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本編
第二十六話 マツラー君、先任伍長様に出会う
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「杏奈さん、起きてる?」
佐伯さんの声がしたのは外がうっすらと明るくなってきた頃。やっと離してもらえてこれでちゃんと寝られると思った矢先で、ちょっとムカッとなってしまって自分でも不機嫌な顔になったのが分かった。まあ以前みたいに“起床ー!”って叩き起こされないだけマシなのかもしれないけど。
「……起きてるけど起きたくないです」
「ごめん。杏奈さんはまだ早いから寝てて良いけど俺はそろそろ出掛ける準備しないと駄目だから」
「え……直ぐそこが職場なのにもう?」
「うん」
ショボショボする目を明けてベッドわきに置いてある時計に目を向けるとまだ五時! もう寝たばかりじゃない……ってか佐伯さんだって私と同じな筈でしょ? 眠くないの? そんなことを考えていると、まだ寝てて良いからねと言い残してベッドから出た佐伯さんは肩を回しながら洗面所の方へと行ってしまった。どんな表情をしていたか分からないけど少なくとも後ろ姿は元気みたい。暫くして戻ってきた時には微かにミントとアフターシェーブローショの匂いがした。しかもとても寝てないようには見えないスッキリした顔をしている。ある意味うらやましいかも。
「なんでこんなに早いの? 今日はなにかあるの?」
「ん? いや、普段からこんな感じだよ。偉くなってもそれなりに色々とやることがあってね」
「そうなの……もしかして昨日は無理して帰ってきたとか言わない?」
「それはないから心配しなくても良いよ。それより杏奈さん、うちの鍵、渡しておくから出掛ける時には施錠を頼むね」
目の前で鍵がプラプラと揺れている。何故かパイナップル君の頭の先についたチェーンに繋がっている。
「佐伯さん、せっかくのお土産だけどパイナップル君は嫌かも……もっと可愛いのが良いな」
「ごめん、今はこれしかないから。そう言えばイベントブースでマツラーのキーホルダーか何か売ってたよね?」
「ありますよー」
「じゃあそれを買って付けてやって」
「了解ですー。んじゃ、行ってらっしゃいとお休みなさい」
あと二時間ぐらい寝られるかなと考えながらタオルケットに潜り込む。佐伯さんはしばらくベッドに座って私のことを見ていたようだけど、やがて立ち上がって着替え始める気配がした。
「イベントの場所はすぐそこだけど油断して寝坊しないように。目覚まし、何時にセットしておく?」
「んー……七時でお願いします。ゲート前で待ち合わせなの」
「分かった。それと朝飯は昨日買ったので好きなように食べてくれたら良いから」
「はーい……」
そして次に目が覚めたのは目覚ましのアラーム音で。むにゅ~と自分でも良く分からない言葉を発しながら時計に手をのばして音を止めた。それから伸ばした手の薬指に指輪がはまっているのが見えてヘニャッとだらしない笑みを浮かべてしまった。佐伯さんが出掛けてからも部屋にいたり鍵を渡してもらったり、なんだか急にそれっぽくなった気がする。それが思いのほか嬉しいことに気が付いた。
「さあ、今日も頑張らないと」
ヘニャヘニャするのはまた仕事が終わってからにして、部屋は違うけどいつものように元気よく起きて出掛ける準備を開始。洗面所に行くとピンク色の歯ブラシと洗ったばかりのタオルが置いてあった。どうやら私用に佐伯さんが置いていってくれたみたい。それを有り難く使わせてもらってからテレビをつけて朝のニュースを見ながら朝ご飯の用意をする。と言っても朝からそんなに食べる方じゃないしメニューはここに来る途中のコンビニで買ったオニギリをチンして作る簡単なお茶漬けなんだけど。
天気予報では今日も晴天。ベランダに干してあるTシャツやジャージのズボンもすっかり乾いているし今日も暑くなりそうだ。
「あ、指輪、どうしよう……」
