして、『北星秀』を大事に見送ってくれた『フレンチ十和田』で働いてみたい。その決意だったんだ。息子さんに教えてもらったんだけれど、『北海道で働くために、規則正しい生活に戻し健康を維持する』ために散歩を始めたんだって。だから、あちらのご家族も心配だけれど、引きこもられるよりかはずっといいと、快く送り出してくれたんだ。しかもそこで任された仕事が、まさかの、会いたかったハコちゃんの教育係。だからさ、めっちゃ力を入れているわけ、あのお師匠さんは。いまはそれで気力を保ってるの。でも、それがあるからというだけで、またいつその気力を失うのか、とても危うい状態なんだよ」
その『危うい』が葉子には、まだわからない。
立派な人にしか見えないからだ。それでも気を抜くと、あっという間に虚無感に襲われて、立ち直れなくなってしまうのだろうか。甲斐チーフの心に潜む闇をやっと感じて、葉子は密かに震える。
「どうして教えてくれなかったの」
「教えたら、いちいち気を遣うでしょ。知ったら今度は葉子にプレッシャーがかかると思ったんだ。自分の存在がいまは、師匠の生きる気力を支えているんだなんて知ったら、葉子ちゃんも余計な気遣いするでしょう。それを甲斐チーフに悟られると、また甲斐さんが気にするでしょう」
初めて水くさいという言葉を使いたくなった。
「気にしないから。聞かなかったことにする」
無言だった矢嶋社長も、蒼も、そんな葉子を見て、顔を見合わせている。
葉子にこのまま任せても大丈夫かどうか、判断の意思疎通を図っているように見えた。
「わかった。大丈夫だね。葉子」
「大丈夫。私も注意して見ておくし、いっぱい教えてもらいたいことあるから、必要だって伝わるようにする」
「甘えたらいいよ。甘えて頼ってほしいんだよ。仕事に対して甘えるんじゃない」
「わかってる。いつか大分に帰る方だと思って遠慮していたけれど、もう、ソムリエになるまで居てもらう。ソムリエになってもご家族が許してくれるなら、ここに居てもらう!」
いつにない葉子の強気を見たからなのか、蒼が驚きでのけぞって、矢嶋社長も目を丸くしていた。
「え、え。あの葉子さん? ちょっと力みすぎ。自然にね。ナチュラル~にねっ。どうしちゃったの、なんか、いつものかわいい奥ちゃんじゃなくて、ちょっと怖かったっ」
「怖いって。なんなのっ。でも、そうだね……、私、いっつも蒼君に頼り切ってるから」
「そうなのよ。そういうのが好きなのよ。だから甲斐さんも、俺が気持ちよくなっちゃうように、甘えてほしいと思うのよ」
なにそれ――と、今度は葉子が目を丸くしていた。
甘えてくれるのが気持ちがいい? 葉子は甘えなくなるように頑張ろうとしているのにだった。
すっかり夫妻の会話になっているそこに、矢嶋社長も入ってくる。
「あー、なんか篠田が言うこともわかるな。葉子さんは男の馬鹿らしい気持ちだと思うかもしれないし、パートナーの重荷にならないよう年若いご自分も成長しようと思っているだろうけれど。男ってそんなところある。男でなくても、目にかけた後輩に部下に弟子にも、そうだ、父親としても、そんな思いはあるよ」
「そそ、だから、いまはもう~甲斐師匠を頼っちゃって。ほんとはね、葉子の前ではキリッとした師匠のお顔を頑張っているけれど、知らないところ、んーっと元部下の俺の前では、『ハコちゃん、今度はいつ動画を配信するんだ』とか、『ハコちゃんがギターを弾いていた!!』とか大はしゃぎ。もうあれね、超大ファンだから」
わからなかった。ほんとに!
