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最終話 封印された獅子
しおりを挟む「待ってよ。なんであんたまで行っちゃうのよぉ……っ!!」
足を止める藻沼。振り返った瞳に感情は映らない。それが胸を刺し、悔しくて涙がボロボロと溢れる。
「なぜ引き留めるのですか?私はあなたをちやほやしたりはしませんよ」
「違うっ……」
「自分の発言は、全て自分に返ってくる。本当の友情も築けない。人を愛することもできない。『一生独り身』なのは、あなたの方かもしれませんね」
「うるさい、うるさいっ!!」
「髪は乱れて、化粧も落ちている。どんな虚勢を張っても、全てを暴かれる……あなたは本当に醜いですね」
「もうやめてよっ!!もういい、早く行って!!」
自分でも訳が分からなくなっている。一秒でも早く目の前から消えて欲しいのに、この男にまで背を向けられたら、私のことを分かってくれる人がいなくなってしまう気がした。
けれど、手で顔を覆って泣き続ける私の前に藻沼はしゃがみ、私の汗と涙で濡れた長い髪を掬い取った。
「しかし、桑折さん。その汚く痛々しい顔を見て……初めて可愛いと思えましたよ」
「……え?」
ひと房の髪を耳にかけて、私の瞳を覗き込むように顔を近づけた。
「あなたは今後、どうするべきだと思いますか?」
「う……そんなの、分からない。どういう人を好きになったらいいかも……どうやって、あ、愛したらいいかも」
「どうしたらよいか、教えてあげましょうか。あなたは、主導権を持つことをやめるべきです。他人に迷惑をかけないためにも」
「そんな言い方……」
私って、他人に迷惑をかけて生きていたんだ。藻沼の一刺しが致命傷になっていく。
「そして、一度頭を空にすべきです。自分を導く人に従うのです。盲目的に、何も考えず。心の底で望んでいるはずです。その相手になら、私がなってあげてもいいですよ」
「藻沼に……?」
「私がひとつひとつ教えてあげますよ。これからあなたが私の言う事を全て聞くならね。どうしますか」
私は疲れていて、力なく見上げた。さっきまで私を罵倒していた藻沼と目の前の人が繋がらない。
ぼうっとしてくる。何を言われているのか理解できない。
「実はですね。あなたの気持ちが分からなくもないのです。星垣さんは、とても簡単にコントロールできる。自分の言う事を素直に信じる人が近くにいると、少なからず満たされるものです。それをあなたに奪われそうになって、私も少しムキになってしまいました」
「……」
「従うというのは、楽ですよ。判断を他人に委ねれば、間違った道へ進む責任を負わずに済む」
「私が藻沼に……?嫌に決まってるじゃない……」
当然のように断った。が、私の髪を撫でつける藻沼の手を振りほどけない。前髪の内側で光らせた瞳に吸い込まれるように、釘付けになった。
「星垣さんが羨ましいと思いませんか?」
そんなことない。情けないと思っている。それなのに藻沼の言葉を聞いていると、私の判断力を吸い取られていくような感覚に陥る。
藻沼は私の全てを暴いた。私の心の直視できない部分をむき出しにして、抉りとった。
それなのに、この人は今この瞬間も離れない。私の全てを知った上で、背中を向けない。私のことを蔑むけれど、立ち止まってくれた人は初めてだった。
でも、藻沼よ?会社では星垣さんくらいしかまともに話す人のいない人。何を考えているのか分からない男。
そんな人の言う事を、聞けって言うの?星垣さんのように意志を放棄して、昼食でさえも自分で決められない、操り人形になれって言うの?
「楽になりましょう。その代わり、一人にはしませんよ。私ほどあなたを導くのにうってつけの人はいませんから」
そんなの絶対嫌だ。首を振ろうとしたとき、頭に藻沼の手が置かれた。てっぺんから耳の横までゆっくりと撫で、頬に添えられる。冷たかったはずの手の平に、不思議と温もりを感じた。
「自分が嫌になったのなら、もう自分でいる必要はありません」
最後に耳元で囁かれる。スカートに涙が落ちた。
私の口からは、自分とは思えない言葉が、溜まった疲れと共に流れた。
「……はい……」
呆けた顔で、自分でも理解のできない言葉を発すると、藻沼の目元がふっと柔らかくなった。
「それでいいのですよ」
そして黒マスクにゆっくりと指をかけーー顎の下までに降ろした。
無精ひげを隠しているだけの怠惰なあごを想像していたのに、初めてちゃんと見る藻沼のフェイスラインはすっきりとしていて、鼻も高い。一重の目とのバランスが完璧なその顔は、ひと言で言うと、綺麗だった。
その綺麗な顔で、初めて、私に向けて初めて、わずかな微笑みを見せた。
「藻沼って……そんな顔してたんだ」
「お忘れですか?もうあなたは私のものですから、敬語を使っていただきたい」
「ねぇ……ずっとマスク外していてよ」
初めて動いて見える唇をぼうっと眺めながら、私は藻沼の指示を無視して思ったことをそのまま声に出した。
「なぜですか」
「だって……あんたが私の好みの顔だったなんて、心底むかつくから」
完敗だと思った。もう藻沼を見下せる理由がどこにも見当たらないから。
少しだけ笑いかけると、彼は私を呆れたように見つめた。
「その態度も、早く矯正しましょうね」
星垣さんが彼に頼り切りな理由が、なんとなく分かった気がした。居心地の良い沼に、自ら足を踏み入れる理由が。
オフィスの獅子は、封印された。端正な顔が逃げられない距離まで近づく。彼の美しく、私を支配する言葉を吐き出す唇が、視界の全てを奪った。
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