頽廃の王

鴻上縞

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世界の選択


 窓の外からは通りに出た人々の声が聞こえる。セントリエルに住まう人々の大規模なデモは、処刑場での騒動から流れるように始まった。陽は沈んでもまだセントリエル宮殿を囲む人々の熱気は収まらず、混乱はひとつの形を成して教会に押し寄せていた。
 教皇は神の声を聞く事が最早出来ない。のみならず神の意志を無視している。真の教皇を求め、人々は絶えずトルキアの解放を訴えている。
 喧騒を遠く聴きながら、リシュは眠り込むティナの手を握り腫れた頬をそっと拭う。屋敷を離れて僅かだが、その少ない時をティナがどう過ごしたのか、それを想像しリシュは胸を痛めていた。
 ティナが暴徒と化した群衆により助け出されたのは、絞首台の縄が切られた直後だった。幸いなことに衝撃により首の骨は折れず息はあるが、意識が戻らない。すぐに医者を呼んだが命に別状はないようで、様子を見るしかないとの事だった。

「分かっているのか。俺を匿う事が何を意味するか」
 静かに放たれたその声にリシュは顔を上げる。ソファに向かい合うロウとリーベルの間に流れるものは決して穏やかな空気ではない。だが互いに敵対している訳ではない。ロウはリーベルの身をただただ案じているのだ。
 あの処刑場でロウの訴えを前に教徒が勢いを取り戻し、司教や軍人が逃げ出した隙をついてリーベルはロウとティナを屋敷へと連れ帰ったのだ。それが何を意味するか、リシュですら分かる。だがリーベルのその行動を誇らしく思う。今この国に必要なものは、私利の為に成人前の少女を絞首刑に処す事を決定した教会などではない。今テラー教徒が求めているものは、真にテラーの教えを理解しその道を真っ直ぐに歩むロウなのだ。
 ロウは静かにリーベルに語りかけ続ける。
「兄弟の誓いは捨てたはずだ。こんな事をしたら地位を失うぞ」
 指を組み難しい顔で黙り込んでいたリーベルは、ようやくその胸の内を明かした。
「父が生きていたら、トルキア様を見捨てる事はしなかった筈」
 青碧の瞳に光る決意を前に、リシュは息を呑んだ。
「僕は、僕の心のままに生きる。僕の心は、父が遺したものだから」
 リーベルは思慮深い青年だ。それは分かっていた。けれどリシュにとってリーベルは、誰よりも優しく、そして脆い青年だった。揺らぎやすく、傷つきやすい。リーベルを傷付けないようにリシュは日々気を配っていた。だが今目の前にいるリーベルは、初めて目にする強さがあった。
「君の仲間にも使いを送った。いずれここに来るだろう。僕は少し席を外す。楽にしてくれ」
 そう言ってリーベルは部屋を後にした。

