名指された花嫁

もちもち

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外伝

その名を聞いた日

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十六歳になって間もない春の日、ラス・マデリートは庭のラベンダーに水をやっていた。
父の手入れする小さな庭園は、庶民に近い子爵家の静かな誇りだった。

「お父様、昨日の雨で土が少し流れてました。……この辺り、また撒き直したほうがいいかも」

「おお、ラス。よく見ておるな。では午後にでも一緒にやろう」

そんな、平穏な日常。
つつましく、けれど穏やかに。
このまま結婚して、小さな屋敷で家族を持てたら——そう思っていた。

けれど、その午後だった。

王都から、ひときわ上等な馬車がやってきた。
降りてきたのは、レアドール王国の“神殿付き司教”を名乗る人物。
金と白の法衣に身を包み、庭先に佇むラスを一目見るなり、厳かに言った。

「神託が下りました」

父も、母も、召使いも、固まった。

ラスは意味が分からず、少し笑っていた。

「え……あの、神託って、あの、あの神託ですか?」

「神は仰せです。『アグナス・レアドール王弟と、ラス・マデリート子爵令嬢。
この二人、来たる時代の平衡をもたらすものなり』」

静かな空気のなかで、その言葉だけが、信じられないほど重く響いた。

ラスは、ぽかんと立ち尽くした。

アグナス・レアドール——王弟。
王族であり、数多の美しい令嬢から羨望と憧れを集める人。
政に長け、武にも秀で、容姿も誰もが見惚れるという、完璧な男性。

その、婚約者?

私が?

「……なにかの間違いでは」

思わず口から出た言葉に、司教は首を横に振る。

「神託に誤りはありません」

「……っ」

胸が苦しくなった。
喜びよりも、恐怖の方が早かった。

こんな、地味で、家柄も目立たず、舞踏も知らず、礼儀も怪しい私が——
国の王弟の、正室の候補に? 人々の前に立たされるの?

「わたし……無理です……っ、できません……!」

その場から走り去り、庭の隅の古い石畳のところで、息を整えることすらできなかった。

「……どうして、わたしなの?」

膝を抱え、ひとりぽつりとつぶやいた。

勉強も、舞踏も、人並みにこなすけれど、得意なことなんてなかった。
優しいとよく言われる。でも、それだけ。

きっとどこかの誰か、もっと綺麗で、気高くて、王弟に似合う令嬢がいるはずなのに。

「神様、冗談が……過ぎますよ……」

その日、ラスは泣いた。

夢見たこともないような大きなものに、突然手を引かれた恐怖で、ただただ泣いた。



それから数日、ラスはほとんど部屋から出られなかった。

家族は「神託は拒めない」と繰り返した。
役人が来て、正式な書類と婚約の準備について告げていった。

王弟殿下が会いに来る日程まで、示された。

「……逃げられないんだ」

ラスは知った。

神託とは“命令”であり、“祝福”であり、“罰”でもある。

「……でも、もし……」

あの日、ラベンダーの水をまいていたように、目立たず、静かに暮らしていたら。

それは「誰にも選ばれない」人生かもしれなかった。

でも、今は違う。
神が告げたとはいえ——

誰かが、わたしの名前を呼んでくれた。
国中のどこかにいる、“王弟”という遠い存在が、いま、わたしの名前を知っている。

その事実が、少しだけ、胸の奥を灯していた。

——きっと、逃げられないなら。

——せめて、後悔しないように。

初めて、ラスが自分で選んだ決意は、
“王弟に会うことを怖れない”という、小さな勇気だった。

それが、やがて“愛”へと変わっていくまでの、始まりの日だった。
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