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第一章
第二話 最後の神託
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その夜、にわかに降り出した雨は、豪風と雷を伴い、激しく地を打ち付けた。
月読は雨と風の音に寝付けず、しとねの中で寝返りを繰り返していた。
不意に引き戸が開き、小さな影が月読を見つめた。
「壹与?どうしたの?」
「雨と風の音が怖くて眠れないの……」
壹与はぬれた髪から雫を落としながら、恐怖と寒さに歯を小刻みに鳴らせて立っている。
棟違いの自分の寝所から、心細さをこらえきれず雨の中を走ってきたのだろう。
「かわいそうに。入っておいで。そのままでは風邪をひく」
「うん!」
それまで遠慮をしてか、戸口に突っ立っていた壹与は、月読の言葉に弾かれたように寝所へ飛び込んできた。
月読は木綿の手拭で、子犬の毛を乾かすように、わざと荒っぽく壹与のぬれた髪を拭き始めた。
壹与は幼い少女らしく、きゃっきゃっと声をあげて喜ぶ。
その無邪気な笑顔を見て、月読は少しほっとした。
……が、突然、壹与の目がすっと細くなり、頬の赤らみが瞬時に消えた。
「壹与?」
壹与の異変に気づいた月読が声を掛けると、壹与は両手で耳を塞ぎ、青ざめた表情で床板の一点を見つめた。
「月読、女大王様が祈りに入ったよ」
「え?」
「この嵐は長く続いて、田畑や家がたくさん流されてしまう」
尋常ではない壹与の様子と言葉に、月読の顔もまた、色を失っていた。
壹与の言葉どおり、嵐はとどまるところを知らず、洪水と土砂崩れによる被害が各地で相次いだ。
寝ず食わずの卑弥呼の祈祷も、七日目に突入していた。
指を組み、一心に神の声を求める卑弥呼の顔は、頬がこけ、乱れた髪が六日間の疲れを表している。
不安気に女王を見守る月読も、条件は同じである。
そろそろ体力の限界を感じ始めていた。
「姉上!」
ふっとよろめいた姉の体を、咄嗟に少年の細い腕が支えた。
「姉上、少しは休まれないと、御身がもちますまい」
休息をすすめる弟の言葉に、大王は力強く答えて首を左右に大きく振った。
「否!こうしている間にも、人が死に、子が泣いています。私には民を守らねばならぬ使命がある!」
体は支え無しでは立っていられぬほど衰弱しながらも、口調は女王としての威厳を損なってはいなかった。
「もう少し、もう少しで神の声が聞こえそうなのです。」
「姉上……」
月読は、姉の並々ならぬ気迫に、それ以上何の言葉も出なかった。
今の卑弥呼に何を言っても無駄だろう。
巫女として、大王として、民を守るため、その身が滅びても神の声を求めて祈り続ける覚悟なのだ。
そして、月読の頭の中ではこの六日間、この雨が降り出した夜の壹与の言葉が、何度も波のように打ち寄せていた。
『月読、大王様の背中に……死相が見えるよ!』
『なんだって?』
『卑弥呼様が死んじゃうよー!』
瞬間、月読の目に、大きく翻る白い衣が映った。
貫頭衣を身にまとった卑弥呼の体が、彼の目の前で前のめりに崩れてゆく。
ガターン!
