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本編
第一話 結花先生見つかる
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私の父は、私が生まれる前から国会議員として、この国の政治に携わってきた。そして母は、その父を補佐する秘書として、父の元にやって来たというのに、何故か一年もしないうちに、その妻の座に座らされる羽目になった。
といっても、両親共々、惚気成分満載で言っているので、「座らされた」という言葉は、限りなく信ぴょう性が低い。ただ、当時は若手議員が秘書を妻にしたと、たいそう騒がれたそうだ。
そして私は、その二人の娘で名前は重光結花。当選一期目の、まだまだ新米の国会議員だ。ちなみに、私の秘書は既婚者ばかりで、私の伴侶になる予定の人物はいない。
+++
カランコロン。ドアに下がっていたカウベルが軽やかに鳴って、お店にお客さんが入ってきた。
カウンターの向こうに立っていたマスターが、来店したらしいお客さんの方を見ながら、いつもの穏やかな声で「いらっしゃいませ」と声をかける。コツコツと固い床を歩く靴音が近づいてきて、私が座っていた席のすぐ後ろで止まった。
「……あー、やっぱりここにいたんだね。マスター、来て早々なんですが、ちょっと電話をかけさせてもらっても、良いですか?」
「他のお客さんに、迷惑がかからない程度の声の大きさで喋ってくれるなら、大丈夫だよ。どうぞ」
「すみません…………こちら森永、ターゲット発見。場所は栗、至急回収に向かわれたし」
そんなきびきびした口調に、顔を上げてその声の主を軽くにらむ。
「まったく気がきかないわね。どうして放っておいてくれないの?」
「僕の依頼主は、結花先生を探している人だから、かな」
「何が依頼主よ、探偵でもなんでもないくせに」
そこに立っていたのは、森永渉君。
うちとは家族ぐるみの付き合いがある、元自衛官である森永さんちの長男君だ。たしか、今年から防衛大学に入学したはず。聞いたところによると、今は厳しい門限のある寮生活をしていて、こんな時間にウロウロできるはずがないのだけれど。
「だけど、いくらなんでも栗は酷いなあ、渉君。まあ、間違ってはいないけどさ」
「すみません。あまり具体的な店の名前を言うと、変な連中に店名がもれた時が大変なので」
マスターの冗談まじりの抗議に、生真面目に答えるところは彼らしい。ここは、私がよく息抜きに立ち寄るお店で『Bar le marron』。つまりフランス語では栗の意味だから、彼が栗と言ったのは間違いではないのだ。
「大変だね、要人警護の仕事というのも」
「僕がしているわけじゃありませんけどね。それに僕の依頼人だって、警護課の人間ですが、結花先生の警護をしているわけではないんですよ。今夜は人手が足りないので、僕まで無理やり、先生探しに駆り出されただけです。明日も早いのに、困ったものですよ、まったく」
そう言って、渉君は私の顔を見ながら、わざとらしく溜め息をついた。
防大に入学してから急に大人びちゃって、可愛げが無くなった感じ。昔は「結花おねーちゃん」って言いながら、私の後ろをついて回ったりして、そりゃあ可愛い坊やだったのに。
「じゃあ帰れば? 明日も早いんでしょ?」
「僕が、ここで冬吾兄さんが来るまで見張ってないと、またトンズラこくつもりなんでしょ? そんなことになったら、結局はまた呼び戻されるんだから、結花先生を冬吾兄さんに引き渡してから戻ります。それぐらいの時間は、上から許可をもらっているので」
