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第一章
第一話 美しい皇子
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「月読!月読!」
背後に自分を呼ぶ声が近づいてきた。
「壹与?」
月読は町娘たちとの会話を一旦とめて、ゆっくりと振り向いた。
「月読、一人にしちゃいやだ」
壹与は子犬のように駆け寄り、勢いをつけたまま月読の胸に飛び込んできた。
「悪かったよ、壹与」
月読は本当にすまなさそうにそう言って、腰の辺りでしゃくりあげている幼女の頭を優しくなでた。
「わかったから、壹与。ずっとそばにいるから」
心底困り果て、必死に幼女をなだめている月読の様子に、それまで黙って二人を見ていた町娘たちも、思わず吹き出してしまった。
「まあ、かわいらしい。月読様のお身内ですの?」
「ええ、姪です。亡き姉姫の子で壹与といいます」
「姉姫様の?」
娘たちは改めて二人を見比べた。
「なるほど。よく似ていらっしゃるわ」
「月読様は女大王様にも似ておられるけれど」
口々にささやき合う娘たちに、月読はちょっと眉間を寄せて、面白くなさそうに言った。
「つまりそれは、私が女のような顔だということですか?」
一瞬娘たちの口がぴたりととまり、間もなく泡がはじけたように、どっと笑い声が起こった。
「いやですわ。娘と見まごうほどお美しいということですよ。」
娘たちは、顔を真っ赤にして立っているその少年を、心から愛らしいと思った。
そのあどけなさが残る美しい横顔には、かつて鬼の子と噂された影はまるで見られない。
それどころか、神が地上に送り込んだ幸福の使者ではないかと思わせるほど、姿も心も美しい少年。
それが邪馬台国元大王の四男、月読命であった。
姉兄たちと年の離れた月読は、老いた母から産まれた。
そのため母は、彼を産み落とすと同時に力尽き、この世を去った。
その母を狂おしいほど愛していた大王は、気がふれたように毎日あらぬところを見つめては、一人で笑ったり泣いたりして過ごすようになってしまった。
そしてある夜、侍従の手を振り払い寝所を飛び出すと、妻の眠る塚を素手で掘り起こし、棺の蓋を開けたのである。
その年の夏は特に暑さが厳しく、雨量も多かった。
そのため遺体の腐敗も早く、その夜はふもとの村まで腐臭が届いたという。
勿論、変わり果てた妻の姿を目にした大王の衝撃は、並々ならぬものであったに違いない。
脂が浮き出した皮膚と、処々あらわになった黄色い骨。
そして大きなふたつの目のくぼみ。
彼はそれがかつて自分の愛した女の成れの果てであることを拒絶するように、棺ごとひっくり返してしまった。
知らせを聞いた家臣たちが駆けつけてみると、獣のように吠え狂う大王と、地面に無惨にばらまかれた人骨や肉片が、そこにはあったといわれている。
そうして翌朝、大王はしとねの中で冷たくなっていたのである。朝食を運んできた侍女が気を失ったほど、それは恐ろしい形相をしていたという。
その誕生により、両親を死に至らしめた。
それが人々に月読を鬼の子と噂させた理由であった。
しかし、彼が成長していくにつれて、その忌まわしい呼び名は少しずつ忘れられていった。
血塗られた過去を人々に忘れさせるほど、月読は美しい姿と、汚れない心を備えていたのである。
不吉な皇子という汚名が拭われた頃、人々の話題は次期大王に誰がなるかということにあった。
月読が幼い頃、邪馬台国の大王は、叔父にあたる上筒之男がつとめていた。
月読の父王は男四人、女二人の計六人の子をもうけたが、月読をのぞく三人の皇子は、既に戦死していた。
長女姉姫は隣国の王のもとへ嫁ぎ、次女卑弥呼は、巫女としては類い稀な才能を持っていたが、当時はまだ、女の大王を立てることは許されなかったのである。
