4 / 5
三話 禁断の館
しおりを挟む
三話 禁断の館
今日もまた太陽は容赦無く大地を焦げ付かせ、蒸せ返るほどの熱気が厩の中に漂っている。
いつものように美しい白馬にブラシを当てている僕のかたわら、めかし込んだメイドがスカートの裾をこねている。
「ねえリリアン、今日は一緒に街に出ないこと?」
「僕に構わず行っておいでよ。まだやる事が沢山あるんだ」
つれない僕の態度に不服を唱えながら、ジゼルも今日は引かないつもりらしい。いつまでも厩の入口の柱にもたれ、恨めしそうな視線を送っている。
「本当に、僕はお屋敷を出られないんだ」
諦めの悪いジゼルにそう言うと、彼女は細い眉を寄せ頬を膨らませて見せた。
「また旦那様のお言いつけ?」
「そう、今回僕にはお休みをくれないみたい」
今日は月に一度、お屋敷に住まう全ての使用人に暇が与えられる日だ。いつも決まったこの日は旦那様の大切なお客さまが来るからと、僕達には街で遊ぶには十分なお金が手渡され半ば追い出される形となり、屋敷は旦那様とお客さまを除いては無人となる。
大切なお方ならばもてなさなくてはと思うのだけれど、どうやらその方は他の貴族とは違い随分と長い付き合いらしく、使用人がうろついて逆に気を遣わせたくないとの事。
けれども今回に関しては馬を出したいという理由で僕だけがこの屋敷に残される事になっていた。未だかつて誰も見たことのないその方のことは気になるが、僕はいつもこの日は貧民窟の子供達に会うついでに給金や食べ物を渡しに行っていたものだから、そのことだけは気掛かりである。都会娘のジゼルを危険な貧民窟に向かわせることもできないし、郵便屋に頼む事になるだろう。
「ねえ、じゃあ秘密のお方がどんな方か、ちゃんと見ておいてね?」
僕が快くうなずくと、ジゼルはようやく諦めて厩をあとにした。
屋敷の人々が全て出払う頃には陽はすっかり昇りきっていた。ご主人様お気に入りの白馬は乱れ一つ見受けられぬほどに艶やかな毛並みを手に入れ、太い頸筋に浮いた血管が雄々しく脈を打っている。
さて、どうしたものか。馬を出そうと思うから今日は屋敷にいるように、と言われただけで、何時頃に出掛けるとは聞いていなかった。そもそも、お客さまはいつくるのだろう。
手持ち無沙汰となった僕は、厩を出て正面門へと向かった。こんな馬丁に出迎えられても嬉しくはないだろうが、一応屋敷にいる以上は第一に顔を見せなくてはいけないだろうし。
いつもティーパーティーが催されているバルコニーの下に差し掛かったとき、僕の視界に憂い気にお庭を見詰める御主人様の姿が飛び込んだ。相変わらず儚気な瞳は美しく淀み、柔らかな風が漆黒の絹糸を躍らせている。
「おはようございます」
僕が声を掛けると、遠くへ及んでいた瞳は逡巡してから大地に落とされた。
「ああ、リリアン。何処へ行くの?」
ぼんやりするなど、珍しいことだ。何時もはこちらが恐怖を感じるくらいに隅々まで視線を巡らせているくせに。
「正面門で待とうかと」
その異変に戸惑いつつ僕がそう言うと、今度は驚きに満ちた瞳が落ちた。
「誰を?」
「え?いや、お客さまを……」
享楽的な生活のせいで若くしてボケてしまったのだろうか。
僕がそんな心配をしている頭上で、ご主人様は悩まし気な吐息とともに、似つかわしくもない弱々しい言葉を吐いた。
「きっと来ないよ」
「……は?」
僕は思わず粗野な声を上げてしまった。そのお客さまのために人払いをしているのに、来ないとはどういうことなのか。
何よりそう言いながらも、彼はおかしな方向にめかし込んでいる。首元を飾る純白のシャツに縫い付けられたおおぶりのフリルはこれまで一度も見たことがないもので、それは紳士の装いと言うよりも、まだ幼気な少年のよう。太陽の下にある限りとろんと甘いその美貌に花を添えてはいるが、少し浮かれすぎている。
僕が訝し気に見上げていると、ご主人様は取り繕うよう肩を竦めて見せた。
「すっぽかされているんだ。ここ半年程ね」
それでも律儀に毎月決まって人払いをしているのだろうか。明日の朝までこの屋敷には僕とご主人二人きり。つまりいつもは、彼ひとりきりなのだ。料理などした事もないだろうこの屋敷の主は、いつもどう過ごしていたのだろうか。これまでこの決まった休暇のあと、特に変わった様子は無かったが──。
疑念に囚われている僕のことなど気にする様子もなく、ご主人様は珍しく憂いばかりを吐き出す。
「彼はもう、僕の事を忘れてしまったのかも知れないね」
それは初めて彼が僕に見せた、弱さだったのかも知れない。
薄く伏せた瞼から伸びる長い睫毛も揃って俯き、儚気な美貌をより際立たせるばかり。貴婦人ばかりでなく、紳士までもを虜にする理由がよく分かる。
思わず目を奪われそうになり、僕は慌てて平静を装った。
「どのようなお方なのですか?」
暇なのはお互い様だ。それに来ないのならば少しでも情報を集めておかないと、お転婆なあのメイドに何を言われるか。
そんな僕の打算など知らず、彼は相変わらず憂い気に呟いた。
「僕の養父さ。ここに越す前までは一緒に暮らしていた」
