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サーナック誕生編

序章  悪夢から始まる

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ブクブクと…泡が体をつたっていく…。
ゆっくりと瞳を開いても、そこにあるのは暗闇だけ。
声は出ない、この暗闇に飲み込まれたように言葉は響かない。
深い、深い闇の底、人の立ち寄れない深海に横たわり、見えない海底に向かい重く沈んでいく。
やがて異形の住人達が俺の体にかじりつく、身体は抵抗する事無く千切れていく。
指先が無くなり、腹が割かれ、内臓が引きずり出される、頬に口づけされ、次の瞬間噛み千切られる。
痛みはない、目玉がくり抜かれた瞬間間抜けにもスポッという音がした、あまりに非現実的だった。
自分の体が端から闇に消えていく様子を眺めながら僅かに口角をあげ、苦笑する。
貧困な想像力だと自分を罵った、夢の中だと俺は気付いていた。
しかし醒めてほしいとは願わなかった、醒めない悪夢を望んでいたのだから。
もうひとつ欲をいうならば、安らかなる死だ。
歴史に名を残すような壮絶な死を、なんて思っちゃいない。
死はそんなに特別なものじゃない、俺のは特にそうだろう。
だがわかっていても俺は死に期待していた。
いいじゃないか、それぐらいしか考える事がないんだ、死後の世界に期待を膨らませたってさ。
誰かに迷惑をかけるわけじゃないんだから、さ
俺が望む場所はただ静かな…



白い天井だ、現実の悪夢が始まったらしい。
カーテンが揺れる音、他の患者のラジオ、何かを載せて病棟を移動する台車の音。
そして人間の足音がすぐ近くまで来ていた。
「あ~…おはようね、ちょっと点滴いれるから…」
みるからに疲れてそうな中年のおばさん看護婦が、けだるそうに点滴の準備をはじめる
俺が目を細めると、その看護婦はムッとした顔をし
はらいせか俺の頬をつねり、それでも見続けたら目をふさがれた
「見んなやもお~」
と冗談まじりに困った言い方をする、まるで自分が被害者だと周りに主張するように
そのうち他の患者からの笑い声が聞こえる
「ほんまこまったやっちゃ、世話してもらっとるちゅうに」
「ろくな親に育てられとらんで」
よぼよぼの爺さんやらが俺をネタに談笑を始める、いつもの光景だ
そしてこの看護婦は俺のベッドに腰かけてだべり始め、俺の見舞いで置かれていたクッキーを物色し始める
「まっず、紅茶クッキーやんか」
食べてる途中で吐き出す、かすがベッドにこぼれる。
それに気付いてはらった拍子に点滴に手が当たって注射針が抜ける。
「うわ…最悪や…」
といいながら、抜けた針をもう一度俺の腕に刺す。
眽の位置が捉えられず、何度も何度も。
俺は注射針の痛みと、文句が言えない不自由さが重なって、怒りを通り越して泣きたくなった。
だが涙は流さない、泣けば看護婦は焦って「泣くんじゃねー」と叩くからだ。
これが、俺の現実の悪夢の一部分でしかない事。
今日に限った事ではない事。
…もう十分だ、俺は再び安らかな死を願いながら静かに瞳を閉じた…。



暗闇の中に放たれた線、幾つにも別れた世界が収束する、網のように、木の根のように、別れた線が一つになる。
線の中で混ざり合った白が別の白と混ざり合って一層白さを増す。
集められ、手繰り寄せられ、渦巻かれ、やがてそれは点になる。
点は脈動と共に膨らんでいく、それは球となる。
球は不透明な殻に覆われ、光沢を放つ水晶と化す。
その水晶は紫に色づき、中には脈動する胎児がいた。
胎児がその瞳を開いた、その瞳にうつった何者かが柔らかな手をさしのべてくる
水晶を抱き寄せソレはささやいた

「産まれてきてくれてありがとう、貴方に名を与えます…サーナック、それが貴方の名」

俺は夢を見ている、おそらくこれは悪夢ではない。
紫のスクリーンに映し出された半透明の女に抱かれ、祝福と名付けを受ける夢だ。
女はとても美しかった、陽光をあびる海面のように青く綺麗で透き通っていた。額の瑠璃色の宝石がついた髪飾りから長い髪がひろがってゆらゆらと踊っている。透明な身体と長い耳から現実の人でない事が察せられたが、その優し気な表情に何もかも忘れただ身を委ねた。
長く忘れていた安息、母のにおい、暖かな夢、俺は幸福に包まれていた。
この幸福な夢が覚めなければいい、そう願ってやまなかった。
しかしその願いは早々に打ち砕かれた。
女が俺を手放した、そのままゆっくりと距離が離れていく。
ああやはりこうなるのか、俺は少しでも期待したのが馬鹿だったとさっきまでの自分を嘲笑する。
女は最後まで俺を凝視していた、俺は世界を呪って再び眠りについた。
幸せの瞬間から絶望に落とされる事ほどつらいものはない、やはりこれも悪夢。
できることなら…もう…目覚めたくはない…。
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