秀星が元部下で、葉子がその関係者という興味だけで見てくれていたとか、大事な人を失った時期がほぼ重なっているから、同じ時期に哀しみを癒やすように動画を通してシンクロしてくれていただけかと思っていた。
もちろん、そのシンクロもあったのかもしれない。
だが、まさか……。ご家族もどうにもならなかった事態だったのに、葉子の動画が、閉じこもっていたご老人を、また元の生活に戻すキッカケになっていただなんて……。
『エゴ』だったかもしれない。でも、自分がただやりたいことで我を通していても、どこかでなにかのキッカケになっているかもしれない。
もうそれだけで……。葉子も初めて感じた。『これは僕のエゴだ』と言いながら、どうして秀星が写真をやめなかったのか。
観てくれる人がいなければ、自分だけが楽しい『エゴ』でも満足。でも、もし……、もし……、誰かが観てくれた時になにかを感じてくれたのなら、それはもっと幸せなこと。そんな気持ちも絶対に持っていたはずなのだ。『いつか』を思って、シャッターを押していたのかもしれない。彼の最期の撮影もそうだ。誰が観てくれるだなんてもう考えてないエゴの塊になっていたとしても。『もし』、この写真を観た人のなにかになれたのなら……。そんな密やかな想い。
これまで少しずつは感じてきたが、こんなに強く感じたことはない。自分が既に師匠のためになることをしていただなんて。
葉子の『名もなき朝の唄』を聴いて、遠い大分で一人沈んでいたご老人も『名もなき朝の散歩』を始めていたのだ。
唄っていて良かった。ここにきて、また秀星の写真に意味がもたれたとも想えた。
ただ秀星のためという葉子の『エゴ』だったが、遠い知らない人だった師匠の力にもなっていたから。秀星がハコを動かしてくれたから、遠い私たちの師匠も救うことができたのかもしれない。
エゴがエゴを繋いでも、そこに『ひたむきな想い』があるのなら、誰かのためになる。
秀星さん、無駄じゃなかった。あなたの写真があって、私の唄がある。あなたの写真と私の唄があって、私たちのお師匠さんの散歩になっていたよ……。
だが蒼がデスクの椅子から立ち上がると、給仕長室の入り口に佇んだままの葉子の腕を掴み、中へと引き込んだ。
葉子の背後になったドアが、蒼の長い腕で引かれて閉められる。
矢嶋社長も前髪をかき上げながら、ため息をついた。
「うっかりだな。そこに誰も居ないと思い込むだなんて。ここに来ると心が安まる分、気が抜けてしまうな」
「社長のせいではありませんよ。自分も迂闊でした」
閉められたドアの前で、葉子はワインを抱えたまま、訳がわからずまだ呆然としていた。
そんな葉子の背を、蒼が押していく。
「はい、葉子ちゃんは、ここに座る」
「え、でも、給仕長はまだお仕事……」
「ちょっとだけ妻に戻ろうね。もういいですよね。矢嶋さん」
「そうだな。できれば葉子さんには、なにも知らないまま、素直に接してほしかったんだがね」
矢嶋社長も観念したようにして、顎をさすって口元を曲げている。少々不本意と言いたそうな顔に、葉子には見えた。
そのままパソコンデスクの椅子に座ると、蒼だけ立ったまま、今度は躊躇いもなく葉子に告げた。
「甲斐さんね。奥さんを亡くされてから、しばらく、ちょっとした引きこもりになっていたんだって」
「引きこもり……?」
「一生懸命看病している時は気力が張っていたんだろうね。葬儀も終えて、その後のご挨拶なども済ませてしばらくしたら、ぜんぜん、なにもしなくなったんだって、同居している長男さんが教えてくれたよ」
葉子は目を見開く――。いまだって、あんなにキビキビしているおじい様が、なんにもしなくなって引きこもっていた? 信じられなかった。
「もう何日も同じ服を着て、髪も髭もボーボーで、お部屋で食事をしていたんだって」
「信じられない……。だって、いまだって何事にも、きちんとされているから……」
「俺も信じられない。だって、いつもキリッと厳格な姿しか見せていなかった上司だったんだから」
「いや、私は少しわかるな。毎日忙しさに追われていたのに、急にやることがなくなったら、どうして良いかわからなくなると思う。相手をしてくれる妻がいれば、また違うのかもしれないが、その奥様も失ってというのなら、看病から開放されたのも手伝って、なにもしたくなくなるのかもしれない」
そこは年の功である年配の矢嶋社長のほうが、なんとなく想像しやすいようだった。
だが葉子も違うところで、少しわかる……。
奥様を亡くされた喪失感の大きさは、どれほどのことだったか。ある日突然、秀星を失ったあの気持ちを思い出すと、葉子は師匠のその気持ちを思っても涙が出そうになる。
「かと言ってさ。もう勤め上げたおじいちゃんが、部屋に閉じこもっているからってニートとは言えないでしょ。引きずり出す理由に困り果てていたみたいだよ。息子さんがご兄弟で大分に揃っているんだけど。奥様やお孫ちゃんまで総出で、あの手この手で引き出そうとしたけれど、全然ダメだったんだって。鬱病になるんじゃないか、なっているんじゃないかと、ご家族一同で話し合った結果、いよいよ診察につれていこうとしたら……」
「したら……?」
蒼が言葉を止めたので、葉子はその先を急かす。
なのに彼はどうしてか、葉子を見下ろして窺っているように見える?