へえ、と溢す僕に、ご主人様はどこでどう暮らしていたのか詳しく教えてくれた。ご主人様がその養父と暮らした街は、ここからずいずんと離れた場所に位置する王宮のある街。こことは比べ物にならぬ程の、僕には一生縁のないだろう都会だ。
それにしても、養父──。白崎亨太朗と言うこの男の出生や生い立ちについて、誰ひとり知る者はいない。執事長でさえ、口を閉ざしているのかも知れないが知らぬと言うのは勿論ジゼルの入れ知恵。
当然人間であれば生死に関わらず親はいるものだし、何か事情があっても子供ひとりで生きてはいけない。彼はその若さでこの屋敷の主人なのだから、血筋が裕福なのだと勝手に思い込んでいた。どうやらその養父がとんでもない金持ちで、この屋敷を与えたに違いない。
僕がそんな思考に沈んでいた正にその時だ。
「亨太朗──」
不意に僕達の間を割って届いた声に、僕とご主人様は同時に視線を走らせた。貝殻の小道の上、ハニーブロンドの見目麗しい紳士が佇んでいた。
「セオル……!」
ご主人様は微かな声でそう呟くと、瞬く間にバルコニーから姿を消した。その時、僕は思わず、自分の目を疑った。これまで彼のあんなにも純粋な顔を見たことがあっただろうか。翳りを愛する美貌は、まるでそのフリルに似合う少年のように真夏の太陽の下輝きを放っていた。
しばらくあっけにとられていたが、ふと我に帰り僕は慌てて深く腰を折る。
「ようこそお越しくださいました」
「いや、いい。楽にしてくれ。頭も上げておくれ」
そう言われ顔を上げ、僕はまた目を疑った。養父と聞いていたが、随分と若い。歳は三十半ばをすぎた頃だろうか。たしかにご主人様より随分と上だが、養父と聞いて髭の似合う老紳士を想像していた僕はそれにも面食らっていた。
そのすきに慌てた様子で階下に降りたご主人様は、僕の存在をすっかりと忘れて紳士に思い切り抱き付いた。紳士もまた嫋やかに口元を緩め、細い身体をキツく抱き締める。
「愛しい私の坊や、長い事待たせたね」
「この日をどれだけ待ち侘びた事か」
その二人の様子を見る限り、随分と仲が良いようで、それならばどうして離れて暮らしているのか。放置された僕の頭にはそんな疑念が渦を巻く。
互いの頬にキスをし、親子と言うより歳の離れた兄弟の久方振りの対面を済ませたところで、ようやくご主人様は僕の存在を思い出して振り向いた。
「ああ、セオル、彼は僕の自慢の馬丁さ。美人だろう?」
僕は慌てて腰を折る。
「随分とおまえ好みだな」
紳士はそう言うと、僕に視線を合わせて腰を屈めた。
「初めまして、私はセオル。セオル・マフェット。亨太朗の世話は大変だろう」
慌てて首を振る僕には、慈愛に満ちた瞳が投げ掛けられる。
一体こんなにも優しい養父に育てられ、そしてご主人様自身もかなり信頼を置いているのにも関わらず、どうして彼はあれ程性格は捻じ曲がり、深い闇を背負っているのか。いまいち理解に苦しむ。
その後二人は屋敷の中へと姿を消し、僕はまた一人暇を持て余して過ごした。馬を出すと言っていたから待っていたのだけれど、一向に声もかからぬまま。
二人はバルコニーで長い間語り明かしていた。昼食時を過ぎ、間も無く太陽が傾き出す頃になってもそれは変わらなかった。そうなると僕は普段は感じぬ衝動に駆られた。
久方振りの再会で積もる話もあるのだろうから、自分に何か出来ないものか。僕は親を知らない。だからこそ余計に、養父とは言え親と離れて暮らすご主人様の寂しさやもどかしさに同情してしまっていた。
腕に自信はないが、夕食を作る事を提案するため、僕は貝殻の小道をバルコニーの下に向かい歩いた。だがつい先程まで存在していたそこに二人の姿は無く、代わりに一つ隣のご主人様の寝所のカーテンだけが、夕暮れ前の風に緩やかに踊っている。
自らの心に生まれた意味不明なお節介のために、僕は何も考えず通い慣れた彼の寝所へと向かった。これまで一度だって自らの意思で歩んだことのないその道程をゆく足取りは、不思議と初めて軽いものであった。
そして辿り着いた寝所の重厚な扉の前で、一呼吸置いて扉をノックしようとした正にその時であった。
重い木板の向こう側で、何かが激しく倒れる音が轟いた。僕は余りの轟音に思わず持ち上げた手を固め、扉の前で趣味の悪い聞き耳を立ててしまった。よせば良いものを──。
「亨太朗」
その声は、彼の養父、セオル様の物である。だが低く澄み通るその声は、僕に向けられた物とまるで違う性質を持っていた。怒気を含んでいるような、ひりひりと神経を逆撫でされるような緊迫感が扉の外にいる僕にも伝わる。
「あの馬丁は私への当て付けか?」
続いたその言葉に、僕は思わず一歩退いた。僕のことだ──なぜ、分からない。だが最早居ても立っても居られなくて、たまにジゼルが覗き見に使う隣の部屋へと身体は走り出していた。隣の部屋は滅多に使われる事のない客間となっており、部屋に置かれた鏡台の裏側には、小さな覗き穴が設けてある。もちろん、ジゼルが作った物だけれど。
僕が鏡台から中を覗いたとき、まず目に飛び込んだものはご主人様がいつも腰を落ち着けている椅子。無残にも絨毯の上に転がっているところを見ると、さっきの轟音はどうやらあれが倒れた物らしい。
