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開花
天蓋から降る惜しみない真夏のするどい陽光の中を煌めくように埃が舞っている。煤けた古い紙の匂い、満ちた静寂、美しい天井画に見守られた神聖な場所──。
リーベルと結婚をしてから教会に立ち入る事を許されたリシュは学舎が終わったその足で毎日セントリエル宮殿の図書室に通い詰めていた。ここには沢山の本が収められている。リシュの知らない世界が眼前いっぱいに拡がっている。そして、この場所に立つたびにあの低く深い声を思い出すのだ。ゆっくりと瞼を閉じれば、耳元で囁くように蘇る。
想像してごらん。色鮮やかな本には窓から射し込む陽光が優しく降り注ぎ、ゆっくりと舞う埃が煌めいている。遥か天井は半円形をしていて、ポルトーが描いた美しい天井画が知の結晶を見下ろしている。古い紙のすすけた匂い、陽だまりの匂い、静寂に包まれた聖域──。
ここで、幼き日のリーベルとロウは出逢った。美しいリーベルと、聡明なロウはどんな会話を交わしたのだろう。リシュは図書室に足を踏み入れるたびそれを夢想し、本の背を眺めながらゆったりと本の森の中、色とりどりの背表紙を眺めながら足を運ぶ。
ふと一角に足を止め、一冊の本に手を伸ばす。深い臙脂色の表紙に『頽廃の王』と書かれた分厚い小説。風が巻き起こるように、苦悶の恋が蘇る。痛くて苦い心地や、森へ誘う激しい衝動。リーベルからの愛を感じ、リーベルへの愛を感じる度に奥底で揺れる微かな未練。ロウと共に旅立っていたら、どんな未来が待っていたのだろうか。しかしあの時のリシュにリーベル以外を選ぶ余地などなかった。永劫リシュを支配する死への恐怖から救い出してくれたあの美しい青年を裏切り、身を焦がした恋に駆ける事など出来なかった。
リーベルと結婚をしてから、リシュは余計にロウを思い出すようになっていた。あの恋は確かに捨てた。けれどロウの存在を捨てなくてはならない訳ではない。ロウから与えられた豊かな感性までも捨てなくてはならない訳ではない。いつもそうして言い訳がましく縋る。そんな自分の浅ましさに辟易し、リシュは本を元の位置に収め踵を返した。婚姻の儀から既に三ヶ月。それは毎日繰り返しているのに、飽きる事のない自傷行為だった。
「リシュ、こんにちは」
図書室の扉を潜って直ぐ声を掛けられ振り返る。儀式の際着用する白い装束に身を包んだ司教が数冊の本を手に微笑んでいた。
「こんにちは、司教様」
彼はオランド司教と言って、三十五歳と若くして司教となった優秀な人物だそうだ。若い故に寛容で、幾ら貴族と結婚したと言えどまだ教会内にリマ族がいる事を驚く人も多い中、いつでも優しく声を掛けてくれるリシュにとっては有難い存在であった。
「今日もまた素敵な髪で。貴方の侍女はとても素晴らしい腕の持ち主ですね」
せっかく伸ばした美しい髪を切るのは勿体ないと、ティナは毎日肩に付かないように髪を結ってくれる。勿論短い方が楽で良いのだが、そうなるとティナと会話する時間も減ってしまうし、何より彼女の高い技術やその素晴らしい感性を一番近く眺める時間がリシュは好きで言う通りに伸ばし続けている。
「はい、ティナは僕には勿体無いくらいの素晴らしい髪結です」
リシュはそう言って惜しみなく微笑むと小さく頭を下げた。
「それでは、僕はこれで」
「はい、また明日」
明日も来るとは決まっていないが、そう言われてしまうと来なければならない気になるから不思議だ。ふとロウの事をそうやって引き留めていた日を思い出す。あの時ロウは、こんな少し気恥ずかしくて困った気持ちだったのだろうか。
