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第三章 勇者ああああと壊れた城の灰かぶり

3-6 タイムリミット

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 透き通った碧眼と艶のある金髪をした青年はこの国、フランク・ローランス王国の王子であるらしい。

 聞いたことのある名前だ。……というのも、私がこの国名を知ったのは学校の歴史の授業でのことだからだ。

 この国はかつて、疫病で国家の中枢機関が壊滅的な被害を受け、このままでは国家を保てないということでパプライラ王国と合併して名前を失ったはずだ。

 ……そうだ。方角的には私たちがたどり着いたこの地は、フランク・ローランス王城の跡地か、それに近い場所かもしれない。

 何がどうなっているのかさっぱり分からない。分からないけど、この舞踏会は、何か大きな謎を秘めているということだけは分かる。もしかしてこの舞踏会は聖剣が指し示した場所……すなわち私たちの旅と大きく関係している……?



 幾ばくかの定型文的な挨拶を終えると、いつもの流れとでも言うようにダンスが始まろうとしていた。

 どうしよう。ここにお兄ちゃんはいないし、違う部屋を探しにでも行こうか。

 私にはダンスを踊る技術など有りはしないので、脳はここから逃げることを優先しようとしている。

 しかし先ほど入ってきた扉はもちろん、他のたくさんある扉すらもが既に固く閉じられていた。



「ヒリ……お母さま」

 つい言い間違えそうになった自身の口を必死に抑えて訂正する。

 きっとヒリアさんなら、こんな状況を切り抜けるための計画も練っているかもしれない。



 腕をぐいぐいと引っ張ってみる。だが反応はない。

「?」

 ヒリアさんは一点を見つめているようだ。

 私は彼女の背後に立って、視線の正確な方向を確かめてから答えを見つけた。

 王子だ。ダメだこの人、目移りしてる…………この前お兄ちゃんが一番みたいなこと言ってなかったっけ!?

「ああ~堪らないわね~イケメンは」

 今にも涎が垂れそうなくらいに顔が崩れた彼女は、既にお兄ちゃん探しの計画を忘れてしまっているようだった。



「おや! そこの見慣れないムァァダム! 私と一緒にどうかな?」

 すっかり王子に気を取られていたヒリアさんに横槍が入った。

 いかにもお坊ちゃま街道を突っ走ってきたという風貌をした青年から声がかかったのだ。というか、ヒリアさんにマダムとか言うと傷つきそうだからやめた方がいいと思うけど……まあそういう設定にした彼女の自業自得でもある。

「マダ……ええ、仕方な……是非ご一緒させて頂きますわ、オホホホ」

 彼女は何とか怒りを抑え、顔を引き攣らせながら「やってやろうじゃないの」と青年を強引にリードして何処かに消えてしまった。

「抑えられてないよね……」

 傷害事件に発展しないことを祈るばかりです。



「おやあ、シャルちゃあん」

 ヒリアさんを見送った直ぐ後に、私にも声がかかった。この声は先ほども聞いた声だった。

「お、王様! ははー!」

 パプライラ王。私の住む国の王様。こんな私と対等に喋ってくれる彼は何て慈悲深き人なのか。

「おおい、よしてくれよシャルちゃあん。こういう場なんだからもっと気楽にいこうじゃあないか」

 王様は慌てて、前で首を垂れる私の体を持ち上げる。

 そうだ、今の私は貴族なんだから、もっと堂々としていなきゃいけないのに!

「す、すみません。お久しぶりなもので緊張してしまって」

「前に会ったのはあ六年くらあい前だったかなあ? 無理もないことかもしれないなあ」

 どんなに心を繕おうとしても緊張は解けてくれない。そんな私を察してか、王様の元々優しい口調は、さらに柔らかくなって私を受け止めてくれているような気がした。



「もおし相手がいなあいのなら私とどうかなあ」

「え!? いいんですか!?」

 ……やった! 突然、考えもしなかったところから幸運が訪れた。ここは何とか乗せてもらおう。

 王様はもちろんと言って、私の手を取ってリードしてくれた。遂に始まった。最初はぎこちなく踊っていた私に対して、彼は一から十まで分かりやすくレクチャーしてくれる。……な、なんて優しすぎる王様なんだ!!