そして天蓋の垂れたベッドを向いて背を向けるご主人様と、そのご主人様の背後に立つセオル様の姿があった。
二人は僕が移動している間どうやら沈黙していたらしい。続いた言葉は、運良く辻褄が合った。
「答えろ」
「何の事?」
ご主人はそう言って振り向くと、僕が見慣れた妖艶な微笑みを浮かべている。
先程まで感動の対面だったのに、どうしたことか。セオル様が一歩ご主人様に足を踏み出す。長い手が伸びた先は、尖った顎先。
「幼い頃の私にそっくりではないか。何時か彼の心もその美貌で虜にしてしまうつもりか。そして私は、捨てられるという訳か」
一体、どういう事だ──。僕の頭はパニック寸前で、そして、きっとこの先を見てはいけないと理性が告げる。けれど本能がそれを拒み、縫い付けられたかのように、僕の視線はご主人様の唇から離れる事が出来ない。
ご主人様は顎先を辿る手を乱暴に払い、殊更挑発するように彼を睨め上げる。
「答えなくては、ダメ?」
半年も放っておかれた愛息子の怒りを感じたのか、セオル様は脱力したように肩を落とした。そしてあろう事かその細い身体を抱き寄せて、耳元で甘く囁いたのだ。
「機嫌を直して、愛しい子。望み通り可愛がってあげるから。君が嫌だと言っても止めてはやらない。半年分、たっぷりと私の愛を注ぎ込んであげる」
くらくらと脳が揺れる。動悸が激しく、息も自然と上がる。乾涸びた喉に唾液を潜らせようとする度、喉は大袈裟に啼く。
しかしご主人様はそんなセオル様の胸を押し返した。
「……嫌なのか?」
悲しみよりも、深い嫉妬に揺れる声。ご主人様はそれを聞いて、僕が見た事も無いような美しく妖艶な微笑を彼に投げた。
「お祖母様が天に召されてから、僕を愛してくれたただ一人のひと。僕に素敵なお屋敷を与え、優秀な使用人を与え、何もしなくとも、僕がこの玩具箱の中で永遠に退屈しないようにと全てを与え、貴族のお友達まで与えてくれ、そして──僕をふしだらな女として目覚めさせてくれた。そんな僕が、貴方に逆らえるとでも?」
しなやかな細腕が、まるで蛇のように逞しい紳士の頸に巻き付く。細い身体をぴたりと密着させたご主人様は、遂に決定的な一言を放った。
「愛のままに、僕を抱いて、お父様。何時ものように、この屋敷が元の清廉な顔を取り戻す、夜明けまで──」
僕はその時、彼の翳りの正体に気が付いてしまった。そして、その翳りが何故あれほどに艶美であるのかを。いつからかは勿論僕は知らない。けれど彼は、きっとこうして何時も養父を誘惑し、そしてその妖艶さを磨いていたのだ。
まんまと蜘蛛の糸に絡め取られた見目麗しい紳士はもうただの雄のように、流麗な身体のラインを念入りに愛撫しながら薄い唇を貪っている。苦し気に眉を顰めるご主人様の頬が少女のように紅潮してゆくさまを見ながら、僕はその余りの美しさに呼吸さえも奪われた。
何度も何度も角度を変えては唇を貪り合い舌を絡め、混じり合った唾液が顎先へと伝うほど、夢中になって口付けを交わす。そのまま二人はベッドへと倒れ込む。余りにも濃厚なキスは、終わりさえ見えない。
遂に我慢の効かなくなったセオル様は唐突に身体を離すと、ご主人様の胸元で揺れる大仰なフリルに手を伸ばした。その指先をそっと制したご主人様の瞳は、驚く程真っ直ぐに、彼だけを映し艶めいていた。
「愛しています──」
セオル様は満足そうに頷くと、啄むようなキスをして、汗で額に張り付くご主人様の髪を優しく掻き上げた。
「寝食を忘れ、愛し合おう」
その声を合図に金ボタンが弾け飛ぶ。可憐なフリルの花は散り、裸身が晒された。
初めて目にした異国の男の素肌は、驚く程に美しかった。やわらかな透明感のある白さを持ちながら、薄い皮膚は滲む汗にしっとりと濡れ艶めいて、めぐる血脈を透かし仄かな桜色に染まってゆく。
汗ばむ薄い胸を這う男の骨張った指先は、その裸体が美しいが故にまるで異形の物のように醜く、つんと勃ち上がった薄桃色の胸の蕾に絡み付く蛭のような紅い舌もまた、同じような醜悪さであるがゆえに酷く淫猥に視覚を犯す。
何時も僕をいじめるご主人様は切な気な声を上げ、まるで猫のように快楽に犯され細い身体を震わせている。
「あぁっ……セオル──」
身体の中心に割り入れられた逞しい太腿に押し上げられる度、御主人様は白磁の喉を反らせ、薄く開いた唇から甘美な吐息を漏らした。僕は堪らなくなって身体を引いた。もうそれ以上、見ていられなかったのだ。
静かに使用人屋敷へと走り抜ける間中、頭の中は熱せられたまま。
なんてスキャンダル。美しい異国の紳士が、まさか養父の囲い者であったなんて──。身体の芯が熱く滾り、僕は絶望と共に自覚せざるを得なかった。ほつれたズボンの前は膨らみ、ずきんずきんと鈍い痛みが僕の弱いところを叩き続けている。
僕は確かに欲情したのだ。白崎亨太朗が魅せた、あの甘い瞳や切ない声、しなやかな腰を揺らす、不埒な誘惑にまんまとはまり。
