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本編
第二十六話 ギプスともおさらば
まあ実際のところ、大森二曹達が本気を出せば、こっちは勝てっこないっていうのは分かっていた。
偵察隊相手にこれだけ私がスタンプを押しまくれたのは、私が怪我人で小隊の人達がそれなりに手加減してくれていたことと、こそこそと狭い建物内でやり合っていていたからだ。だから今回のこの結果を二尉に報告したとしても、大森さん達偵察小隊の面々が困ることにはならないと思う……多分。
+++
そして次の日、いつものように休みをとって病院に出向いた。
実のところ今回の徹底抗戦に関しては、非常にありがたい作戦参謀殿なんていう存在が私にはいたんだな。それが、私と同じように通院をしていた陸自の偉い人で、目の前で一連の顛末と最終的な戦果を聞いて愉快そうに笑っている香取二佐。
私よりも少し後から病院にやってきて、リハビリのために週一で通院している。なんでも昔の古傷が痛むそうで、それを緩和するためのリハビリなんだとか。そして初日に隣り合ってリハビリを受けていた時に、私の愚痴を聞いてくれたのが、知恵を授けてくれるようになったきっかけだった。
「音無三曹がなかなか筋が良いのは分かったよ。女性なのが実に残念だな。男なら結構いいところにまでいけただろうに」
「私も自分が男だったらって思いますよ、ちょっと無念です」
だけど、こればかりはどうしようもないことだった。海外の軍隊では女性の歩兵もいることはいるけど、まだまだその数は少ないし、日本の自衛隊に関して言えば、それはまだ認められていないのだから。
「戦う料理人、いけるでしょうか?」
「十分に素質はあると思う」
私の質問に、香取二佐は真面目な顔をして頷いた。
「でもこれだけの戦果をあげられたのは、香取二佐のアドバイスのお蔭ですよ。私一人だったら、あっという間にスタンプを取り上げられちゃって、お話にならない状態だったと思います」
もちろんあの『反省中』のスタンプは、また使う機会があるかもしれないので、停戦になった今も大事にとってある。
「それは音無三曹に資質があるからだ。それが無い人間にどんな有益なアドバイスをしても、まったくの無駄だからな」
なかなか厳しいお言葉だ。
「でも市街戦とか近接戦闘とか、香取二佐って色々と御存知なんですね、尊敬しちゃいます」
「だてに長いこと陸自にいるわけじゃないからね」
顔を合わせるようになって二ヶ月が経っていたけど、香取二佐がどこの所属か等は詳しく聞いていなかった。なんとなくその鋭い目つきからして、二尉のお父さんに似た雰囲気を持っているなって感じるから、もしかしたらもしかする。そうなるとどちらの所属なんですか?なんて質問をしたら逆に困らせてしまうから、こちらからは聞かないようにしているのだ。
「音無三曹、どうぞー」
診察室から呼ばれてよっこらせと松葉杖を支えに立ち上がった。
「では失礼します。あ、もしかしたらギプスが取れるかもしれないので、香取二佐とお話しできるのも、今日が最後かもしれません」
「会えなくなるのは寂しいが、ギプスがとれるのはめでたいことじゃないか。ギプスがとれても安心せずに、大事にするようにな」
「はい。あの、香取二佐もお大事になさってくださいね」
「ありがとう」
「では失礼いたします」
そう言って敬礼をして診察室に向かった。そこではいつもの医官先生が、レントゲンの写真を見ながら首をかしげている。んん? もしかして、ギプス継続の可能性ありなんだろうか?
