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【後日談2】トロワ・メートル
23.金の葡萄を胸に
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甲斐チーフに悟られないよう、その話は早めに切り上げ、葉子は給仕長室からホールへ戻る。
試飲を心待ちにしている神楽君が、甲斐チーフからあれこれワインについての話を聞いているところだった。
ちょうど良く、神楽君が引き留めてくれていたようで、葉子はホッとする。さりげなく、二人の間に加わった。
「私も楽しみです。トカイワイン2種に、シャトー・ディケム! 今日のサービス頑張りますね」
「では、葉子さん。本日のワインリストの確認をいたしましょう」
「はい」
いつものワインカーブへ。立ち飲み用の丸いテーブル。そこで今日も葉子は師匠と共にワインの準備をする。
ここでセレクトしたボトルをすべて葉子が一人で準備をして、矢嶋社長に提供することになった。
「ワインの勧め方のリハーサルをしておきましょう」
「はい」
甲斐チーフをお客様と見立てて、ワインリストをお出しして、聞かれた質問に答える。
そのレクチャーの間も、葉子は少しだけ……。いまは凜としているおじい様でしかない師匠を見つめる。このままでいて欲しいと願いながら。
ワインのセレクト、リストの作成、デキャンタージュをするかしないか、最後は適温にしておく準備。
蒼が準備してくれていた秀星の道具をすべて身につけておき、それらを手に葉子は手際よく進めていく。
白ワインとスパークリングワインを冷やし、赤ワインはお食事の時間に合わせ適温にする。
最後、葉子は銀のワインテスターを指に引っかけ、それぞれのワインを試飲する。
「準備できました」
「どれ」
甲斐チーフも同じく、銀のテスターに少量のワインを注ぎ、口に含みテイスティングをする。
「うん、よろしいでしょう」
厨房の端にあるアルコール準備用のカウンターで、ワインクーラーにて保存しておく。
フレンチ十和田、ディナータイムの開始を迎える。
この日もお客様のテーブルから離れたところで、矢嶋社長が父の料理を食べていく。
葉子はさっそくアペリティフのメニューブックを片手に、矢嶋社長のテーブルへ。
「いらっしゃいませ。本日のアペリティフでございます」
差し出したメニューブックを、矢嶋社長が手に取り開いた。
「おや、スパークリングの日本酒も加わったのですね」
「はい。日本酒ですが極甘口ですので、アルコールも低めになっております。北海道産の米で醸造されているものです」
「いいですね。スパークリングワインのように味わえるということですね。こちらをいただきます」
「かしこまりました」
ほかのアペリティフには目もくれず、だった。もともと日本酒もお好きというのもあるのだろう。
メニューブックを小脇に抱えてテーブルから離れようとした時に、矢嶋社長に呼び止められる。
「こちらの日本酒は、どのようにして追加したのですか」
もう一度、テーブルに歩み寄り、矢嶋社長と向き合う。
「指導役のチーフと決めました」
「どのような過程で」
模擬のお客様ではなくて、経営者として聞いているのだと葉子は判断する。
「ワイン以外の北海道のお酒というものを勉強している最中に見つけました。貴腐ワイン同様、極甘口で低アルコール。これならアペリティフにも適用できそうですねと、私がこぼしたひと言でしたが、その時にチーフが『その通りですね。それならば、新メニューとして入れてみましょう』と仕入れてくださいました。試飲の結果、本日から採用となりました」
「なるほど。北海道のお米というのが良いですね。楽しみです」
お辞儀をしてテーブルから離れ厨房へ。料理人見習いの青年、鳥居君に準備してもらい、再度、矢嶋社長のテーブルへ。
サーブを終えてすぐに、矢嶋社長がひとくち味わう。