月読ははじめ、幻覚だと思った。
しかし、崩れながら卑弥呼が倒した松明の火が、その装束に燃え移り、赤い炎を吹き出したとき、彼はようやく、その恐ろしい現実に気がついた。
「姉上!」
炎に包まれた姉に駆け寄ろうとする月読の体を、何者かが背後から押さえつけた。
「月読様、なりませぬ!」
「とめるな難升米!はなせ!」
「はなせませぬ!」
難升米の太く、力強い腕に抑えられ、少年のきゃしゃな手足は、むなしく空をつかみ、宙を蹴った。
それは目を覆いたくなるような、恐ろしい光景であった。
卑弥呼の豊かな黒髪が、ちりちりと音をたて、白い肌は赤い炎の向こうで黒くなりつつあった。
卑弥呼はうつ伏せに倒れたまま微動だにしない。
声ひとつあげない。
月読は、難升米に後ろ手に抑えられながら、足下に横たわる姉から目を離せないでいた。
一瞬でも早く、視界から外したいと思いながらも、その二つの大きな目は、姉を包んだ炎をまばたきもせずに見つめていたのである。
どれだけ時が経ったのであろうか。
月読には長くもあり、短くもある時間であった。
ただ、あえて言うのならば、人の形をした炭ができるのに要するだけの時間が過ぎたのである。
そして今、呆然と立ち尽くす月読から手を離し、祭壇にあった神事用の水を、黒い塊にかける難升米の姿があった。
水をかけられ、大王の体はぶすぶすと音を立て、白く臭う蒸気を吹き出した。
「姉上……」
少年はさっきから幾度となく、そうつぶやき続けていた。
彼にとっては、あまりに惨い肉親の死であった。
生まれてすぐに両親を失った月読にとっては、まさに親代わりの姉であったのだ。
睫の長い大きな瞳から、熱いものが幾筋も流れ出し、こぼれ落ちた涙は、女王の体に届いて蒸気に変わった。
外では相変わらず激しい雨が、地に降り注いでいる。
「……龍玉を……放て……」
難升米の柄杓を持つ手が、ぴたりと止まった。
「……龍玉を……放て……」
「……ばかな……」
押し殺され、しゃがれたものではあったが、それは確かに女の、卑弥呼の声であった。
たじろぐ難升米を押しのけて、月読は大王の口らしき処に耳を寄せた。
「天龍、龍玉を求めたり……」
声はまぎれも無く、女王の体から聞こえていた。
「……ばかな……」
同じ言葉を繰り返し、難升米はその場にへたり込んだ。
「龍玉、水面に輪をつくりたり」
「……わかったぞ」
黙ってその小さな声に耳を傾けていた月読は、そう言っておもむろに立ち上がると、神殿から飛び出した。
豪雨が目に入るのも、はねた泥水で衣が汚れるのも、まるで気にもとめず、ただ広場に面した丘を目指して走った。
「聞けー!」
声変わりしきっていない少年の透る声が、雨音に混じって人々の耳に届いた。
わらわらとそれぞれの家から現れた民たちは、すがるような目で、雨に濡れた丘の上の少年を見上げた。
「たった今、神託がくだったぞ!」
「おー!」
人々の間に、一瞬尻上がりのどよめきが起こった。
そんな彼らの膝高まで、濁った水は達している。
「各自、宝石類をここへ持ち寄れ!すべてだ!」
「すべて……」
再びどよめきが起こった。
「命にはかえられまい」
月読の目が鋭く光った。
その目は、さっきの姉の死を哀しむ少年のものではなく、使命に燃える審神者としてのそれであった。
丘の上に金銀財宝の山ができるまで、さして時間はいらなかった。
もともと庶民には宝石など縁がなく、一部の大夫(貴族)が、所持している程度であったのだ。
中には渋る者もあったが、占いがすべてと信じられていた当時の習わしにおいて、誰も神託に背くことはできなかった。
月読は、その場で若い男を数名指名し、宝石を詰めた包みを担がせ、先頭に立って山奥の沼へと向かった。