冬吾兄さんというのは、渉君の実のお兄さんじゃなくて彼のいとこ。ここで言うところの、彼の依頼人で、警視庁警備部警護課にお勤めのSP様だ。
そして、どうしてそんな人が私を探しているかと言えば、私が秘書になにも言わずに、姿をくらましたからだと思う。警護対象者でもない私を、彼がわざわざ探す理由? それは多分、私の父親か母親が、彼に直接頼んだから。まったく……私は子供じゃないのに。ああ、父親か母親かというのは間違い。こうやってルールを少しばかり捻じ曲げて人を動かすことをするのは、絶対に父親のほうに決まってる。
「まったく……どうして、警視庁と防大が協力体制をしいてるのよ」
「そりゃあ、結花お姉さんが、あっちこっちを好き勝手に漫遊するからでしょ。いい加減に、天下の副将軍さんや市中を徘徊する将軍様気分は、やめたほうが良いんじゃないかなあ」
そんなことを言いながら、私の横の椅子に座った。
「渉君は、まだお酒は駄目な年齢だったよね。だったら、レモンスカッシュを作ろうか?」
「炭酸水をいただけますか? ああ、ちゃんとお金は払います。それぐらいは持ってきているので」
「頑張っている御褒美に、今夜はごちそうするよ」
「ありがとうございます」
マスターのおごり宣言に嬉しそうに笑う横顔には、ほんの少しだけ昔の面影が残っている。ほんと、急に大人になっちゃって。
マスターがリクエスト通り、グラスに炭酸水を入れてカウンターテーブルにそっと置いた。グラスの中にはレモンの薄切りが入っている。こういうさり気無いマスターの気遣いが、この店が人気の理由の一つだ。
「ねえ」
「はい?」
「そちらの皆さんはお元気? 友里ちゃんはどうしてる?」
「お陰様で元気にしてますよ。最近の友里は、医学書に埋もれ気味らしいけど。入学したら、もう少しのんびりできるものだと思っていたのにって、毎日のように母さんに愚痴っているらしい。でも、二週間前に会ったばかりだよね?」
「ちょっとした社交辞令よ」
ムッとしながら答える私に、渉君は少しだけ同情するような顔をして笑った。
「そんなこと言ってる余裕が残っているなら、ここにいる言い訳を、考えておいたほうが良いんじゃないのかな? 相当ご立腹だったよ、結花先生の警護官様は。まあ時間的には、あと……」
渉君は私の「彼は私の警護官じゃない」という言葉をさえぎるようにして、わざとらしく腕時計を見る。
「五分以内に、ここに乗り込んでくると思うけど」
「ちょっと、なんでそんなに早いのよ。渉君がこっちに来ているってことは、霧島さんは黒猫でしょ? あそこからここまで、どんなに早くても二十分はかかるはずじゃない」
黒猫とは私のもう一つのお気に入りのお店で、こことは国会議事堂をはさんで正反対の場所にあるジャズバーだ。
「冬吾お兄さんのショートカット技術は、ちょっとした怪奇現象か超常現象だからね。今のうちに言い訳、考えておきなよ。あと四分切ったよ?」
それから、いたずらっぽく笑う。
「ま、頑張って考えた言い訳を、最後まで聞いてもらえるかどうかは、保証できないけどね、あの様子からして」
「ど……」
どういうことよと言い終わる前に、お店のドアが開いてカウベルがかすかに鳴った。だけど、その静かさが逆に怖い。
渉君は炭酸水のグラスを口にしながら、後ろに振り返っている。その口元に笑みが浮かんでいるということで、誰が来たのか見なくても分かった。三分もかかっていないじゃない、おかしくない?