グラスを目の前に掲げて、しゅわしゅわと泡立つ気泡が下から上へと昇っていくのを、じっと見つめつつ、口元は風味の余韻を楽しんでいるようだった。
「いいですね。おいしいです。アミューズと合わせるのが楽しみです」
葉子も、密かに胸をなで下ろす。甲斐チーフが認めてくれたとはいえ、やはり最終判断は、監督をしている矢嶋社長だから。
その矢嶋社長が葉子を見上げて、笑顔を見せてくれる。
「北海道にこだわったところ、お父様の意志にしっかり応えていて、やはり今後が楽しみですね」
「ありがとうございます」
アペリティフをお届けして、葉子がすっと退いたタイミングで、今度はアミューズのサーブへと神楽君が入れ替わった。
今日は彼も社長のテーブル付きで、ひとりで料理の説明などをメートル・ドテルの代わりにすることになっていた。
頑張って――と目配せをすると、凜々しく背筋を伸ばしている神楽君が小さく頷いてくれた。
彼も堂々と、矢嶋社長へとアミューズを届ける。
この後、葉子もワインの管理をしながら、他のお客様には甲斐チーフと共にサーブをして、矢嶋社長にはフロマージュのデザートワインをお届けして、葉子の『テスト』は終了する。
お客様をすべて見送ると、矢嶋社長が甲斐チーフと向き合って、神妙な様子でひそひそとホールの隅で話し合っているのを葉子は見てしまう。
自信があるとは言わないけれど、出来ていなかったとは言いたくない。
おふたりが頷き合うと、甲斐チーフがこちらへ向かってきた。
「葉子さん、こちらへ」
片付けをしている途中だったが、チーフに連れられて給仕長室まで。
「給仕長、失礼いたします」
この頃になると、甲斐チーフはすっかり蒼の部下としての姿が板についていた。
なのに当のメートル・ドテルさんは、今日も外した蝶ネクタイをぐるぐると宙で回している。
それを見た甲斐チーフが眉間にしわを寄せた。さらに、蒼は『いけね』と肩をすくめて、蝶ネクタイをすぐにデスクに手放した。
元上司に見られたことを誤魔化すかのように、蒼がこの上ない笑顔を見せる。
「はい、お二人ともお疲れ様です。結果の報告ですか」
「矢嶋社長と協議をいたしまして、いまから十和田さんに伝えるところです。同時に給仕長へのご報告といたします」
「わかりました。どうぞ」
ドキドキしながら葉子もチーフの後をついて、給仕長室に一緒に入室する。
「えー、どうしよう。俺が緊張しちゃってるなあー」
蒼も妙に落ち着きなく、そわそわしながら、かっこよくセットしていた黒髪をかき上げて、崩してしまった。蒼君、心配してくれていたんだと、葉子はホロリと泣きたい気持ちになってくる。
「奥様がソムリエを目指すための、初のお一人業務でしたからね」
「では、いかがでしたでしょうか。十和田のソムリエ業務は――」
蒼の問いに、甲斐チーフがひと呼吸置いて、給仕長の彼をまっすぐに見据えた。
「合格です」
「え、ほんとうですか! わーー! やったー!!」
葉子より先に、蒼が師匠の目の前でバンザイをした。いつもの如く、大きな声で『バンザーイ、バンザーイ、ひゃっほっほ!!』と大声で叫んだので、甲斐チーフがのけぞり耳を塞ぎ、葉子も呆気にとられていた。
「よかったね、葉子ちゃん! はぁああ~、もう俺が緊張しちゃったあー。奥ちゃんがちゃんと出来るって信じていても、こんなに心配になっちゃうんだああー。しかも、合格って聞くと、感激が百倍になって襲ってきて、もうダメ~~」
久しぶりに『ぶえぇえ』と涙ぐむ仕草を見せたので、甲斐チーフがもう呆れて顔をしかめている。
「ほんっとにうるさいヤツだな。見ろ、まっさきに喜びを表したかった葉子さんが、その余韻も飛んでしまったような顔をしているじゃないか」
「あ。うわーん、ごめんね、葉子ちゃん。うるさい旦那だよねえ、俺~」
「ううん。私の分まで叫んでくれたと思ってる。見守ってくれて、ありがとうございました」
葉子が夫にお辞儀をすると、また蒼が『よくやったよぅ。がんばったよぅぅぅ』と、いつまでも感激に打ち震えているので、もう逆に葉子はおかしくなって笑っていた。