濡れた漆黒の瞳、薄らと上気した白磁の裸身を思い浮かべながら自らを慰める惨めさに、僕は知れず奥歯を噛み締めた。それでも花芯を握る手は止まる事を知らず、僕はその日、生まれて初めて自慰による三度の絶頂を経験した。
気付いた時には陽はとっくに沈んでいて、滴っていた汗も乾き始めていた。気持ちを落ち着ける為に水を浴びようと外に出る。真夏の熱気は既に冷め、森から流れる風が思考もろとも包み込んでくれた。
あの憎きご主人様のまぐわいを夢想し欲情するなど、どうかしていた。初めての経験だったから、反応してしまったにすぎない。そう自身を納得させたものの、足は勝手に水場から離れ、寝所のバルコニーの下へと伸びていた。
バルコニーに漏れる室内の灯りが、一定のリズムを持って微かにゆらぐ。そして耳をそばだてれば、開いた窓からはもう掠れ始めた甘いテノールが漏れ聞こえて来た。言葉までは聞こえなくとも、僕の脳は勝手に創り出す。涎と涙に塗れ、男を咥え込みながら自ら腰を激しく揺らし、耳を疑うような淫乱な言葉で懇願する、あの男の姿を。
僕は微かに声の聞こえるバルコニーの下に隠れまた一人自身を慰めた。酷く、虚しい夜だった──。
次の日目が覚めると、ようやく薄っすらと陽が昇り始めた頃だった。ひどく気怠い身体を起こすため庭に出たとき、ぼんやりとした光のなかに人影が見え、僕の心臓は竦み上がった。
まだ朝靄の立ち込める木陰に佇んでいたのは、ご主人様だった。
ネグリジェのうえに羽織った紺色のナイトガウンの前を手で掻き寄せ、呆然と正面門を見詰めている横顔は、やはりどこまでも美しい。
思わず見惚れていた僕に気付くと、彼は何時ものように微笑んだ。
「おはよう」
頭を下げて直ぐに立ち去ろうとしたものの、それが許されるはずもない。ご主人様は僕に歩み寄ると、優しく下瞼を親指でこすった。
「酷い隈だよ。どうしたの、美人が台無しだ」
理由を言う訳にもいかず、僕は一歩下がり態とらしく辺りを見回した。
「セオル様は、どちらに?」
「帰ったよ。夜が明ける前に」
「そう、ですか……」
まだ少し掠れた声に昨晩どれだけ愛し合ったのか、つい想像してしまいそうになる。その邪念を振り払う僕の気など知らず、ご主人様は静かに語り始めた。
「セオルに出逢ったのは、八歳の頃さ。見ての通り、僕は異国の人間だ。両親が幼い頃に死に、セオルのお祖母様にこの国に連れて来られた。この髪も瞳も物珍しいからね。随分といじめられたものだよ。そんな僕をお祖母様以外で愛してくれた者は、セオルただ一人だった」
だから、彼を愛してしまったのだろうか。月に一度の逢瀬が叶わなくとも、着飾って待ってしまうのだろうか。そして、あんなにも、乱れるほどに──。
「彼には沢山の事を教わったよ。君が昨日覗き見た、愛の営みもね」
その言葉に心臓が竦み上がる。まさかバレていたなんて。言い訳のしようもなく、血の気ばかりが引いてゆく僕を責めるでもなく、ご主人様は淡々とその胸の内を吐露した。
「十の時にお祖母様が亡くなり、養父となったセオルに僕は性奴隷として扱われているのだと思っていた。だが彼はそれを愛だと言う。僕には今も、どちらが本当かは分からない」
微かな微笑にこびり付く、悲痛な切なさ。それでも彼を愛しているから受け入れてしまうのだろうか。
「僕は、その当て付けなのですか」
思わずこぼれた言葉に、自分でも驚きを隠せなかった。当て付けだったならどうだと言うのだ。関係ないじゃないか。
ご主人様はその答えの代りに、薄く微笑んで見せた。
「僕は眠る。今日の事は秘密だよ」
そのまま屋敷の中へと消える背中を見送り、僕は訳の分からない苛立ちを噛み潰した。
太陽が昇ると使用人達が続々と屋敷に戻って来た。勿論、お転婆なメイドジゼルは仕事そっちのけで僕の周りを飛び回っている。
「ねえ、お客さまはどんなお方だったの?」
彼の容姿を思い出そうとしても、どうしてもあの湿った夜の事ばかりが思い起こされ、僕は気が気じゃなかった。
「とても美しい紳士だったよ」
そう言うだけで精一杯。実際に、彼は美しいハニーブロンドの髪の紳士だ。その性的嗜好を除いてしまえば、普通の。
しかしジゼルは元来の妄想力と、そして不思議な洞察力を持ってして、一番触れてはならぬ核心に近付こうと声を潜め問い掛ける。
「ねえ、そのお方と旦那様、もしかしたら──」
「やめてよ!」
僕は自分でも意図せず荒くなった言葉にジゼル以上に驚いた。
この胸の苛立ちは一体何なのだろう。自分でも全く説明が付かない。ただただ全てに神経が過敏になり、そして、心がするどい棘を持つ。
「リリ、一体どうしたと言うの。まるで、嫉妬に狂った女のような顔をしているわ」
ジゼルのその言葉を、僕は聞かないフリをした。
分かるのならば誰か教えて欲しい。突如芽生えてしまった、この不可思議な感情の理由を──。
今日もまた太陽は容赦無く大地を焦げ付かせ、蒸せ返るほどの熱気が厩の中に漂っている。
いつものように美しい白馬にブラシを当てている僕のかたわら、めかし込んだメイドがスカートの裾をこねている。
「ねえリリアン、今日は一緒に街に出ないこと?」
「僕に構わず行っておいでよ。まだやる事が沢山あるんだ」