 ロウは深い息をひとつ吐き、腰を上げるとベッドに足を運びその枕元に腰を下ろした。眠り込むティナの頬を撫で、細められた金色が優しく揺れる。
「無茶をして」
 安堵と深い愛情は、ロウが常に誰にも等しく向けているものだ。
「命に別状はないそうだよ。運が良かった」
 リシュの言葉に振り返り、微笑みが浮かぶ。
「リシュにも礼を言わないと。ありがとう。危険を犯して伝えにきてくれて」
 小さく頷きながらも、リシュは俯いた。
「ロウの為に、僕は死への恐怖に打ち勝った」
 ロウを救う為ならば命さえ惜しくはなかった。それは本心だ。
「けれど、何故だろう。ティナがロウの為に命を賭けた時に、僕はとても悲しい気持ちになったんだ」
 俯くリシュの手を握り、ロウはその言葉に深く頷いた。
「俺も同じだ。誰も俺の為になど命を賭けてほしくない。俺は皆と共に正しく開かれた道を生きる為に戦ってきたのだから」
 ロウはいつでも世界を見ている。その瞳に囚われ、沢山の若者達がその信念に続いた。ティナのような少年少女達もいた事だろう。
「ティナは、ロウの事をずっと想っていたんだ」
 分かっている。ロウが誰をも選ばない事は。しかし大切な友の深い愛情を目の当たりにしたリシュは、長年一途に想い続けたティナに報われて欲しいと願っていた。
 ロウとて最期と悟った愛の告白を真正面から受けたのだからそれは分かっているのだろう。けれどやはりその信念は強すぎるものであった。
「俺は信念と共にこの命を燃やすと誓った。祖父を救うまで、この腐敗を拭うまで、立ち止まる事はできない」
 それは仕方のない事だと分かっていながらも、切なさが胸を締め付ける。
「リシュ。これを返す」
 突然の言葉に顔を上げるリシュへ、ロウが差し出したもの。それは別れの日に手紙を挟んで渡した『頽廃の王』であった。
「壁にぶつかったのだろう。君は顔によく出る。美しきは罪ではないよ、リシュ。誇りを持て。リーベルが愛したその美しさに」
 ロウのその言葉に驚きながら、リシュは慌てて目尻を拭った。ロウがくれたその言葉は、リシュが神に求めていたものだ。自身はテラー教徒であり、同時にリマ族だ。美しさなどいらないと嘆いたが、本当は美しいこの民族の血を憎みたくはなかった。
「ありがとう、ロウ」
 涙を隠して微笑もうとするリシュに優しい笑みを残し、ロウは立ち上がると窓辺に立った。その横顔はやはり遠く、聡明なティナが長年想い続ける理由も、自身がかつて心を奪われた理由も、身に染みるようだった。もうロウを愛する道はない。それでもこの青年に出逢えて良かったと、リシュはその想いを噛み締める。

 沢山の若者達が戦っている。リーベルの心に教会に背いてでも貫き通したい信念が芽生えた。そして遂に国民が立ち上がっている今、自分にも出来る事はないのか──この、世界の為に。リシュはロウの背中を見詰め考え続けた。

 その日の夜更けにはトルキア派の中枢を担う若者達がリーベルの屋敷に訪れ、皆ロウと共に客間にこもってこの先の話し合いをしているそうだ。思わぬ再会を果たしたベイルとも話をしたいが、それどころではないだろう。未だ群衆は宮殿を囲んでいる。いつ爆発するとも知れぬ危うい均衡が保たれている状態。ロウは血を流さない為に、教会側と対話をする為に疲れも見せずに考え続けている。
 ティナの側を離れないリシュの元へリーベルが訪れた時には、その心の内で覚悟が固まり始めていた。この世界の為に何をするべきか。それがリーベルの立場を危ぶませる事がわかっていても、リシュは胸に芽生えた衝動を抑える事ができなかった。
「リーベル」
 ティナの様子を確認するリーベルの横顔に、リシュは意を決して声を掛けた。
「どうしたの」
 振り返ったその瞳が不安気に揺れている。
「トルキア様を、ここに連れてきてもいい?」
「どう言う事だい」
 驚きながらも、リーベルは慎重にリシュの隣に腰を下ろし、握り締めた拳にそっと手を重ねた。
「不浄の地に囚われていたんだ。あの地に足を踏み入れられるものは、きっとリマ族である僕だけだから」
 リシュとてテラー教を信仰している。けれど、あの地に足を踏み入れた時に悟ったのだ。信仰は血ではない。だが、自身はリマ族である事を。
「僕も、この世界の為に出来ることがしたい」
 今トルキアを救い出せる者は、自分をおいてはいない。ロウを匿う事を決めたリーベルと同じように、リシュにもまた信念が芽生えていた。
 暫く眉を寄せリシュの瞳を見詰めていたリーベルもやがてその心を汲み、浅い息と共に優しく頬を撫で微笑んだ。
「分かった。でも約束して。必ず僕の元へ帰ってきて」
 その言葉に強く頷いて見せる。