普通に事務仕事をしているだけなら指輪をはめていても問題ないけどマツラー君の中に入るならちょっと引っ掛かりそうで怖いかな。仕事中にマツラー君の手のところで引っ掛かって石が取れちゃったりしても困る。佐伯さんが渡してくれた時は既にケースから出されていてパイナップル君が持っていた状態だったからケースが何処にあるか分からないし探し出す時間もなさそう。しばらく考えた末にハンカチに包んで化粧ポーチの中に入れておくことにした。これなら落とす心配も無いよね。
それから食器を洗って水切りのカゴに入れると部屋に戻ってベッドを整える。パジャマ代わりに貸してもらったTシャツをたたんでタオルケットに上に置きながら改めて部屋を見渡すと、何処も彼処も自衛官さんらしくきちんと整理整頓がされているから私が片付けた程度で大丈夫かな?ってちょっと心配になってきた。まあ何か不都合なところがあれば佐伯さんのことだからちゃんと話してくれるよね。大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせながら着替えを終えると荷物と鍵を持って部屋を出た。
+++++
「おはようございます~」
ゲート前に到着すると既に何組かのイベント参加チームの人達も来ていて武藤さんと東雲さんも到着していた。二日目ともなるとスタッフさん同士でも顔なじみになっているのであちらこちらで賑やかな挨拶が交わされている。
「おはよう、ちゃんと寝られた?」
「はい?!」
いきなりの武藤さんの質問に声が引っ繰り返ってしまった。それだけで答えが分かっちゃうってやつだよね、今更だけどなんだか色々と恥ずかしい。
「ほんと、分かりやすいわよね」
「ちゃんと鏡で見てきましたけどクマできてませんよね?」
「それは大丈夫。どちらかと言えば艶々?」
「つ、艶々……」
やっぱり恥ずかしい……。
「それでちゃんと返事はしたのかい?」
横から東雲さんが尋ねてきた。私の方はまだ顔を合わせるのが気まずいんだけど東雲さんの方はそんなことないみたい。マツラー君に話しちゃって本当にすっきりしちゃったみたいだ。
「はい、ちゃんとお返事しました。まだお互いの両親にも話してませんけど昨日から婚約者です」
「そっか。おめでとう」
「ありがとうございます」
まさかマツラー君が縁結びのきっかけになるなんてねー、もしかしたマツラー君は恋愛成就のスキルを持っているのかもなんて話しながらブースの方に行くと、パーテーションで囲っておいたマツラー君のお腹に何やら大きなメモ書きが貼り付けてあった。
【祝☆御婚約】
「……仕事早すぎ」
誰が貼り付けたのか大体の想像はつくけどここは関係者以外立入禁止になっていた筈なのに。困った人だなあ、寺脇さんてば。当直明けでハイになっていたのかも。
「誰の仕業かしらないけど情報伝達が早いわね、さすが自衛隊。しかも絵心があるなんて」
武藤さんがメモ書きの隅っこに描かれていたマツラー君のイラストを見ながら笑った。
そしてその日は当直明けの誰かさんからのお祝いメモだけではすまなかったわけで。
昼過ぎ頃になって何やら制服を着た集団がゾロゾロとこちらにやってくるのが見える。なんだか全員がマツラー君を見ているような気がするのは私の目の錯覚? あ、佐伯さんもいる。なんで? 仕事中でしょ? 広報活動中でも艦から離れたら駄目なんじゃ? そして気がついたらマツラー君は何故か自衛官さん達に囲まれていた。……お、おかしいな、私、佐伯さんからのプロポーズを断ったわけじゃないのにどうして海の男さん達に囲まれちゃったんだろう。
「佐伯一尉がもてあそばれた挙句に捨てられるなんてことにならなくて一安心しました」
開口一番そんなことを言ったのは取り囲んだ制服集団の中でも一際目立つ強面のおじ様。しかもマツラー君の正面に立ってこちらをジッと見下ろしているって言うか睨んでる?
こ、怖いです、何者ですか、この人?! 佐伯さーん、マツラー君が強面のおじ様に睨まれてますよ!! そんなところでニヤニヤしてないで助けて下さーい!! はっ! ま、まさかこの俺様な空気、艦長さんってことないですよね?! 他の人達のニヤニヤしている緊張感のない様子からして違うみたいな気はするけど、だったらこの人は何者でしょう……?