つれない僕の態度に不服を唱えながら、ジゼルも今日は引かないつもりらしい。いつまでも厩の入口の柱にもたれ、恨めしそうな視線を送っている。
「本当に、僕はお屋敷を出られないんだ」
諦めの悪いジゼルにそう言うと、彼女は細い眉を寄せ頬を膨らませて見せた。
「また旦那様のお言いつけ?」
「そう、今回僕にはお休みをくれないみたい」
今日は月に一度、お屋敷に住まう全ての使用人に暇が与えられる日だ。いつも決まったこの日は旦那様の大切なお客さまが来るからと、僕達には街で遊ぶには十分なお金が手渡され半ば追い出される形となり、屋敷は旦那様とお客さまを除いては無人となる。
大切なお方ならばもてなさなくてはと思うのだけれど、どうやらその方は他の貴族とは違い随分と長い付き合いらしく、使用人がうろついて逆に気を遣わせたくないとの事。
けれども今回に関しては馬を出したいという理由で僕だけがこの屋敷に残される事になっていた。未だかつて誰も見たことのないその方のことは気になるが、僕はいつもこの日は貧民窟の子供達に会うついでに給金や食べ物を渡しに行っていたものだから、そのことだけは気掛かりである。都会娘のジゼルを危険な貧民窟に向かわせることもできないし、郵便屋に頼む事になるだろう。
「ねえ、じゃあ秘密のお方がどんな方か、ちゃんと見ておいてね?」
僕が快くうなずくと、ジゼルはようやく諦めて厩をあとにした。
屋敷の人々が全て出払う頃には陽はすっかり昇りきっていた。ご主人様お気に入りの白馬は乱れ一つ見受けられぬほどに艶やかな毛並みを手に入れ、太い頸筋に浮いた血管が雄々しく脈を打っている。
さて、どうしたものか。馬を出そうと思うから今日は屋敷にいるように、と言われただけで、何時頃に出掛けるとは聞いていなかった。そもそも、お客さまはいつくるのだろう。
手持ち無沙汰となった僕は、厩を出て正面門へと向かった。こんな馬丁に出迎えられても嬉しくはないだろうが、一応屋敷にいる以上は第一に顔を見せなくてはいけないだろうし。
いつもティーパーティーが催されているバルコニーの下に差し掛かったとき、僕の視界に憂い気にお庭を見詰める御主人様の姿が飛び込んだ。相変わらず儚気な瞳は美しく淀み、柔らかな風が漆黒の絹糸を躍らせている。
「おはようございます」
僕が声を掛けると、遠くへ及んでいた瞳は逡巡してから大地に落とされた。
「ああ、リリアン。何処へ行くの?」
ぼんやりするなど、珍しいことだ。何時もはこちらが恐怖を感じるくらいに隅々まで視線を巡らせているくせに。
「正面門で待とうかと」
その異変に戸惑いつつ僕がそう言うと、今度は驚きに満ちた瞳が落ちた。
「誰を?」
「え?いや、お客さまを……」
享楽的な生活のせいで若くしてボケてしまったのだろうか。
僕がそんな心配をしている頭上で、ご主人様は悩まし気な吐息とともに、似つかわしくもない弱々しい言葉を吐いた。
「きっと来ないよ」
「……は?」
僕は思わず粗野な声を上げてしまった。そのお客さまのために人払いをしているのに、来ないとはどういうことなのか。
何よりそう言いながらも、彼はおかしな方向にめかし込んでいる。首元を飾る純白のシャツに縫い付けられたおおぶりのフリルはこれまで一度も見たことがないもので、それは紳士の装いと言うよりも、まだ幼気な少年のよう。太陽の下にある限りとろんと甘いその美貌に花を添えてはいるが、少し浮かれすぎている。
僕が訝し気に見上げていると、ご主人様は取り繕うよう肩を竦めて見せた。
「すっぽかされているんだ。ここ半年程ね」
それでも律儀に毎月決まって人払いをしているのだろうか。明日の朝までこの屋敷には僕とご主人二人きり。つまりいつもは、彼ひとりきりなのだ。料理などした事もないだろうこの屋敷の主は、いつもどう過ごしていたのだろうか。これまでこの決まった休暇のあと、特に変わった様子は無かったが──。
疑念に囚われている僕のことなど気にする様子もなく、ご主人様は珍しく憂いばかりを吐き出す。
「彼はもう、僕の事を忘れてしまったのかも知れないね」
それは初めて彼が僕に見せた、弱さだったのかも知れない。
薄く伏せた瞼から伸びる長い睫毛も揃って俯き、儚気な美貌をより際立たせるばかり。貴婦人ばかりでなく、紳士までもを虜にする理由がよく分かる。
思わず目を奪われそうになり、僕は慌てて平静を装った。
「どのようなお方なのですか?」
暇なのはお互い様だ。それに来ないのならば少しでも情報を集めておかないと、お転婆なあのメイドに何を言われるか。
そんな僕の打算など知らず、彼は相変わらず憂い気に呟いた。
「僕の養父さ。ここに越す前までは一緒に暮らしていた」
へえ、と溢す僕に、ご主人様はどこでどう暮らしていたのか詳しく教えてくれた。ご主人様がその養父と暮らした街は、ここからずいずんと離れた場所に位置する王宮のある街。こことは比べ物にならぬ程の、僕には一生縁のないだろう都会だ。
それにしても、養父──。白崎亨太朗と言うこの男の出生や生い立ちについて、誰ひとり知る者はいない。執事長でさえ、口を閉ざしているのかも知れないが知らぬと言うのは勿論ジゼルの入れ知恵。
