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第三章 勇者ああああと壊れた城の灰かぶり

3-15 清澄の仮面

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 少女にとって、今日はとても幸運な日だった。

 きっと他人から見たら、誰もそうは思わないだろう。

 小汚い朽ちた倉庫に住み、こんな寒い夜でも外気が入り込む部屋の中で、寒さを凌ぐ術は使い古しの薄い布だけ。

 そんな状態でもしかし、今日だけは特別に幸せな気持ちで満ちていたのだ。



「生きていれば希望がある……ええ、そうですね」

 先ほど渡された紙を開き、エラという名の少女は笑顔を浮かべる。いま彼女の胸の中には、温かな希望が宿っていた。

 この紙は少女にとっての宝物だ。ただ唯一の友達。その人の想いが託された、大切な。



 少女は転ばないようにと、固く靴紐を結ぶ。いつもは毛布代わりに使っている布を羽織り、壊れかけの扉に手を掛けた。

 深呼吸。心を落ち着かせ、目の前の希望を見据える。

 瞬間、扉を強く開いた少女は、足に翼が生えたように力強く満月の夜へと飛び出した。



 目指す地は森の奥深く。自分の足が出せる最大の速度で木々の間を駆け抜ける。

 何をする為の疾走か。それは魔女に会うため。会ってどうするのか。それは行きながら考えよう。

 少女はこんな自分は久々だと思っただろう。こんなに嬉しく、爽快で、後先考えずに思い付きで行動する自分。起きているのに、痛みすら感じない。



 家の近くの森は、霜の所為か、地面を踏みしめるたびにサクサクと音を立てる。平地だが木々が密集し、時折ぶつかりそうになりながらも紙一重で躱していった。

 森は奥に行くにつれて地面が湿り、また地形も凹凸が多い未開拓の場所であった為、少女は何度か転びそうになりながらも、森の中を舞い踊るかのように滑りぬける。

 獣の形をした魔物が現れては紫電を走らせ、赤い目で此方を狙うゴーレムは人差し指一つで破裂させる。

 まるで妖精のように、楽し気に、周りのことなどお構いなく、遊ぶように森中を翻弄する。

 やがて辿り着いたその先は、かつて少女が死を覚悟した場所だった。そんなことを気にも留めず、更に遠くへ走り抜ける。

 前に落ちてしまった深い深い崖が見えると、海にダイブするように飛び込み、少女は目的地に辿り着いたのだった。



 体操選手もかくやと綺麗に着地をすると、息を切らした少女はぐったりと尻餅をついて倒れる。

 思い返してみれば、少女はあの時と同じ体勢をとっていた。違いがあるとすれば、気持ちの問題。今の少女は、とても前向きな心をしていた。

「はぁ……はぁ……ここに……いると思ったのだけれど……」

 少女は未だ収まらない鼓動のまま立ち上がる。確かここで眠るようにしていると、あの夢の色をした瞳がこちらを見つめてきたのだと思い出す。

 ――あの時と同じようにやってみよう。

 そう思い、少女はゆっくりと瞼を降ろして思考を一点に集中させる。瞑想は魔術を使うときに使われるが、彼女にとっては睡眠にも有用な手法だった。



 瞼の裏側には、あの日の記憶がよみがえる。地面から湧き上がる蛍のような魔力光。空高く飛ぶ小さな庭園。天を駆ける鳥やドラゴン。昼の空に煌めく恒星の数々。今にも大地に激突しそうな惑星たち。そして、この腕から放たれた、光の柱。

 夢想かと思われたその思考は現実を侵食していく。

 やがて、少女の瞼の裏は真実となっていた。



 ――コンコン。

 いつか聞いた杖の音が響く。

「……来たのね」

 囁きほどの小さい声と共に、大樹の陰から黒いローブの女が現れる。まるで風のようだった。彼女は本当にそこにいるのかと疑う程の透明感を宿していた。

「ダルク」

 女の名はダルク。少女に希望を与えた未知なる魔法使い。少女は女の名を小さく呟く。彼女は真剣な顔で、ダルクと対峙していた。



「言わずとも分かっている。貴女はこれを取りに来たの」

 ダルクは少女が既に覚悟を決めていると見抜き、あるものを手渡す。

 それはダルクの顔から浮き出るようにして現れた。透明で、高山に流れる水のように澄み切った仮面だった。

「……それは?」

 その仮面は少女にとって初めて見る物だった。ダルクからは、かつてカボチャの馬車を貰ったことがあった。だからこの仮面もきっと、特別に不思議な代物なのだろうと少女は思う。



「清澄の仮面。純粋な、色のない、何者でもない仮面。これを付け、自分がなりたい顔を思い浮かべるだけでそのようになる。一夜限りの脆い魔法とは違う。顔を作り替えるわけではないから嫌になったら外すことも出来る。しかし絶対に外してはならない。幸せを享受していたいのなら。」

 ダルクは仮面の説明と忠告をする。それを受けた少女は、もう決意を決めていた。何の迷いもなく清澄の仮面を受け取る。

「ありがとうダルク。私、幸せになってくるわ」

 全身傷だらけで今にも倒れるのではないかと思う程の痛々しい少女は、いつもとは違う強気の眼差しで、目前の夢の色をした瞳に笑いかけた。



 少女は再び、希望に向かう――
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