金色の瞳を思い出す前に何気なく窓の外に視線を向けると、噂のティナが図書室のある棟と大聖堂の脇の小さな内庭を歩いている姿が見えた。街着を着ているところを見ると、私用だろうか。そんな事を考えているうちにティナの姿は見えなくなり、リシュも家路に着いた。
教会から戻り、リシュはいつも通り真っ直ぐに書斎に向かう。
「リーベル、ただいま」
机に向かっていたリーベルがその声に顔を上げ、嬉しそうに腕を広げる。
「おかえりリシュ」
縺れる足で駆けて、その胸に身を預ける。身体を包み込む温もりに深い安堵を覚え、腕の中でその美貌を仰ぐ。そっと瞼を閉じれば、唇に優しい口付けが落とされる。
「上手になった」
なに、と問うリシュの頬を撫で、リーベルは珍しくいじわるな笑みで美しい瞳を細めた。
「キスをねだるのが」
「そんな事……」
気恥ずかしくなって俯く頭上で小さく笑い、リーベルは腕を解く。
「もう少し仕事をしたら出掛けよう」
リシュもまた腕を解き、小さく頷いた。
今日は街で夕食を食べる約束をしている。週に一度、二人は屋敷の召使達を休ませる意味でも外食をする事にしていた。
いつでもリーベルは足の悪いリシュの腰を抱き、その歩調に合わせ歩んでくれる。夜の帳が下りた美しいセントリエルを肩を寄せて歩むだけで心地よく、道ゆく人がその美貌を讃美する度に、リシュの胸は燃えるように熱を持つ。この美しいひとに愛されていると言う実感、そしてこの後に待ち受ける幸福で甘い営みへの期待。リシュの身体を大切にしたいリーベルは、二人の密やかな睦みを週に一度、外食の後と決めていた。
穏やかで楽しい夕食を終え、帰宅してすぐにいつもより念入りな湯浴みを終え寝室に向かう道中は、やはり幾度繰り返しても慣れぬもので、高鳴る胸を抑える事も難しい。日に日に溺れてゆく。リーベルが与えてくれるもどかしい程の悦楽に。これ程まで甘い猥らな感情が自分の中に眠っていた事に慄きながらも、抗えない情欲に身を委ねてしまいたくなる。リーベルもまたそうだったら良いと願いながら、深い息を吐いて寝室の扉を開いた。
ベッドで書類に目を走らせていたリーベルは、控え目に扉を開いたリシュの姿を目に止めると直ぐに書類を置き微笑んで手を伸ばす。導かれるように歩み寄り、指先を絡め口付けを交わす。啄むように浅く繰り返すたびに、湿り気を帯びた小さな音で満たされてゆく。薄い布地越しに腰を撫でていたしなやかな指が背筋をたどり、思わずリシュは身悶えた。
「リシュ」
囁きは甘美な疼きを耳元に吹き込みながら、硬く閉じた蕾の花弁を一枚一枚めくるように身体の細いラインを撫でてゆく。
労わるようにベッドへ沈められ、瞳を混ぜ合って再び口付けを交わす。触れ合うだけだったそれがやがて貪るように変容してゆくなめらかな移ろいに身を委ねる瞬間がリシュは心地よくて堪らなかった。清廉な青年の中にも、これ程までに動物的な淫が潜んでいる事を思い知る瞬間。自身が感じる背徳も、それで薄れてしまう。求めていいのだ。同じように、意識が消し飛ぶほどの快楽を。
舌を絡めながら全身を弄る指先の感覚に酔い痴れる。吐息と共に長い口付けを終え、美しい白金色の髪が首筋から降りてゆく。透けるような白い肌のうえ、昂る興奮に勃ち上がった胸の飾りに、熱い吐息が触れる。思わず投げ出したつま先に力が入り、リシュは悶えた。過敏になった神経を爪で引っ掻かれるたび、短い喘ぎが漏れてしまう。
「随分と感じるようになった」
意地悪な言葉に頬を染めながらも、リシュは胸に抱いた髪に口付けを落とす。
「貴方が、教えてくれるから」
優しく、丁寧にリーベルは長い時間をかけてリシュの身体を拓いてくれる。それは心地の良いものだ。