当然人間であれば生死に関わらず親はいるものだし、何か事情があっても子供ひとりで生きてはいけない。彼はその若さでこの屋敷の主人なのだから、血筋が裕福なのだと勝手に思い込んでいた。どうやらその養父がとんでもない金持ちで、この屋敷を与えたに違いない。
僕がそんな思考に沈んでいた正にその時だ。
「亨太朗──」
不意に僕達の間を割って届いた声に、僕とご主人様は同時に視線を走らせた。貝殻の小道の上、ハニーブロンドの見目麗しい紳士が佇んでいた。
「セオル……!」
ご主人様は微かな声でそう呟くと、瞬く間にバルコニーから姿を消した。その時、僕は思わず、自分の目を疑った。これまで彼のあんなにも純粋な顔を見たことがあっただろうか。翳りを愛する美貌は、まるでそのフリルに似合う少年のように真夏の太陽の下輝きを放っていた。
しばらくあっけにとられていたが、ふと我に帰り僕は慌てて深く腰を折る。
「ようこそお越しくださいました」
「いや、いい。楽にしてくれ。頭も上げておくれ」
そう言われ顔を上げ、僕はまた目を疑った。養父と聞いていたが、随分と若い。歳は三十半ばをすぎた頃だろうか。たしかにご主人様より随分と上だが、養父と聞いて髭の似合う老紳士を想像していた僕はそれにも面食らっていた。
そのすきに慌てた様子で階下に降りたご主人様は、僕の存在をすっかりと忘れて紳士に思い切り抱き付いた。紳士もまた嫋やかに口元を緩め、細い身体をキツく抱き締める。
「愛しい私の坊や、長い事待たせたね」
「この日をどれだけ待ち侘びた事か」
その二人の様子を見る限り、随分と仲が良いようで、それならばどうして離れて暮らしているのか。放置された僕の頭にはそんな疑念が渦を巻く。
互いの頬にキスをし、親子と言うより歳の離れた兄弟の久方振りの対面を済ませたところで、ようやくご主人様は僕の存在を思い出して振り向いた。
「ああ、セオル、彼は僕の自慢の馬丁さ。美人だろう?」
僕は慌てて腰を折る。
「随分とおまえ好みだな」
紳士はそう言うと、僕に視線を合わせて腰を屈めた。
「初めまして、私はセオル。セオル・マフェット。亨太朗の世話は大変だろう」
慌てて首を振る僕には、慈愛に満ちた瞳が投げ掛けられる。
一体こんなにも優しい養父に育てられ、そしてご主人様自身もかなり信頼を置いているのにも関わらず、どうして彼はあれ程性格は捻じ曲がり、深い闇を背負っているのか。いまいち理解に苦しむ。
その後二人は屋敷の中へと姿を消し、僕はまた一人暇を持て余して過ごした。馬を出すと言っていたから待っていたのだけれど、一向に声もかからぬまま。
二人はバルコニーで長い間語り明かしていた。昼食時を過ぎ、間も無く太陽が傾き出す頃になってもそれは変わらなかった。そうなると僕は普段は感じぬ衝動に駆られた。
久方振りの再会で積もる話もあるのだろうから、自分に何か出来ないものか。僕は親を知らない。だからこそ余計に、養父とは言え親と離れて暮らすご主人様の寂しさやもどかしさに同情してしまっていた。
腕に自信はないが、夕食を作る事を提案するため、僕は貝殻の小道をバルコニーの下に向かい歩いた。だがつい先程まで存在していたそこに二人の姿は無く、代わりに一つ隣のご主人様の寝所のカーテンだけが、夕暮れ前の風に緩やかに踊っている。
自らの心に生まれた意味不明なお節介のために、僕は何も考えず通い慣れた彼の寝所へと向かった。これまで一度だって自らの意思で歩んだことのないその道程をゆく足取りは、不思議と初めて軽いものであった。
そして辿り着いた寝所の重厚な扉の前で、一呼吸置いて扉をノックしようとした正にその時であった。
重い木板の向こう側で、何かが激しく倒れる音が轟いた。僕は余りの轟音に思わず持ち上げた手を固め、扉の前で趣味の悪い聞き耳を立ててしまった。よせば良いものを──。
「亨太朗」
その声は、彼の養父、セオル様の物である。だが低く澄み通るその声は、僕に向けられた物とまるで違う性質を持っていた。怒気を含んでいるような、ひりひりと神経を逆撫でされるような緊迫感が扉の外にいる僕にも伝わる。
「あの馬丁は私への当て付けか?」
続いたその言葉に、僕は思わず一歩退いた。僕のことだ──なぜ、分からない。だが最早居ても立っても居られなくて、たまにジゼルが覗き見に使う隣の部屋へと身体は走り出していた。隣の部屋は滅多に使われる事のない客間となっており、部屋に置かれた鏡台の裏側には、小さな覗き穴が設けてある。もちろん、ジゼルが作った物だけれど。
僕が鏡台から中を覗いたとき、まず目に飛び込んだものはご主人様がいつも腰を落ち着けている椅子。無残にも絨毯の上に転がっているところを見ると、さっきの轟音はどうやらあれが倒れた物らしい。
そして天蓋の垂れたベッドを向いて背を向けるご主人様と、そのご主人様の背後に立つセオル様の姿があった。
二人は僕が移動している間どうやら沈黙していたらしい。続いた言葉は、運良く辻褄が合った。
「答えろ」
「何の事?」
ご主人はそう言って振り向くと、僕が見慣れた妖艶な微笑みを浮かべている。