そんな訳でマツラー君はちょっと怖くてジリジリと後ずさりすることにします。気持ち的にはダッシュして逃げたいんだけどそんなことしたら絶対に転んじゃうから、とにかく摺り足でひたすらひたすら後ずさり。あ、足の裏が擦り切れたらどうしよう、せっかくメンテナンスが終わったばかりなのに。
「海津さん、そろそろ勘弁してあげて下さい。マツラーが怖がってるじゃないですか」
佐伯さんが笑いながらやってくる。マツラー君姿なのを忘れて思わず佐伯さんのそばに駆け寄ると彼の後ろに隠れた。もちろん横幅がありすぎて姿を隠すのには無理があるけど少なくとも盾にはなるよね。
「なんとも微笑ましいですな、着ぐるみを守っている姿も。自衛官の鑑です」
「いや……ちょっと、杏奈さん押さないでくれるかな」
「杏奈サンハココニハイマセンー」
マツラー君はそう言いながら佐伯さんを強面のおじ様の方へとグイグイ押し出した。
「どうやら自分のことを盾にしているようですよ。よっぽど海津さんのことが怖いらしい」
「イージス乗りを盾にするとはよく分かっておられるようで」
「関心している場合じゃないでしょ、どんだけ怖がらせたんですか」
「このぐらいですかな。御挨拶がわりにちょっと一睨みして差し上げた程度ですが」
そう言って強面のおじ様は人差し指と親指で十円玉が摘まめそうなぐらいの大きさを示す。いやいや、もうちょっと怖がらせたでしょと言いたい。そんなちょっぴり風味じゃなかったですよ? そんな訳でマツラー君は抗議の意思を示す為に何故か佐伯さんの腰の辺りを両手でバシバシと叩きまくる。どうして腰かって? 手が短くてそこしか届かないから!
「どうやらマツラーは異議ありって感じですね。だいたい海津さんの一睨みの威力は半端ないでしょ。民間人、じゃなくて着ぐるみ君にはちょっと破壊力がありすぎたのでは?」
「それだけ大きな目ですからね、こちらもそれなりの顔をしないと太刀打ちできないかと思ったんですが」
目の大きさと顔の怖さは違うと思いますー!! 更に激しく佐伯さんを叩く。だけどその強面のおじ様のこともちょっと興味があるから叩く手を止め佐伯さんの陰からちょっと覗いてみたり。んー、もしかして元々の顔が怖い系だから本人は本気で睨んだつもりじゃなかったのかな。あ、これって凄く失礼なことを考えてる?
「あー、ところで佐伯一尉、質問なのですが」
「なんでしょう」
「自分は一尉が人間の女性と婚約されたと聞き及んでいたのですが聞き間違いだったのでしょうか。もしかしてお相手はそこの、なんというか……ハムスター嬢?がお相手だったのですか?」
「え……こいつは男なんですが」
「あー……そっち方向に……」
「違いますって。杏奈さん、今はマツラー君モードだってことは分かっているけど少しだけでも良いからちゃんと喋ってくれないかな」
そうしないと俺、なんだか変な趣味に目覚めた男ってことにされそうだよ?と佐伯さんはちょっとだけ情けない声で言った。
「マツラー君ハ怖イオジチャントハオ喋リシタクアリマセンー。杏奈サンハソノウチ挨拶スルト思イマスー」
「……だそうです」
「それはそれはご丁寧に」
そう言って笑う強面さんを伺いながらさっきから気になっていたことを佐伯さんに尋ねてみたくてチョイチョイと突いて彼の注意をこちらに引き戻す。
「ん?」
「この人はどちら様?」
「杏奈さん、素に戻ってるじゃないか」
「細かいこと言うとおでこに駄目ですスタンプ押しますよ?」
面白がっている彼に体当たりして抗議する。柔らかいって集まってくる子供達にとっては良いかもしれないけどこういう時に役に立たなくて困るのよね。突き飛ばしたくてもお腹がフニャリとなって全然こっちの意図している効果が出ないんだもの。
「こちらはうちの艦の先任伍長の海津さん」
「センニン?」
とても霞を食べて生きているようには見えない。どちらかと言えば弾丸バリバリ食べてそう。
「……センニン違いを考えているようだけど千歳超えの不思議老人って訳じゃないから」
なんでも海津さんは艦長さんに代わって艦内の色々な管理を任されているベテランさんなのだとか。そういうことっててっきり幹部の人がしていると思ってたんだけど、考えてみれば乗組員さん達のことや艦内の何やら何から何まで目を光らせるのは大変なことだものね。専門職の人がいてもおかしくないか。