念入りな愛撫が終わり、サイドテーブルにリーベルが手を伸ばす。掌に垂らされるとろりとした液体を眺め、リシュは高揚感に熱い吐息を吐いた。香油のあまい匂いにさえ身体が期待に震える。それを怯えと感じるのか、リーベルはいつも怖くない事を教えるように、口付けてくれる。首に腕を回し、下腹部から響く卑猥な水音に当てられねだるように舌を絡め取り、共鳴させる。
一際深く唇を喰むと、リーベルは身体を起こした。
「リシュ」
囁きに呼ばれきつく閉じた瞼を開く。影を背負い見下ろす瞳は、虚な熱に煌めいている。
「力を抜いて」
しなやかな指で押し広げられた蕾に、重い質量を持つ熱が押し当てられる。張った先端が入り口を通り過ぎるまでは、未だ息の詰まる苦しさがある。だがそこを通り過ぎた時、背筋が粟立つ快感が駆け抜けるのだ。
馴染ませるようにゆっくりと一度全てを収め、浅い律動が始まる。白いシーツを握り締めるリシュの反応を見ながら、なめるように腰を引き、叩くように打ち付ける。そうやって慣らしながら、徐々に一定の間隔を持って弱い所を探られる。もどかしくて、いじらしい快感にリシュは没頭してゆく。
「ん、あぁ、あっ」
とん、とんと叩くリズムに呼応し、短い喘ぎが漏れてしまう。痛みは遠のき、満たされたような快感のうねりが擦り上げられるたびにリシュは背筋をしならせる。
「リシュ、そんなに絞めたら」
そう言われても、故意ではない。身体が自然とそうなってしまっているものだから、苦しそうなリーベルを前に混乱と羞恥でどうしたら良いものか分からず、それでもリシュは貪欲に与えられる悦を貪った。
しかしあと少しと言う刹那、リーベルは微かに呻くと腰を引き、汗が流れる腹の上に吐精した。突然放り投げられ呆然としながらも、リシュは荒い呼吸を繰り返しながら瞼を閉じているリーベルを見上げた。美しい金髪から滴る汗が太腿にぽたぽたと線を描いてゆく様が何とも艶美で、リシュもまた小さな息を吐いた。
もう少しで見えそうだった。このあまい疼きの深淵が。腹に吐き出された白濁を指で掬い、愛しさ余って口に含む。ゆったりと指をなめとって我に帰ると、驚いた顔でリーベルが見下ろしていた。
「君の中に、そんな顔が隠れていたなんて」
一体何をしていたのか、リシュもまた自身の行動に驚いていた。
「ごめんなさい」
途端羞恥に俯く髪に口付け、顎先に指が絡む。
「謝ることはない。君の全てを愛すると誓った筈だよ。僕に全てを見せて、愛しいひと」
飲み下せない程の愛を注がれ、リシュは落涙した。
「リーベル──」
自ら導くように腰を浮かせ、微かに力を取り戻す昂りに擦り付ける。はしたないと自身を戒めながらも、歯止めが効かなかった。
「もう少しだけ、貴方の熱がほしい」
優しい微笑みが全てを受け止めてくれる。その得難い幸福感にリシュは胸を震わせた。
「君が満足するまで、愛してあげる」
再び呑み込んだ杭が最奥を叩くたび、リシュは大袈裟に善がった。
もっと、強く、激しい熱が欲しい。この身を焼き尽くす程の──。その願い通り、リーベルは朝陽が昇るまでリシュの身体を愛した。
リシュは無垢だった。性の目覚めは遅く、それこそリーベルと婚姻の誓いを立てた夜、初めて知ったに等しかった。誰にも穢される事なく十七年と言う長い年月硬い蕾の中で身を丸めていたその本質は、リーベルの丁寧な愛を一身に受け目を覚そうとしていた。
まるで膨れ上がった蕾がゆっくりとひらくよう。肉厚な花弁を震わせ、その身に触れた全てを、食い尽くすように。
次の朝、いつも通りに目覚め顔を洗ってから鏡台に座らされ、忙しなく髪を結うティナの指先を感じながらリシュは耐え切れず大きな欠伸をした。
「昨晩は随分とお楽しみだったようで」