龍の湖と呼ばれるその沼は、林の中にひっそりとたたずみ、邪馬台の守り神である龍が住む神聖な場所として、日頃から民たちに信仰されている場所だった。
一行は、激しく降る雨の中、這うようにして山を登り、ようやく龍の湖にたどり着いた。
しかし月読は、休む間もなく湖畔に立つと、沼の中央部を指差して静かに言った。
「中のものをすべて沼の底へ沈めよ」
ためらう男たちの包みから、少年は一掴みの宝石を取り出すと、惜しげも無く沼へ向かって投げ入れた。
金の首飾りや、翡翠の勾玉が、音を立て、水面に波紋を浮かび上がらせて暗い水中へと消えていった。
月読の行動に続いて、男たちもすべての宝石を沼へと投げ入れていった。
これが、卑弥呼の最後の神託へ対する彼なりの解釈であった。
そしてそれが誤りでなかったことは、翌朝の太陽が証明してくれた。
「姉上の葬儀を行わない?」
「御意」
「なぜだ?」
月読は食いつくように難升米を睨みつけた。
闇夜の中で松明の炎に照らし出された難升米の顔は、揺るぎもせずにまっすぐ美しい少年に向けられている。
豪雨により、地を覆っていた水もようやく引き、邪馬台全体が落ち着きを取り戻した頃、民衆の要望によって、卑弥呼へ対する感謝祭が執り行われた。
顔や手足に文様を描き、五色の衣を身にまとった娘たちが火を囲んで舞っている。
そんな様子を見下ろす席で、月読と難升米は、しばらく無言で睨み合っていた。
「この……」
先に沈黙を破ったのは、難升米だった。
「この女王を敬愛しきっている民たちに、大王の死を宣告できましょうか」
もともと民たちから信望を集めていた卑弥呼の神託は、今回の件で絶対的なものとなった。
誰もが、彼らを危機から救った女王に、絶大な信頼と、感謝の念を抱いていた。
踊りに陶酔し、卑弥呼の名を叫ぶ者もいる。
人々の意識は、女王を中心に、今までになく堅固にまとまりつつあるのだ。
ここで女王の死を明らかにすれば、それらは一気に崩れ、いかなる混乱をも呼び起こしかねない。
「しかし……」
すべてを理解した上で、月読は納得しきれずにいた。
何十年も民達のために尽くし、死んでいった姉が、葬式さえあげられずに葬られることが耐えられなかったのである。
「姉上があまりにおかわいそうだ。民達にも嘘をつくことになる」
悲しげな表情で唇を噛む月読の顔を覗き込みながら、難升米は小声で言った。
「状態がもう少し安定してから、改めて葬儀を行えばよろしいでしょう。今はただ、この民達がまとまった状態を保つことです」
「女王の死を、隠し仰せることなどできるのだろうか」
「あなたが卑弥呼様におなりなさい」
月読は、手にしていた盃を、思わず落とした。
白く濁った酒が、麻の敷物に染みをつくる。
「姉上に……? 私が……?」
冗談かと笑い飛ばそうとしたが、揺らぐことなく月読をまっすぐ見つめる難升米の目は、真剣そのものだった。
あまりのことに、少年の心は激しく動揺し始める。
「……恐れ多いことだ……」
「何を申されます。倭国を統一することが、大王の望みだったはず。それが今、実現しかかっているのではありませぬか。この時を逃す手はありませぬ」
確かに、金印を手にし、邪馬台国の民達が、卑弥呼のもとでひとつになっている今、戦の無い平和な時代が目の前にある。
しかし、難升米が言うようなことが、現実に可能だとはとても思えなかった。
「大丈夫。あなた様なら、立派にこの国を治められましょう。ただ今は時を待つとき。しばらくしてその時がくれば、改めて月読大王として君臨されればよろしいでしょう」
難升米の鋭いまなざしに、月読は完全に呑まれていた。
若干十四歳。