「まあ分かりやすくいえば先任伍長というのは護衛艦内にいる風紀委員長みたいなものですな」
「ナルホド、カゲノシハイシャデスネ」
「そうとも言います」
「ヤッパリ怖イオジチャンデス。マツラー君ハ怖イノ苦手デス、サヨウナラ」
佐伯さんの影からバイバイと手を振ってみせた。
「嫌われましたかね」
「少なくともマツラー君には」
「お互いにあちらこちら異動するのでなかなか交流を深めることは難しいですが、以後もお見知りおきを」
海津さんはそう言って敬礼をすると周囲を取り囲んでいた他の人達を引き連れて行ってしまった。ちょっと事態が呑み込めない。
「……で、今の皆さんは何しに来たんですか? 佐伯さんだってお仕事中でしょ?」
「海津さんは興味津々な非番の連中を引き連れて杏奈さんに会いにきたんだろうね。制服で来たのは恐らく杏奈さんに敬意を表してだと思う。まあ結果的にはマツラーにしか会えなかったわけだけどね。で、俺はちゃんと艦長の許可を貰ってここに来てるから心配ないよ。海津さんが来ると言うから顔を出したんだ」
興味津々な非番の人達が押し寄せてきたのはもちろん当直明けの寺脇さんのせい。朝一で佐伯さんから話を聞きだしてマツラー君にペタリとしただけでは物足りなかったみたい。さすが通信士さんだけあって伝達能力に長けている……褒めて良いんだか微妙な気持ちだけど。
「まさかずっとこのまま顔を合わせる機会が無いなんてことはないですよね。本当に佐伯さんの奥さんがマツラー君になっちゃいます、この子、男の子なのに」
「大丈夫、そのうちちゃんと皆に会えるよ。艦長にもきちんと紹介するから。俺だってマツラー君が結婚相手だと思われたままだと色々と困るしね」
そして今日一日は何故か制服の人達がマツラー君の近くには多かった。さり気ない人もいればそうでない人もいたり。何だかとても偉い人もいたみたいだけどマツラー君は子供だから分かりません。
+++
【今日のマツラー君のお写真】
二度目の海の日イベント会場:お店の前で海上自衛官さん達と共に。
佐伯さんの声がしたのは外がうっすらと明るくなってきた頃。やっと離してもらえてこれでちゃんと寝られると思った矢先で、ちょっとムカッとなってしまって自分でも不機嫌な顔になったのが分かった。まあ以前みたいに“起床ー!”って叩き起こされないだけマシなのかもしれないけど。
「……起きてるけど起きたくないです」
「ごめん。杏奈さんはまだ早いから寝てて良いけど俺はそろそろ出掛ける準備しないと駄目だから」
「え……直ぐそこが職場なのにもう?」
「うん」
ショボショボする目を明けてベッドわきに置いてある時計に目を向けるとまだ五時! もう寝たばかりじゃない……ってか佐伯さんだって私と同じな筈でしょ? 眠くないの? そんなことを考えていると、まだ寝てて良いからねと言い残してベッドから出た佐伯さんは肩を回しながら洗面所の方へと行ってしまった。どんな表情をしていたか分からないけど少なくとも後ろ姿は元気みたい。暫くして戻ってきた時には微かにミントとアフターシェーブローショの匂いがした。しかもとても寝てないようには見えないスッキリした顔をしている。ある意味うらやましいかも。
「なんでこんなに早いの? 今日はなにかあるの?」
「ん? いや、普段からこんな感じだよ。偉くなってもそれなりに色々とやることがあってね」
「そうなの……もしかして昨日は無理して帰ってきたとか言わない?」
「それはないから心配しなくても良いよ。それより杏奈さん、うちの鍵、渡しておくから出掛ける時には施錠を頼むね」
目の前で鍵がプラプラと揺れている。何故かパイナップル君の頭の先についたチェーンに繋がっている。
「佐伯さん、せっかくのお土産だけどパイナップル君は嫌かも……もっと可愛いのが良いな」
「ごめん、今はこれしかないから。そう言えばイベントブースでマツラーのキーホルダーか何か売ってたよね?」
「ありますよー」
「じゃあそれを買って付けてやって」
「了解ですー。んじゃ、行ってらっしゃいとお休みなさい」