「もしかして、電話する前にこっちに向かってた?」
渉君が、入ってきた人物に声をかけた。
「あっちにわざわざ出向くのも馬鹿馬鹿しくなって、途中で店に連絡を入れた」
足音がしないけど、かすかに整髪料かなにかの匂いがして、相手が自分のすぐ後ろに立ったことが分かった。
「普段なら、自分の目でたしかめないと気がすまないのに、珍しいこともあるもんだね」
「時間とガソリンと、俺の睡眠時間の浪費だからな。せっかく、珍しく早く仕事からあがれたと思ったらこれだ」
渉君は、渡されたグラスの炭酸水を半分ぐらい飲み干すと、マスターに丁寧なお礼を言って、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。結花先生おやすみなさい。こういうことは、できればこれで最後にしてほしいんだけどな。僕だって先輩達の手前、頻繁に、こんなことで外出許可をもらうわけにはいかないので。じゃあ、冬吾兄さん、またね」
「助かった。教官には、無理を聞いてもらって申し訳なかったと、礼を言っておいてくれ」
「うん。それと後でフォローも頼みます。他の連中に、変にやっかまれても困るから」
「分かった、本庁から、きちんと正式な形で謝意を入れておく」
「頼みます。じゃあ」
そう言って、渉君は一足先に店を出ていった。
そしてしばらくの沈黙の後、さっきまで渉君が座っていた椅子に彼、霧島さんが座った。
いつもの黒っぽいスーツ姿ということは、仕事が終わってから、すぐに父親から連絡が入ったということだろう。ということは、私が秘書の杉下さんをまいてから、すぐに父親に連絡が行って、霧島さんへと伝わったということになる。なんなの、その緊急連絡網みたいな伝達速度の速さ。別に、事件に巻き込まれたわけでもないというのに。
―― 優秀すぎる秘書というのも、考えものね ――
「きっと、杉下さんへの文句が頭の中を駆け巡っているんだと思うが、彼女を責めるのはお門違いだぞ」
心の中を見透かしたような言葉に、思わずフンッと鼻を鳴らしてしまった。
「重光先生からお前の世話を頼まれた身としては、心配するのは当然のことなんだからな。遊び歩きたいなら、せめて秘書の彼女にだけは、ちゃんと断りを入れてから行け。あれこれ制限されているわけじゃないだろ」
「別に夜遊びしたかったわけじゃないもの。ちょっと一息入れたかっただけ」
「だったら尚更だ。有能な秘書が過労死しても良いのか」
「別にこき使っているわけでも、いじめているわけでもないわ。ただ思いつきで出掛けたくなったから、伝言を残すのを忘れただけなんだもの」
それが嘘なのは、私も相手も分かっていた。
私が、公設第一秘書の杉下さんになにも言わずにここに来たのは、重光議員という看板をおろして一人の重光結花になりたかったから。だからあえて、杉下さんに連絡することを「忘れた」のだ。
三世議員ともなれば、マスコミからも変な意味で注目されることが多い。さらに女性議員ということで、常に週刊誌やらなにやらの目が貼りついていた。仕事を辞めて議員になると決めた時から分かってはいたけど、それはそれは息が詰まりそうな毎日だ。だからたまにこうやって、一人でこっそりとお気に入りのお店に、息抜きに来るのだけれど、周囲はそれがお気に召さないらしい。
「今はどういう時期か、分かっているんだよな? お前一人の問題じゃないんだ、少しは自覚を持て」
「持っているから、こっそり来たんじゃない。毎晩飲み歩いているなんて雑誌に書かれたら、たまらないもの」
そこで初めて、横にいた霧島さんの視線がこちらに向けられた。銀縁眼鏡の奥に見えるのは、相変わらず相手を凍らせそうな目つきだ。
「週刊誌記者の嗅覚をなめてるな」
「え、もしかしてここも嗅ぎつけられた?」
ここはまだ誰も知られていないと思っていたけれど、甘かったんだろうか?