「先生?」
「ああ、そこに座って」
椅子に座って先生の言葉を待つ。先生は写真を眺め、手にしたボールペンで私の骨の写真を軽く叩きながら、フームとうなった。
「あの?」
「うん、さすが若いだけあって、回復力がすごいな。これなら今日で、ギプスとも松葉杖ともさよならだ」
「本当ですか? やった! これで心置きなくお風呂に入れます。もう防水対策がめんどくさくって、ウンザリしていたんですよ」
あの一手間から解放されるだけでホッとしてしまう。
「ただし油断は禁物だ。なにせ甲の骨は細いし、ここは体重がかかる場所でもある。プレートもまだ入ってるんだから、ギプスをとったからと言って、いきなり走り回ったりはしないように。その点はきちんと、診断報告書に書いておくからね」
「分かってます。とにかくこれがなくなるだけでも、随分と楽になりますよ」
そういうわけで、二ヶ月以上お世話になったギプスを取ってもらうことに。そしてそれが取り除かれると、青白い足が姿を現した。たった二ヶ月、しかもお日様に当たるような場所でもないのに、無事だった方の足と比べてなんとまあ青白いことか。
「……自分の足と分かっていても不気味ですね、まるで蝋人形みたい」
心なしか細くなった足首をさすってみる。
「すぐに元に戻りますよ」
看護師さんが私を安心させるように言った。この看護師さん、今はこんなに優しい微笑みを浮かべているけれど、この人も当然のことながら自衛官で、実のところものすごーく怖い人なのだ。
何故それを知っているかというと、以前、待ち合わせ室で走り回っていた子供に一喝したところを見かけたからだ。まさに自衛官という感じで、子供達も泣くことを忘れて気をつけ!ってなっていたのが、なんとも愉快な光景だった。
「今のところ抜釘は半年程度先を考えている。ここから先は月一で来るように。経過を見ながら手術の時期を決めよう」
「分かりました」
まだ当分は通院生活から抜け出せそうにない。だけど週一から月一の通院になるし。ギプスもなくなったし気分はすでに完治した気分。お祝いに美味しいケーキでも食べて帰ろう。あ、久し振りにママさんのお店に寄ろうかな。ここしばらくは、怪我のせいで出歩けなかったし。
そういうわけで駐屯地に引き返す車に乗せてもらうと、まっすぐ営内の寮には帰らずに、カフェの近くの交差点で降ろしてもらうことにした。
「こんにちはー……あれ?」
「いらっしゃい」
お店に入った私は、予想外のことに一瞬だけ固まる。
そこで私を出迎えてくれたのは、ママさんだけどママさんじゃないママさん。ああ、ややこしい、とにかく素顔のママさんだった。つまり本来の性別のママさんってこと。ん? ってことはママさんじゃなくてなんて呼べば? とにかくカフェの経営者夫妻の旦那様が立っていた。
「久し振りだね。随分と御無沙汰だったけど」
「ちょっと怪我をしちゃって、休みを取って通院していたものですから、こっちにくる時間がなくて」
とたんにママ……ああああ、ややこしい、この場合はなんて呼んだら良いの?! 元ママさん? お兄さん? それとも旦那さん? とにかく私の言葉を聞いたとたん心配そうな顔をした。あちらも元陸自の自衛官、訓練中に怪我をすることが珍しくないことはよく分かっているのだから。
「もう大丈夫なのかい?」
すごく心配そうな顔をしてくれているのが逆に申し訳ない。だって私が骨折した原因は訓練でも何でもなくて、調理室の鍋蓋なんだもの。
「はい。やっと普段並の生活に戻れそうなので、お祝いを兼ねて久し振りにここに寄ったんですよ」
「そうだったのか。今は夏ミカンのゼリーが人気だけど、久し振りだからケーキの方が良いかな?」
「レモンパイと温かい紅茶でお願いします」
「分かった、少し待っててね」
声色もいつもみたいな高めのものじゃないし、口調も男の人そのもので何処から見ても男性だ。まるで別のお店に来たみたいでちょっと落ち着かない。でも店内を見回せばいつも通りのお店だし、絞った音量で流れている音楽も普段通りのクラッシック。
「あの、なんでまたその、それ、なんですか?」
元ママさんがお茶とケーキをテーブルに置いてくれている時に、こそっと質問する。
「ん?」
「だから、そのー……ママさんじゃない恰好っていうか」
「ああ、これね、皆にもビックリされてるよ」
そう言いながら元ママさんは、ニッコリと微笑んだ。
「実はね、うちの奥さんが妊娠したんだよ。赤ん坊が生まれた時にママが二人だと大混乱だろう? だから僕は本来の姿に戻ることにしたってわけ」
奥さんは残念がっているけどねと、笑いながら付け加える。
「奥さんに? それはおめでとうございます! なるほど、ママさんじゃなくてパパさんに、クラスチェンジするってことですね?」
「そういうことだね。もちろん今まで通りにケーキは僕が作るから、お店手としては何も変わらないよ。ただ、ママさんがいなくなっただけで」
「なるほど。えっと、では、これからは何とお呼びすれば? マスターとか?」
それも何か違うような気がするけど、それぐらいしか思いつかない。
「うーん、今のところ常連さんはママさんって呼んでくれるけど、どうかな。御近所さんは苗字で古田さんって呼ぶから、それで落ち着くかもね」
「なるほど。じゃあ私もそうすることにします」
「じゃあ、どうぞごゆっくり。ああ、ところでいつもの二尉さんは? 彼も御無沙汰してるけど」
テーブルから離れようとして古田さんが立ち止まって尋ねてきた。