自分がどうするべきか判断するには、少年はあまりに若く、事は重大であった。
何もかもがあまりに突然で、心の整理もできないままの月読にとって、難升米は最後に残された唯一の頼れる人物だった。
(今はただ、この男についていこう)
月読は決意を固め、なれない酒を一気に喉へ流し込んだ。
その白い横顔を見つめる難升米の口元が、微かに笑みを浮かべていることに、少年はまるで気付かなかった。
敵味方を見極めるのにもまた、少年はあまりに幼すぎたのである。
人々の踊りは次第に激しさを増してゆき、最高潮を迎えたころ、夜がしらじらと明けはじめた。
踊り疲れ、広場の至る所で眠りにつき始めた人々の顔を、優しい朝の光が少しずつ縁取っていった。
朝霧の中に、死んだように横たわる老若男女の寝息だけが、ひっそりと響いていた。
さっきまでのにぎわいが嘘のように、静かな静かな夜明けの場面であった。
月読は雨と風の音に寝付けず、しとねの中で寝返りを繰り返していた。
不意に引き戸が開き、小さな影が月読を見つめた。
「壹与?どうしたの?」
「雨と風の音が怖くて眠れないの……」
壹与はぬれた髪から雫を落としながら、恐怖と寒さに歯を小刻みに鳴らせて立っている。
棟違いの自分の寝所から、心細さをこらえきれず雨の中を走ってきたのだろう。
「かわいそうに。入っておいで。そのままでは風邪をひく」
「うん!」
それまで遠慮をしてか、戸口に突っ立っていた壹与は、月読の言葉に弾かれたように寝所へ飛び込んできた。
月読は木綿の手拭で、子犬の毛を乾かすように、わざと荒っぽく壹与のぬれた髪を拭き始めた。
壹与は幼い少女らしく、きゃっきゃっと声をあげて喜ぶ。
その無邪気な笑顔を見て、月読は少しほっとした。
……が、突然、壹与の目がすっと細くなり、頬の赤らみが瞬時に消えた。
「壹与?」
壹与の異変に気づいた月読が声を掛けると、壹与は両手で耳を塞ぎ、青ざめた表情で床板の一点を見つめた。
「月読、女大王様が祈りに入ったよ」
「え?」
「この嵐は長く続いて、田畑や家がたくさん流されてしまう」
尋常ではない壹与の様子と言葉に、月読の顔もまた、色を失っていた。
壹与の言葉どおり、嵐はとどまるところを知らず、洪水と土砂崩れによる被害が各地で相次いだ。
寝ず食わずの卑弥呼の祈祷も、七日目に突入していた。
指を組み、一心に神の声を求める卑弥呼の顔は、頬がこけ、乱れた髪が六日間の疲れを表している。
不安気に女王を見守る月読も、条件は同じである。
そろそろ体力の限界を感じ始めていた。
「姉上!」
ふっとよろめいた姉の体を、咄嗟に少年の細い腕が支えた。
「姉上、少しは休まれないと、御身がもちますまい」
休息をすすめる弟の言葉に、大王は力強く答えて首を左右に大きく振った。
「否!こうしている間にも、人が死に、子が泣いています。私には民を守らねばならぬ使命がある!」
体は支え無しでは立っていられぬほど衰弱しながらも、口調は女王としての威厳を損なってはいなかった。
「もう少し、もう少しで神の声が聞こえそうなのです。」
「姉上……」
月読は、姉の並々ならぬ気迫に、それ以上何の言葉も出なかった。
今の卑弥呼に何を言っても無駄だろう。
巫女として、大王として、民を守るため、その身が滅びても神の声を求めて祈り続ける覚悟なのだ。
そして、月読の頭の中ではこの六日間、この雨が降り出した夜の壹与の言葉が、何度も波のように打ち寄せていた。
『月読、大王様の背中に……死相が見えるよ!』
『なんだって?』
『卑弥呼様が死んじゃうよー!』
瞬間、月読の目に、大きく翻る白い衣が映った。
貫頭衣を身にまとった卑弥呼の体が、彼の目の前で前のめりに崩れてゆく。
ガターン!