「いや、まだそれは無い。だが頻繁に今回のようなことがあると、ここにも来れなくなるぞ」
「たまには息抜きしたって良いじゃない」
ムッとしながら、グラスに口をつける。
「だから手順を踏まえろと言っている。どうしてお前は、重光先生からの忠告を素直に聞かないんだ。あの人が口をはさんでくるのは、単に過保護な父親だからじゃないのは分かっているだろう。変なスクープでもされてみろ、党の足を引っ張るのは誰だ?」
「…………」
「誰だ?」
「……私」
「分かっているなら自重しろ」
ピシャリと言われ、あれこれと口を出してくる父親に対する苛立ちも、すっかり消えてしまった。
「もう気がすんだだろ、帰るぞ。マスター、今夜の先生様の飲み代は?」
霧島さんの問い掛けに、マスターが黙ったままそっと伝票を差し出した。そこには、ここに来てから二時間の間に、私が飲んだカクテルが記入されている。と言っても、ひたすらスプモーニだけなんだけど。
それを見て、霧島さんは片眉をあげた。
「霧島さん、結花さんはそんなに強いのを飲んでいたわけじゃないから、あまり叱らないであげてくださいね」
「問題は酒を飲んだことじゃなくて、誰にも知らせずに姿を消したことなんですがね……」
そう言いながら、霧島さんは椅子から立って私の腕を掴むと、もう一方の手を上着の内側に手を入れた。
「これで清算をお願いします」
差し出したのは、霧島さん名義のクレジットカードだ。
「私が飲んだんだから私が出す」
「スマホしか持たず、雲隠れした先生がなんだって?」
「あ、そうだった……」
溜め息をついた霧島さんは、伝票にサインをするとカードを仕舞い込み、それから私にその手を差し出してきた。
「なに?」
「スマホをよこせ」
「なんで?」
「よ、こ、せ」
「……」
この口調が出た時には逆らわないほうが良いと決まっているので、大人しくポケットに押し込んでいたスマホを差し出す。霧島さんは受け取ると、自分の上着のポケットに入れた。そして私のことを引き寄せると、いきなり肩に担ぎ上げた。
「ちょっと!!」
「どうせ帰りたくないとかなんとか言い出して、そこの階段でも揉めるんだ。こうやって運ぶのが一番早い」
「だからって、人を荷物みたいにあつかうのはやめて!」
「されたくなかったら、今後はもう少し考えて行動することだな」
霧島さんの前を歩いているマスターの足が見えた。どうやらお店のドアを開けてくれるつもりらしい。
「お騒がせしました」
「お気をつけて……結花さんも」
マスターの声が、笑いを堪えているようなのが気にかかるけど、この態勢なので顔を見て確認するのは断念した。
そういうわけで、私はこのスーツ姿の銀縁眼鏡男、霧島冬吾に、とんでもなく恥ずかしい格好でバーから連れ出されることになった。
だけどマスコミの目を気にするなら、こういう派手なことはしないほうが良いんじゃないかしらと思うのは、私だけではないはず。
といっても、両親共々、惚気成分満載で言っているので、「座らされた」という言葉は、限りなく信ぴょう性が低い。ただ、当時は若手議員が秘書を妻にしたと、たいそう騒がれたそうだ。
そして私は、その二人の娘で名前は重光結花。当選一期目の、まだまだ新米の国会議員だ。ちなみに、私の秘書は既婚者ばかりで、私の伴侶になる予定の人物はいない。
+++
カランコロン。ドアに下がっていたカウベルが軽やかに鳴って、お店にお客さんが入ってきた。
カウンターの向こうに立っていたマスターが、来店したらしいお客さんの方を見ながら、いつもの穏やかな声で「いらっしゃいませ」と声をかける。コツコツと固い床を歩く靴音が近づいてきて、私が座っていた席のすぐ後ろで止まった。
「……あー、やっぱりここにいたんだね。マスター、来て早々なんですが、ちょっと電話をかけさせてもらっても、良いですか?」
「他のお客さんに、迷惑がかからない程度の声の大きさで喋ってくれるなら、大丈夫だよ。どうぞ」
「すみません…………こちら森永、ターゲット発見。場所は栗、至急回収に向かわれたし」
そんなきびきびした口調に、顔を上げてその声の主を軽くにらむ。
「まったく気がきかないわね。どうして放っておいてくれないの?」
「僕の依頼主は、結花先生を探している人だから、かな」
「何が依頼主よ、探偵でもなんでもないくせに」
そこに立っていたのは、森永渉君。
うちとは家族ぐるみの付き合いがある、元自衛官である森永さんちの長男君だ。たしか、今年から防衛大学に入学したはず。聞いたところによると、今は厳しい門限のある寮生活をしていて、こんな時間にウロウロできるはずがないのだけれど。
「だけど、いくらなんでも栗は酷いなあ、渉君。まあ、間違ってはいないけどさ」