「葉子さん、初仕事、お疲れ様。そして、おめでとうございます」
「いいえ……。おめでとうだなんて。甲斐チーフがお側について、一から十まで指導してくれたうえでの準備と、アルコールのご案内とサーブでしたから……」
「最初の一歩ですよ。この一歩を忘れないでくださいね」
「はい」
師匠からもこの上ない笑みがこぼれた。葉子も、教え子として先生がそんな顔をしてくれると嬉しい。その笑顔にはもう儚さは感じられなかった。
こうして今は、教育をすることで生き甲斐を感じてほしいと葉子は願う。
「矢嶋社長からの評価ですが、思っていた以上に落ち着いた接客とご案内も上々、サーブも、まだ一流とは言いがたいが、これまでもやってきたこともあって手慣れていて違和感はないとのことでした。特にアペリティフに北海道産を意識したもの、的確なものを選べていたことを評価したいとのことです。ですが、それはチーフである上役の指導と監督付きで出来ていることは忘れないよう。いつか独り立ちが出来るようにとのことでした」
独り立ち。葉子の胸が一瞬だけ苦しくなった。
それは自分にとっては必ず越えねばならない最終目標ではあるが、その時は、この師匠との別れがやってくると気がついたからだ。
「指導役の私からもひと言。興味を持ってお勉強をしていたこと、そこで気になったことを指導役である私に伝えてくれたこと。そこから、フレンチ十和田のアペリティフに新しい商品が加わりました。これは葉子さんが意欲を持って勉強していたことから起きたことです。私の指導のもとであれば、アルコールの準備は出来ますし、ワインリストも前もって詳細を読み込んでおけば、接客もできます。ここまでは合格です。ですが、最初の一歩に過ぎません。これからは、ご自分でカーブからワインを選び、私の監督がなくともアルコールの準備が出来る、仕入れるまでを覚えて欲しいと思います」
師匠が言っていることすべてがわかるので、葉子も真顔で強く頷いた。
それまでは、このチーフにそばにいてほしいと思っている。
「次の二ヶ月後、また矢嶋社長が視察に来られる時に、新しいテストを行いたいと思っています」
「はい。わかりました。さらに精進いたします」
「そろそろ試飲テストも始めましょうね。ソムリエ試験の第二次試験はテイスティングです」
できるかな……と葉子は不安になってくる。
「私がこれまで見てきたところ、やはりシェフのお嬢様でしょうか。味覚に繊細なところがあると感じていますので、大丈夫ですよ。むしろ、楽しみですね。最初は原料になっているブドウの種類当てからやってみましょう」
甲斐チーフの微笑みに、葉子も緊張で縛っていた心がほぐれて柔らかくなってくるのがわかった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ。おじいちゃんですが、先生を続けられるよう頑張りますからね」
その言葉を聞けて、葉子は顔をほころばせる。
きっと大丈夫。師匠は、前を向いてちゃんと歩き始めていると葉子は思いたい。
「ソムリエになるまで、ご指導お願いいたします」
「もちろんですよ。きっと秀星もそれを見たかったと思います。ソムリエ試験に合格すると、金葡萄のバッジがもらえます。それを胸に付けられるよう頑張りましょう」
葡萄のバッジ。葉子もそれを夢見て、これから目指していく。
そんな師匠と弟子が信頼を深め合っているそばで、また蒼が『う~俺もそう思う~。秀星先輩が見てるよ~』とグズグズと泣き始めていたので、また葉子と甲斐チーフは一緒にギョッとする。
「もう~篠田、おまえったら。声がでかくてうるさいわ、涙もろいわ、いちいち騒がしいヤツだな」
「師匠と弟子の感動シーンだったんですもん。それは泣いちゃいますって……!」
でも。葉子は『ちょっと違うな』と妻として見抜いていた。
甲斐チーフが生きる気力を漲らせているとわかって、ホッと安心して涙が出ちゃったんだよね?