月読ははじめ、幻覚だと思った。
しかし、崩れながら卑弥呼が倒した松明の火が、その装束に燃え移り、赤い炎を吹き出したとき、彼はようやく、その恐ろしい現実に気がついた。
「姉上!」
炎に包まれた姉に駆け寄ろうとする月読の体を、何者かが背後から押さえつけた。
「月読様、なりませぬ!」
「とめるな難升米!はなせ!」
「はなせませぬ!」
難升米の太く、力強い腕に抑えられ、少年のきゃしゃな手足は、むなしく空をつかみ、宙を蹴った。
それは目を覆いたくなるような、恐ろしい光景であった。
卑弥呼の豊かな黒髪が、ちりちりと音をたて、白い肌は赤い炎の向こうで黒くなりつつあった。
卑弥呼はうつ伏せに倒れたまま微動だにしない。
声ひとつあげない。
月読は、難升米に後ろ手に抑えられながら、足下に横たわる姉から目を離せないでいた。
一瞬でも早く、視界から外したいと思いながらも、その二つの大きな目は、姉を包んだ炎をまばたきもせずに見つめていたのである。
どれだけ時が経ったのであろうか。
月読には長くもあり、短くもある時間であった。
ただ、あえて言うのならば、人の形をした炭ができるのに要するだけの時間が過ぎたのである。
そして今、呆然と立ち尽くす月読から手を離し、祭壇にあった神事用の水を、黒い塊にかける難升米の姿があった。
水をかけられ、大王の体はぶすぶすと音を立て、白く臭う蒸気を吹き出した。
「姉上……」
少年はさっきから幾度となく、そうつぶやき続けていた。
彼にとっては、あまりに惨い肉親の死であった。
生まれてすぐに両親を失った月読にとっては、まさに親代わりの姉であったのだ。
睫の長い大きな瞳から、熱いものが幾筋も流れ出し、こぼれ落ちた涙は、女王の体に届いて蒸気に変わった。
外では相変わらず激しい雨が、地に降り注いでいる。
「……龍玉を……放て……」
難升米の柄杓を持つ手が、ぴたりと止まった。
「……龍玉を……放て……」
「……ばかな……」
押し殺され、しゃがれたものではあったが、それは確かに女の、卑弥呼の声であった。
たじろぐ難升米を押しのけて、月読は大王の口らしき処に耳を寄せた。
「天龍、龍玉を求めたり……」
声はまぎれも無く、女王の体から聞こえていた。
「……ばかな……」
同じ言葉を繰り返し、難升米はその場にへたり込んだ。
「龍玉、水面に輪をつくりたり」
「……わかったぞ」
黙ってその小さな声に耳を傾けていた月読は、そう言っておもむろに立ち上がると、神殿から飛び出した。
豪雨が目に入るのも、はねた泥水で衣が汚れるのも、まるで気にもとめず、ただ広場に面した丘を目指して走った。
「聞けー!」
声変わりしきっていない少年の透る声が、雨音に混じって人々の耳に届いた。
わらわらとそれぞれの家から現れた民たちは、すがるような目で、雨に濡れた丘の上の少年を見上げた。
「たった今、神託がくだったぞ!」
「おー!」
人々の間に、一瞬尻上がりのどよめきが起こった。
そんな彼らの膝高まで、濁った水は達している。
「各自、宝石類をここへ持ち寄れ!すべてだ!」
「すべて……」
再びどよめきが起こった。
「命にはかえられまい」
月読の目が鋭く光った。
その目は、さっきの姉の死を哀しむ少年のものではなく、使命に燃える審神者としてのそれであった。
丘の上に金銀財宝の山ができるまで、さして時間はいらなかった。
もともと庶民には宝石など縁がなく、一部の大夫(貴族)が、所持している程度であったのだ。
中には渋る者もあったが、占いがすべてと信じられていた当時の習わしにおいて、誰も神託に背くことはできなかった。
月読は、その場で若い男を数名指名し、宝石を詰めた包みを担がせ、先頭に立って山奥の沼へと向かった。
龍の湖と呼ばれるその沼は、林の中にひっそりとたたずみ、邪馬台の守り神である龍が住む神聖な場所として、日頃から民たちに信仰されている場所だった。
一行は、激しく降る雨の中、這うようにして山を登り、ようやく龍の湖にたどり着いた。
しかし月読は、休む間もなく湖畔に立つと、沼の中央部を指差して静かに言った。
「中のものをすべて沼の底へ沈めよ」