 十分も経てば、私は王様の動きにそれなりについていけるようになり、他のペアとも見劣りしない程度には動けていた。



 たまたま、ヒリアさんのペアとすれ違う。彼女は私の方を一瞬だけ向いてウインクをした。

 ふと、天井を見上げる。私の背より何倍か高いところにある豪華な照明は、魔法によって灯されているのだろうか。

 上から降り注ぐ演色性の良い光は、地上で舞うドレスたちをきらきらと輝かせる。

 その様はまるで、風に吹かれた花畑のようであった。



 しかしその中で一つだけ、他よりも数段可憐な花が、日陰に取り残されていた。

 対して、この舞踏会の主である王子は中央で最も気高く咲く強き華として、光を集めるように舞っている。

 光と闇。それは最も遠いようでいて、また最も近い者たち。二人には、そんなイメージの湧く何かが宿っていた。

 二人の視線は度々重なる。踊りながらも視線を送る王子。自分を守るようにスカートを握りしめる少女。



 誰あの子……見たことない顔……生意気な子……帰ってくれないかしら……邪魔……

「なに……これ……」

 誰かの、誰かたちの声が頭の中で反響する。

 誰の声かは分からなかった。だが周囲を見渡せば、その答えは直ぐに見つけることができた。

 この場で踊っている女たち、ひらひらと舞う数十もの薔薇たちが、少女に向けて一点に棘の先を向けていたのだ。

「うぅっ……」

 吐き気がする。こんなにも綺麗な城なのに、その内側は熟成された毒によって満たされているかのようだった。

「シャルちゃあん、大丈夫かあい?」

「……すみません、大丈夫です」

 一瞬、ふらっと倒れかける。

 それほど濃密な毒だった。こんな感覚は感じたことがない。とても……居苦しい。

 少女に目には、小さく涙が漏れ出しているように見えた。きっと、とても純粋な子なのだろう。こんな貴族同士の、目には見えない啀み合いが交錯する場など初めてなのだ。彼女だって私のように倒れそうになってもおかしくない。なのに、しっかりと地を踏みしめている。



 履いているのはガラスの靴。今にも壊れそうな、儚く脆い、そして純真無垢な彼女を体現しているような靴。

 壊れる。後十秒、いや、あと五秒も持たないと思う。

 私は王様の手を離し、走り出した。

 放っては置けない。いま彼女を助けられるのは、支えて抱きしめられるのは同じ立場である私しかいない。この手が届くまで、砕けないで……!



