52 / 322
29 いい方向
霧咲が榛名の務めるT病院に助っ人に来るようになって、約1ヶ月が過ぎた。
毎週木曜日に回診に来る予定だったのだが、榛名主任たっての希望により透析スタッフ全員の意志として──月水金の患者も隔週で診ることになった。
そんなわけで一週目は木曜日、次の週は水曜日というスケジュールだ。
霧咲自体は毎週助っ人に来るが、患者は二週間ごとに霧咲と顔を合わせる、と言った具合である。
そして霧咲が来るようになって、T病院の透析室には色々と良い変化が目に見えて現れていた。
まずは透析スタッフ。
霧咲の細かいツッコミという名の回診のおかげで、各スタッフがそれぞれ自分の受け持ちの検査結果をしっかりと把握するようになった。
今までも毎月チェックは行っていたものの、リンが高いだのカルシウムが高いだのは、医師への報告は全く行われていなかったのだ。(カリウムの高値やヘモグロビンの低下などはリーダーが逐一報告しているが、重要度の差だ)
霧咲の言うようにそれらは医師が把握しておく事項ではあるものの、看護師も把握していた方が患者の身体の状態をより深く理解できて栄養指導などもしやすいし、何より自分自身の勉強になる。
榛名はほぼ毎回霧咲の回診についているのだが、なんだか以前より知識が深まった気がしていた。
例えば、木曜日の回診の時。
「榛名さん、松田さんのTSATはいくつかな」
「え?……なんですか?」
聞きなれない単語に、榛名は思わず聞き返してしまった。
霧咲は『ん?』という顔をして、もう一度榛名に言った。
「TSAT、トランスフェリン飽和度、計算して値を出してくれる?」
聞いたことはある。
聞いたことはあるが……すぐに出せと言われても榛名にはどうやってその値を出すのか分からなかった。
(べ、勉強不足だ──!!)
「す、すいませんっ! ちょっと急いで出し方調べて──」
「ああ待って。いいよ、ここで教えるから」
霧咲は、慌てて踵を返そうとした榛名の手首を掴むと、グッと傍に引き寄せて──勿論、周りに変だと思われないギリギリの距離──説明した。
引き寄せられた時に榛名が物凄くドキドキして、その後大いに焦ったことは言うまでもない。
「俺が記録しているときに君が値を出してくれたら、回診が早く終わるかなと思ってね」
「うぅ……すみません……」
「謝ることはないよ。TSATってのはいわゆる貧血の指標だ。ここにTIBCって項目があるだろ? 血清鉄(Fe)の数値をこのTIBCで割るんだ。そして100を掛けたのがTSAT。20%から22%以上が大体理想とされてるかな……、それと同時にフェリチンの値も見るんだけど、詳しくは後でみんなに教えようか」
二人でノートPCを覗き込みながら、霧咲は榛名に説明する。
しかも後でスタッフ全員に指導してくれるらしい。
「は、はいっ、ありがとうございます! とても勉強になります」
「どういたしまして」
他のナースが回診補助に着くのを嫌がるので(急に質問されるのが恐いらしい)必然的に主任の榛名にその役目が回ってくるのだが、霧咲の患者に対する指導など横で聞いているとかなり勉強になるため、榛名は霧咲の回診補助に着くのは苦ではなかった。
ばれてはいけないのだけれど、院内で堂々と恋人の横に居られるのも嬉しかった。
霧咲が来て嬉しいのはスタッフだけでなく、患者もだった。
「榛名君、明日は霧咲先生の回診の日よね!?」
「そうですよ、谷口さん」
「ああ~楽しみ! 何着てこようかしら。お化粧もしっかりしてこなきゃあ!」
霧咲の甘いマスクと紳士的な物腰で、女性患者はほぼ全員──寝たきりや認知症の人を除いて──霧咲のファンになっていた。
ただし、男性患者からの人気はイマイチだ。
それは霧咲の見てくれがいいからという理由ではなくて、大学病院に勤めている霧咲はここT病院の腎臓内科医・奥本よりも患者に対しての生活指導が厳しいからだった。