「森永二尉はいまレンジャー課程でこっちにはいないんですよ」
「なるほど、それは大変だ。幹部レンジャー課程、か。あと一ヶ月ってとこだね……ってことは今頃は実戦訓練か。心配だろう?」
「私は心配してませんよ」
ケーキを一口食べてからつぶやいた。
「そうなのかい?」
「はい。二尉なら金色の徽章を絶対に手に入れるって、信じてますから」
「すごい自信なんだね」
「ダテに一年も付き合ってませんからね」
「それはそれは、ごちそうさま」
古田さんが笑いながらテーブルを離れていく。
別に惚気ているわけじゃなくて、なんていうか私は確信があるんだ、何故か。別に人外の体力持ちだからとか、お父さんの血が流れているとかそういうのじゃなくて、なんて言うのかな、不思議なんだけど、とにかく間違いないって思えるのだ。
「二尉が帰ってきたら、またここに来なくちゃね。絶対に甘いものに飢えてると思うし」
この時期だとなにが食べたいって言うかな? あ、ショートケーキ党だったっけ? だったら甘夏がちょこんと乗っているショートケーキかな。ああ、でも定番のイチゴショートを選ぶかも。
「あと一ヶ月かあ……考えたら二尉が戻ってくるのって、まだまだ先だなあ」
寮に戻ってから、古田さんがギプスがとれたお祝いにとプレゼントしてくれたクッキーをかじりながら、机の上のカレンダーを眺めた。
ここ二ヶ月ほどは、怪我の通院もあったし偵察小隊との屋内での交戦があったから、それなりに気がまぎれていたけど、次の通院は来月だし小隊とも停戦になってしまったしで、何だか退屈な一ヶ月になりそうだ。
そりゃ二尉がいたって、なにか特別ことがあるってわけじゃない。だけど、たまの調理室での言い合いとか、意外と楽しみにしていたことに今更ながら気がついた。それがないとなんだか物足りない。
「停戦、もう少し引き延ばせば良かったかなあ……」
せめて大森さんにあと二つスタンプをおすまで、頑張れば良かったかもしれない。
「なにか面白いことでも起きれば、気がまぎれるんだけどな」
そんなことを考えてから、あわててその考えを打ち消した。いやいや、これ以上のトラブルは御免だから。退屈でちょうど良いんだってば、うん。
偵察隊相手にこれだけ私がスタンプを押しまくれたのは、私が怪我人で小隊の人達がそれなりに手加減してくれていたことと、こそこそと狭い建物内でやり合っていていたからだ。だから今回のこの結果を二尉に報告したとしても、大森さん達偵察小隊の面々が困ることにはならないと思う……多分。
+++
そして次の日、いつものように休みをとって病院に出向いた。
実のところ今回の徹底抗戦に関しては、非常にありがたい作戦参謀殿なんていう存在が私にはいたんだな。それが、私と同じように通院をしていた陸自の偉い人で、目の前で一連の顛末と最終的な戦果を聞いて愉快そうに笑っている香取二佐。
私よりも少し後から病院にやってきて、リハビリのために週一で通院している。なんでも昔の古傷が痛むそうで、それを緩和するためのリハビリなんだとか。そして初日に隣り合ってリハビリを受けていた時に、私の愚痴を聞いてくれたのが、知恵を授けてくれるようになったきっかけだった。
「音無三曹がなかなか筋が良いのは分かったよ。女性なのが実に残念だな。男なら結構いいところにまでいけただろうに」
「私も自分が男だったらって思いますよ、ちょっと無念です」
だけど、こればかりはどうしようもないことだった。海外の軍隊では女性の歩兵もいることはいるけど、まだまだその数は少ないし、日本の自衛隊に関して言えば、それはまだ認められていないのだから。
「戦う料理人、いけるでしょうか?」
「十分に素質はあると思う」
私の質問に、香取二佐は真面目な顔をして頷いた。
「でもこれだけの戦果をあげられたのは、香取二佐のアドバイスのお蔭ですよ。私一人だったら、あっという間にスタンプを取り上げられちゃって、お話にならない状態だったと思います」
もちろんあの『反省中』のスタンプは、また使う機会があるかもしれないので、停戦になった今も大事にとってある。
「それは音無三曹に資質があるからだ。それが無い人間にどんな有益なアドバイスをしても、まったくの無駄だからな」
なかなか厳しいお言葉だ。
「でも市街戦とか近接戦闘とか、香取二佐って色々と御存知なんですね、尊敬しちゃいます」
「だてに長いこと陸自にいるわけじゃないからね」
顔を合わせるようになって二ヶ月が経っていたけど、香取二佐がどこの所属か等は詳しく聞いていなかった。なんとなくその鋭い目つきからして、二尉のお父さんに似た雰囲気を持っているなって感じるから、もしかしたらもしかする。そうなるとどちらの所属なんですか?なんて質問をしたら逆に困らせてしまうから、こちらからは聞かないようにしているのだ。
「音無三曹、どうぞー」
診察室から呼ばれてよっこらせと松葉杖を支えに立ち上がった。
「では失礼します。あ、もしかしたらギプスが取れるかもしれないので、香取二佐とお話しできるのも、今日が最後かもしれません」
「会えなくなるのは寂しいが、ギプスがとれるのはめでたいことじゃないか。ギプスがとれても安心せずに、大事にするようにな」
「はい。あの、香取二佐もお大事になさってくださいね」
「ありがとう」
「では失礼いたします」
そう言って敬礼をして診察室に向かった。そこではいつもの医官先生が、レントゲンの写真を見ながら首をかしげている。んん? もしかして、ギプス継続の可能性ありなんだろうか?