 ――――掴んだ。 少女の手を。

 だが、それは私の手が、ではない。

 私しか助けられないという考えは、只の自分自身の思い込みだったのだ。……ここには、更に相応しい人物が存在していた。



「お嬢さん。そんなところにいては、その美しい姿が勿体ない。私と一緒にどうです?」

 王子。彼は彼女にとっての救世主だ。

 宝石のような瞳が、涙によって更なる輝きを反射する。

「…………は」

 少女が何か言い切る前に、王子は彼女の手を引いた。

 涙が砕けて宙に舞う。――花に、光が差した。



「ちょおっと、急に離れたらあ危ないじゃあないかあシャルちゃあん」

 王様は私を心配して追いかけてきたようだ。

「王様」

 彼は私のところまで来ると、その向こうにいた王子たちに視線を向けた。

「おお、彼女は……実にお似合いだねえ」

 王子と少女が手を取り合う姿は、思わず踊りを止めてしまう程の光景だったのだ。



 彼女は私と同じように、最初はぎこちなく踊っていた。こういう場は初めてだったのだろう。

 しかし、しばらくすると王子のサポートのおかげかしっかりと踊れるようになっていた。まるで宙を舞うたんぽぽの綿毛のようであった。

 二人は他の参加者を掻き分けるように、中央へと移動していく。



 王子は少女の顎を支え、その顔が見えるように自分の方へと向けた。

「ちゃんと、顔を上げて私に見せてくれ」

 二人の目が合う。

「ああ、やっぱり。とても美しい」

 社交辞令……お世辞だと少女は思ったのだろう。彼女は顔を逸らして苦笑いを浮かべる。

 しかし王子は真っすぐな瞳で更に少女に告げた。

「正直に言うと、私は君に一目惚れをした。ここにいる、どの女性よりも、貴女は私に相応しい」

 それは愛の告白。あまりの突然の出来事に、少女は目を丸くして困惑する。

「……冗談……ですよね?」

 当然の返答。彼の言葉はうれしいが、とても真実とは思えないのだろう。

 しかしこれは現実。あまりにも夢心地のひと時は彼女の手を離そうとはしなかった。

「冗談などではない。私は結婚を前提に……いや、君を私の妃に迎え入れてもいいくらいだ」

「……ほん……とに」

 彼女はその言葉を受け、一気に涙が溢れだしそうになる。これで救われる。なぜかそんな顔をしているように見えた。

「…………ありがとう……ありがとうございます」

 最初の感謝は、城の入り口だろうか……の方を向いて告げ、二度目の感謝は王子へと告げた。最初のありがとうは誰に向けた言葉だったのだろう。誰か知り合いでもいたのだろうか。



「それから」

 王子は思い出したかのように切り出す。

「君の名前を聞いていなかったね」

 彼は、余りに当たり前すぎて私でも忘れていたことを聞いた。

 そうだ、私は彼女の名前を知らない。こんなにも自分のことのように感情移入しておきながら、私は彼女の友達どころか知り合いでもなかったのだ。

「……私の名前は」

 彼女は口にする。これからのことを考えたら名前は聞いておかなくちゃならない。これで別れたらまた会える保証など無いのだから。

 しかし、その言葉は最後まで発せられること無いまま断ち切られた。



 衝撃音が走ったのだ。それは石造りの壁が破壊される音でも、何かの爆薬が破裂する音でもない。

 一際大きい、鎧を着こんだ者の足音のようだった。

 さすがに舞踏会に鎧を着て参加する者などいないし、こんなに石造りの空間に響き散らかせるくらいの力で足踏みしながら踊る者もいない。

 ざわざわと辺りが騒がしくなる。当然のことながら皆踊りを中断していた。

 すると、人混みはどんどん中心から切り分けられ、そこから一人の男が姿を現した。



 白銀の鎧に規則正しい無駄の無い歩き方。後ろで結んだ長髪を揺らしながら歩いてくるあの男は……

「お兄ちゃん!?」

 私はとっさに駆け寄ろうとするも……

「シャルちゃあん! 今は危ないからここにいなさあい」

 王様に必死に抑えられる。どうして!? 王様ならお兄ちゃんのこと知っているでしょ!?



「なんだあいつは……?」

「いま……天井から降ってきたよな……多分」

 お兄ちゃんを避けながら、舞踏会の参加者たちが矢継ぎ早にお兄ちゃんに対しての疑問を口にしている。

 しかしそんな異様な者を止めることができる人などいる筈など無く、お兄ちゃんは気にせず城の入り口側の扉へと歩いていく。

 ……しかしとても厄介な事態になってしまった。突然のお兄ちゃんの登場に、みんな視線を一点に向けているから私も出て行きづらい。というか、めちゃくちゃ恥ずかしい。

 ちょうど目に入ったヒリアさんも、どうしていいか分からずだらしなく口を開いて唖然としていた。

 あの少女すらも一人で立ち尽くしている。あれ? 王子さまは何処へ?