霧咲は実際の年齢よりも若く見えるため、若造に色々言われるのが気にくわない、ということらしい。
「お化粧は構いませんけど服はいつもと同じか、同じくらいの重さのものでお願いしますね? じゃないと体重が変わってしまいますから。中にも着込んできたらちゃんとスタッフに報告してくださいよ?」
「分かってるわよぉー! ああもう楽しみっ」
「あはは……」
これまで女性患者に一番人気だったのは、話しやすいという理由でMEの堂島、その次はMEの二宮(31歳の、堂島とは真逆で寡黙な仕事人である)、そして三番目が榛名だった。
榛名の場合、異性というよりは孫のような雰囲気で人気がある。
榛名が患者の谷口氏と話している横で、堂島がぶつぶつ何かを言っていた。
「くそう、霧咲先生め……おばあちゃんたちの人気まで横からかっさらいやがってぇ……」
「堂島君、霧咲先生のこと嫌いなの?」
「俺よりイケメンはきらーい! ムカつくから!」
「うわぁ、じゃあこの世のほとんどの男が嫌いってこと? 生活するの大変そうだね」
「ちょ、榛名君!?」
「あは、冗談だよ」
「もぉ~! 榛名君の冗談は冗談に聞こえねーからやめて!」
「霧咲先生はいい先生なんだから嫉妬とかするのやめれば? 疲れるでしょ」
「いい先生ねぇ……」
じろり、と何かを含んだような目で堂島が榛名を見た。
「何?」
「べっつにー?」
「……」
堂島は自分に何か言いたいことがあるのだろうか。
まさかね、と思って榛名は堂島に向って軽いため息を吐いてみせた。
そして、霧咲が助っ人に来るようになって一番良かったのは、やはりこういう事態だった。
「しゅ……主任ーっ! ちょっと河原さんのとこに一緒に来てくださいぃっ!」
霧咲が回診に来る水曜日の午前中、穿刺が始まって1時間半ほどが経った頃、患者の河原氏のところに穿刺に行った有坂がひどく慌てた様子で榛名を呼びに来た。
河原氏の血管はとても刺しやすく、穿刺は何も問題は無いはずだったのだが……。
榛名は嫌な予感を抱えながら、河原氏のもとへ行った。
毎週木曜日に回診に来る予定だったのだが、榛名主任たっての希望により透析スタッフ全員の意志として──月水金の患者も隔週で診ることになった。
そんなわけで一週目は木曜日、次の週は水曜日というスケジュールだ。
霧咲自体は毎週助っ人に来るが、患者は二週間ごとに霧咲と顔を合わせる、と言った具合である。
そして霧咲が来るようになって、T病院の透析室には色々と良い変化が目に見えて現れていた。
まずは透析スタッフ。
霧咲の細かいツッコミという名の回診のおかげで、各スタッフがそれぞれ自分の受け持ちの検査結果をしっかりと把握するようになった。
今までも毎月チェックは行っていたものの、リンが高いだのカルシウムが高いだのは、医師への報告は全く行われていなかったのだ。(カリウムの高値やヘモグロビンの低下などはリーダーが逐一報告しているが、重要度の差だ)
霧咲の言うようにそれらは医師が把握しておく事項ではあるものの、看護師も把握していた方が患者の身体の状態をより深く理解できて栄養指導などもしやすいし、何より自分自身の勉強になる。
榛名はほぼ毎回霧咲の回診についているのだが、なんだか以前より知識が深まった気がしていた。
例えば、木曜日の回診の時。
「榛名さん、松田さんのTSATはいくつかな」
「え?……なんですか?」
聞きなれない単語に、榛名は思わず聞き返してしまった。
霧咲は『ん?』という顔をして、もう一度榛名に言った。
「TSAT、トランスフェリン飽和度、計算して値を出してくれる?」
聞いたことはある。
聞いたことはあるが……すぐに出せと言われても榛名にはどうやってその値を出すのか分からなかった。
(べ、勉強不足だ──!!)