先程まで感動の対面だったのに、どうしたことか。セオル様が一歩ご主人様に足を踏み出す。長い手が伸びた先は、尖った顎先。
「幼い頃の私にそっくりではないか。何時か彼の心もその美貌で虜にしてしまうつもりか。そして私は、捨てられるという訳か」
一体、どういう事だ──。僕の頭はパニック寸前で、そして、きっとこの先を見てはいけないと理性が告げる。けれど本能がそれを拒み、縫い付けられたかのように、僕の視線はご主人様の唇から離れる事が出来ない。
ご主人様は顎先を辿る手を乱暴に払い、殊更挑発するように彼を睨め上げる。
「答えなくては、ダメ?」
半年も放っておかれた愛息子の怒りを感じたのか、セオル様は脱力したように肩を落とした。そしてあろう事かその細い身体を抱き寄せて、耳元で甘く囁いたのだ。
「機嫌を直して、愛しい子。望み通り可愛がってあげるから。君が嫌だと言っても止めてはやらない。半年分、たっぷりと私の愛を注ぎ込んであげる」
くらくらと脳が揺れる。動悸が激しく、息も自然と上がる。乾涸びた喉に唾液を潜らせようとする度、喉は大袈裟に啼く。
しかしご主人様はそんなセオル様の胸を押し返した。
「……嫌なのか?」
悲しみよりも、深い嫉妬に揺れる声。ご主人様はそれを聞いて、僕が見た事も無いような美しく妖艶な微笑を彼に投げた。
「お祖母様が天に召されてから、僕を愛してくれたただ一人のひと。僕に素敵なお屋敷を与え、優秀な使用人を与え、何もしなくとも、僕がこの玩具箱の中で永遠に退屈しないようにと全てを与え、貴族のお友達まで与えてくれ、そして──僕をふしだらな女として目覚めさせてくれた。そんな僕が、貴方に逆らえるとでも?」
しなやかな細腕が、まるで蛇のように逞しい紳士の頸に巻き付く。細い身体をぴたりと密着させたご主人様は、遂に決定的な一言を放った。
「愛のままに、僕を抱いて、お父様。何時ものように、この屋敷が元の清廉な顔を取り戻す、夜明けまで──」
僕はその時、彼の翳りの正体に気が付いてしまった。そして、その翳りが何故あれほどに艶美であるのかを。いつからかは勿論僕は知らない。けれど彼は、きっとこうして何時も養父を誘惑し、そしてその妖艶さを磨いていたのだ。
まんまと蜘蛛の糸に絡め取られた見目麗しい紳士はもうただの雄のように、流麗な身体のラインを念入りに愛撫しながら薄い唇を貪っている。苦し気に眉を顰めるご主人様の頬が少女のように紅潮してゆくさまを見ながら、僕はその余りの美しさに呼吸さえも奪われた。
何度も何度も角度を変えては唇を貪り合い舌を絡め、混じり合った唾液が顎先へと伝うほど、夢中になって口付けを交わす。そのまま二人はベッドへと倒れ込む。余りにも濃厚なキスは、終わりさえ見えない。
遂に我慢の効かなくなったセオル様は唐突に身体を離すと、ご主人様の胸元で揺れる大仰なフリルに手を伸ばした。その指先をそっと制したご主人様の瞳は、驚く程真っ直ぐに、彼だけを映し艶めいていた。
「愛しています──」
セオル様は満足そうに頷くと、啄むようなキスをして、汗で額に張り付くご主人様の髪を優しく掻き上げた。
「寝食を忘れ、愛し合おう」
その声を合図に金ボタンが弾け飛ぶ。可憐なフリルの花は散り、裸身が晒された。
初めて目にした異国の男の素肌は、驚く程に美しかった。やわらかな透明感のある白さを持ちながら、薄い皮膚は滲む汗にしっとりと濡れ艶めいて、めぐる血脈を透かし仄かな桜色に染まってゆく。
汗ばむ薄い胸を這う男の骨張った指先は、その裸体が美しいが故にまるで異形の物のように醜く、つんと勃ち上がった薄桃色の胸の蕾に絡み付く蛭のような紅い舌もまた、同じような醜悪さであるがゆえに酷く淫猥に視覚を犯す。
何時も僕をいじめるご主人様は切な気な声を上げ、まるで猫のように快楽に犯され細い身体を震わせている。
「あぁっ……セオル──」
身体の中心に割り入れられた逞しい太腿に押し上げられる度、御主人様は白磁の喉を反らせ、薄く開いた唇から甘美な吐息を漏らした。僕は堪らなくなって身体を引いた。もうそれ以上、見ていられなかったのだ。
静かに使用人屋敷へと走り抜ける間中、頭の中は熱せられたまま。
なんてスキャンダル。美しい異国の紳士が、まさか養父の囲い者であったなんて──。身体の芯が熱く滾り、僕は絶望と共に自覚せざるを得なかった。ほつれたズボンの前は膨らみ、ずきんずきんと鈍い痛みが僕の弱いところを叩き続けている。
僕は確かに欲情したのだ。白崎亨太朗が魅せた、あの甘い瞳や切ない声、しなやかな腰を揺らす、不埒な誘惑にまんまとはまり。
濡れた漆黒の瞳、薄らと上気した白磁の裸身を思い浮かべながら自らを慰める惨めさに、僕は知れず奥歯を噛み締めた。それでも花芯を握る手は止まる事を知らず、僕はその日、生まれて初めて自慰による三度の絶頂を経験した。
気付いた時には陽はとっくに沈んでいて、滴っていた汗も乾き始めていた。気持ちを落ち着ける為に水を浴びようと外に出る。真夏の熱気は既に冷め、森から流れる風が思考もろとも包み込んでくれた。