唯一正統な継承権を持つ月読は、その頃はまだ幼すぎた。名ばかりの王では通用しない時代である。
結局、月読が成長するまでとの期限付きで上筒之男が王座につくことになったが、それは仕方の無いことであった。
ところがこの王は大変な戦好きで、民衆は兵役と働き手不足による収穫の減少で、食糧難に苦しめられることになった。
その結果王は暗殺され、新しい大王にと民衆が望んだのが、何と、次女卑弥呼なのであった。
こうして歴史上初の女大王が誕生したのである。
「月読様!」
再び違う声が月読を呼んだ。
「どうしたの?」
「女大王様がお呼びです」
年若い侍女は、息を切らせながら一気に用件を述べた。
「姉上が?突然どうされたのだろう」
「どなたかいらしたご様子でしたが……」
「客人か……。とりあえず急がねば。壹与を頼んでもいいかな」
「喜んで」
侍女は、微笑みながら壹与の肩に優しく手をのせた。
「月読、また行っちゃうの?」
壹与は悲しみを満面に映して、月読を見上げた。
「姉上がお呼びなんだ。わかるね。壹与」
返事をする代わりに、壹与は侍女の背後に隠れた。
まだ五つの幼子に政治の重要性などわかるはずあるまい。
しかも実の母を病で亡くしてまだ間がないのだ。
父である隣国の王が新しい妃を迎えたことで、行き場を無くしていた壹与を、霊能力があると感じた卑弥呼が引き取ったのだが、可愛がる様子は全く無い。
知らない土地で、自分しか頼る者のいない壹与を、月読はできるだけ一人にはしたくなかった。
そう思いつつも、自分が政に役割を持つ以上、幼い頃から諦めることを知らしめなくてはならないのだ。
早足でその場を立ち去りながら、月読は心が痛んだ。
「本当に、美しいばかりでなく、あの若さで審神者としての務めも果たされて……」
「そりゃあ、神と言われる女大王卑弥呼様の弟君ですもの」
月読が去ったあとも、娘たちの話題は若い皇子に集中していた。
審神者とは、巫女の言葉を民に伝える者をさす。
占いによって政のすべてが決められていたこの時代、常に神の代弁者である巫女が政治の中心にあった。
月読の血筋である王家の女子の中には、稀に不思議な能力を備える者が誕生し、その娘は俗世を捨てて巫女となり、代々大王につかえてきた。
月読の姉卑弥呼は、その中でも際立った霊能力で、これまで数々の困難からこの国を救ってきた。
だからこそ、それまでの習わしを崩してまでも、民衆が女大王にと強く望んだのである。
そしてその姉の力になりたい一心で、月読は幼い頃から審神者としての技術を学び、前任者が退官した一年前から、異例の若さで卑弥呼の審神者を務めてきたのだ。
審神者の役割と責任は、あるいは巫女以上に大きい。
巫女が神から受けた言葉は抽象的で、一般の者たちには意味がわからないものが多く、また巫女自身も、神が降りている間に発した言葉は記憶にない場合がほとんどなのである。
そのため、その言葉を解釈して民に分かりやすく伝える審神者が必要とされるのだ。
卑弥呼と月読の神託には定評があった。
姉が神から受けた言葉を、弟が民に伝える。
そしてそれは常に幸をもたらす。
血のつながりが、より正確に、月読に神の意思を解釈させるのかもしれなかった。
「お待たせいたしました」
「月読。早かったですね」
巫女の衣装を身につけた女大王卑弥呼は、祭壇を背にして座し、笑顔で月読を迎えた。
月読と瓜二つの美しい顔を、自然のままに垂らした黒髪が覆い、純白の帯が額に巻かれている。
女王に向かい合うように中年の男と、体格の良い若い男が座っていた。
二人は卑弥呼の視線を追って月読の方へ向き直り、深々と頭を下げた。
どうやら中年の男が主人で、若い男はその家臣のようだ。
彼らは月読たちが身につけている晒し色の貫頭衣と違い、絹地に美しい刺繍の施された衣装を身に付けていた。
その姿から、魏の使者かと思い、月読は緊張気味に男らの前に着座し、両手をついて頭を下げた。
「らくになさい。その者たちは魏の使者ではありません」
月読の心中を悟って、卑弥呼は優しくそう言い、顔を上げるよううながした。
「その男の顔に覚えはありませぬか」
「……さあ。私の記憶には……」
卑弥呼の問いに、改めて年長の男の顔をじっくりと見直したが、やはり記憶に当てはまる人物は浮かばなかった。
「無理もない。この者が魏へ渡った頃、あなたはまだ幼少でした」
「魏へ?もしかして難升米殿ですか?」
「いかにも。十年の昔、友好の使者として魏へ送った男です」
それを聞いて、月読は緊張を解き、年の離れた従兄弟を見つめた。
長い航海のためか肌は浅黒く日焼けし、大きな鼻と分厚い唇が特徴的な男だった。
血がつながっているとはいえ、月読や卑弥呼とは似ても似つかない男臭い風貌だが、その鋭い視線は、月読の叔父であり、難升米の父でもある前大王上筒之男を思い起こさせた。
「難升米、それを月読にも見せておあげ」
「はっ!牛利、これへ」
牛利と呼ばれた若い男は、懐から紫色の包みを取り出し、手早くそれを開くと、月読の前へ差し出した。
直後、小さな黄金色の塊が、少年の瞳に無数のきらめきを映しだした。
「これは…!」
月読ののどがごくりと鳴った。
彼には、それの金銭的価値などまるで興味がなかった。
この小さな金塊が何を意味するのか、少年は瞬時に理解したのである。
「…金印」
「いかにも。我が国と魏の友好の証。魏の皇帝は、私に親魏倭王という称号を与えて下さいました。これでもう、周辺で邪馬台に刃向う国はありますまい」
女王の声は、喜びに打震えることもなくいたって淡々としたものであったが、今まで見せたことがない穏やかな表情から、安堵した喜びが滲み出ていた。
「やがて私は、倭をひとつの国にまとめたいと考えているのですよ。小さな島国の中で、血を流し合うなど、不毛なことです。海の向こうには、無数の国々があり、いつ我が国に攻め入ってくるかもしれません。その時は倭の民として皆団結し、この国を守らなくてはならないのです」
当時の中国では魏、呉、蜀という三国が争覇しており、その中で最も栄え、絶対的な兵力と経済力で周辺国を掌握していたのが魏の国であった。
その魏と友好を結べたということは、強力な後ろ盾を得たということに他ならない。
これまでは豊かな邪馬台の土地を狙って、戦を仕掛けてくる倭国(日本)内の諸国もあり、その度に甚大な犠牲を払ってきた。
しかし、今後魏が相手ではそのような国もおとなしく従うしかない。
遠く筑紫島(九州)には、邪馬台国と敵対する、狗奴国という大国の存在があったが、少なくとも陸続きの諸国で刃向うものはないだろう。
つまりこの日から卑弥呼は、邪馬台国の女王のみならず、倭国の大部分を掌握する大王となったのである。
「まったく、姉上はますます私の手の届かない方になっていかれる」
「私にとっては、あなたの成長が楽しみなのですよ、月読。早く一人前の男になって、私を導いてください。女ひとりの腕には、この国は大きすぎる」
月読と卑弥呼の年齢は親子ほども離れていたが、女王の美しさは、彼女を十歳以上も若く見せていた。
(神の声を聞くことができる人は、老いでさえ止め得るのかもしれない)
月読は、そんな姉に限りない憧れと敬意を抱いていた。
その姉から少しでも頼りにされているということは、少年にとって、この上ない喜びであった。
(姉上が私を必要としてくださる)
そう思っただけで、月読の心臓は高鳴った。
(ならば私は、倭一の審神者になろう。姉上のご期待に添えるように)
少年は心の中で、何度も何度も誓った。
(女王卑弥呼の弟にふさわしい審神者に!)