あと二時間ぐらい寝られるかなと考えながらタオルケットに潜り込む。佐伯さんはしばらくベッドに座って私のことを見ていたようだけど、やがて立ち上がって着替え始める気配がした。
「イベントの場所はすぐそこだけど油断して寝坊しないように。目覚まし、何時にセットしておく?」
「んー……七時でお願いします。ゲート前で待ち合わせなの」
「分かった。それと朝飯は昨日買ったので好きなように食べてくれたら良いから」
「はーい……」
そして次に目が覚めたのは目覚ましのアラーム音で。むにゅ~と自分でも良く分からない言葉を発しながら時計に手をのばして音を止めた。それから伸ばした手の薬指に指輪がはまっているのが見えてヘニャッとだらしない笑みを浮かべてしまった。佐伯さんが出掛けてからも部屋にいたり鍵を渡してもらったり、なんだか急にそれっぽくなった気がする。それが思いのほか嬉しいことに気が付いた。
「さあ、今日も頑張らないと」
ヘニャヘニャするのはまた仕事が終わってからにして、部屋は違うけどいつものように元気よく起きて出掛ける準備を開始。洗面所に行くとピンク色の歯ブラシと洗ったばかりのタオルが置いてあった。どうやら私用に佐伯さんが置いていってくれたみたい。それを有り難く使わせてもらってからテレビをつけて朝のニュースを見ながら朝ご飯の用意をする。と言っても朝からそんなに食べる方じゃないしメニューはここに来る途中のコンビニで買ったオニギリをチンして作る簡単なお茶漬けなんだけど。
天気予報では今日も晴天。ベランダに干してあるTシャツやジャージのズボンもすっかり乾いているし今日も暑くなりそうだ。
「あ、指輪、どうしよう……」
普通に事務仕事をしているだけなら指輪をはめていても問題ないけどマツラー君の中に入るならちょっと引っ掛かりそうで怖いかな。仕事中にマツラー君の手のところで引っ掛かって石が取れちゃったりしても困る。佐伯さんが渡してくれた時は既にケースから出されていてパイナップル君が持っていた状態だったからケースが何処にあるか分からないし探し出す時間もなさそう。しばらく考えた末にハンカチに包んで化粧ポーチの中に入れておくことにした。これなら落とす心配も無いよね。
それから食器を洗って水切りのカゴに入れると部屋に戻ってベッドを整える。パジャマ代わりに貸してもらったTシャツをたたんでタオルケットに上に置きながら改めて部屋を見渡すと、何処も彼処も自衛官さんらしくきちんと整理整頓がされているから私が片付けた程度で大丈夫かな?ってちょっと心配になってきた。まあ何か不都合なところがあれば佐伯さんのことだからちゃんと話してくれるよね。大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせながら着替えを終えると荷物と鍵を持って部屋を出た。
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「おはようございます~」
ゲート前に到着すると既に何組かのイベント参加チームの人達も来ていて武藤さんと東雲さんも到着していた。二日目ともなるとスタッフさん同士でも顔なじみになっているのであちらこちらで賑やかな挨拶が交わされている。
「おはよう、ちゃんと寝られた?」
「はい?!」
いきなりの武藤さんの質問に声が引っ繰り返ってしまった。それだけで答えが分かっちゃうってやつだよね、今更だけどなんだか色々と恥ずかしい。
「ほんと、分かりやすいわよね」
「ちゃんと鏡で見てきましたけどクマできてませんよね?」
「それは大丈夫。どちらかと言えば艶々?」
「つ、艶々……」
やっぱり恥ずかしい……。
「それでちゃんと返事はしたのかい?」
横から東雲さんが尋ねてきた。私の方はまだ顔を合わせるのが気まずいんだけど東雲さんの方はそんなことないみたい。マツラー君に話しちゃって本当にすっきりしちゃったみたいだ。
「はい、ちゃんとお返事しました。まだお互いの両親にも話してませんけど昨日から婚約者です」
「そっか。おめでとう」
「ありがとうございます」
