僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第二部

第十二話 北川内科医院

「まさか雛子ひなこ先生が、あんなことを言い出すとは、思いませんでしたよ」

 ホームに上がったところで、南山みなみやまさんが苦笑いをしながらつぶやいた。

「なにがですか?」
中枢性ちゅうすうせいなんとかってやつです」
「ああ。もしかして、あの続きを聞きたいんですか?」
「遠慮します」

 そしてゴニョゴニョと、なにやら口の中で言っている。

「なんですか? 言いたいことがあるなら、はっきり言ってもらって良いですよ?」
「いえ、なんでもありません。雛子先生はお医者さんなんだなって、あらためて実感しているところです」
「そりゃあ私は医者ですから。……まだ研修医で半人前ですけど」
「僕からしたら、もう立派なお医者さんですよ」

 そうこうしているうちに、ホームに電車が入ってきたので、二人して乗り込んだ。週末ということもあって、こんな時間でも、お酒を飲んでほろ酔い気分の、いい感じになっているサラリーマンさん達の姿が多い。

「ところで、私のアヒルちゃんは元気にしてますか?」
「今回も一緒に、南米に行きましたよ」
「あ、それで思い出した。そう言えば南山さんが出張中に、変な夢を見たんですよ、私」
「夢?」

 そこで、以前に見た動物円卓会議の夢の話をした。

「軟禁されているって悲しんでいたのって、絶対に私のアヒルちゃんだと思うんですよね」
「小さな怪獣達に虐待されているのが、僕が渡したボールペン達ですか……」
「どちらも、南山さんのせいで困ってるんだと思いますよ。心当たりありませんか? 夜中に寝苦しいとか、どこからか視線を感じるとか」

 南山さんは、私の問い掛けにしばらく考えを巡らせていたようだが、やがて首を横に振った。

「僕は寝つきが良い方ですし、その手の勘は皆無なので、そんな気配はまったく」

 そう言えばアヒルらしき声も、そんなことを言って文句を言っていたような気がする。

「夢にまで見るなんて、よっぽど気に入ってるんですね、あのアヒル」
「そりゃあ、学生時代から苦楽を共にしてきた子ですから。あ、そう言えば南山さん、どこの駅で降りるんですか?」

 切符を買おうとしたら南山さんがさっさと買ってくれてたので、駅の名前を聞きそびれてしまっていたのを思い出した。

「えっとここから三駅目の……」

 そう言って駅の名前を口にする。ん? どこかで聞いたことのある駅名だ。そしてそこで電車を降りたところで、聞いたことがあるはずだと納得した。

「……南山さん」
「なんですか?」
「南山さんは、こちらに住んで何年目なんですか?」
「大学を卒業してからですから、もう五年ぐらいでしょうか。それがなにか?」

 私の質問に首をかしげている。

「もしかして気がつかなかっただけで、しばらくの間は私達、御近所さんだったかも」
「どういうことです?」
「うちの実家、すぐそこなんです。卒業するまでは、実家から通っていたんですよ、私」
「え?!」

 南山さんの住んでいるマンションと、私の実家がある場所は、駅を挟んで東西に位置している。だから御近所さんと言っても、同じ町内とかそういうものではないけれど、間違いなく最寄りの駅は同じだ。つまりお互いの通勤通学の時間帯によっては、ここですれ違っていたかもしれないということになる。

「あ、そうだ」

 そこまで考えて名案を思いついた。

「念のためにうちで診察していきますか? それ、万が一インフルエンザだったら困りますし」
「え?」

 改札を出たところで南山さんが固まる。

「うちは小さな町医者ですけど、このシーズンならインフルエンザの診断キットぐらい、置いてあると思いますよ?」
「いや、その、さすがにインフルエンザじゃないと思いますけど」
「実家の医院は祖父と父親の縄張りだから、私が南山さんの鼻に綿棒をつっこむことはしませんから、心配は御無用です」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「万が一疑いありとなって調べることになっても、父親にさせますから心配はいりませんよ。あ、ちょっと連絡しておきますね」

 そう言ってカバンの中から携帯電話を引っ張り出し、通話ボタンを押した。そこで慌てた南山さんが、電話を持った私の手をつかむ。

「心配してもらえるのは嬉しいんですが、こんな時間ですし」
「小さいお子さんの急な発熱で、夜中に患者さんが駆け込んでくることもありますから。それにまだ十時前ですし。皆して起きてますから」

 横であたふたしている南山さんのことは放っておいて、実家へ向かう道を歩きながら電話を耳に当てた。

北川きたがわでございます~』

 相変わらず元気で呑気な母親の声が、耳に飛び込んできた。

「あ、お母さん? 雛子だけど」
『あらヒナちゃん。どうしたの、珍しいわね』
「今、お父さんいる? ちょっとてほしい人がいるんだけどな」
『あら、そうなの? 今どこに?』
「駅を出たところだから、十五分もかからないと思う」
『具合が悪いのは、どのぐらいのお子さん?』
「お子さんじゃなくて、成人男性一名」
『お父さんには、ちゃんとして待っているように言っておくわ。迎えに行かなくても良い?』
「大丈夫。今からそっちに向かうのでお願いします」
『分かった。気をつけて来なさいね』

 電話を切って横を見ると、そこに南山さんの姿はない。振り返えると、少し離れた場所で立ち尽くしている。

「どうしたんですか? 行きますよ?」
「本当に行くんですね?」
「はい」
「……分かりました」

 溜め息をつくと、私の後をついて歩き始めた。チラリと顔を見上げると、なにやら難しい顔をしている。

「イヤなんですか? 市販の薬を飲むより、お医者さんで出してもらう薬の方が、安いし効きますよ?」
「そういうことじゃなくて、あまりにも突然すぎて心の準備ができていないんです。ぶっつけ本番なんて、あまり経験がないことなので」
「なにを大袈裟おおげさなことを言ってるんですか。るにしても、ちょっと聴診器をあてるぐらいだから大丈夫」
「…………雛子先生は、本当にお医者さんなんですね」
「???」

 南山さんは私の隣に立つと、もう一度溜め息をついてからニッコリと微笑む。

「そちらがそう出るなら、こちらにも考えがあります」
「はい?」
「連れて行くと言ったのは、雛子先生なんですからね。そこを忘れないでください」
「はあ」

 なんでそんなことを念押しするのかと不思議に思いながら、久しぶりの我が家への道のりを歩く。しばらくすると病院の看板が見えてきた。私達が来ると聞いて門柱の電気をつけておいてくれたみたいで、医院の方にも明かりがともっている。

「ただいま~」
「お邪魔します」

 医院の方の玄関口から入ると、母親が出迎えてくれた。

「いらっしゃい。お爺ちゃんが診察室で待ってるから、さっそくてもらいなさい」
「え、お父さんは? いるんだよね?」
「なんだかね、俺は会わないとか言って、トイレから出てこないのよ」
「診療拒否とかなに考えているんだか……」

 呆れていると診察室のドアが開いて、白衣を羽織った祖父が顔を出して手招きをした。

「そこは冷えるからこっちにおいで。お茶とお菓子も用意してあるぞ」
「お爺ちゃん診察なんだってば……」
「わしだってまだ医者だぞ。ほれ、こっちの部屋が冷えるじゃないか。さっさと来なさい、二人とも」

 診察室に入ると、そこはどう見てもお客さんお迎えモード。普段は置いていないような丸テーブルが部屋の真ん中に陣取っていて、その上にお茶とお菓子が置かれている。しかも、椅子は背もたれのある座り心地の良さそうなものだし。どう考えても診察する場所と雰囲気じゃない。椅子に座ると、さっそく祖父が南山さんの顔を観察しはじめた。いわゆる視診ししんというものを始めた……と思いたい。

「そちらのお名前は?」
南山みなみやま裕章ひろあきともうします」
「どちらにお勤めですかな?」
「ちょっとお爺ちゃん、それ診察と関係ないんじゃ……?」

 口を挟もうとしたのに、まったく無視されてしまった。

「外務省の南米局という部署に」
「南米ですか。あちらはまだまだ、医療が遅れている地域が多いところですな」
「そうですね。そのあたりの是正のために、政府で援助をしていこうという話になっています」

 しかも南山さんまで、私のことを無視するのはどういうこと?

「なるほど。それがせんだっての、外務大臣の外遊で話し合われたことだったわけですな。ところで孫とは、どういった経緯でお知り合いになったのですかな?」
「あの、お爺ちゃん……」
「お前はそこで、おとなしくクッキーでも食べてなさい」

 そう言って、目の前にクッキーが入った器を置かれてしまう。その横にお茶の入ったお湯呑を置いてくれたのは、なぜか南山さん。

「喉をつまらせないように」
「医者は私の方なのに……」

 邪魔者扱い状態にムカつきながら、クッキーを一つつまんだ。

「私が通勤途中で具合が悪くなって、救急車で運び込まれたのが、雛子さんの勤めている病院だったんです。その時に、担当医をしていただきました」
「なるほどなるほど。孫はまだまだ尻の青いひよっこだから、色々と御迷惑をかけたのではないですかな?」

 祖父の問いに、南山さんはいえいえと首を横に振る。

「いえ。迷惑をかけたのはこちらの方です。どうしても期日までに準備を終わらさなければならない案件があって、病院には便宜をはかっていただきましたし、雛子さんにも随分と御迷惑をかけたと、今でも申し訳なく思っています」

 まあ確かに、他の人達よりはずっと申し訳なさそうな顔をしていたとは思う。仕事はしていたけど。

「宮仕えというのは、なかなか大変なことでしょうな。それで今はすでに退院されていると思うのですが、今夜はなぜ雛子と一緒なのか、聞いてもよろしいですかな?」
「はい。医者と患者として出会ったのを御縁に、今は雛子さんとお付き合いをさせていただいておりまして、今夜も食事を御一緒しようと思っていたのですが、なぜかこういうことになっております」

 あやうくクッキーを噴き出しそうになった。ちょっと待って、なにかが違うような気がする。

「やはりそうでしたか。鼻がつまっているのは薬を出す必要もないようですが、恋の治療は難航しているようですな」
「そうですね。なにせ相手は雛子さんなので、思うように治療が進まないというのが現状です」

 なぜかその言葉に、祖父は気の毒そうに分かりますよとうなづいている。

「つまりはこれの父親がトイレにこもる必要は、まだなかったということですな」
「残念ながら今のところは」
「ねえ、お二人さん。この無意味な問診は、いつまで続けるつもり?」

 祖父の目がこちらに一瞬だけ向いたが、すぐに南山さんの方へと戻ってしまった。

「医者になると言い出したのを喜んで、好きに勉強ばかりさせておいたのが悪かったんでしょうなあ。申し訳ない」
「いえいえ。お蔭で、楽しくすごさせていただいています」

 無視されてる……。

 それから祖父と南山さんとの間で、治療方針と称した恋愛談義なるものがなされ、私はクッキーを食べながら、それを無理やり聞かされるハメになった。その長い話から解放されたのは、一時間近く経ってからのこと。

「疲れた……」
「だから本当に行くんですねって、念押ししたのに」
「まさか南山さんが、祖父を味方につける戦略を取るとは思ってなかったんですよ!」

 そう言い返しながら、病院を出る時に母親から渡された紙袋の中味を見る。おかずがあれこれ詰め込まれたタッパがいくつか。祖父だけじゃなく母親もか……。

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、ですからね。雛子先生のお蔭で、心強い味方ができました」

 初回の交渉は大成功ですねと満足そうに笑った南出さんの声は、すでに鼻声ではなくなっていた。
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