捨てたのはあなたです。今さら取り戻せません

斉藤めめめ

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王子はまだ、失ったものの名を知らない

祝宴は、続いているはずだった。

新たな婚約者リリアナを伴い、
未来の王として喝采を浴びる夜になるはずだった。

だが。

楽団は演奏を再開しているのに、音が遠い。
杯を掲げる貴族たちの笑顔が、どこか硬い。

「殿下、どうかなさいました?」

リリアナの声は甘い。
だが、その手の震えは隠しきれていない。

「問題はない」

短く言い放つ。

断罪は完璧だった。
証言も揃っていた。
証拠書類も提出された。

——はずだ。

「殿下!」

慌てた足音が近づく。

宮廷財務官が青ざめた顔で膝をついた。

「北方交易の資金が完全に凍結されました! 帝国側が“責任者不在のため再協議”と……!」

「再協議だと?」

苛立ちが胸を刺す。

「責任者はいる。私だ」

財務官は、言葉を選ぶように続ける。

「……これまでの契約署名は、すべてセラフィーナ様名義でございました」

沈黙。

ざわめきが広間を駆ける。

「書き直せばよいだろう」

「それが……帝国は“信用に値する者とのみ契約する”との一点張りで……」

一瞬、思考が止まる。

信用。

あの女が?

「馬鹿な。所詮は公爵家の娘だ」

だが、次の報告が追い打ちをかけた。

「穀物価格がすでに上昇しております。商会が買い控えを始めました」

「なぜだ!」

「セラフィーナ様が各商会との保証人でございましたので……」

——保証人。

喉が、ひどく乾く。

視線が無意識に広間の入口を探していた。

そこに立っていたはずの、銀色の髪。

いつも冷静で、余計な言葉は口にせず、
必要な書類はすべて整え、
外交文書は完璧な均衡でまとめていた女。

「……偶然だ」

自分に言い聞かせる。

あれは支配だった。
王家を操る気だったに違いない。

「殿下?」

リリアナが不安げに袖を掴む。

その手を、振り払う。

「下がれ」

彼女の顔が強張る。

違う。

何かが違う。

玉座へ向かう階段を見上げる。

そこに、いつも一歩後ろに立っていた影。

王子の発言を補足し、
愚かな失言をなかったことにし、
外交使節の機嫌を取り、
王の叱責を和らげていた存在。

——あれは。

支配だったのか。

それとも。

「殿下!」

再び叫び声。

「南方商会も契約を保留に!」

広間の空気が変わる。

祝宴ではない。

不安。

疑念。

「……たかが一人の女だ」

だが、胸の奥で小さな違和感が芽吹く。

あの女は、
一度も言い訳をしなかった。

泣きもしなかった。

怒りも見せなかった。

ただ——

“責任は負いかねます”と。

玉座の上から見下ろしたはずなのに。

なぜか、
今になって自分が高い場所から落ちたような感覚がある。

それが何なのか、まだわからない。

だが確かに、
足元の石畳が、ひび割れ始めていた。

王子はまだ知らない。

失ったものの名を。

そしてそれが、
二度と戻らぬという事実を。
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