まさかマツラー君が縁結びのきっかけになるなんてねー、もしかしたマツラー君は恋愛成就のスキルを持っているのかもなんて話しながらブースの方に行くと、パーテーションで囲っておいたマツラー君のお腹に何やら大きなメモ書きが貼り付けてあった。
【祝☆御婚約】
「……仕事早すぎ」
誰が貼り付けたのか大体の想像はつくけどここは関係者以外立入禁止になっていた筈なのに。困った人だなあ、寺脇さんてば。当直明けでハイになっていたのかも。
「誰の仕業かしらないけど情報伝達が早いわね、さすが自衛隊。しかも絵心があるなんて」
武藤さんがメモ書きの隅っこに描かれていたマツラー君のイラストを見ながら笑った。
そしてその日は当直明けの誰かさんからのお祝いメモだけではすまなかったわけで。
昼過ぎ頃になって何やら制服を着た集団がゾロゾロとこちらにやってくるのが見える。なんだか全員がマツラー君を見ているような気がするのは私の目の錯覚? あ、佐伯さんもいる。なんで? 仕事中でしょ? 広報活動中でも艦から離れたら駄目なんじゃ? そして気がついたらマツラー君は何故か自衛官さん達に囲まれていた。……お、おかしいな、私、佐伯さんからのプロポーズを断ったわけじゃないのにどうして海の男さん達に囲まれちゃったんだろう。
「佐伯一尉がもてあそばれた挙句に捨てられるなんてことにならなくて一安心しました」
開口一番そんなことを言ったのは取り囲んだ制服集団の中でも一際目立つ強面のおじ様。しかもマツラー君の正面に立ってこちらをジッと見下ろしているって言うか睨んでる?
こ、怖いです、何者ですか、この人?! 佐伯さーん、マツラー君が強面のおじ様に睨まれてますよ!! そんなところでニヤニヤしてないで助けて下さーい!! はっ! ま、まさかこの俺様な空気、艦長さんってことないですよね?! 他の人達のニヤニヤしている緊張感のない様子からして違うみたいな気はするけど、だったらこの人は何者でしょう……?
そんな訳でマツラー君はちょっと怖くてジリジリと後ずさりすることにします。気持ち的にはダッシュして逃げたいんだけどそんなことしたら絶対に転んじゃうから、とにかく摺り足でひたすらひたすら後ずさり。あ、足の裏が擦り切れたらどうしよう、せっかくメンテナンスが終わったばかりなのに。
「海津さん、そろそろ勘弁してあげて下さい。マツラーが怖がってるじゃないですか」
佐伯さんが笑いながらやってくる。マツラー君姿なのを忘れて思わず佐伯さんのそばに駆け寄ると彼の後ろに隠れた。もちろん横幅がありすぎて姿を隠すのには無理があるけど少なくとも盾にはなるよね。
「なんとも微笑ましいですな、着ぐるみを守っている姿も。自衛官の鑑です」
「いや……ちょっと、杏奈さん押さないでくれるかな」
「杏奈サンハココニハイマセンー」
マツラー君はそう言いながら佐伯さんを強面のおじ様の方へとグイグイ押し出した。
「どうやら自分のことを盾にしているようですよ。よっぽど海津さんのことが怖いらしい」
「イージス乗りを盾にするとはよく分かっておられるようで」
「関心している場合じゃないでしょ、どんだけ怖がらせたんですか」
「このぐらいですかな。御挨拶がわりにちょっと一睨みして差し上げた程度ですが」
そう言って強面のおじ様は人差し指と親指で十円玉が摘まめそうなぐらいの大きさを示す。いやいや、もうちょっと怖がらせたでしょと言いたい。そんなちょっぴり風味じゃなかったですよ? そんな訳でマツラー君は抗議の意思を示す為に何故か佐伯さんの腰の辺りを両手でバシバシと叩きまくる。どうして腰かって? 手が短くてそこしか届かないから!
「どうやらマツラーは異議ありって感じですね。だいたい海津さんの一睨みの威力は半端ないでしょ。民間人、じゃなくて着ぐるみ君にはちょっと破壊力がありすぎたのでは?」
「それだけ大きな目ですからね、こちらもそれなりの顔をしないと太刀打ちできないかと思ったんですが」
目の大きさと顔の怖さは違うと思いますー!! 更に激しく佐伯さんを叩く。だけどその強面のおじ様のこともちょっと興味があるから叩く手を止め佐伯さんの陰からちょっと覗いてみたり。んー、もしかして元々の顔が怖い系だから本人は本気で睨んだつもりじゃなかったのかな。あ、これって凄く失礼なことを考えてる?