そんな蒼が、やっときらっと元気なダラシーノモードの全開笑顔に変貌する。
「ではでは!! ご褒美のお時間ですよね! 準備は旦那ちゃんの俺に任せて!」
すぐに準備に取りかかりまーす!! と、蒼が瞬く間に厨房へすっ飛んでいったので、また葉子と甲斐チーフはふたり揃って唖然としていた。
「葉子さん。ほんとうに、あんなうるさい男で、大丈夫なのかな?」
「慣れちゃったので……。最初は、なにこの人と思っていたんですけど」
「でも。いい奴ですよ。秀星が慕っていたほどにね」
「そうなんです。えっと、大好きなんです。落ち着きなくて騒がしいところも」
「いやあ、のろけられちゃいましたね。そもそも、篠田があんな愛妻家になるとは思いませんでしたよ」
甲斐チーフに笑われてしまったので、葉子は気恥ずかしくなり頬が熱くなっていた。
今夜はいまから、ご褒美の試飲が始まる。
試飲を心待ちにしている神楽君が、甲斐チーフからあれこれワインについての話を聞いているところだった。
ちょうど良く、神楽君が引き留めてくれていたようで、葉子はホッとする。さりげなく、二人の間に加わった。
「私も楽しみです。トカイワイン2種に、シャトー・ディケム! 今日のサービス頑張りますね」
「では、葉子さん。本日のワインリストの確認をいたしましょう」
「はい」
いつものワインカーブへ。立ち飲み用の丸いテーブル。そこで今日も葉子は師匠と共にワインの準備をする。
ここでセレクトしたボトルをすべて葉子が一人で準備をして、矢嶋社長に提供することになった。
「ワインの勧め方のリハーサルをしておきましょう」
「はい」
甲斐チーフをお客様と見立てて、ワインリストをお出しして、聞かれた質問に答える。
そのレクチャーの間も、葉子は少しだけ……。いまは凜としているおじい様でしかない師匠を見つめる。このままでいて欲しいと願いながら。
ワインのセレクト、リストの作成、デキャンタージュをするかしないか、最後は適温にしておく準備。
蒼が準備してくれていた秀星の道具をすべて身につけておき、それらを手に葉子は手際よく進めていく。
白ワインとスパークリングワインを冷やし、赤ワインはお食事の時間に合わせ適温にする。
最後、葉子は銀のワインテスターを指に引っかけ、それぞれのワインを試飲する。
「準備できました」
「どれ」
甲斐チーフも同じく、銀のテスターに少量のワインを注ぎ、口に含みテイスティングをする。
「うん、よろしいでしょう」
厨房の端にあるアルコール準備用のカウンターで、ワインクーラーにて保存しておく。
フレンチ十和田、ディナータイムの開始を迎える。
この日もお客様のテーブルから離れたところで、矢嶋社長が父の料理を食べていく。
葉子はさっそくアペリティフのメニューブックを片手に、矢嶋社長のテーブルへ。
「いらっしゃいませ。本日のアペリティフでございます」
差し出したメニューブックを、矢嶋社長が手に取り開いた。
「おや、スパークリングの日本酒も加わったのですね」
「はい。日本酒ですが極甘口ですので、アルコールも低めになっております。北海道産の米で醸造されているものです」
「いいですね。スパークリングワインのように味わえるということですね。こちらをいただきます」
「かしこまりました」
ほかのアペリティフには目もくれず、だった。もともと日本酒もお好きというのもあるのだろう。
メニューブックを小脇に抱えてテーブルから離れようとした時に、矢嶋社長に呼び止められる。
「こちらの日本酒は、どのようにして追加したのですか」
もう一度、テーブルに歩み寄り、矢嶋社長と向き合う。
「指導役のチーフと決めました」
「どのような過程で」
模擬のお客様ではなくて、経営者として聞いているのだと葉子は判断する。
「ワイン以外の北海道のお酒というものを勉強している最中に見つけました。貴腐ワイン同様、極甘口で低アルコール。これならアペリティフにも適用できそうですねと、私がこぼしたひと言でしたが、その時にチーフが『その通りですね。それならば、新メニューとして入れてみましょう』と仕入れてくださいました。試飲の結果、本日から採用となりました」
「なるほど。北海道のお米というのが良いですね。楽しみです」
お辞儀をしてテーブルから離れ厨房へ。料理人見習いの青年、鳥居君に準備してもらい、再度、矢嶋社長のテーブルへ。
サーブを終えてすぐに、矢嶋社長がひとくち味わう。