「すみません。あまり具体的な店の名前を言うと、変な連中に店名がもれた時が大変なので」
マスターの冗談まじりの抗議に、生真面目に答えるところは彼らしい。ここは、私がよく息抜きに立ち寄るお店で『Bar le marron』。つまりフランス語では栗の意味だから、彼が栗と言ったのは間違いではないのだ。
「大変だね、要人警護の仕事というのも」
「僕がしているわけじゃありませんけどね。それに僕の依頼人だって、警護課の人間ですが、結花先生の警護をしているわけではないんですよ。今夜は人手が足りないので、僕まで無理やり、先生探しに駆り出されただけです。明日も早いのに、困ったものですよ、まったく」
そう言って、渉君は私の顔を見ながら、わざとらしく溜め息をついた。
防大に入学してから急に大人びちゃって、可愛げが無くなった感じ。昔は「結花おねーちゃん」って言いながら、私の後ろをついて回ったりして、そりゃあ可愛い坊やだったのに。
「じゃあ帰れば? 明日も早いんでしょ?」
「僕が、ここで冬吾兄さんが来るまで見張ってないと、またトンズラこくつもりなんでしょ? そんなことになったら、結局はまた呼び戻されるんだから、結花先生を冬吾兄さんに引き渡してから戻ります。それぐらいの時間は、上から許可をもらっているので」
冬吾兄さんというのは、渉君の実のお兄さんじゃなくて彼のいとこ。ここで言うところの、彼の依頼人で、警視庁警備部警護課にお勤めのSP様だ。
そして、どうしてそんな人が私を探しているかと言えば、私が秘書になにも言わずに、姿をくらましたからだと思う。警護対象者でもない私を、彼がわざわざ探す理由? それは多分、私の父親か母親が、彼に直接頼んだから。まったく……私は子供じゃないのに。ああ、父親か母親かというのは間違い。こうやってルールを少しばかり捻じ曲げて人を動かすことをするのは、絶対に父親のほうに決まってる。
「まったく……どうして、警視庁と防大が協力体制をしいてるのよ」
「そりゃあ、結花お姉さんが、あっちこっちを好き勝手に漫遊するからでしょ。いい加減に、天下の副将軍さんや市中を徘徊する将軍様気分は、やめたほうが良いんじゃないかなあ」
そんなことを言いながら、私の横の椅子に座った。
「渉君は、まだお酒は駄目な年齢だったよね。だったら、レモンスカッシュを作ろうか?」
「炭酸水をいただけますか? ああ、ちゃんとお金は払います。それぐらいは持ってきているので」
「頑張っている御褒美に、今夜はごちそうするよ」
「ありがとうございます」
マスターのおごり宣言に嬉しそうに笑う横顔には、ほんの少しだけ昔の面影が残っている。ほんと、急に大人になっちゃって。
マスターがリクエスト通り、グラスに炭酸水を入れてカウンターテーブルにそっと置いた。グラスの中にはレモンの薄切りが入っている。こういうさり気無いマスターの気遣いが、この店が人気の理由の一つだ。
「ねえ」
「はい?」
「そちらの皆さんはお元気? 友里ちゃんはどうしてる?」
「お陰様で元気にしてますよ。最近の友里は、医学書に埋もれ気味らしいけど。入学したら、もう少しのんびりできるものだと思っていたのにって、毎日のように母さんに愚痴っているらしい。でも、二週間前に会ったばかりだよね?」
「ちょっとした社交辞令よ」
ムッとしながら答える私に、渉君は少しだけ同情するような顔をして笑った。
「そんなこと言ってる余裕が残っているなら、ここにいる言い訳を、考えておいたほうが良いんじゃないのかな? 相当ご立腹だったよ、結花先生の警護官様は。まあ時間的には、あと……」
渉君は私の「彼は私の警護官じゃない」という言葉をさえぎるようにして、わざとらしく腕時計を見る。
「五分以内に、ここに乗り込んでくると思うけど」
「ちょっと、なんでそんなに早いのよ。渉君がこっちに来ているってことは、霧島さんは黒猫でしょ? あそこからここまで、どんなに早くても二十分はかかるはずじゃない」
黒猫とは私のもう一つのお気に入りのお店で、こことは国会議事堂をはさんで正反対の場所にあるジャズバーだ。
「冬吾お兄さんのショートカット技術は、ちょっとした怪奇現象か超常現象だからね。今のうちに言い訳、考えておきなよ。あと四分切ったよ?」
それから、いたずらっぽく笑う。
「ま、頑張って考えた言い訳を、最後まで聞いてもらえるかどうかは、保証できないけどね、あの様子からして」
「ど……」
どういうことよと言い終わる前に、お店のドアが開いてカウベルがかすかに鳴った。だけど、その静かさが逆に怖い。
渉君は炭酸水のグラスを口にしながら、後ろに振り返っている。その口元に笑みが浮かんでいるということで、誰が来たのか見なくても分かった。三分もかかっていないじゃない、おかしくない?