 なんと王子は少女の手を離してお兄ちゃんの方へと向かっていった。



「すまない、貴方は一体何者かな?」

 二人は向かい合う……と思った。しゃべることができる位置まで来たら自然と対峙するのだと。

 王子もきっとそう思ったのだろう。流石の私もそう思った。

 だが、そうはならなかった。



 お兄ちゃんは、然もそこに岩か何かがあるかのようにして王子を斜めに避けて平然と歩いて行ったのだ。

「なっ!?」

 王子は余りの衝撃に、お兄ちゃんの方を振り向かずに驚いて硬直していた。

 当たり前だ。後に一国の王となる者に対して、こんな失礼な対応をするものなど今までいなかっただろう。どんな薄汚れた盗賊でさえ、一言文句でも発したはずだ。



 一呼吸おいて、直ぐに王子はお兄ちゃんの方へと向いた。その顔は、落ち着きながらも大きな怒りをはらんでいたように見える。

「貴様、不敬であるぞ。私はこのフランク・ローランス王国の王子だ。それを心得て、今の貴様の行動を即改めよ!」

 だがそんな言葉を聞き入れることなど無い。お兄ちゃんには、彼の声は春に吹くそよ風の如く何も感じない物だったのだろう。

「……ッ!」

 激高するかと思った。王子の表情はまるで別人かのように豹変していた。その怒りを向けられていない私でさえもがたじろぐ程に。

 しかしその怒りが発散される前に、城の奥から押し寄せた兵士たちの怒号が部屋中に鳴り響いた。



「あいつをとっ捕まえろおお!!」

 古風な鎧を着こんだ男たちが数十名。……ああ、分かる。この騒ぎの原因はお兄ちゃんだ。

 きっと城内に侵入したあといろいろ盗んだのだろう。前科一般である。

 ここはお兄ちゃん一人でも大丈夫と、私は他人のふりをして王様と部屋の端に寄る。

「こいつ……! どうやって一階に降りたんだ!」

「王子! お怪我はありませんか!?」

「ああ、剣を寄こせ。あやつは私が叩きのめしてやろう」

 そういうと、すぐさま王子の元に細身の剣が渡ってくる。

 剣を構える彼の姿は一枚の絵のようでもあり、周りの貴族たちは、これは良い見物だと湧きたち始める。



 いつもの訓練の証か、熟練の兵士たちはすぐさまお兄ちゃんに逃げる隙を与えないように取り囲む。

 漸く、お兄ちゃんの足が止まった。……戦いが始まる。

 先攻は……どちらも動かない。いや、動いている。お兄ちゃんの口が僅かに。

 あれは詠唱。魔法を発動するつもりだ……!

 そしてお兄ちゃんの口の動きが止まった途端、部屋の中に風が吹く。

 目を瞑りたいくらいの強風。それは竜巻のように軸を作りながら回転するものではなく、お兄ちゃん自身を送風口として放射状に放たれていた――!

「きゃああああ!」

 頑丈に鍛えてある兵士ならまだしも、周りにいた貴族たちはその風圧に耐えることができず、私も含めて壁へと転げ回っていった。

 そして出来上がったのは、円形の戦闘空間。戦いに参加しない物を巻き込まないように配慮した形か。



「なんだ今のは!?」

「奴は強力な魔法使いだ! 距離を詰めて口を押えろ!」

 指揮官と思わしき人が大声で指示を伝達する。

 彼の判断は正しい。例外を除けば、全ての魔法使いは発声器官を潰されれば無力化できる。

 しかしそう簡単にいくわけがない。……だって相手はお兄ちゃんなのだから。

 似たような状況を訓練していたのか、明らかに計画的な動きで十八名もの兵士が円形を保って中央へと詰める。と同時に、その後ろから比較的軽装の兵士が杖を構える。彼らはきっと魔法兵だ。続けざまに彼らは何らかの詠唱をし、その瞬間突撃した兵士たちの速度が倍に上がった。多分、攻撃力や防御力といった全体の能力値がランクアップしているのだろう。

 そして剣が振り下ろされる。しかしそこには誰もいない。



「!?」

 誰もが驚いた。魔法で馬よりも速くなった兵士よりもさらに速い動きで、お兄ちゃんは鉛直に天へと舞い上がった。

 しかしそれは悪手だ。下では体勢を整えた兵士たちが待ち構える。下りれば直ぐに取り押さえられるか串刺しにされるであろう。――しかし、それは一般常識での話だ。

「……!」

 小さな詠唱、とともに光が溢れる……!

 化け物じみた魔力を感じる。それは天井に吊るされていた魔法による照明を活性化させ、目を瞑るほどの光を放ったのだ。



「……お兄ちゃん!」

 しかし、明順応とは時間の掛からないものである。兵士たちは瞼を開き、天井の輝きを堪えて宙を見上げた。――遅かった。

 肉を突く打撃音が走った。それも十八回。突撃した兵士の数と一致した。

 許容魔力量を超えたのか、照明がバチバチと激しい音を鳴らしながら点滅し始める。

 明と暗が猛烈な速度で切り替わり続ける。地上に倒れ伏す兵士の中央で、剣を抜かずして無双したと思わしき男が一人存在していた。やはり、お兄ちゃんを倒すことなどできなかった。



 お兄ちゃんの動きはコマ送りに映る。点滅する照明の所為だろう。そのまま剣を抜き、頭上に振り上げ、強く一閃を放った――――!

