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変人、我慢する

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 王城の奥に位置するザカリーの執務室に向かう。近付くに連れてキャサリンの足取りはどんどん重くなり、後ろに控える護衛が不安げに彼女の後ろ姿を見つめた。



「着いて、しまったわ………」



 重厚な扉の向こうには彼奴がいる。
 一度深呼吸をしたキャサリンは、おずおずとドアに手を伸ばしノックをした。



「殿下、キャサリン=フィッツでございます。入ってもよろしいでしょうか」

「あぁ」



 入室すれば、従者が彼に珈琲を出している所が目に飛び込んでくる。椅子から素早く立ち上がったザカリーは、礼をしようとしたキャサリンの手を優しく握った。



「キャシー、おいで」



 ザカリーは蕩けるような声で愛称を呼びながら彼女の手を引き自分の身体に近づけた。それを見て執務室にいた文官や従者は生暖かい視線を送り、誰も何も言った訳では無いが、部下達は皆、扉に一直線に向かう。

 パタンと扉が閉まった瞬間、その甘ったるい笑みを引っ込めたザカリーは、キャサリンの手をぱっと離し手拭きで手を拭った。その身代わりの早さと演技力にはつくづく驚かされる。



「御機嫌よう」



 キャサリンは深く頭を下げ、酷く平坦な声色で挨拶をする。ザカリーはそんなキャサリンを無視して、椅子に腰掛け足を組んだ。そして自分から呼んだにも関わらず、キャサリンを蔑む様な目で見た後、右手に握られていた万年筆を彼女に向かって投げつける。あと少し飛距離が長ければ、キャサリンの右肩に当たる所だった。

 しかし、人払いをしている今、第三者の誰もその現場を見ていない上に、仮に見ていたとして、王太子に逆らって注意する人物は果たしているのかどうかと言えば、おそらく否であろう。



「……ちっ、本当に目障りな女だ」



 貴方様が呼んだのですよね?と思わず吐きそうになった溜息をぐっと呑み込む。



「お前、ルシャドに留学するらしいな」



 国王伝てに聞いたのだろう。
 ザカリーは鼻で笑うと、そのアメジストの瞳でキャサリンを上から見下ろした。



「どうかしている。お前が私の婚約者だと思うとゾッとするよ」



 それは私の台詞だ。
 キャサリンは頭を下げたまま震える息を吐き出した。
 そして訂正したい。私は貴方の婚約者ではない。断じて。
 しかしそれを指摘すれば、ザカリーの神経を逆撫でする事になるので言わないが。



「………申し訳ありません」



 結局彼が何をしたかったのかはキャサリンには分からず終いだった。ザカリーがキャサリンを呼んだ理由は至って簡単で、彼女がこの国を出る直前に「離れ離れになる愛しい人と悲しい別れの挨拶」をしておけば、「キャサリンイコールザカリーの寵愛を受けた婚約者候補」というレッテルを周りに貼り付ける事が出来るからである。

 フィッツ侯爵家は、本来ならば公爵位に陞爵されている筈の家だ。何故侯爵位のままなのかと言えば、「公爵位ともなると、様々出席しなければならない催物が増え色々面倒だ」と言った先代が、陞爵に関しては絶対に首を縦に振らなかったのが原因である。

 侯爵位なのにも関わらず、5大公爵家の上位に位置するフィッツ家。そんな絶大な権力と財力、そして外交力の塊が、王太子の婚約者として収まる、という事にしておくのは、娘を推す大方の貴族達を黙らせる事が出来る、つまり、ザカリーにとって格好の逃げ道なのだ。

 まぁしかし、キャサリンがザカリーの横暴さを両陛下や両親に密告すれば、簡単に彼の人生を崩落させられる訳だ。が、その肝心な所に気がついていないのか、キャサリンを臆病者と決め付けているのか……。

 深い溜息をついたザカリーは、嫌々椅子から立ち上がり、キャサリンに手を差し出す。キャサリンはその手にギリギリ触れないラインに自身の手を乗せた。



「馬車まで送るよ、キャシー」



 ザカリーの作り込まれた声に、キャサリンはひっそりと顔を顰めた。





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