あの憎きご主人様のまぐわいを夢想し欲情するなど、どうかしていた。初めての経験だったから、反応してしまったにすぎない。そう自身を納得させたものの、足は勝手に水場から離れ、寝所のバルコニーの下へと伸びていた。
バルコニーに漏れる室内の灯りが、一定のリズムを持って微かにゆらぐ。そして耳をそばだてれば、開いた窓からはもう掠れ始めた甘いテノールが漏れ聞こえて来た。言葉までは聞こえなくとも、僕の脳は勝手に創り出す。涎と涙に塗れ、男を咥え込みながら自ら腰を激しく揺らし、耳を疑うような淫乱な言葉で懇願する、あの男の姿を。
僕は微かに声の聞こえるバルコニーの下に隠れまた一人自身を慰めた。酷く、虚しい夜だった──。
次の日目が覚めると、ようやく薄っすらと陽が昇り始めた頃だった。ひどく気怠い身体を起こすため庭に出たとき、ぼんやりとした光のなかに人影が見え、僕の心臓は竦み上がった。
まだ朝靄の立ち込める木陰に佇んでいたのは、ご主人様だった。
ネグリジェのうえに羽織った紺色のナイトガウンの前を手で掻き寄せ、呆然と正面門を見詰めている横顔は、やはりどこまでも美しい。
思わず見惚れていた僕に気付くと、彼は何時ものように微笑んだ。
「おはよう」
頭を下げて直ぐに立ち去ろうとしたものの、それが許されるはずもない。ご主人様は僕に歩み寄ると、優しく下瞼を親指でこすった。
「酷い隈だよ。どうしたの、美人が台無しだ」
理由を言う訳にもいかず、僕は一歩下がり態とらしく辺りを見回した。
「セオル様は、どちらに?」
「帰ったよ。夜が明ける前に」
「そう、ですか……」
まだ少し掠れた声に昨晩どれだけ愛し合ったのか、つい想像してしまいそうになる。その邪念を振り払う僕の気など知らず、ご主人様は静かに語り始めた。
「セオルに出逢ったのは、八歳の頃さ。見ての通り、僕は異国の人間だ。両親が幼い頃に死に、セオルのお祖母様にこの国に連れて来られた。この髪も瞳も物珍しいからね。随分といじめられたものだよ。そんな僕をお祖母様以外で愛してくれた者は、セオルただ一人だった」
だから、彼を愛してしまったのだろうか。月に一度の逢瀬が叶わなくとも、着飾って待ってしまうのだろうか。そして、あんなにも、乱れるほどに──。
「彼には沢山の事を教わったよ。君が昨日覗き見た、愛の営みもね」
その言葉に心臓が竦み上がる。まさかバレていたなんて。言い訳のしようもなく、血の気ばかりが引いてゆく僕を責めるでもなく、ご主人様は淡々とその胸の内を吐露した。
「十の時にお祖母様が亡くなり、養父となったセオルに僕は性奴隷として扱われているのだと思っていた。だが彼はそれを愛だと言う。僕には今も、どちらが本当かは分からない」
微かな微笑にこびり付く、悲痛な切なさ。それでも彼を愛しているから受け入れてしまうのだろうか。
「僕は、その当て付けなのですか」
思わずこぼれた言葉に、自分でも驚きを隠せなかった。当て付けだったならどうだと言うのだ。関係ないじゃないか。
ご主人様はその答えの代りに、薄く微笑んで見せた。
「僕は眠る。今日の事は秘密だよ」
そのまま屋敷の中へと消える背中を見送り、僕は訳の分からない苛立ちを噛み潰した。
太陽が昇ると使用人達が続々と屋敷に戻って来た。勿論、お転婆なメイドジゼルは仕事そっちのけで僕の周りを飛び回っている。
「ねえ、お客さまはどんなお方だったの?」
彼の容姿を思い出そうとしても、どうしてもあの湿った夜の事ばかりが思い起こされ、僕は気が気じゃなかった。
「とても美しい紳士だったよ」
そう言うだけで精一杯。実際に、彼は美しいハニーブロンドの髪の紳士だ。その性的嗜好を除いてしまえば、普通の。
しかしジゼルは元来の妄想力と、そして不思議な洞察力を持ってして、一番触れてはならぬ核心に近付こうと声を潜め問い掛ける。
「ねえ、そのお方と旦那様、もしかしたら──」
「やめてよ!」
僕は自分でも意図せず荒くなった言葉にジゼル以上に驚いた。
この胸の苛立ちは一体何なのだろう。自分でも全く説明が付かない。ただただ全てに神経が過敏になり、そして、心がするどい棘を持つ。
「リリ、一体どうしたと言うの。まるで、嫉妬に狂った女のような顔をしているわ」
ジゼルのその言葉を、僕は聞かないフリをした。
分かるのならば誰か教えて欲しい。突如芽生えてしまった、この不可思議な感情の理由を──。
0
あなたにおすすめの小説
兄弟カフェ 〜僕達の関係は誰にも邪魔できない〜
紅夜チャンプル
BL
ある街にイケメン兄弟が経営するお洒落なカフェ「セプタンブル」がある。真面目で優しい兄の碧人(あおと)、明るく爽やかな弟の健人(けんと)。2人は今日も多くの女性客に素敵なひとときを提供する。
ただし‥‥家に帰った2人の本当の姿はお互いを愛し、甘い時間を過ごす兄弟であった。お店では「兄貴」「健人」と呼び合うのに対し、家では「あお兄」「ケン」と呼んでぎゅっと抱き合って眠りにつく。
そんな2人の前に現れたのは、大学生の幸成(ゆきなり)。純粋そうな彼との出会いにより兄弟の関係は‥‥?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる