鶴も鳴かずば撃たれまい

吉祥てまり

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琥珀の瞳

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浅草の細い路地だった。
日が沈んだ藍色の空、雨も降っていないのに水溜まりが出来ている。一人の男が地面を見下ろしている。傍らには人型が倒れていた。数秒前までは生きていたのであろうそれは、最早びくとも動かない。鈍い衣擦れの音がして、草履が肉塊を蹴った。短刀が黒々と濡れていた。月の光に淡く照らされたその男の横顔は今までに見たどんな人間の容貌よりも寒々としていて、思わず息を呑んだ。気付けば、声にならない声が漏れていた。
「見たな」
視線がこちらに向けられる。琥珀のような金色の瞳だった。総毛立つのを感じた。今すぐに逃げ出すべきだと解っているのに、目を逸らすことが出来なかった。それは恐ろしさからであろうか。あるいは、信じ難いことだが、眼前の光景を綺麗だと思ってしまったからであろうか。彼──千歳ちとせは、男と見つめ合ったまま、その場に立ち尽くしていた。
ああ、こんなことになるなら──寄り道など、しなければ良かったのだ。


彼はこの日もいつも通りの退屈をやり過ごす筈だった。
朝起きて身支度を済ませ学校に向かい、英文学の授業の後、適当に街をぶらついてから帰宅する。それが千歳のありふれた一日の過ごし方であった。学校の後真っ直ぐ帰らないのは、彼にとって家が居心地の良くない場所であるからだった。というのも千歳が今の専門学校に通っているのは、本来行く筈だった士官学校の試験に不合格となったからである。軍人の父のもとに生まれた彼は、そんな訳で兄弟の中でも落ちこぼれ扱いが常なのであった。寄り道の先は様々だ。活動写真や百貨店、芝居にカフェー。連れ立って行くような友人はいなかったが、日に日に発展を遂げる帝都の街は一人でもそれなりに暇を潰せるだけの娯楽があった。そしてこの日、千歳が向かったのは浅草の歓楽街であった。

夕方の浅草六区は数多の人で賑わっていた。鮮やかで猥雑な看板が並ぶ中、あてもなく歩く彼を一等惹き付けたのは「べっ甲座」と書かれた派手な色の旗だ。巡業中の見世物小屋であった。
威勢の良い口上を聞きながらふらりとテントの中に入れば、めくるめく別世界が広がっている。怖いもの見たさでやって来た老若男女の客がひしめいていた。得体の知れぬ生き物の標本、蛇を食い千切る女──そして満を持して登場した人影に、周りの女たちは黄色い歓声をあげる。女物だろうか、派手な柄の着物を纏っている。舞台の上に立っているのは金色の瞳をした美男子だった。どうやらここの目玉は彼の演目のようだ。男がぱちんと手を合わせると、何処から出てきたのか忽然と造花の薔薇が現れる。花を手渡された観客の少女は恥ずかしそうに頬を赤らめた。紙から蝶を作り出し、鳥を放ち、箱の中からせむし男が現れる。彼は次々と異国の奇術を披露すると、最後に口から国旗の連なった紐を出し、大仰にお辞儀をして去っていった。千歳は周りの観客に倣って適当に拍手をしておいた。

「成程、女子供が喜ぶ訳だ。俺とは住む世界が違う」
金を払ってテントを出た千歳は呟く。彼の人生は舞台の上の演者たちとはまるで真逆であった。良く言えば堅実、悪く言えば平凡。家に帰れば覇気がないと父に叱られ、ろくに友人も出来ず、女に声を掛けられるなんて夢のまた夢。真面目なことばかりが僅かな取り柄の自分は、きっとこれからも退屈な余生を過ごすのだろう。千歳はそう考えて溜息を吐くと、日の沈んだ街をとぼとぼと歩く。ここから家に帰るには地下鉄道に乗らなければいけない。何となく気疲れして、人通りの多い道を進む気にはなれなかった。そうして細い路地を曲がったところ、彼は件の光景に遭遇したのである。