「もしかして、電話する前にこっちに向かってた?」
渉君が、入ってきた人物に声をかけた。
「あっちにわざわざ出向くのも馬鹿馬鹿しくなって、途中で店に連絡を入れた」
足音がしないけど、かすかに整髪料かなにかの匂いがして、相手が自分のすぐ後ろに立ったことが分かった。
「普段なら、自分の目でたしかめないと気がすまないのに、珍しいこともあるもんだね」
「時間とガソリンと、俺の睡眠時間の浪費だからな。せっかく、珍しく早く仕事からあがれたと思ったらこれだ」
渉君は、渡されたグラスの炭酸水を半分ぐらい飲み干すと、マスターに丁寧なお礼を言って、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。結花先生おやすみなさい。こういうことは、できればこれで最後にしてほしいんだけどな。僕だって先輩達の手前、頻繁に、こんなことで外出許可をもらうわけにはいかないので。じゃあ、冬吾兄さん、またね」
「助かった。教官には、無理を聞いてもらって申し訳なかったと、礼を言っておいてくれ」
「うん。それと後でフォローも頼みます。他の連中に、変にやっかまれても困るから」
「分かった、本庁から、きちんと正式な形で謝意を入れておく」
「頼みます。じゃあ」
そう言って、渉君は一足先に店を出ていった。
そしてしばらくの沈黙の後、さっきまで渉君が座っていた椅子に彼、霧島さんが座った。
いつもの黒っぽいスーツ姿ということは、仕事が終わってから、すぐに父親から連絡が入ったということだろう。ということは、私が秘書の杉下さんをまいてから、すぐに父親に連絡が行って、霧島さんへと伝わったということになる。なんなの、その緊急連絡網みたいな伝達速度の速さ。別に、事件に巻き込まれたわけでもないというのに。
―― 優秀すぎる秘書というのも、考えものね ――
「きっと、杉下さんへの文句が頭の中を駆け巡っているんだと思うが、彼女を責めるのはお門違いだぞ」
心の中を見透かしたような言葉に、思わずフンッと鼻を鳴らしてしまった。
「重光先生からお前の世話を頼まれた身としては、心配するのは当然のことなんだからな。遊び歩きたいなら、せめて秘書の彼女にだけは、ちゃんと断りを入れてから行け。あれこれ制限されているわけじゃないだろ」
「別に夜遊びしたかったわけじゃないもの。ちょっと一息入れたかっただけ」
「だったら尚更だ。有能な秘書が過労死しても良いのか」
「別にこき使っているわけでも、いじめているわけでもないわ。ただ思いつきで出掛けたくなったから、伝言を残すのを忘れただけなんだもの」
それが嘘なのは、私も相手も分かっていた。
私が、公設第一秘書の杉下さんになにも言わずにここに来たのは、重光議員という看板をおろして一人の重光結花になりたかったから。だからあえて、杉下さんに連絡することを「忘れた」のだ。
三世議員ともなれば、マスコミからも変な意味で注目されることが多い。さらに女性議員ということで、常に週刊誌やらなにやらの目が貼りついていた。仕事を辞めて議員になると決めた時から分かってはいたけど、それはそれは息が詰まりそうな毎日だ。だからたまにこうやって、一人でこっそりとお気に入りのお店に、息抜きに来るのだけれど、周囲はそれがお気に召さないらしい。
「今はどういう時期か、分かっているんだよな? お前一人の問題じゃないんだ、少しは自覚を持て」
「持っているから、こっそり来たんじゃない。毎晩飲み歩いているなんて雑誌に書かれたら、たまらないもの」
そこで初めて、横にいた霧島さんの視線がこちらに向けられた。銀縁眼鏡の奥に見えるのは、相変わらず相手を凍らせそうな目つきだ。
「週刊誌記者の嗅覚をなめてるな」
「え、もしかしてここも嗅ぎつけられた?」
ここはまだ誰も知られていないと思っていたけれど、甘かったんだろうか?