「いきなり部屋から出てきて、散歩をしたり、規則正しい生活に戻ったり、きちんと生活するようになったらしい。葉子ちゃんは、どうしてだと思う?」
「どうしてって……」
答えられるわけがなく、葉子は蒼の問いに訝しむ。
遠い大分で起きていたことを、しかも尊敬する師匠のそんな姿など信じられなくて驚いているのに、北海道までやってくるほどの元気をどう取り戻したかなど、葉子にわかるわけがない。
だが蒼は、先ほどから葉子の目の色を追うようにして、ずっと見つめていて、その答えをきちんと伝えるためだからなのか、葉子を優しく諭すときの大人の目を見せている。
「ハコチャンネルだよ」
葉子は首を傾げる。
意味がわからなかった。どうしてそこで、最近になって少し距離ができた動画配信のことが出てきたのかわからない。
「えっと……。ハコチャンネルが、どうして」
「矢嶋さんから、秀星先輩が他界した知らせを聞いたときは、甲斐さんはまだ奥様の看病で必死だった。奥様を看取って見送って、落ち着いた頃に引きこもりになった。その数ヶ月後、矢嶋さんから、再度の連絡が来る。そこで、秀星先輩の写真を世に送り出そうと、湖畔でたった一人で唄っている女の子が動画配信の活動をしていると教えてもらった。それを視聴したら、部屋から出るようになったんだって」
あまりにも驚いて、葉子は言葉が出てこなくなった。
どうしてその配信が? ひきこもりのおじいちゃまを部屋から出すことに?
「それから、甲斐さんの日課は、朝の散歩、そして帰宅したら『ハコチャンネル』を視聴する。SNSにアップされる『北星秀』の写真を閲覧する。俺みたいに毎朝『いいね』をする。それが日課になった。そうして、毎日、配信を追っていると、ある時になって、ついにハコちゃんがやり遂げた。自分の部下だった男が死んで去っても、遺した写真が生き返る。前より輝きを増して――。ハコちゃんが引き寄せた結果が、また甲斐さんを駆り立てたんだろうね」
「え、甲斐チーフもアカウントを持っていて、蒼君みたいに、毎朝??」
「そう。俺と一緒に、毎朝『いいね』をタップしていたらしいよ。どのアカウントか知りたいくらいだよ。まさかの、元上司と一緒になって『いいね』をしていたなんてね」
元部下の最後の教え子と知って、ただチャンネルを観ていたわけではなかった?
では。甲斐チーフは、随分前から毎朝、葉子を観てくれていたことになる?
その時、葉子の中で、緑の東屋でランチをする『ハコ』を一生懸命になって追いかけて来た甲斐チーフが蘇る。息を切らして追いかけて来て、唄っている葉子を見つけた時の、あの笑顔――。
「つまり、甲斐さんは、秀星さんに会いに来たのと同時に、ハコちゃんにも会いに来ていたんだ。もう一度、働きたい。でももう年寄り。ご自分がサービスに厳しかった分、復帰は容易くない仕事だと諦めていたんだろうね。でも本心は『復帰したい』。そう素直に認められたのは、ハコちゃんが無駄だと言われながらもやり遂げた姿を見たからだそうだよ。できれば、ハコちゃんと、元部下だった俺と、そして、『北星秀』を大事に見送ってくれた『フレンチ十和田』で働いてみたい。その決意だったんだ。息子さんに教えてもらったんだけれど、『北海道で働くために、規則正しい生活に戻し健康を維持する』ために散歩を始めたんだって。だから、あちらのご家族も心配だけれど、引きこもられるよりかはずっといいと、快く送り出してくれたんだ。しかもそこで任された仕事が、まさかの、会いたかったハコちゃんの教育係。だからさ、めっちゃ力を入れているわけ、あのお師匠さんは。いまはそれで気力を保ってるの。でも、それがあるからというだけで、またいつその気力を失うのか、とても危うい状態なんだよ」
その『危うい』が葉子には、まだわからない。
立派な人にしか見えないからだ。それでも気を抜くと、あっという間に虚無感に襲われて、立ち直れなくなってしまうのだろうか。甲斐チーフの心に潜む闇をやっと感じて、葉子は密かに震える。
「どうして教えてくれなかったの」
「教えたら、いちいち気を遣うでしょ。知ったら今度は葉子にプレッシャーがかかると思ったんだ。自分の存在がいまは、師匠の生きる気力を支えているんだなんて知ったら、葉子ちゃんも余計な気遣いするでしょう。それを甲斐チーフに悟られると、また甲斐さんが気にするでしょう」
初めて水くさいという言葉を使いたくなった。