 リシュはその日の深夜遅く、リーベルに見送られ屋敷を後にした。広場ではまだ抗議が続いているようだが、通りには蹲って眠る人々の姿が見て取れる。皆慣れぬデモに疲れが出たのだろう。
 人波を慎重に縫いながら、リシュは大聖堂と宮殿の間を通り、渡り廊下を潜って裏手へ急いだ。教会の人々はデモを鎮静化出来ず硬く門を閉ざし外へは出ていないようで、不浄の地への道で誰とも鉢合わせする事はなかった。
 鉄柵の扉を潜り、月明かりに浮かぶカディアの大樹へと不自由な足で懸命に駆ける。心ばかりが焦り、足はもつれるけれど、それでもリシュは走り続けた。
 既に真夜中、辿り着いた小さな小屋の灯りは落とされていたが、リシュは迷う事なく扉を叩いた。すぐに中から物音が聞こえ、蝋燭を手にしたトルキアが恐る恐る扉を開く。
「どうされましたか」
 肩で息を吐くリシュに灯りを翳しながら、不審に眉を寄せている。
「こんな夜更けに申し訳ありません、トルキア様」
「私に敬称など必要ない」
 リシュは首を横に振り、深く息を吐いてから胸の内を明かした。
「僕は奴隷でした。この髪、この瞳がそう決めたのです。奴隷であった日々は、思い出すことも辛いものです。教皇レウシスが推し進める階級制度の強化は、僕のような奴隷を沢山生みます。僕は学びを与えられ、それがどれ程に悲しい事なのかを知りました」
 静かな瞳はただ真っ直ぐにリシュの言葉を受け止めている。やはりロウはトルキアによく似ている。瞳の奥の、心の底を見透かされているような心地にさせる。
「先日ロウが捕縛されました。彼を愛した少女は、成人を前に絞首刑に処される所でした。人々がそれに憤り、立ち上がっています」
 痩せた手を取ると、反射的に握り返された指先が震えている。
「ロウは、その少女は」
「無事です。リーベルが、今は匿っています」
「そうか、リーベルが」
 安堵したようにそう溢し、トルキアは長い間逡巡した。
 自身の命が若者の命を喰らうと嘆いたトルキアの気持ちが、今なら理解できる。トルキアもまたロウと同じ。自分の為に血が流れる事を罪深く思っている。沢山の若者達がトルキア解放の為に立ち上がり、命を落とした者もいた筈だ。世界の平和を願い二度とここを出る事は叶わぬと覚悟を決めたからこそ、トルキアは今尚動けずにいる。
 ふと褪せた金色の瞳がリシュを写し揺れる。
「貴方は、ロウの指示でここへ?」
 小さく首を横に振り、握る指先に力を込める。
「いいえ、僕の意志です。リーベルが、そしてロウが、僕にそれを与えてくれました。奴隷であった僕に、自らの力で考え動く事を教えてくれたのです」
 言葉に出した瞬間、胸が圧される心地がした。生きる力をくれたリーベル、そして命を賭したいと思う程に心惹かれたロウ──リシュは確かに二人共を愛してしまった。ロウへの想いはもう続く事はないと自覚した筈が、やはり胸の奥底で輝きを失う事はない。けれどそれはリーベルへ向けたものとは違う、もっと一方的なもののように感じられる。共に生きたいとは思わない。だが、ロウのゆく道に光がある事を心から願っている。だからこそリシュはここに立っていた。
「貴方の恐れも理解しているつもりです。それでも、共に戦ってはくれませんか。世界が待っています。貴方のことを」
 リシュの言葉を噛み砕くように小さく頷き、トルキアは微かに息を吐いた。
「私にできる事が、まだあるのなら」
 深く頷いて、二人は手を取り合い不浄の地を駆けた。

 初めて出逢ったその日からリシュは感じていた。その瞳に常に光が揺れている事を。不浄の地に幽閉され、自身の為に若者達が命を賭けている事を嘆き絶望を感じていながらも、トルキアは考え続けていたのだろう。腐敗してゆく世界に対して、出来る事はないのかと。

 トルキア・コンスターチが生きて聖都セントリエルの地に立った事は、人々に大きな衝撃と希望を齎した。それはトルキア派の若者達や、その無事を信じ、救う為に戦い続けたロウにとっても大きな光となった。
 再会に涙するロウを抱き締めたトルキアの痩せた頬を止め処ない涙が濡らしていた。その姿にまた群衆は湧き立ち、世界は動き始める。