ティナの悪戯っぽい声に慌てて口を閉じ、リシュは曖昧に微笑んだ。明け方まで続いた愛の営みは、思い出しても身体が火照るほどとても素晴らしいものだった。気恥ずかしい心地もするが、肌を重ねるたびにリーベルが大切にしてくれていると言う実感を強く感じる。それに溺れ、そしてより深い渇望に呑まれてゆく。急激に変わる自身の心と身体に僅かな恐怖はある。だがその先に何があるのか、リシュには分からなかった。
考え込んでいると、ふと蜂蜜色の瞳が首元に落ちる。
「まあ、旦那様ったら」
その視線の先を追い掛け、リシュは頰を紅潮させた。いつもは見えぬ所にばかり咲いていたリーベルの愛の証が、今日は首筋に浮いている。
「今日は首の隠れるお召し物に変えますね」
呆れたようにそう言いながらも、ティナの瞳は優しい光を湛えている。
「羨ましいですわ。お幸せそうで」
噛み締めるように頷いて、リシュはふと問い掛けた。
「ティナには、好きなひとはいるの」
恋人が欲しいと戯けてよく言っているが、ティナから特定の相手の名を聞いたことはなかった。リシュ自身他者に興味が出てきたのも最近の事だ。リシュに問われた事に一瞬驚きに目を見開き、少し考えたあとティナはどこか寂しそうに微笑んだ。
「内緒にして下さいな」
リシュは深く頷く。
「もう五年、私は片想いをしています」
「五年も」
「ええ、こう見えて私、一途なのですよ。報われないことが分かっていても、ずっと想い続けてしまう程に」
「ティナは素敵な子だよ」
少し忙しないが、優しく思考も同じ年頃の子に比べ成熟している。報われるか報われないか、それは分からない事だ。相手の気持ちが見える訳ではないのだから。
「彼は、特定の誰かを愛する事のないひとなのです」
どうして、と問うリシュの耳元にピンを差し込み、ティナは愛おしげに瞳を細め微笑んだ。
「その信念の為に、命を燃やし続けているから」
ティナの表情は、まるでリーベルがリシュに向けるような深い慈愛に満ちていた。その相手はもしかすれば宮殿の中にいるのかもしれない。リシュは漠然とそう思った。それはティナの姿を宮殿の中で見掛けるようになったからだ。もしかしたら、その恋の相手を一目見ようと足を運んでいるのかも。強いティナの意外にもいじらしい恋が愛おしく感じ、リシュは祈るように呟いた。
「いつか、想いが伝えられる日が来るといいな」
その言葉にティナは嬉しそうな笑みで答えた。
「そうですわね。死ぬ前に、貴方を永遠に愛していると叫んでみようかしら」
そこでちょうど髪が結い終わり、ふたりは鏡越しに見詰め合う。
「今日もお美しいですわ、リシュ様」
「君のおかげだよ」
毛量があるはずだが、重い黒髪は動きやすく後頭部ですっきりとまとめられ、質素でいて気品がある。彼女の技術の高さにはやはり感心してしまう。
いつも通りそこでティナと別れ、リーベルと微笑みを交わしながら朝食を済ませたリシュは一人街へと踏み出した。リシュの通う学舎は小さなリーベルのお屋敷からそれ程遠い訳ではない。蜘蛛の巣状に走る石造りの道を真っ直ぐに行くだけである。人通りがあって賑やかなその通りは迷うこともなく、リシュはいつも近隣の住民の大袈裟な挨拶に気恥ずかしそうにしながら、律儀に返事を返して学舎までの道を歩む。
聖都セントリエルでリシュを知らぬ者は今やいないだろう。やはり嘗ての大司教の嫡男であるリーベルとリマ族の少年の婚姻は歴史的にも大きな事柄である。教皇レウシスの戴冠以来濁り始めていた信仰は、その大事を受け微かに息を吹き返していた。
テラー教徒は元来平等な和平を重んじる事を教えとして生きている。それはいついかなる時でも太陽が常に平等に世界を照らしているからである。そのテラー教徒にとって、現教皇の利己的な数々の政策は教えに背くものであり、誰もが眉を顰めている。