「いや、まだそれは無い。だが頻繁に今回のようなことがあると、ここにも来れなくなるぞ」
「たまには息抜きしたって良いじゃない」
ムッとしながら、グラスに口をつける。
「だから手順を踏まえろと言っている。どうしてお前は、重光先生からの忠告を素直に聞かないんだ。あの人が口をはさんでくるのは、単に過保護な父親だからじゃないのは分かっているだろう。変なスクープでもされてみろ、党の足を引っ張るのは誰だ?」
「…………」
「誰だ?」
「……私」
「分かっているなら自重しろ」
ピシャリと言われ、あれこれと口を出してくる父親に対する苛立ちも、すっかり消えてしまった。
「もう気がすんだだろ、帰るぞ。マスター、今夜の先生様の飲み代は?」
霧島さんの問い掛けに、マスターが黙ったままそっと伝票を差し出した。そこには、ここに来てから二時間の間に、私が飲んだカクテルが記入されている。と言っても、ひたすらスプモーニだけなんだけど。
それを見て、霧島さんは片眉をあげた。
「霧島さん、結花さんはそんなに強いのを飲んでいたわけじゃないから、あまり叱らないであげてくださいね」
「問題は酒を飲んだことじゃなくて、誰にも知らせずに姿を消したことなんですがね……」
そう言いながら、霧島さんは椅子から立って私の腕を掴むと、もう一方の手を上着の内側に手を入れた。
「これで清算をお願いします」
差し出したのは、霧島さん名義のクレジットカードだ。
「私が飲んだんだから私が出す」
「スマホしか持たず、雲隠れした先生がなんだって?」
「あ、そうだった……」
溜め息をついた霧島さんは、伝票にサインをするとカードを仕舞い込み、それから私にその手を差し出してきた。
「なに?」
「スマホをよこせ」
「なんで?」
「よ、こ、せ」
「……」
この口調が出た時には逆らわないほうが良いと決まっているので、大人しくポケットに押し込んでいたスマホを差し出す。霧島さんは受け取ると、自分の上着のポケットに入れた。そして私のことを引き寄せると、いきなり肩に担ぎ上げた。
「ちょっと!!」
「どうせ帰りたくないとかなんとか言い出して、そこの階段でも揉めるんだ。こうやって運ぶのが一番早い」
「だからって、人を荷物みたいにあつかうのはやめて!」
「されたくなかったら、今後はもう少し考えて行動することだな」
霧島さんの前を歩いているマスターの足が見えた。どうやらお店のドアを開けてくれるつもりらしい。
「お騒がせしました」
「お気をつけて……結花さんも」
マスターの声が、笑いを堪えているようなのが気にかかるけど、この態勢なので顔を見て確認するのは断念した。
そういうわけで、私はこのスーツ姿の銀縁眼鏡男、霧島冬吾に、とんでもなく恥ずかしい格好でバーから連れ出されることになった。
だけどマスコミの目を気にするなら、こういう派手なことはしないほうが良いんじゃないかしらと思うのは、私だけではないはず。
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