 そして遂に教会がトルキア派の要求を飲み対話に応じたのは、それから三日後の事だった。
 場所はリーベルの屋敷となり、応接室には大司教メルウィングの他五名の司教が教会側からは訪れた。トルキア派からはトルキアとロウ、そして数名の若者が代表者として参加し、リーベルは中立の立場を取って見届け人として立ち会う事と決まった。リシュは本来立ち入れない立場ではあるが、リーベルの傍に控える事を許されたのは、ロウの進言によるものだった。どう言う意図かは分からないが、リマ族としてこの対話に参加できる事はとても重い意味のある事のように思われた。
 席に着くなり、ロウは性急に切り出した。
「こちらの要求は一つ。教皇を改めるための選挙をしたい」
 教会側としては予想外だったのか、司教達が顔を見合わせている。
「こちらからはトルキア・コンスターチを。そちらは教皇レウシスを」
 大司教であるメルウィングは静かにその言葉を受け止め、慎重に言葉を返す。
「それだけか」
「ああ、それだけだ。他には何も求めない。公平な選挙によりこちらが選ばれたなら、それを持ってトルキアを陥れた罪も裁かれたものとする」
 テラー教が宗教国として建国して以来、選挙は必要に迫られる事がなく行われていないが、基本的には教会に立ち入れるもののみで行われる決まりがある。つまりは選挙権を持つ者は商人までで、傭兵以下に選挙権はない。教会側には有利な条件だろう。それに司教達が安堵するだけの間を与え、ロウは静かに放った。
「ルクスエヴァンス全ての国民に投票権を」
 それを教会側に拒否する事はできない。トルキアを背教者に追いやった陰謀の真実は既にロウの手の内にあり、ロウの要求を拒否すれば教徒の暴動は避けられないものだろう。
「承知した。開票は一ヶ月後とする。互いの不正を監視する為にもそちらから数名出して欲しい」
 そのメルウィングの言葉にロウが了承し、短い対話はそこで終了となった。

 教会側の人々が部屋を出た途端、全員が安堵の溜息を吐く中、ロウは指を組んだままじっと空を睨み付けていた。
「ロウ」
 仲間の一人がその肩に手を掛け声を掛けると、ロウは自らに言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫。信じよう」
 トルキア派の若者達がここに行き着くまでにどれ程の苦難を乗り越えてきたか。この日の為に何をしてきたのか、それをリシュは知らない。故にかける言葉もわからず、居た堪れない心地がして一人部屋を後にした。
 しかし部屋から出たリシュを待っていたのは、赤毛の大男だった。
「よう、やるじゃねえか」
「ベイル」
 ベイルはどこか誇らしげな笑みを浮かべリシュを見下ろしている。
「まさか、あの砕石場の奴隷が世界を変えちまうとはな」
「僕は、何もしていないよ」
「お前がいなきゃトルキアは動けなかった。この対話もなかった。自信を持て」
 ただトルキアを連れ出しただけだと謙遜しながら、気恥ずかしさにその場を去ろうとリシュは踵を返した。
「リシュ」
 背中に掛けられた声に振り返る。ベイルの瞳は優しく、そして少し切な気に揺れていた。
「今は幸せか」
 駆け抜けてゆく思い出を噛み締めながら、リシュは深く頷いた。
「助けた甲斐があったってもんだ」
 照れくさそうに笑いながら、ベイルもまた踵を返した。
 ユリウスが、ベイルが、そしてリーベルが繋いでくれたこの命。卑屈で、未来を考える事すらできなかった奴隷が幸せだと胸を張れる日が来るなんて、誰一人思ってもいなかっただろう。それはリシュとて同じだ。


 それから一ヶ月、新しい教皇を決める選挙の為に、ルクスエヴァンスに住まう全ての人々が聖都を目指した。南の果てから、北の果て、長年争っていたシュイツ自治区の人々まで──ロウがトルキアを信じ、世界の為に歩み続けた軌跡を辿るように。
 開票は一週間に及び、トルキア派の若者達や教会の人々は昼夜を問わず開票作業に追われた。そしてその結果は圧倒的なものであった。
 聖都セントリエルに新たな教皇が誕生した。背教者として教会を追われても尚神を信じ、太陽に祈りを捧げ続けたトルキア・コンスターチと言う稀代の才人は、多くの人々の祝福と歓喜の中で、一人静かに犠牲となった若者達の命を想っていた。
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