 目を見開き、剣は中空から地面へと空を切って振り下ろされる。

 それは漫画やテレビで見た、ヒーローが敵を倒す必殺技の如く光景だった。

 お兄ちゃんの位置から城の入り口の扉まで、光の奔流が放たれる。その衝撃で部屋中の装飾物が床へと落ち、テーブルが吹き飛び、入り口に続く大扉が圧壊した。

 その余波により、立ち上がっていた貴族たちは悲鳴を上げながらまたも壁へと吹き飛ばされる。

 そして空間を埋めた魔力による光は大半が消えたにも関わらず、尚も生きあがくように、ところどころにその残滓を残して部屋を薄暗く照らしていた。



 ……なにが、起きたの?

 貴族らと同じく、私も吹き飛ばされて転んでいたのだが、そんなことがどうでもよくなるくらいに壮絶な光景が目の前で起こっていた。

 あまりに凄すぎて笑うしかない。

 髪をくしゃくしゃにして膝をつくようにして床に座っていた私は、一時間くらいそうしていたかのようにも思えるほど硬直していた。

 誰もが唖然としている。その静まり返った中で、低音が鳴り響いた。城の外、町中に響き渡るような大きな鐘の音。それは十二時を知らせる時報であった。



 鐘が鳴り終わると、薄く照らされたお兄ちゃんが歩き出す。まるでこの騒動など無かったかのように平然と、先ほどまでと同じように歩を進めていた。

 その光景を惚けて眺めていると、横からぐっと腕を引っ張られて持ち上げられた。

「いーちゃん! 何やってんの! さっさと撤退するよ!」

 ヒリアさん……そうだ、私たちの目的は果たされた。あとはここから退散するだけだ。

 私は正気を取り戻し、二人で扉の方へと駆ける。

「お、おおいシャルちゃあん」

 王様が心配そうな声で私を呼び止める。いまは一刻も早く飛び出して行きたかったが、彼にはいろいろ助けてもらったので一度だけ会釈をした。一瞬だけだが、笑っていたように見えた。



 いま私たちがやるべきことは、馬車に置いてきた荷物の回収。お兄ちゃんを追い抜いて馬車へと走る。

 すると私たち二人とは別に、もう一つ床を走る音が聞こえた。

 もしかして追手!? その存在を確認するべく後ろへ首を回す。

 そこにいたのは王子と結ばれた少女だった。……いや、結ばれるはずだった少女か。

 こちらに走っているということは、何か事情があって舞踏会から抜け出すということなのだろう。

「あっ!」

 少女に気を取られてか、足が絡んで硬い床に倒れこむ。

 幸いヒリアさんに支えられていたおかげで打撲をせずに済んだ。その横を少女が追い越していく。



 すると前方で何かが割れた。

 顔を上げると、少女のヒールが折れていた。

 粉々に砕け散ったヒールの部分を見て、少女は片方を脱ぎ捨てる。

 少女と目が合う。彼女は今、背中で天窓から差す月明かりを受けていた。正面は影になっていて、そして何故か顔を抑えているので見えづらい。

 そんな彼女を見て、私は違和感を感じていた。……本当に彼女は先ほどの少女か?

 具体的に何が異なっているのか分からない。しかし、さっきまでとは顔が違うように見えた。……何か大きな傷跡のようなものが見えるような気がする。



 彼女は片方のガラスの靴を諦め、もう片方の靴を抱えて逃げるように立ち去って行った。

「……待って!」

 声は届かない。

 少女がいた明かりの灯る空間には、反射して光る、ガラスの靴と宙を走る小さな流星だけが残った。

 きっと涙だ。私は何てことをしてしまったのだろう。舞踏会の邪魔をするばかりか、あの少女の恋を狂わせてしまったかもしれない。



 せめて、そこにあるガラスの靴を回収していこう。あの子に返すために。

 そう思って手を伸ばすと、横から手を掴まれ、その行為を止められた。

 ヒリアさんだった。彼女は倒れた私を持ち上げてから言った。

「それを手に取ったらダメよ。彼女は大丈夫だから」

「え……?」

 彼女は真剣な表情で私を咎める。その圧に押され、私は靴を諦めてまた走り出す。



 門を出ると、寒風が露出した肌に触れた。外はすっかり深夜になっていた。

 あの少女は何者だったのか。何のためにこの舞踏会へと参加したのだろうか。

 私の心の中には、彼女への疑問だけが残る。

 そんな寂しさと悲しさを纏う私の胸を受け止めたのは、永遠と続く穏やかな闇と星の光たちであった。
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