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紅の手、蒼の壁
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王宮の西塔、その最上階にある書斎は、夜の間だけ王と王配だけのものとなる。
蝋燭の灯が揺れ、帳の外では風が鳴っていた。
ゼルは窓際の席で、手元の戦況報告に目を落としていた。夜半を回ってもその姿勢は崩れず、静かな集中が空気を張りつめさせていた。
そこへ、音もなく扉が開く。
ルディだった。
いつもよりゆるやかな衣をまとい、髪は下ろされたまま、額の王冠はない。
軍を率いる女王ではなく、今夜の彼女は、ただ一人の女だった。
ゼルは立ち上がりかけて――彼女の瞳に宿る熱に、一瞬言葉を失った。
それは剣の鋭さではなく、獣のような静かな欲望。
夜の炎が燃やすような、危うい光だった。
「……何か、御用ですか」
声は平静を保っていたが、僅かに喉が乾いていた。
「用がなければ、あなたに会いに来てはいけない?」
「――私は王配です。陛下が夜分にここへ一人で来られるのは……」
「王として来たわけじゃない」
ルディは彼の机を回り込み、至近の距離に立つ。
ゼルは後ずさりしそうになるのを抑え、じっと見つめ返した。
「王配としてではなく、男として。あなたに、触れてもいいかしら」
そう囁かれた声は、唇をなぞるように熱かった。
ゼルの瞳が揺れる。
ひとつ深く息を吐いて、背を向けた。
「……民のために、王配となりました。それ以上は……誇りが許さない」
「誇りを守るために、あなたは何を差し出すつもり?」
「心です」
「じゃあ私は、あなたの“体”をもらうわ」
ふいに、彼の背に腕が回された。
ルディの手は優しく、だが確かな力で、彼の胸元に触れる。
「ずっと見ていたの。あなたが私のもとで冷たい顔をしながら、指先で剣の癖をなぞる仕草。瞳がほんの少しだけ揺れるのも――気づいてる。あなたも、私を見てる」
ゼルは背筋を強張らせ、まるで氷のように動かなくなる。
「……あなたを、女として意識したことがないとは言いません。ですが……」
振り返って目を合わせる。蒼の奥にある揺れは、決して無ではなかった。
「私はあなたに、臣下としてではなく、一人の男として、見ていてほしい。夜の慰みであってほしくはない」
ルディの表情から、一瞬だけ熱が消えた。
けれど、すぐに静かな笑みが浮かぶ。
「あなたは……本当に、罪な人ね」
「すみません」
「謝らないで。……逃げないでくれて、ありがとう」
彼女は腕を解き、指先だけでゼルの前髪を梳いた。
額に触れた熱が、どこまでも残る。
「今夜は帰るわ。でも、いつかあなたの心が許すなら――私の寝所ではなく、隣に来て」
「……そのときは、自分の意志で、行きます」
蝋燭の灯がわずかに揺れ、ルディはそっと部屋を後にした。
背中には触れなかった。触れてしまえば、壊れてしまうものがあると分かっていたから。
ゼルはしばらくその場を動けなかった。
胸の奥が、緩やかに熱くなる。
それは恐れではなく、渇きにも似た、待ち望まれた何かだった。
彼女に抱かれるのではなく、彼女を抱けるようになったとき――。
そのときこそ、すべてが本当に始まる。
そんな予感だけが、夜の静けさに満ちていた。
蝋燭の灯が揺れ、帳の外では風が鳴っていた。
ゼルは窓際の席で、手元の戦況報告に目を落としていた。夜半を回ってもその姿勢は崩れず、静かな集中が空気を張りつめさせていた。
そこへ、音もなく扉が開く。
ルディだった。
いつもよりゆるやかな衣をまとい、髪は下ろされたまま、額の王冠はない。
軍を率いる女王ではなく、今夜の彼女は、ただ一人の女だった。
ゼルは立ち上がりかけて――彼女の瞳に宿る熱に、一瞬言葉を失った。
それは剣の鋭さではなく、獣のような静かな欲望。
夜の炎が燃やすような、危うい光だった。
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声は平静を保っていたが、僅かに喉が乾いていた。
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ゼルは後ずさりしそうになるのを抑え、じっと見つめ返した。
「王配としてではなく、男として。あなたに、触れてもいいかしら」
そう囁かれた声は、唇をなぞるように熱かった。
ゼルの瞳が揺れる。
ひとつ深く息を吐いて、背を向けた。
「……民のために、王配となりました。それ以上は……誇りが許さない」
「誇りを守るために、あなたは何を差し出すつもり?」
「心です」
「じゃあ私は、あなたの“体”をもらうわ」
ふいに、彼の背に腕が回された。
ルディの手は優しく、だが確かな力で、彼の胸元に触れる。
「ずっと見ていたの。あなたが私のもとで冷たい顔をしながら、指先で剣の癖をなぞる仕草。瞳がほんの少しだけ揺れるのも――気づいてる。あなたも、私を見てる」
ゼルは背筋を強張らせ、まるで氷のように動かなくなる。
「……あなたを、女として意識したことがないとは言いません。ですが……」
振り返って目を合わせる。蒼の奥にある揺れは、決して無ではなかった。
「私はあなたに、臣下としてではなく、一人の男として、見ていてほしい。夜の慰みであってほしくはない」
ルディの表情から、一瞬だけ熱が消えた。
けれど、すぐに静かな笑みが浮かぶ。
「あなたは……本当に、罪な人ね」
「すみません」
「謝らないで。……逃げないでくれて、ありがとう」
彼女は腕を解き、指先だけでゼルの前髪を梳いた。
額に触れた熱が、どこまでも残る。
「今夜は帰るわ。でも、いつかあなたの心が許すなら――私の寝所ではなく、隣に来て」
「……そのときは、自分の意志で、行きます」
蝋燭の灯がわずかに揺れ、ルディはそっと部屋を後にした。
背中には触れなかった。触れてしまえば、壊れてしまうものがあると分かっていたから。
ゼルはしばらくその場を動けなかった。
胸の奥が、緩やかに熱くなる。
それは恐れではなく、渇きにも似た、待ち望まれた何かだった。
彼女に抱かれるのではなく、彼女を抱けるようになったとき――。
そのときこそ、すべてが本当に始まる。
そんな予感だけが、夜の静けさに満ちていた。
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