例えば階級制度の強化は最たるものである。貴族などは優遇される立場である事から表立っては出さないまでも、その貴族さえ微かな疑心を胸に抱いている。しかし建国以来巫祭から呼び名は変われど神の代弁者である教皇を否定する事即ち信仰の放棄である。信仰が命と共にある民にとって、信仰を放棄する事は自身の存在そのものの否定と同意である。だから皆表面上清廉な教徒の面を保ちつつも、胸の奥に根を張った疑念故に燻っていた。
しかし今トルキア派の若者達がこの国の為、そして今尚行方の分からぬトルキア・コンスターチの為と各地で活動を続けている。その波はもはや教会にも制圧できぬほどのうねりとなってこのセントリエルに押し寄せようとしている。歴史の転換点では必ず血が流れるものだ。疑念は禁じられたものではないと主張するトルキア派を支持したい気持ちと、教皇を否定する事を恐れる気持ち、何より休戦を迎えて以来、人々は再び争いが起こる事を恐れている。リーベルの父であるグラード大司教も、次期教皇と暗に囁かれていた希代の才人トルキアももういない。再び戦争が起こったとして、止められる者はいないのだ。それ故に今この国は大きく揺れ動いていた。
そこに現れたものが、リシュでありリーベルであった。彼等の存在は深層で人々に安堵を齎した。信仰は血ではない。生まれついての身分は、驕るべきものではない。誰も皆平等な命である。リーベルの行いは、テラー教の真髄に寄り添うものであり、嘗てのグラード大司教を彷彿とさせる大らかで清廉な精神を人々は賛美した。
だがそんな事も知らず、リシュは日々学舎で着々とテラー教の精神を染み込ませ、そしてリーベルから与えられる愛やティナとの砕けた会話により幸福を噛み締めていた。
世界は光り輝いている。まるで自身が奴隷であった事など、右脚の疼きがなければ忘れてしまうほどに。
それから三月程経った頃だった。リシュは湯浴みをしながら、昨晩の名残がまだ腹の奥で蠢いているようで、マウトのメガラと比べると強い垢擦りにさえ微かに身体を震わせていた。
週に一度と決められているからそれ以上求める事は出来ない。だが経験を積めば積むほど、悦びが疼いて堪らないのだ。
「どうされました」
悟られぬよう身悶えていると不意に背後から問われ、我に帰る。
「あ、いえ、少し敏感になっているみたいで」
季節の変わり目だから、と取り繕って、リシュは俯いた。リーベル以外に触れられてもこれでは、先が思いやられる。今後湯浴みは一人でするべきか。
考え込んでいるうちに背中を擦っていた柔らかな布が前へと周り、リシュは思わず息を詰めた。首を撫で、降りてゆくそれを眺めているだけで息が上がる。触れて欲しくない、そう思うのに、触れられた瞬間駆け抜ける快楽の痺れを夢想してしまう。
遂に微かに泡立った布が先端を掠めた瞬間、リシュの赤い唇からは思わず声が漏れた。慌てて唇を噛み締め、これ以上触れられないよう身を引く。
「マウト、そこは」
俯くリシュを見下ろし、マウトは眉を顰める。
「赤くなっています」
言う通り、昨晩リーベルはリシュの胸を執拗に攻めた。最近その小さな突起を指の腹で捏ねられ舌先で転がされる事をリシュが気に入っているからなのだが、おかげで元々薄桃色だったそこは赤く腫れ、ぴりぴりとした感覚が未だ残っている。
「あとで薬を塗りましょう」
なんとか小さく返事を返し、それきりリシュは頭の中で無意味な事ばかりを考えた。石畳の無機質や、白亜の宮殿のレリーフ。ウィドーの額の皺などは、気持ちを落ち着けるにはよく効いた。
湯浴みを終え、身体を拭かれている間中リシュはしつこくウィドーの顔を思い浮かべていた。しかしその努力を蹴散らすように、マウトは塗り薬を指にたっぷりとつけリシュの前に立った。
「痛ければ言ってください」
そう言って視線を落とし、暫しマウトは放心したようにリシュの見慣れているであろう裸体を凝視していた。早く塗って服を着させて欲しい。羞恥からリシュは懇願するように瞳を潤ませた。