グラスを目の前に掲げて、しゅわしゅわと泡立つ気泡が下から上へと昇っていくのを、じっと見つめつつ、口元は風味の余韻を楽しんでいるようだった。
「いいですね。おいしいです。アミューズと合わせるのが楽しみです」
葉子も、密かに胸をなで下ろす。甲斐チーフが認めてくれたとはいえ、やはり最終判断は、監督をしている矢嶋社長だから。
その矢嶋社長が葉子を見上げて、笑顔を見せてくれる。
「北海道にこだわったところ、お父様の意志にしっかり応えていて、やはり今後が楽しみですね」
「ありがとうございます」
アペリティフをお届けして、葉子がすっと退いたタイミングで、今度はアミューズのサーブへと神楽君が入れ替わった。
今日は彼も社長のテーブル付きで、ひとりで料理の説明などをメートル・ドテルの代わりにすることになっていた。
頑張って――と目配せをすると、凜々しく背筋を伸ばしている神楽君が小さく頷いてくれた。
彼も堂々と、矢嶋社長へとアミューズを届ける。
この後、葉子もワインの管理をしながら、他のお客様には甲斐チーフと共にサーブをして、矢嶋社長にはフロマージュのデザートワインをお届けして、葉子の『テスト』は終了する。
お客様をすべて見送ると、矢嶋社長が甲斐チーフと向き合って、神妙な様子でひそひそとホールの隅で話し合っているのを葉子は見てしまう。
自信があるとは言わないけれど、出来ていなかったとは言いたくない。
おふたりが頷き合うと、甲斐チーフがこちらへ向かってきた。
「葉子さん、こちらへ」
片付けをしている途中だったが、チーフに連れられて給仕長室まで。
「給仕長、失礼いたします」
この頃になると、甲斐チーフはすっかり蒼の部下としての姿が板についていた。
なのに当のメートル・ドテルさんは、今日も外した蝶ネクタイをぐるぐると宙で回している。
それを見た甲斐チーフが眉間にしわを寄せた。さらに、蒼は『いけね』と肩をすくめて、蝶ネクタイをすぐにデスクに手放した。
元上司に見られたことを誤魔化すかのように、蒼がこの上ない笑顔を見せる。
「はい、お二人ともお疲れ様です。結果の報告ですか」
「矢嶋社長と協議をいたしまして、いまから十和田さんに伝えるところです。同時に給仕長へのご報告といたします」
「わかりました。どうぞ」
ドキドキしながら葉子もチーフの後をついて、給仕長室に一緒に入室する。
「えー、どうしよう。俺が緊張しちゃってるなあー」
蒼も妙に落ち着きなく、そわそわしながら、かっこよくセットしていた黒髪をかき上げて、崩してしまった。蒼君、心配してくれていたんだと、葉子はホロリと泣きたい気持ちになってくる。
「奥様がソムリエを目指すための、初のお一人業務でしたからね」
「では、いかがでしたでしょうか。十和田のソムリエ業務は――」
蒼の問いに、甲斐チーフがひと呼吸置いて、給仕長の彼をまっすぐに見据えた。
「合格です」
「え、ほんとうですか! わーー! やったー!!」
葉子より先に、蒼が師匠の目の前でバンザイをした。いつもの如く、大きな声で『バンザーイ、バンザーイ、ひゃっほっほ!!』と大声で叫んだので、甲斐チーフがのけぞり耳を塞ぎ、葉子も呆気にとられていた。
「よかったね、葉子ちゃん! はぁああ~、もう俺が緊張しちゃったあー。奥ちゃんがちゃんと出来るって信じていても、こんなに心配になっちゃうんだああー。しかも、合格って聞くと、感激が百倍になって襲ってきて、もうダメ~~」
久しぶりに『ぶえぇえ』と涙ぐむ仕草を見せたので、甲斐チーフがもう呆れて顔をしかめている。
「ほんっとにうるさいヤツだな。見ろ、まっさきに喜びを表したかった葉子さんが、その余韻も飛んでしまったような顔をしているじゃないか」
「あ。うわーん、ごめんね、葉子ちゃん。うるさい旦那だよねえ、俺~」
「ううん。私の分まで叫んでくれたと思ってる。見守ってくれて、ありがとうございました」
葉子が夫にお辞儀をすると、また蒼が『よくやったよぅ。がんばったよぅぅぅ』と、いつまでも感激に打ち震えているので、もう逆に葉子はおかしくなって笑っていた。
「葉子さん、初仕事、お疲れ様。そして、おめでとうございます」
「いいえ……。おめでとうだなんて。甲斐チーフがお側について、一から十まで指導してくれたうえでの準備と、アルコールのご案内とサーブでしたから……」
「最初の一歩ですよ。この一歩を忘れないでくださいね」
「はい」
師匠からもこの上ない笑みがこぼれた。葉子も、教え子として先生がそんな顔をしてくれると嬉しい。その笑顔にはもう儚さは感じられなかった。