背後に自分を呼ぶ声が近づいてきた。
「壹与?」
月読は町娘たちとの会話を一旦とめて、ゆっくりと振り向いた。
「月読、一人にしちゃいやだ」
壹与は子犬のように駆け寄り、勢いをつけたまま月読の胸に飛び込んできた。
「悪かったよ、壹与」
月読は本当にすまなさそうにそう言って、腰の辺りでしゃくりあげている幼女の頭を優しくなでた。
「わかったから、壹与。ずっとそばにいるから」
心底困り果て、必死に幼女をなだめている月読の様子に、それまで黙って二人を見ていた町娘たちも、思わず吹き出してしまった。
「まあ、かわいらしい。月読様のお身内ですの?」
「ええ、姪です。亡き姉姫の子で壹与といいます」
「姉姫様の?」
娘たちは改めて二人を見比べた。
「なるほど。よく似ていらっしゃるわ」
「月読様は女大王様にも似ておられるけれど」
口々にささやき合う娘たちに、月読はちょっと眉間を寄せて、面白くなさそうに言った。
「つまりそれは、私が女のような顔だということですか?」
一瞬娘たちの口がぴたりととまり、間もなく泡がはじけたように、どっと笑い声が起こった。
「いやですわ。娘と見まごうほどお美しいということですよ。」
娘たちは、顔を真っ赤にして立っているその少年を、心から愛らしいと思った。
そのあどけなさが残る美しい横顔には、かつて鬼の子と噂された影はまるで見られない。
それどころか、神が地上に送り込んだ幸福の使者ではないかと思わせるほど、姿も心も美しい少年。
それが邪馬台国元大王の四男、月読命であった。
姉兄たちと年の離れた月読は、老いた母から産まれた。
そのため母は、彼を産み落とすと同時に力尽き、この世を去った。
その母を狂おしいほど愛していた大王は、気がふれたように毎日あらぬところを見つめては、一人で笑ったり泣いたりして過ごすようになってしまった。
そしてある夜、侍従の手を振り払い寝所を飛び出すと、妻の眠る塚を素手で掘り起こし、棺の蓋を開けたのである。
その年の夏は特に暑さが厳しく、雨量も多かった。
そのため遺体の腐敗も早く、その夜はふもとの村まで腐臭が届いたという。
勿論、変わり果てた妻の姿を目にした大王の衝撃は、並々ならぬものであったに違いない。
脂が浮き出した皮膚と、処々あらわになった黄色い骨。
そして大きなふたつの目のくぼみ。
彼はそれがかつて自分の愛した女の成れの果てであることを拒絶するように、棺ごとひっくり返してしまった。
知らせを聞いた家臣たちが駆けつけてみると、獣のように吠え狂う大王と、地面に無惨にばらまかれた人骨や肉片が、そこにはあったといわれている。
そうして翌朝、大王はしとねの中で冷たくなっていたのである。朝食を運んできた侍女が気を失ったほど、それは恐ろしい形相をしていたという。
その誕生により、両親を死に至らしめた。
それが人々に月読を鬼の子と噂させた理由であった。
しかし、彼が成長していくにつれて、その忌まわしい呼び名は少しずつ忘れられていった。
血塗られた過去を人々に忘れさせるほど、月読は美しい姿と、汚れない心を備えていたのである。
不吉な皇子という汚名が拭われた頃、人々の話題は次期大王に誰がなるかということにあった。
月読が幼い頃、邪馬台国の大王は、叔父にあたる上筒之男がつとめていた。
月読の父王は男四人、女二人の計六人の子をもうけたが、月読をのぞく三人の皇子は、既に戦死していた。
長女姉姫は隣国の王のもとへ嫁ぎ、次女卑弥呼は、巫女としては類い稀な才能を持っていたが、当時はまだ、女の大王を立てることは許されなかったのである。
唯一正統な継承権を持つ月読は、その頃はまだ幼すぎた。名ばかりの王では通用しない時代である。
結局、月読が成長するまでとの期限付きで上筒之男が王座につくことになったが、それは仕方の無いことであった。