「す、すいませんっ! ちょっと急いで出し方調べて──」
「ああ待って。いいよ、ここで教えるから」
霧咲は、慌てて踵を返そうとした榛名の手首を掴むと、グッと傍に引き寄せて──勿論、周りに変だと思われないギリギリの距離──説明した。
引き寄せられた時に榛名が物凄くドキドキして、その後大いに焦ったことは言うまでもない。
「俺が記録しているときに君が値を出してくれたら、回診が早く終わるかなと思ってね」
「うぅ……すみません……」
「謝ることはないよ。TSATってのはいわゆる貧血の指標だ。ここにTIBCって項目があるだろ? 血清鉄(Fe)の数値をこのTIBCで割るんだ。そして100を掛けたのがTSAT。20%から22%以上が大体理想とされてるかな……、それと同時にフェリチンの値も見るんだけど、詳しくは後でみんなに教えようか」
二人でノートPCを覗き込みながら、霧咲は榛名に説明する。
しかも後でスタッフ全員に指導してくれるらしい。
「は、はいっ、ありがとうございます! とても勉強になります」
「どういたしまして」
他のナースが回診補助に着くのを嫌がるので(急に質問されるのが恐いらしい)必然的に主任の榛名にその役目が回ってくるのだが、霧咲の患者に対する指導など横で聞いているとかなり勉強になるため、榛名は霧咲の回診補助に着くのは苦ではなかった。
ばれてはいけないのだけれど、院内で堂々と恋人の横に居られるのも嬉しかった。
霧咲が来て嬉しいのはスタッフだけでなく、患者もだった。
「榛名君、明日は霧咲先生の回診の日よね!?」
「そうですよ、谷口さん」
「ああ~楽しみ! 何着てこようかしら。お化粧もしっかりしてこなきゃあ!」
霧咲の甘いマスクと紳士的な物腰で、女性患者はほぼ全員──寝たきりや認知症の人を除いて──霧咲のファンになっていた。
ただし、男性患者からの人気はイマイチだ。
それは霧咲の見てくれがいいからという理由ではなくて、大学病院に勤めている霧咲はここT病院の腎臓内科医・奥本よりも患者に対しての生活指導が厳しいからだった。
霧咲は実際の年齢よりも若く見えるため、若造に色々言われるのが気にくわない、ということらしい。
「お化粧は構いませんけど服はいつもと同じか、同じくらいの重さのものでお願いしますね? じゃないと体重が変わってしまいますから。中にも着込んできたらちゃんとスタッフに報告してくださいよ?」
「分かってるわよぉー! ああもう楽しみっ」
「あはは……」
これまで女性患者に一番人気だったのは、話しやすいという理由でMEの堂島、その次はMEの二宮(31歳の、堂島とは真逆で寡黙な仕事人である)、そして三番目が榛名だった。
榛名の場合、異性というよりは孫のような雰囲気で人気がある。
榛名が患者の谷口氏と話している横で、堂島がぶつぶつ何かを言っていた。
「くそう、霧咲先生め……おばあちゃんたちの人気まで横からかっさらいやがってぇ……」
「堂島君、霧咲先生のこと嫌いなの?」
「俺よりイケメンはきらーい! ムカつくから!」
「うわぁ、じゃあこの世のほとんどの男が嫌いってこと? 生活するの大変そうだね」
「ちょ、榛名君!?」
「あは、冗談だよ」
「もぉ~! 榛名君の冗談は冗談に聞こえねーからやめて!」
「霧咲先生はいい先生なんだから嫉妬とかするのやめれば? 疲れるでしょ」
「いい先生ねぇ……」
じろり、と何かを含んだような目で堂島が榛名を見た。
「何?」
「べっつにー?」
「……」
堂島は自分に何か言いたいことがあるのだろうか。
まさかね、と思って榛名は堂島に向って軽いため息を吐いてみせた。
そして、霧咲が助っ人に来るようになって一番良かったのは、やはりこういう事態だった。
「しゅ……主任ーっ! ちょっと河原さんのとこに一緒に来てくださいぃっ!」
霧咲が回診に来る水曜日の午前中、穿刺が始まって1時間半ほどが経った頃、患者の河原氏のところに穿刺に行った有坂がひどく慌てた様子で榛名を呼びに来た。
河原氏の血管はとても刺しやすく、穿刺は何も問題は無いはずだったのだが……。
榛名は嫌な予感を抱えながら、河原氏のもとへ行った。
あなたにおすすめの小説
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった
ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン
モデル事務所で
メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
魔性の男
久野字
BL
俺はとにかくモテる。学生の頃から、社会人になった今でも、異性問わずにモテてしまう。
最近、さえない同性の先輩に好意を持たれている。いつものことだろう。いい人だから、傷つけたくはないな。
そう、思っていた。