「あー、ところで佐伯一尉、質問なのですが」
「なんでしょう」
「自分は一尉が人間の女性と婚約されたと聞き及んでいたのですが聞き間違いだったのでしょうか。もしかしてお相手はそこの、なんというか……ハムスター嬢?がお相手だったのですか?」
「え……こいつは男なんですが」
「あー……そっち方向に……」
「違いますって。杏奈さん、今はマツラー君モードだってことは分かっているけど少しだけでも良いからちゃんと喋ってくれないかな」
そうしないと俺、なんだか変な趣味に目覚めた男ってことにされそうだよ?と佐伯さんはちょっとだけ情けない声で言った。
「マツラー君ハ怖イオジチャントハオ喋リシタクアリマセンー。杏奈サンハソノウチ挨拶スルト思イマスー」
「……だそうです」
「それはそれはご丁寧に」
そう言って笑う強面さんを伺いながらさっきから気になっていたことを佐伯さんに尋ねてみたくてチョイチョイと突いて彼の注意をこちらに引き戻す。
「ん?」
「この人はどちら様?」
「杏奈さん、素に戻ってるじゃないか」
「細かいこと言うとおでこに駄目ですスタンプ押しますよ?」
面白がっている彼に体当たりして抗議する。柔らかいって集まってくる子供達にとっては良いかもしれないけどこういう時に役に立たなくて困るのよね。突き飛ばしたくてもお腹がフニャリとなって全然こっちの意図している効果が出ないんだもの。
「こちらはうちの艦の先任伍長の海津さん」
「センニン?」
とても霞を食べて生きているようには見えない。どちらかと言えば弾丸バリバリ食べてそう。
「……センニン違いを考えているようだけど千歳超えの不思議老人って訳じゃないから」
なんでも海津さんは艦長さんに代わって艦内の色々な管理を任されているベテランさんなのだとか。そういうことっててっきり幹部の人がしていると思ってたんだけど、考えてみれば乗組員さん達のことや艦内の何やら何から何まで目を光らせるのは大変なことだものね。専門職の人がいてもおかしくないか。
「まあ分かりやすくいえば先任伍長というのは護衛艦内にいる風紀委員長みたいなものですな」
「ナルホド、カゲノシハイシャデスネ」
「そうとも言います」
「ヤッパリ怖イオジチャンデス。マツラー君ハ怖イノ苦手デス、サヨウナラ」
佐伯さんの影からバイバイと手を振ってみせた。
「嫌われましたかね」
「少なくともマツラー君には」
「お互いにあちらこちら異動するのでなかなか交流を深めることは難しいですが、以後もお見知りおきを」
海津さんはそう言って敬礼をすると周囲を取り囲んでいた他の人達を引き連れて行ってしまった。ちょっと事態が呑み込めない。
「……で、今の皆さんは何しに来たんですか? 佐伯さんだってお仕事中でしょ?」
「海津さんは興味津々な非番の連中を引き連れて杏奈さんに会いにきたんだろうね。制服で来たのは恐らく杏奈さんに敬意を表してだと思う。まあ結果的にはマツラーにしか会えなかったわけだけどね。で、俺はちゃんと艦長の許可を貰ってここに来てるから心配ないよ。海津さんが来ると言うから顔を出したんだ」
興味津々な非番の人達が押し寄せてきたのはもちろん当直明けの寺脇さんのせい。朝一で佐伯さんから話を聞きだしてマツラー君にペタリとしただけでは物足りなかったみたい。さすが通信士さんだけあって伝達能力に長けている……褒めて良いんだか微妙な気持ちだけど。
「まさかずっとこのまま顔を合わせる機会が無いなんてことはないですよね。本当に佐伯さんの奥さんがマツラー君になっちゃいます、この子、男の子なのに」
「大丈夫、そのうちちゃんと皆に会えるよ。艦長にもきちんと紹介するから。俺だってマツラー君が結婚相手だと思われたままだと色々と困るしね」
そして今日一日は何故か制服の人達がマツラー君の近くには多かった。さり気ない人もいればそうでない人もいたり。何だかとても偉い人もいたみたいだけどマツラー君は子供だから分かりません。
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