僕の主治医さん

鏡野ゆう

文字の大きさ
33 / 54
僕の主治医さん 第三部

第五話 旅は道連れ

 裕章ひろあきさんの出張の日程もあっと言う間に終わり、今夜の便で日本を離れることになっている。

 地球の裏側からわざわざ戻ってきただけのことはあって、裕章さんは連日遅くまで会議漬けだったし、私も西入にしいり先生に、大手術をするから良い経験だからしっかり勉強しなさいと駆り出されてしまい、仕事が終わってからのお食事デートすらまったくできなかった。

 だけど本来は、声だけのやり取りでこんな風に顔を合わせることもなかったはずなんだから、それで文句を言ったら贅沢ぜいたくというものよね。

 そして、なんとか見送りに来る時間を捻り出して空港までついてきた私に、裕章さんはニコニコしながら手を差し出している。別にお餞別せんべつをねだっているわけではなさそうだ。

「なに?」
「僕はこれからあっちに戻るんだから、相棒を返してもらわないと」
「金ぴかのアヒルちゃんじゃダメなの?」
「それは僕が雛子ひなこさんにプレゼントしたもので、僕が持っていても意味がないだろ?」

 はいはい渡してと、当然のように手を目の前で振られては、拒否できそうにない。

「これ、もともと私のアヒルなんだけどなあ……」

 ブツブツとつぶやきながら、バッグの中に手を突っ込んだ。取り出したのは、心なしか不機嫌そうな顔になっている、アヒルちゃんのボールペン。ここしばらくは一緒に病院に出勤していたから、今日もバッグの中にいたのだ。

「そんなことわかってるよ。だけど雛子さん代わりになれるのは、そいつしかいないんだから」
「ねえ、こっちの子じゃダメ?」

 そう言って、さらにバッグの中からペンギンのボールペンを出してみる。この子は、裕章さんが一番最初にくれたボールペンだ。

「それも僕があげたやつじゃないか。ダメダメ、それじゃあ、雛子さんの代わりにはならないよ」
「だって裕章さんがどんどん渡すから、自分で買う必要がなかったんだもの」
「だから僕がつれて行くのは、こっちのアヒルで良いんだよ」

 裕章さんは、私が握りしめていたアヒルの黄色い頭をつかんで取り上げると、さっさと上着のポケットに入れてしまった。

「本当につれて行くつもり?」
「当然」

 ポケットからこっちを見ているアヒルが、一瞬だけ泣きそうな顔に見えたのは、きっと気のせいだと思いたい。

「せっかく私の手元に戻ってきたのに……。夜中に寂しくて泣いちゃったりして」
「僕が気がつけたら慰めてやるよ」

 でも裕章さんのことだから、きっと変な夢を見たなで終わっちゃう気がするんだけど……。

「そして僕から、雛子さんに渡すものはこっち」

 テーブルの上に置かれたのは封筒が二つ。一つは随分と分厚い。

「もしかしてお勉強用のテキスト?」
「うん。あと半年で、これだけ覚えられるかどうかわからないけどね。仕事の合間に、上野うえの達と役立ちそうな会話集を作ったんだ」

 それでこんなに、分厚くなってしまったらしい。

「読めるように、カタカナで読み方はふっておいたけど、ちゃんとした発音のものもあった方が良いだろうから、それはあっちに戻ってからメールで送るよ」
「会議で忙しいのに、そんなことしてたの?」

 パラパラと見ただけでもかなりの分量だ。しかもきちんとプリントされた状態。

「僕はちゃんと会議に出ていたよ。これをやってくれたのは、上野と下田しもだ。聴き取りの方は随分と進歩したからね。簡単な会話のカンペがあっても損はしないだろ?」
「たしかに」

 スパルタな先生のお蔭が、今では随分と英語の会話がわかるようになっていた。試しに海外ドラマを吹替えではなく原語で観てみたら、すんなりと会話の内容が頭に入ってくるんだもの、自分でもこの半年の勉強の成果にビックリ。裕章さんが言うには、ちゃんと勉強をして基礎ができているんだから、当然なんだよってことらしい。

「で、こっちはなんなの?」

 もう一方の封筒の中をのぞき込むと、パスポートの申請書らしきものが色々と入っていた。

「パスポートは有効期限が切れて、タンスの引き出しに寝ているって言ってたろ? いくら僕等が優秀でも、たった二日でパスポートを発行するのは無理だからね。これに必要なことを書いて、必要なものをそろえた上で、下田に渡すように。後の手配はとあいつがしてくれるから」

 そうそう。これがないと裕章さんについていけないものね。……ん? でもなんでそこで下田さん?

「私が休みの日に、必要なものをそろえて旅券事務所に行けば良いのよね?」

 どうしてわざわざ、そこで下田さんの名前が出てくるの?