ところがこの王は大変な戦好きで、民衆は兵役と働き手不足による収穫の減少で、食糧難に苦しめられることになった。
その結果王は暗殺され、新しい大王にと民衆が望んだのが、何と、次女卑弥呼なのであった。
こうして歴史上初の女大王が誕生したのである。
「月読様!」
再び違う声が月読を呼んだ。
「どうしたの?」
「女大王様がお呼びです」
年若い侍女は、息を切らせながら一気に用件を述べた。
「姉上が?突然どうされたのだろう」
「どなたかいらしたご様子でしたが……」
「客人か……。とりあえず急がねば。壹与を頼んでもいいかな」
「喜んで」
侍女は、微笑みながら壹与の肩に優しく手をのせた。
「月読、また行っちゃうの?」
壹与は悲しみを満面に映して、月読を見上げた。
「姉上がお呼びなんだ。わかるね。壹与」
返事をする代わりに、壹与は侍女の背後に隠れた。
まだ五つの幼子に政治の重要性などわかるはずあるまい。
しかも実の母を病で亡くしてまだ間がないのだ。
父である隣国の王が新しい妃を迎えたことで、行き場を無くしていた壹与を、霊能力があると感じた卑弥呼が引き取ったのだが、可愛がる様子は全く無い。
知らない土地で、自分しか頼る者のいない壹与を、月読はできるだけ一人にはしたくなかった。
そう思いつつも、自分が政に役割を持つ以上、幼い頃から諦めることを知らしめなくてはならないのだ。
早足でその場を立ち去りながら、月読は心が痛んだ。
「本当に、美しいばかりでなく、あの若さで審神者としての務めも果たされて……」
「そりゃあ、神と言われる女大王卑弥呼様の弟君ですもの」
月読が去ったあとも、娘たちの話題は若い皇子に集中していた。
審神者とは、巫女の言葉を民に伝える者をさす。
占いによって政のすべてが決められていたこの時代、常に神の代弁者である巫女が政治の中心にあった。
月読の血筋である王家の女子の中には、稀に不思議な能力を備える者が誕生し、その娘は俗世を捨てて巫女となり、代々大王につかえてきた。
月読の姉卑弥呼は、その中でも際立った霊能力で、これまで数々の困難からこの国を救ってきた。
だからこそ、それまでの習わしを崩してまでも、民衆が女大王にと強く望んだのである。
そしてその姉の力になりたい一心で、月読は幼い頃から審神者としての技術を学び、前任者が退官した一年前から、異例の若さで卑弥呼の審神者を務めてきたのだ。
審神者の役割と責任は、あるいは巫女以上に大きい。
巫女が神から受けた言葉は抽象的で、一般の者たちには意味がわからないものが多く、また巫女自身も、神が降りている間に発した言葉は記憶にない場合がほとんどなのである。
そのため、その言葉を解釈して民に分かりやすく伝える審神者が必要とされるのだ。
卑弥呼と月読の神託には定評があった。
姉が神から受けた言葉を、弟が民に伝える。
そしてそれは常に幸をもたらす。
血のつながりが、より正確に、月読に神の意思を解釈させるのかもしれなかった。
「お待たせいたしました」
「月読。早かったですね」
巫女の衣装を身につけた女大王卑弥呼は、祭壇を背にして座し、笑顔で月読を迎えた。
月読と瓜二つの美しい顔を、自然のままに垂らした黒髪が覆い、純白の帯が額に巻かれている。
女王に向かい合うように中年の男と、体格の良い若い男が座っていた。
二人は卑弥呼の視線を追って月読の方へ向き直り、深々と頭を下げた。
どうやら中年の男が主人で、若い男はその家臣のようだ。
彼らは月読たちが身につけている晒し色の貫頭衣と違い、絹地に美しい刺繍の施された衣装を身に付けていた。
その姿から、魏の使者かと思い、月読は緊張気味に男らの前に着座し、両手をついて頭を下げた。