「お願いします、早く塗ってください」
驚いたように顔を上げたマウトの頬が色付いてゆく。リシュはそれがどのような感情から来るものか分からなかった。
微かに震える指先が充血した先端の周囲に触れる。油を混ぜた薬のぬるりとした感触に、一気に背筋が粟立った。敏感な神経をやわくくすぐられ、それが次第に意志を持ってゆく。人差し指で円を描くように塗り付けていた筈が、やがて親指となり、つんと膨れた突起を抓りながら捏ね回す。これは、薬を塗っている訳ではない──そう気付き後退るも、直ぐに浴室の壁がリシュの背に触れた。
目の前の少年は、少し冷たい貴族の子息などではない。熱に浮かされたように瞳を潤ませ、確実に欲情の色が揺れている。
「だめっ……!」
驚いて手を振り払おうにも、マウトはリシュより力がある。簡単に制され、逃げ道は潰えてゆく。
「マウト、やめて──」
こんな事をしてはいけない。そう咎めようとするリシュを、マウトは憎々しげに睨み付けた。
「何故僕を誘惑するのですか」
え、と小さく漏らし、リシュは思考もろとも固まった。
「あれ程素晴らしい旦那様がありながら、何故貴方は僕を惑わせようとするのですか」
「そんな事は──」
誘惑などした覚えはない。勿論、マウトに対して感情などない。世話をしてくれる事に感謝はしているが、それだけだ。それなのに何故そんなことを言われなくてはならないのか、リシュには分からなかった。
しかし混乱しているリシュを壁に押さえつけ、マウトは若い身体を擦り付けて来る。とても正気ではない。そう気付くや、リシュは声を上げた。
「ティナ……!」
この時間ティナは隣の部屋で眠る前に髪を整える為待機している筈である。締め切った部屋で細い声が届くかは分からないが、それでもリシュは力の限りに叫んだ。
「ティナ、助けて!」
その大声に驚いたマウトが身体を引いた瞬間、扉を開け放ったティナがその背に勢いのまま体当たりを見舞った。
「何をしているの、恥を知りなさい!」
床に倒れ込んだマウトに向けて吐き捨てると、ティナは慌ててへたり込むリシュの身体をタオルで包み込み微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ、リシュ様。私がついております」
「怖かった……」
思わず溢れた言葉と共に涙が落ちる。
「旦那様の所へ行きましょう。歩けますか」
小さく頷き、素早くガウンを羽織り二人は浴室を離れた。マウトは呆然と床に倒れ込んだまま、不気味に天井を見詰めていた。
ティナに支えられたまま寝室の扉を開くと、リーベルは驚いたように立ち上がる。
「どうしたんだい」
腕の中に飛び込むリシュを受け止め、それでも混乱はおさまらないようで、しきりに瞳をリシュとティナの間で彷徨わせる。一方その腕に抱かれたリシュは、深い安堵に身を震わせた。
「マウトを馘首して下さい」
「何があったんだ、一体」
「リシュ様を傷付けたのです。仔細は聞かないで下さいませ」
ティナの強い言葉に気押されリーベルもそれ以上は聞かなかった。
その日の晩のうちにマウトは仔細を明かされぬまま家に帰され、それからリシュの身の回りの世話は全てティナが請け負うこととなった。
誘惑などした覚えはない。誘惑の仕方もわからない。それなのに何故マウトは自身を責め立てたのか──リシュは絶えず思考した。しかし考えたとて答えなど出る筈もない。リーベルからの愛を注がれ続ける事で、持って生まれた稀有な性質が大輪の花を咲かせてしまった事など、リシュは知らないのだから。
秋が深まるにつれ、リシュの心は沈んで行った。マウトに悪いことをしてしまったのではないか、無意識のうちに誘惑をしていたのではないか、そう考える日が増えたのだ。