こうして今は、教育をすることで生き甲斐を感じてほしいと葉子は願う。
「矢嶋社長からの評価ですが、思っていた以上に落ち着いた接客とご案内も上々、サーブも、まだ一流とは言いがたいが、これまでもやってきたこともあって手慣れていて違和感はないとのことでした。特にアペリティフに北海道産を意識したもの、的確なものを選べていたことを評価したいとのことです。ですが、それはチーフである上役の指導と監督付きで出来ていることは忘れないよう。いつか独り立ちが出来るようにとのことでした」
独り立ち。葉子の胸が一瞬だけ苦しくなった。
それは自分にとっては必ず越えねばならない最終目標ではあるが、その時は、この師匠との別れがやってくると気がついたからだ。
「指導役の私からもひと言。興味を持ってお勉強をしていたこと、そこで気になったことを指導役である私に伝えてくれたこと。そこから、フレンチ十和田のアペリティフに新しい商品が加わりました。これは葉子さんが意欲を持って勉強していたことから起きたことです。私の指導のもとであれば、アルコールの準備は出来ますし、ワインリストも前もって詳細を読み込んでおけば、接客もできます。ここまでは合格です。ですが、最初の一歩に過ぎません。これからは、ご自分でカーブからワインを選び、私の監督がなくともアルコールの準備が出来る、仕入れるまでを覚えて欲しいと思います」
師匠が言っていることすべてがわかるので、葉子も真顔で強く頷いた。
それまでは、このチーフにそばにいてほしいと思っている。
「次の二ヶ月後、また矢嶋社長が視察に来られる時に、新しいテストを行いたいと思っています」
「はい。わかりました。さらに精進いたします」
「そろそろ試飲テストも始めましょうね。ソムリエ試験の第二次試験はテイスティングです」
できるかな……と葉子は不安になってくる。
「私がこれまで見てきたところ、やはりシェフのお嬢様でしょうか。味覚に繊細なところがあると感じていますので、大丈夫ですよ。むしろ、楽しみですね。最初は原料になっているブドウの種類当てからやってみましょう」
甲斐チーフの微笑みに、葉子も緊張で縛っていた心がほぐれて柔らかくなってくるのがわかった。
「これからも、よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ。おじいちゃんですが、先生を続けられるよう頑張りますからね」
その言葉を聞けて、葉子は顔をほころばせる。
きっと大丈夫。師匠は、前を向いてちゃんと歩き始めていると葉子は思いたい。
「ソムリエになるまで、ご指導お願いいたします」
「もちろんですよ。きっと秀星もそれを見たかったと思います。ソムリエ試験に合格すると、金葡萄のバッジがもらえます。それを胸に付けられるよう頑張りましょう」
葡萄のバッジ。葉子もそれを夢見て、これから目指していく。
そんな師匠と弟子が信頼を深め合っているそばで、また蒼が『う~俺もそう思う~。秀星先輩が見てるよ~』とグズグズと泣き始めていたので、また葉子と甲斐チーフは一緒にギョッとする。
「もう~篠田、おまえったら。声がでかくてうるさいわ、涙もろいわ、いちいち騒がしいヤツだな」
「師匠と弟子の感動シーンだったんですもん。それは泣いちゃいますって……!」
でも。葉子は『ちょっと違うな』と妻として見抜いていた。
甲斐チーフが生きる気力を漲らせているとわかって、ホッと安心して涙が出ちゃったんだよね?
そんな蒼が、やっときらっと元気なダラシーノモードの全開笑顔に変貌する。
「ではでは!! ご褒美のお時間ですよね! 準備は旦那ちゃんの俺に任せて!」
すぐに準備に取りかかりまーす!! と、蒼が瞬く間に厨房へすっ飛んでいったので、また葉子と甲斐チーフはふたり揃って唖然としていた。
「葉子さん。ほんとうに、あんなうるさい男で、大丈夫なのかな?」
「慣れちゃったので……。最初は、なにこの人と思っていたんですけど」
「でも。いい奴ですよ。秀星が慕っていたほどにね」
「そうなんです。えっと、大好きなんです。落ち着きなくて騒がしいところも」
「いやあ、のろけられちゃいましたね。そもそも、篠田があんな愛妻家になるとは思いませんでしたよ」
甲斐チーフに笑われてしまったので、葉子は気恥ずかしくなり頬が熱くなっていた。
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