短刀を手にしているのは見世物小屋にいたあの美男子に相違なかった。舞台の上でずっと笑みを浮かべていた筈の男は、冷え冷えとした無表情でこちらを見つめていた。後退りすら出来ずに立ち尽くす千歳のもとに、男はゆっくりと歩を進める。自分よりは少しばかり背が高いようだ。帯に差した煙草入れが緩慢に揺れる。短刀からぽたりと滴が落ちて、ああ自分は殺されるのだろう、という諦めが心中を支配する。お終いだ。大した思い出もない走馬燈が駆け巡る。こんなところで自分は死んでしまうのか。思えば取るに足らない人生だった。そっと短刀を突き付けられる。目の前まで近付いてきた男からは、ふわりと煙草の匂いがした。
「何か言うことはあるか?辞世の句くらいなら聞いてやろう」
「……別に何も」
「なんだ、つれないな。それじゃあ命乞いは?」
「したところで、あんたはどうせ俺を殺すんだろ」

千歳は男から目を逸らさずに答える。逸らせなかった、という方が正しいかもしれない。路地裏の夜は妙に静かだった。男は短刀を千歳の首筋に寄せたまま能面のような顔で暫く黙っていたが、急にふっと息を漏らすと楽しそうに笑い始める。それは舞台の上で彼が見せていた、人好きのする笑みにやはり違いなかった。
「はは、お前、変わってるなあ!ここまで潔い奴は初めてだ!その通り。命乞いなんて何の意味もないのさ。俺がやるかやらないか、ただそれだけだ。見られた限りは口止めをしなけりゃならないし、死人には口が無いから一等安心だ。今だって俺は、ほんの一瞬でお前の息の根を止めることが出来る」
男は一旦言葉を切ると千歳の耳元で囁く。ぞくりと背筋が寒くなった。彼が少しでも手許を誤れば自分の命は無い。刃が滑り込むところを想像すると、皮膚がちりちりと震える心地がした。まるで品定めでもするかのように、男は頭から爪先まで千歳のことをしげしげと眺める。そんな視線を向けられるのは生まれて初めてだった。何も言わずにいれば、彼はただ目を細めて話を再開した。
「だが今の俺はあまり気乗りしていない。お前を殺めるのは依頼のうちに入らないし、それに……そうだ、俺は、お前のことが気に入った!」
「……はあ?」
「俺と一緒に来てくれ。お前は何も見なかったことにしてやる、その代わり、俺と行動を共にする。どうだ、悪い話じゃあないだろ」
「そんな、あんたは何を勝手に決めて……」
「ただ俺は提案しただけだ。お前がここで死にたいなら話は別だぞ?」
相変わらず短刀は千歳の首筋に突き付けられている。男は笑っている。ほんの少し言葉を交わしただけなのに、これは微笑んだまま人を殺められる性質の男だと本能が確信していた。痛いのは嫌いだ。地獄に落ちても、垂らされた蜘蛛の糸に縋ってしまうのが人間の愚かしさである。するべきことは一つしかない。選択肢など、初めから与えられてはいないのだから。

「……分かった。その条件を飲もう」
「そう来ないとな!お前、その身なりからすると学生か。名前は?」
「……千歳。戸山の専門学校に通ってる。あんたは」
「千歳か、めでたくて良い名前だな。俺は金花きんか。そこの見世物小屋、べっ甲座の座長だ。俺に付いてくるからには、きっと悪いようにはしないぜ」
金花と名乗った男は屈託のない表情で手を差し出す。つい先程まで持っていた筈の短刀は、奇術のように消え失せてしまっていた。これは取引であり、契約だ。その手を取ったからには、もう後戻りは出来ない。覚悟を決めて握った手の温かさに、千歳は奇妙な感覚を覚えた。まるで同じ人間には思えないのに、こんな不可思議な男にも血が通っている。もしかしたら悪い奴ではないのかもしれない──そんな楽観さえ、微かに脳裏を過ぎるのだった。

「千歳!お前に、俺の世界を見せてやる」
刃物のような鋭利な月だけが、二人の契りを見守っていた。
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