「雛子さんが取得しなきゃいけないのは、一般旅券じゃないんだよ。雛子さんは僕の妻としてあっちに行くわけで、つまるところそれって、外交官の妻になって渡航するってことだろ?」
「そうだけど、それとこれとなんの関係が?」

 よくわからなくて首をかしげてしまう。外交旅券というものが存在するのは、裕章さんが帰国した日に聞いたけど、申請の方法も違うものなの? 私はてっきり、普通に旅券事務所で申請すれば良いと思っていたんだけどな。

「外交旅券の申請は、一般のパスポートの申請とはちょっと違うんだよ」
「そうなの? へえ……知らなかった」

 それを持つと、もしかして空港の入管でもめた時には、外交特権がどうの~なんてかっこいいことが言えるわけ?

「……雛子さん」
「なに?」
「きっと頭の中で、映画みたいなことを考えていると思うけど、外交旅券を持つことと、外交特権を行使できることは違うからね」
「……そうなの」

 そういう事態に直面することなんてないだろうけど、なんだかちょっとガッカリ。

「ただ身体検査や荷物検査に関しては、雛子さんにも拒否してもらうことになるんだけどね」
「どうして?」
「たとえ家族でも、その手の文書やメモ書きを誰からことづかって、帰国することがあるかもしれないだろ? 渡された時だけ拒否したら、なにか持っているって丸分かりじゃないか。だから、いつも拒否しなくちゃいけないんだ。もちろん、外交パスポートを持っているってことを相手に伝えてのことだけどね。外交官の身体の不可侵というのを利用するわけだけど……雛子さん、大丈夫?」

 私の目がボンヤリとしてきたせいか、裕章さんは言葉を切ってのぞき込んできた。

「多分、大丈夫。私って、医学以外のことに関してはほんとに無知なんだなってことが、いまさらのようにわかって、ガッカリしてるだけだから」

 私が溜め息まじりにそう言うと、裕章さんは慰めるように私の手を軽く叩いてから握る。

「知らなくて当然だよ。こういうことは、関係ない世界の人には、知りようのないことなんだから」
「でも映画とかドラマでも、似たようにシーンはあるわけだし……」
「でも大半の人は、それを見てもノンフィクションだとは思わないだろ? あくまでもストーリーを面白くするための、大袈裟おおげさな演出だって思っている人がほとんどだ」

 だけど本当は違うのよね? 外交官は、それぞれの国同士の情報戦の一役を担っていて、裕章さんもその一人なわけだ。

「なんだか、ちゃんと裕章さんの奥さんをやっていけるのか、心配になってきた……」
「そんなに難しく考えなくても大丈夫だよ」
「だと良いんだけど……」

 西入先生が、ハッタリがきかせられる医者になれって言っていたけど、こっちでもそれが役に立ちそうな雰囲気。やっぱり今の世の中、バカ正直なままではいられないってことなのね。

「それで話は戻るけど、どうして下田さんに渡す必要があるの? 申請書を提出する窓口が違っても、休みを利用すれば問題ないんじゃ?」
「申請手続きが一般旅券よりもややこしいから、雛子さんが申請に出向くよりも、下田に任せた方が良いと思って」

 普通の旅券発行の申請の時よりも、書かなきゃいけない書類が多いらしい。それとパスポート用に使う写真の判定も、一般旅券で使用する時よりも厳しいんだとか。

「年内にきちんと提出しておいた方が、書類に不備があった時に安心だから、クリスマスイブまでに必要なものをすべてそろえて、病院に持って来てくれるかな、下田が受け取るから」
「なんで病院? しかもどうしてそこで、クリスマスイブなの?」

 私の問い掛けに、裕章さんは珍しくニヤリと笑った。

「下田が臼井うすいさんとのデートを取りつけているはずだから」
「え、うそ、本当に?! 私まだ、臼井さんからそんなこと聞いてない!」

 そりゃ裕章さんが入院していた時、しょっちゅう詰め所に入りびたってはも臼井さんに声をかけていたのは知っていた。だけど、デートに誘うことに成功したなんて話は聞いていない。っていうか、いつの間に二人とも付き合っていたの?!

「そりゃね。下田からしたら、ピヨピヨさんににらまれるから、怖くて言えないってさ」
「ちょっと。私は人の恋路を邪魔するようなヤボなことはしませんー……仕事の邪魔にならなければの話だけれど。でも臼井さんも水臭いなあ、下田さんと付き合っているなら、話してくれれば良いのに」

 まあ彼女とは働いている病棟が離れていたから、しかたがないことなのかもしれない。これは臼井さんから、色々と聞き出さなければ。

「あ、そうだ。色々と話してくれたついでに聞いておこうかな。いま申請したら、北川きたがわ姓でパスポートを取得することになるのよね? 入籍したら姓が変わるけど、その時はどうなるの?」

 今のうちに色々と聞いておかなくちゃと、質問をする。

「それは窓口で訂正申請できるから。婚姻届を提出した時に一緒にできるよ。その時に必要なものもメモ書きしてあるから、その時に一緒にすれば問題ない。僕の苗字で、パスポートを取得したり銀行口座やカードの名義を変更するのは、あっちで一度落ち着いてからってことだね」
「なるほど、これですっきりした。とにかく私はここに入っている書類に記入をして、必要なものを用意すれば良いってことね?」
「そういうこと」
「ねえ、それももしかして、官僚様特権なの?」
「さあ、どうだろう」

 裕章さんは私の質問に笑っただけで答えてくれなかった。

 そしていよいよ、裕章さんが乗る飛行機の搭乗時間が迫ってきた。裕章さんは保安ゲートの前で立ち止まると、私の方を見た。

「次に会うのは、雛子さんを迎えにくる時になるね。雛子さんはアパートを引き払ったり、色々としなくちゃいけない準備があって忙しくなるだろうけど、体にだけは気をつけて」
「大丈夫、体だけは丈夫だから。後の心配は……研修が無事に終わらないことぐらいじゃないかな」

 土壇場どたんばで理事長先生が、やっぱりこっちに残ってもらわなくちゃ困るよと、言い出すとかね。

「それは困るな。あとはお父さんの機嫌がなおるように祈ってるよ。せめて見送りぐらいは、笑顔でしてほしいからね」
「あー、それが一番難題かもしれない」

 とにかくアパートにある家財道具のほとんどは、実家で預かってもらうつもりでいる。家電製品に関しては、病院の当直室で使えそうなものは引き取ってもらえるはずだし、裕章さんが考えているよりは、楽に終われそうな感じだ。一番の問題は、やっぱり父親の御機嫌かもしれない。

「ねえ、裕章さん」
「ん?」
「本当につれて行っちゃうの?」

 そう言いながら、ポケットからこっちを見ているアヒルを指さす。

「うん。こいつを雛子さんだと思って大事にするよ」
「……じゃあアヒルちゃん、また半年後ね」

 ツンツンと黄色い頭をつついてそう話しかけた。

「じゃ、そろそろだから」
「気をつけてね。次に会う時には、やつれてないことを祈ってます」
「雛子さんもね」

 裕章さんは、手荷物を持ったまま私のことを一度だけ抱きしめると、名残惜しそうな顔をしながら、保安ゲートの方へと歩いていった。
感想 33

あなたにおすすめの小説

私の主治医さん - 二人と一匹物語 -

鏡野ゆう
ライト文芸
とある病院の救命救急で働いている東出先生の元に運び込まれた急患は何故か川で溺れていた一人と一匹でした。救命救急で働くお医者さんと患者さん、そして小さな子猫の二人と一匹の恋の小話。 【本編完結】【小話】 ※小説家になろうでも公開中※

【光陵学園大学附属病院】鏡野ゆう短編集

鏡野ゆう
ライト文芸
長編ではない【光陵学園大学附属病院】関連のお話をまとめました。 ※小説家になろう、自サイトでも公開中※

桃と料理人 - 希望が丘駅前商店街 -

鏡野ゆう
ライト文芸
国会議員の重光幸太郎先生の地元にある希望が駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】。 居酒屋とうてつの千堂嗣治が出会ったのは可愛い顔をしているくせに仕事中毒で女子力皆無の科捜研勤務の西脇桃香だった。 饕餮さんのところの【希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』】に出てくる嗣治さんとのお話です。饕餮さんには許可を頂いています。 【本編完結】【番外小話】【小ネタ】 このお話は下記のお話とコラボさせていただいています(^^♪ ・『希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々 』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/274274583/188152339 ・『希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 ・『希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/813152283 ・『日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)』https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232 ・『希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~』 https://ncode.syosetu.com/n7423cb/ ・『Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/582141697/878154104 ・『希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376 ※小説家になろうでも公開中※

月弥総合病院

僕君・御月様
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

【短編集】こども病院の日常

moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。 18歳以下の子供が通う病院、 診療科はたくさんあります。 内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc… ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。 恋愛要素などは一切ありません。 密着病院24時!的な感じです。 人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。 ※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。 歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。

お花屋さんとお巡りさん - 希望が丘駅前商店街 -

鏡野ゆう
ライト文芸
国会議員の重光幸太郎先生の地元にある希望が駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】 少し時を遡ること十数年。商店街の駅前にある花屋のお嬢さん芽衣さんと、とある理由で駅前派出所にやってきたちょっと目つきの悪いお巡りさん真田さんのお話です。 【本編完結】【小話】 こちらのお話に登場する人達のお名前がチラリと出てきます。 ・白い黒猫さん作『希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 こちらのお話とはコラボエピソードがあります。 ・篠宮楓さん作『希望が丘商店街 正則くんと楓さんのすれ違い思考な日常』 https://ncode.syosetu.com/n3046de/ ※小説家になろうでも公開中※

報酬はその笑顔で

鏡野ゆう
ライト文芸
彼女がその人と初めて会ったのは夏休みのバイト先でのことだった。 自分に正直で真っ直ぐな女子大生さんと、にこにこスマイルのパイロットさんとのお話。 『貴方は翼を失くさない』で榎本さんの部下として登場した飛行教導群のパイロット、但馬一尉のお話です。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中※

紙の上の空

中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。 容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。 欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。 血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。 公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。