「気にしないから。聞かなかったことにする」
無言だった矢嶋社長も、蒼も、そんな葉子を見て、顔を見合わせている。
葉子にこのまま任せても大丈夫かどうか、判断の意思疎通を図っているように見えた。
「わかった。大丈夫だね。葉子」
「大丈夫。私も注意して見ておくし、いっぱい教えてもらいたいことあるから、必要だって伝わるようにする」
「甘えたらいいよ。甘えて頼ってほしいんだよ。仕事に対して甘えるんじゃない」
「わかってる。いつか大分に帰る方だと思って遠慮していたけれど、もう、ソムリエになるまで居てもらう。ソムリエになってもご家族が許してくれるなら、ここに居てもらう!」
いつにない葉子の強気を見たからなのか、蒼が驚きでのけぞって、矢嶋社長も目を丸くしていた。
「え、え。あの葉子さん? ちょっと力みすぎ。自然にね。ナチュラル~にねっ。どうしちゃったの、なんか、いつものかわいい奥ちゃんじゃなくて、ちょっと怖かったっ」
「怖いって。なんなのっ。でも、そうだね……、私、いっつも蒼君に頼り切ってるから」
「そうなのよ。そういうのが好きなのよ。だから甲斐さんも、俺が気持ちよくなっちゃうように、甘えてほしいと思うのよ」
なにそれ――と、今度は葉子が目を丸くしていた。
甘えてくれるのが気持ちがいい? 葉子は甘えなくなるように頑張ろうとしているのにだった。
すっかり夫妻の会話になっているそこに、矢嶋社長も入ってくる。
「あー、なんか篠田が言うこともわかるな。葉子さんは男の馬鹿らしい気持ちだと思うかもしれないし、パートナーの重荷にならないよう年若いご自分も成長しようと思っているだろうけれど。男ってそんなところある。男でなくても、目にかけた後輩に部下に弟子にも、そうだ、父親としても、そんな思いはあるよ」
「そそ、だから、いまはもう~甲斐師匠を頼っちゃって。ほんとはね、葉子の前ではキリッとした師匠のお顔を頑張っているけれど、知らないところ、んーっと元部下の俺の前では、『ハコちゃん、今度はいつ動画を配信するんだ』とか、『ハコちゃんがギターを弾いていた!!』とか大はしゃぎ。もうあれね、超大ファンだから」
わからなかった。ほんとに!
秀星が元部下で、葉子がその関係者という興味だけで見てくれていたとか、大事な人を失った時期がほぼ重なっているから、同じ時期に哀しみを癒やすように動画を通してシンクロしてくれていただけかと思っていた。
もちろん、そのシンクロもあったのかもしれない。
だが、まさか……。ご家族もどうにもならなかった事態だったのに、葉子の動画が、閉じこもっていたご老人を、また元の生活に戻すキッカケになっていただなんて……。
『エゴ』だったかもしれない。でも、自分がただやりたいことで我を通していても、どこかでなにかのキッカケになっているかもしれない。
もうそれだけで……。葉子も初めて感じた。『これは僕のエゴだ』と言いながら、どうして秀星が写真をやめなかったのか。
観てくれる人がいなければ、自分だけが楽しい『エゴ』でも満足。でも、もし……、もし……、誰かが観てくれた時になにかを感じてくれたのなら、それはもっと幸せなこと。そんな気持ちも絶対に持っていたはずなのだ。『いつか』を思って、シャッターを押していたのかもしれない。彼の最期の撮影もそうだ。誰が観てくれるだなんてもう考えてないエゴの塊になっていたとしても。『もし』、この写真を観た人のなにかになれたのなら……。そんな密やかな想い。
これまで少しずつは感じてきたが、こんなに強く感じたことはない。自分が既に師匠のためになることをしていただなんて。
葉子の『名もなき朝の唄』を聴いて、遠い大分で一人沈んでいたご老人も『名もなき朝の散歩』を始めていたのだ。
唄っていて良かった。ここにきて、また秀星の写真に意味がもたれたとも想えた。
ただ秀星のためという葉子の『エゴ』だったが、遠い知らない人だった師匠の力にもなっていたから。秀星がハコを動かしてくれたから、遠い私たちの師匠も救うことができたのかもしれない。
エゴがエゴを繋いでも、そこに『ひたむきな想い』があるのなら、誰かのためになる。
秀星さん、無駄じゃなかった。あなたの写真があって、私の唄がある。あなたの写真と私の唄があって、私たちのお師匠さんの散歩になっていたよ……。
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