名もなき朝の唄〈湖畔のフレンチレストランで〉

市來茉莉(茉莉恵)

文字の大きさ
95 / 103
【後日談2】トロワ・メートル

34.アルパチさんが来る時は……

しおりを挟む
 北海道の早い夕暮れ、白い雪を被り結氷した湖面と冠雪をしている駒ヶ岳が茜に染まっていた。

「ああ、何度来てもいいですね。二ヶ月に一度、視察といいながら、私がちょっと心を休めるためにも来ているようなものです」

 社長がうっとりと大窓に映る大沼国定公園の景観を堪能している間に、葉子は厨房へとホットワインの準備に向かう。
『次に矢嶋社長が来た時に試してもらいましょうね』――。甲斐チーフと一緒に、ホットワインのレシピに取り組んだ。厨房で葉子自ら、そのホットワインを準備する。

 レース模様がある銀色のホルダーにはめ込んだガラスコップに入れてホールまで。ホールには照明がつき始めたが、矢嶋社長はまだ大窓の向こうに見える夕暮れを見つめていた。

「ヴァンショーです」
「ああ、ありがとう。いい香りだ。おいしそうですね。材料はなんでしょう」
「ホットワインには柑橘類の果汁を使われることが多いのですが、七飯町産の林檎をつけ込んでいます。あとはシナモンとクローブ、そしてハチミツです」
「なるほど。特産を活かしたわけですね。七飯町は西洋の林檎が初めて栽培された土地なのですよね」

 社長がそこで、銀の取っ手を握ってグラスを口元まで。一口味わっている様子を、葉子も固唾を飲んで待つ。

「うん、美味いです。試しに出してみましょう。女性客に喜ばれると思います。雪の中、こちらにやっと辿り着いてホッとする一杯になるでしょう。それにクリスマスらしさが増すと思います」

 社長の許可が出て、葉子もホッとする。これでアペリティフのメニューに加えることが出来そうだった。

「神戸でも出してみようかな。支店の大沼で出している北海道メニューとして。うん、やってみよう」

 ほら。なんでもすぐにお商売にしちゃうんだと、葉子はついクスリと微笑んでしまっていた。
 そんな葉子を矢嶋社長がテーブル席から見つめていることに気がつき、姿勢を改める。

「ここでひと息つきましたら、給仕長室に、篠田とお父様に揃って来るように伝えていただけますか」
「はい、かしこまりました」

 途端に、矢嶋社長の表情から穏やかさが消えた。ヴァンショーをおいしそうに味わっていても、もう、なにかを決断されているかのような……。
 いつも葉子には優しくおおらかなおじ様だけれど、こんなときは、雇い先の社長として遠く感じる。


 言われた通りに厨房にいる父と、給仕長室で事務仕事をしていた蒼に伝える。

 十五分ほど、ヴァンショーですっかり温まったよと葉子に笑顔を見せてくれた社長は、また険しい眼になって、給仕長室へと入っていった。
 蒼はもともとそこにいたので、後から父が入室して、その扉が固く閉ざされた。

 神楽君も様子がおかしいことに気がついたのか、葉子の元へやってきた。

「なんだろう。先月来たばかりだったのに。この店になにかあったのかな」
「そんな感じではなかったよ。こちらも順調だと笑顔で言っていたもの」

 若いふたりで首を傾げていた。

「そろそろお客様が来店されますよ」

 お喋りをしている若い二人に、甲斐チーフが気を引き締めるよう声をかけてきた。
 二人揃って、少し焦ってその場を離れる。それぞれの持ち場に戻った。

 心なしか甲斐チーフも表情が硬く見える? 矢嶋社長が来たから?


 その日のディナーも、いつも視察に来るとき同様に、矢嶋社長がチェックするための食事をした。
 ディナータイム終了。フレンチ十和田、本日閉店を迎える。
 片付けを始めようとした時に、蒼が葉子を給仕長室へと呼んだ。

 妙な胸騒ぎを覚えながら、葉子は蒼に連れられて、給仕長室に入った。

「なんでしょう。給仕長」
「あ、いいよ。夫と妻に戻って」

 仕事の声から、夫の声に変わっていることを知り、葉子も緊張している表情を少しだけ緩めた。

「矢嶋社長となにか話していたんだよね」
「うん。やり手の社長さんだから、動くと迅速で、こっちも従うしかなくてね」

 従うしかなくて? 動くと迅速で? もう動いちゃっているということ? なにかが変わるんだという恐れが、一気に葉子に襲ってきた。

 蒼も浮かぬ顔をしている。葉子にそれを言いにくそうだった。

「なに、蒼君……。もしかして、蒼君……、神戸に戻されちゃうの!?」

 一年前もこんなことあったよね!? と、葉子はあの時の寂しさを急激に思い出す。

「いやいや、俺はしばらくはここに固定が決まってるから。ここテスト経営しているでしょ。いろいろ試す場所として、矢嶋さんも重視しているし、俺も任されているから。ここけっこう儲けを出しているんだよ。観光を侮ってはいけないと、矢嶋さんが力を注いでいるから、それは大丈夫。ここ大事な拠点だから」
「じゃあ、なに??」

 夫がまだここに居られるとわかってホッとした反面。だったら今度はなにが起きているのかと、心が急くまま葉子は蒼に詰め寄った。

「甲斐さんだけど。矢嶋社長が預かるってさ」
「……預かる?」
「神戸で雇うってこと」
「え……?」

 聞こえなかったことにしたかった。
 なのに、葉子がしっかり理解するようにとばかりに、蒼が再度言い直した。

「神戸で仕事をさせたいんだってさ。大沼からいなくなるということだよ」

 それでも、葉子はまだ理解できなかった。
しおりを挟む
感想 106

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

25年目の真実

yuzu
ミステリー
結婚して25年。娘1人、夫婦2人の3人家族で幸せ……の筈だった。 明かされた真実に戸惑いながらも、愛を取り戻す夫婦の話。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

処理中です...