「先生?」
「ああ、そこに座って」
椅子に座って先生の言葉を待つ。先生は写真を眺め、手にしたボールペンで私の骨の写真を軽く叩きながら、フームとうなった。
「あの?」
「うん、さすが若いだけあって、回復力がすごいな。これなら今日で、ギプスとも松葉杖ともさよならだ」
「本当ですか? やった! これで心置きなくお風呂に入れます。もう防水対策がめんどくさくって、ウンザリしていたんですよ」
あの一手間から解放されるだけでホッとしてしまう。
「ただし油断は禁物だ。なにせ甲の骨は細いし、ここは体重がかかる場所でもある。プレートもまだ入ってるんだから、ギプスをとったからと言って、いきなり走り回ったりはしないように。その点はきちんと、診断報告書に書いておくからね」
「分かってます。とにかくこれがなくなるだけでも、随分と楽になりますよ」
そういうわけで、二ヶ月以上お世話になったギプスを取ってもらうことに。そしてそれが取り除かれると、青白い足が姿を現した。たった二ヶ月、しかもお日様に当たるような場所でもないのに、無事だった方の足と比べてなんとまあ青白いことか。
「……自分の足と分かっていても不気味ですね、まるで蝋人形みたい」
心なしか細くなった足首をさすってみる。
「すぐに元に戻りますよ」
看護師さんが私を安心させるように言った。この看護師さん、今はこんなに優しい微笑みを浮かべているけれど、この人も当然のことながら自衛官で、実のところものすごーく怖い人なのだ。
何故それを知っているかというと、以前、待ち合わせ室で走り回っていた子供に一喝したところを見かけたからだ。まさに自衛官という感じで、子供達も泣くことを忘れて気をつけ!ってなっていたのが、なんとも愉快な光景だった。
「今のところ抜釘は半年程度先を考えている。ここから先は月一で来るように。経過を見ながら手術の時期を決めよう」
「分かりました」
まだ当分は通院生活から抜け出せそうにない。だけど週一から月一の通院になるし。ギプスもなくなったし気分はすでに完治した気分。お祝いに美味しいケーキでも食べて帰ろう。あ、久し振りにママさんのお店に寄ろうかな。ここしばらくは、怪我のせいで出歩けなかったし。
そういうわけで駐屯地に引き返す車に乗せてもらうと、まっすぐ営内の寮には帰らずに、カフェの近くの交差点で降ろしてもらうことにした。
「こんにちはー……あれ?」
「いらっしゃい」
お店に入った私は、予想外のことに一瞬だけ固まる。
そこで私を出迎えてくれたのは、ママさんだけどママさんじゃないママさん。ああ、ややこしい、とにかく素顔のママさんだった。つまり本来の性別のママさんってこと。ん? ってことはママさんじゃなくてなんて呼べば? とにかくカフェの経営者夫妻の旦那様が立っていた。
「久し振りだね。随分と御無沙汰だったけど」
「ちょっと怪我をしちゃって、休みを取って通院していたものですから、こっちにくる時間がなくて」
とたんにママ……ああああ、ややこしい、この場合はなんて呼んだら良いの?! 元ママさん? お兄さん? それとも旦那さん? とにかく私の言葉を聞いたとたん心配そうな顔をした。あちらも元陸自の自衛官、訓練中に怪我をすることが珍しくないことはよく分かっているのだから。
「もう大丈夫なのかい?」
すごく心配そうな顔をしてくれているのが逆に申し訳ない。だって私が骨折した原因は訓練でも何でもなくて、調理室の鍋蓋なんだもの。
「はい。やっと普段並の生活に戻れそうなので、お祝いを兼ねて久し振りにここに寄ったんですよ」
「そうだったのか。今は夏ミカンのゼリーが人気だけど、久し振りだからケーキの方が良いかな?」
「レモンパイと温かい紅茶でお願いします」
「分かった、少し待っててね」
声色もいつもみたいな高めのものじゃないし、口調も男の人そのもので何処から見ても男性だ。まるで別のお店に来たみたいでちょっと落ち着かない。でも店内を見回せばいつも通りのお店だし、絞った音量で流れている音楽も普段通りのクラッシック。