ためらう男たちの包みから、少年は一掴みの宝石を取り出すと、惜しげも無く沼へ向かって投げ入れた。
金の首飾りや、翡翠の勾玉が、音を立て、水面に波紋を浮かび上がらせて暗い水中へと消えていった。
月読の行動に続いて、男たちもすべての宝石を沼へと投げ入れていった。
これが、卑弥呼の最後の神託へ対する彼なりの解釈であった。
そしてそれが誤りでなかったことは、翌朝の太陽が証明してくれた。
「姉上の葬儀を行わない?」
「御意」
「なぜだ?」
月読は食いつくように難升米を睨みつけた。
闇夜の中で松明の炎に照らし出された難升米の顔は、揺るぎもせずにまっすぐ美しい少年に向けられている。
豪雨により、地を覆っていた水もようやく引き、邪馬台全体が落ち着きを取り戻した頃、民衆の要望によって、卑弥呼へ対する感謝祭が執り行われた。
顔や手足に文様を描き、五色の衣を身にまとった娘たちが火を囲んで舞っている。
そんな様子を見下ろす席で、月読と難升米は、しばらく無言で睨み合っていた。
「この……」
先に沈黙を破ったのは、難升米だった。
「この女王を敬愛しきっている民たちに、大王の死を宣告できましょうか」
もともと民たちから信望を集めていた卑弥呼の神託は、今回の件で絶対的なものとなった。
誰もが、彼らを危機から救った女王に、絶大な信頼と、感謝の念を抱いていた。
踊りに陶酔し、卑弥呼の名を叫ぶ者もいる。
人々の意識は、女王を中心に、今までになく堅固にまとまりつつあるのだ。
ここで女王の死を明らかにすれば、それらは一気に崩れ、いかなる混乱をも呼び起こしかねない。
「しかし……」
すべてを理解した上で、月読は納得しきれずにいた。
何十年も民達のために尽くし、死んでいった姉が、葬式さえあげられずに葬られることが耐えられなかったのである。
「姉上があまりにおかわいそうだ。民達にも嘘をつくことになる」
悲しげな表情で唇を噛む月読の顔を覗き込みながら、難升米は小声で言った。
「状態がもう少し安定してから、改めて葬儀を行えばよろしいでしょう。今はただ、この民達がまとまった状態を保つことです」
「女王の死を、隠し仰せることなどできるのだろうか」
「あなたが卑弥呼様におなりなさい」
月読は、手にしていた盃を、思わず落とした。
白く濁った酒が、麻の敷物に染みをつくる。
「姉上に……? 私が……?」
冗談かと笑い飛ばそうとしたが、揺らぐことなく月読をまっすぐ見つめる難升米の目は、真剣そのものだった。
あまりのことに、少年の心は激しく動揺し始める。
「……恐れ多いことだ……」
「何を申されます。倭国を統一することが、大王の望みだったはず。それが今、実現しかかっているのではありませぬか。この時を逃す手はありませぬ」
確かに、金印を手にし、邪馬台国の民達が、卑弥呼のもとでひとつになっている今、戦の無い平和な時代が目の前にある。
しかし、難升米が言うようなことが、現実に可能だとはとても思えなかった。
「大丈夫。あなた様なら、立派にこの国を治められましょう。ただ今は時を待つとき。しばらくしてその時がくれば、改めて月読大王として君臨されればよろしいでしょう」
難升米の鋭いまなざしに、月読は完全に呑まれていた。
若干十四歳。
自分がどうするべきか判断するには、少年はあまりに若く、事は重大であった。
何もかもがあまりに突然で、心の整理もできないままの月読にとって、難升米は最後に残された唯一の頼れる人物だった。
(今はただ、この男についていこう)
月読は決意を固め、なれない酒を一気に喉へ流し込んだ。
その白い横顔を見つめる難升米の口元が、微かに笑みを浮かべていることに、少年はまるで気付かなかった。
敵味方を見極めるのにもまた、少年はあまりに幼すぎたのである。
人々の踊りは次第に激しさを増してゆき、最高潮を迎えたころ、夜がしらじらと明けはじめた。
踊り疲れ、広場の至る所で眠りにつき始めた人々の顔を、優しい朝の光が少しずつ縁取っていった。
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