「らくになさい。その者たちは魏の使者ではありません」
月読の心中を悟って、卑弥呼は優しくそう言い、顔を上げるよううながした。
「その男の顔に覚えはありませぬか」
「……さあ。私の記憶には……」
卑弥呼の問いに、改めて年長の男の顔をじっくりと見直したが、やはり記憶に当てはまる人物は浮かばなかった。
「無理もない。この者が魏へ渡った頃、あなたはまだ幼少でした」
「魏へ?もしかして難升米殿ですか?」
「いかにも。十年の昔、友好の使者として魏へ送った男です」
それを聞いて、月読は緊張を解き、年の離れた従兄弟を見つめた。
長い航海のためか肌は浅黒く日焼けし、大きな鼻と分厚い唇が特徴的な男だった。
血がつながっているとはいえ、月読や卑弥呼とは似ても似つかない男臭い風貌だが、その鋭い視線は、月読の叔父であり、難升米の父でもある前大王上筒之男を思い起こさせた。
「難升米、それを月読にも見せておあげ」
「はっ!牛利、これへ」
牛利と呼ばれた若い男は、懐から紫色の包みを取り出し、手早くそれを開くと、月読の前へ差し出した。
直後、小さな黄金色の塊が、少年の瞳に無数のきらめきを映しだした。
「これは…!」
月読ののどがごくりと鳴った。
彼には、それの金銭的価値などまるで興味がなかった。
この小さな金塊が何を意味するのか、少年は瞬時に理解したのである。
「…金印」
「いかにも。我が国と魏の友好の証。魏の皇帝は、私に親魏倭王という称号を与えて下さいました。これでもう、周辺で邪馬台に刃向う国はありますまい」
女王の声は、喜びに打震えることもなくいたって淡々としたものであったが、今まで見せたことがない穏やかな表情から、安堵した喜びが滲み出ていた。
「やがて私は、倭をひとつの国にまとめたいと考えているのですよ。小さな島国の中で、血を流し合うなど、不毛なことです。海の向こうには、無数の国々があり、いつ我が国に攻め入ってくるかもしれません。その時は倭の民として皆団結し、この国を守らなくてはならないのです」
当時の中国では魏、呉、蜀という三国が争覇しており、その中で最も栄え、絶対的な兵力と経済力で周辺国を掌握していたのが魏の国であった。
その魏と友好を結べたということは、強力な後ろ盾を得たということに他ならない。
これまでは豊かな邪馬台の土地を狙って、戦を仕掛けてくる倭国(日本)内の諸国もあり、その度に甚大な犠牲を払ってきた。
しかし、今後魏が相手ではそのような国もおとなしく従うしかない。
遠く筑紫島(九州)には、邪馬台国と敵対する、狗奴国という大国の存在があったが、少なくとも陸続きの諸国で刃向うものはないだろう。
つまりこの日から卑弥呼は、邪馬台国の女王のみならず、倭国の大部分を掌握する大王となったのである。
「まったく、姉上はますます私の手の届かない方になっていかれる」
「私にとっては、あなたの成長が楽しみなのですよ、月読。早く一人前の男になって、私を導いてください。女ひとりの腕には、この国は大きすぎる」
月読と卑弥呼の年齢は親子ほども離れていたが、女王の美しさは、彼女を十歳以上も若く見せていた。
(神の声を聞くことができる人は、老いでさえ止め得るのかもしれない)
月読は、そんな姉に限りない憧れと敬意を抱いていた。
その姉から少しでも頼りにされているということは、少年にとって、この上ない喜びであった。
(姉上が私を必要としてくださる)
そう思っただけで、月読の心臓は高鳴った。
(ならば私は、倭一の審神者になろう。姉上のご期待に添えるように)
少年は心の中で、何度も何度も誓った。
(女王卑弥呼の弟にふさわしい審神者に!)
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