「あの、なんでまたその、それ、なんですか?」
元ママさんがお茶とケーキをテーブルに置いてくれている時に、こそっと質問する。
「ん?」
「だから、そのー……ママさんじゃない恰好っていうか」
「ああ、これね、皆にもビックリされてるよ」
そう言いながら元ママさんは、ニッコリと微笑んだ。
「実はね、うちの奥さんが妊娠したんだよ。赤ん坊が生まれた時にママが二人だと大混乱だろう? だから僕は本来の姿に戻ることにしたってわけ」
奥さんは残念がっているけどねと、笑いながら付け加える。
「奥さんに? それはおめでとうございます! なるほど、ママさんじゃなくてパパさんに、クラスチェンジするってことですね?」
「そういうことだね。もちろん今まで通りにケーキは僕が作るから、お店手としては何も変わらないよ。ただ、ママさんがいなくなっただけで」
「なるほど。えっと、では、これからは何とお呼びすれば? マスターとか?」
それも何か違うような気がするけど、それぐらいしか思いつかない。
「うーん、今のところ常連さんはママさんって呼んでくれるけど、どうかな。御近所さんは苗字で古田さんって呼ぶから、それで落ち着くかもね」
「なるほど。じゃあ私もそうすることにします」
「じゃあ、どうぞごゆっくり。ああ、ところでいつもの二尉さんは? 彼も御無沙汰してるけど」
テーブルから離れようとして古田さんが立ち止まって尋ねてきた。
「森永二尉はいまレンジャー課程でこっちにはいないんですよ」
「なるほど、それは大変だ。幹部レンジャー課程、か。あと一ヶ月ってとこだね……ってことは今頃は実戦訓練か。心配だろう?」
「私は心配してませんよ」
ケーキを一口食べてからつぶやいた。
「そうなのかい?」
「はい。二尉なら金色の徽章を絶対に手に入れるって、信じてますから」
「すごい自信なんだね」
「ダテに一年も付き合ってませんからね」
「それはそれは、ごちそうさま」
古田さんが笑いながらテーブルを離れていく。
別に惚気ているわけじゃなくて、なんていうか私は確信があるんだ、何故か。別に人外の体力持ちだからとか、お父さんの血が流れているとかそういうのじゃなくて、なんて言うのかな、不思議なんだけど、とにかく間違いないって思えるのだ。
「二尉が帰ってきたら、またここに来なくちゃね。絶対に甘いものに飢えてると思うし」
この時期だとなにが食べたいって言うかな? あ、ショートケーキ党だったっけ? だったら甘夏がちょこんと乗っているショートケーキかな。ああ、でも定番のイチゴショートを選ぶかも。
「あと一ヶ月かあ……考えたら二尉が戻ってくるのって、まだまだ先だなあ」
寮に戻ってから、古田さんがギプスがとれたお祝いにとプレゼントしてくれたクッキーをかじりながら、机の上のカレンダーを眺めた。
ここ二ヶ月ほどは、怪我の通院もあったし偵察小隊との屋内での交戦があったから、それなりに気がまぎれていたけど、次の通院は来月だし小隊とも停戦になってしまったしで、何だか退屈な一ヶ月になりそうだ。
そりゃ二尉がいたって、なにか特別ことがあるってわけじゃない。だけど、たまの調理室での言い合いとか、意外と楽しみにしていたことに今更ながら気がついた。それがないとなんだか物足りない。
「停戦、もう少し引き延ばせば良かったかなあ……」
せめて大森さんにあと二つスタンプをおすまで、頑張れば良かったかもしれない。
「なにか面白いことでも起きれば、気がまぎれるんだけどな」
そんなことを考えてから、あわててその考えを打ち消した。いやいや、これ以上のトラブルは御免だから。退屈でちょうど良いんだってば、うん。
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