確かにリーベルの優しさに心は満たされているのに、身体だけはいつまでも満足が出来なくなっていた事は事実である。それをマウトに求めたつもりは少しもないし、今考えても震えが起きる。リーベル以外に身体を触れられるなど考えられないにも関わらず、やはり疼いて仕方がない。
聖域と化した図書室で、リシュはぼんやりと本の森の中を歩きながら考え続けた。やがてそれにも疲れ窓辺に足を運ぶと、またティナが中庭を早足に歩いている姿が見て取れた。恋焦がれる相手に会いに行くのか。その純情が、どこか羨ましくもあった。
「リシュ」
その声に振り返ると、オランド司教が本を手に微笑んでいた。
「こんにちは、司教様」
「こんにちは」
それ以上会話は続かず、リシュははにかみながら視線を逸らした。誤魔化せたつもりだったが、静寂の中こつんと靴が鳴る。
「最近元気がないようだね。旦那様と喧嘩でもしたのかな」
「いえ──」
ティナが結ってくれた髪に指先が触れる。驚いて見上げたリシュの視界に映ったものは、聖職者などではなかった。
「私が慰めてあげようか」
気付いていなかった訳ではない。オランド司教の熱を帯びた視線に。だが自身の自惚れだといつも否定して疑念を沈めてきた。だがやはり、自惚れなどではなかった。頬をくすぐった指が唇に触れ、リシュは思わず問い掛けていた。
「僕は、貴方を誘惑していますか」
オランド司教は微笑むと、ゆったりと唇を撫で上げた。
「いつも私を誘惑しているよ」
その言葉にリシュは絶望した。
「その艶やかな黒髪、潤んだ漆黒の瞳、深雪のようななめらかな肌。そして薔薇色の唇──君は美しい。それも、清廉な美しさではない。見るもの全ての心を暗闇に引き摺り込むような、頽廃的な美しさだ」
首筋に口付けが落とされた瞬間、涙が頬を撫でる。
「僕が、いけないのですね」
知らぬ間に人を誘惑し、破滅へと追いやってしまう。こんな事が知れたらオランド司教とて教会から追われるだろう。リーベルは、深く傷付くだろう。リシュは震える手で司教の胸を押した。
「ごめんなさい、許してください」
それだけを言い残し、リシュは不自由な足で駆け出した。
リーベルだけを愛している。誓いを破るつもりはない。それは本心だ。誘惑をしたつもりなどない。それなのに、何故こんなにも罪の意識に押しつぶされてしまいそうになるのだろうか。
もつれる足で大聖堂に向かい、天蓋から降り注ぐ光を一心に浴びる太陽の像を仰ぎ見る。
「愛することは、罪ですか」
静かな問い掛けに答えるものはない。当然である。相手は石の彫刻だ。それでも問わずにはいられなかった。
「僕の美しさは、罪ですか」
蘇る採石場の、あの雨の事故。何故ユリウスが命を落としてまで自身を救ってくれたのか。何故ベイルが少ない食事を分け与えてまで自身を生かそうと尽力してくれたのか、何故リーベルが地位を捨ててリシュを選んだのか──砕石場を離れた時に産声を上げた本質、磨き上げられ花開いてしまった罪深い命。リシュを鈍く輝かせる漆黒の美貌が、人の心を翻弄する。命さえも賭けさせるほどに。その答えは、やはりリシュを絶望させるものであった。
屋敷へ帰ったその足で、リシュはティナが髪を結ってくれる教台の前に立った。丁寧に結われた髪を解きナイフを手に取る。迷う事なく誰もが見惚れる艶やかな黒髪に差し込み、刃を滑らせた。音を立てて髪が落ちるたび、リシュは呪いのように呟いた。
「美しさなど、いらない」
白い頬に落ちる涙さえ、憎くて仕方がない。
美しいことは、罪だ──リシュは胸の内、何度もその言葉を繰り返した。
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