ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第二章

第二話 神の血

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 夕刻、邪馬台国を後にした月読つくよみとその共の一行は、山間を抜けて、西へと続く川沿いの道を歩いていた。
 四十人あまりの小さな行軍は、緩やかに蛇行しながら続く坂道を、少し急ぎ足で前進していた。
 人目に付かない夜のうちに、隣国に到着するつもりだったのだ。
 難升米なしめの策略により、国を追われ、罪人とされたままの月読の姿を、通りがかった民が見て、騒ぎにならないよう考慮したのだ。
 松明たいまつも持たない暗闇での旅は、不自由かと思われたが、幸いこの夜は満月で、木々の間から優しくこぼれる月明かりが、彼らの足元をうっすらと照らし、旅は順調に進んだ。
 東の空が白々と明るくなり始めた頃、彼らは峠近くの、見晴らしのいい高台に辿り着いた。
 ここから先は、月読の姉が嫁ぎ、壹与が生まれた大国、河内国かわちこくとなる。



「美しいな……」

 月読は思わず立ち止まり、朝霧に煙る眼下の光景に感嘆の声をあげた。
 彼らの背後からゆっくりと太陽の光が注ぎ始め、山並みが広大な大地に長い影を描き始めた。
 それと同時に、平野の北側に静かに横たわる巨大な湖と、その向こうに広がる海が、朝日を水面の光に替えて輝き始めた。
 もう、漁師達は、出港する時刻のようだ。
 湖の至る所で、大小の船の白い帆が、ゆっくりと沖を目指して動き始める様子が見て取れた。
 朝餉あさげの支度も始まったのか、処々点在する集落の住居からは、かまどの煙も立ち上り始めた。

 「この国の王には、あなたがいらっしゃることを伝えるため、既に使者を送ってあります。邪馬台に忠誠を誓っている国ですし、歓迎してくれるはずですよ。」

 牛利ぎゅうりが湖畔に建つ王の住む宮殿らしき建物を指差しながら言った。
 その用意の周到さに、月読は再び疑問を感じた。

「お前は魏の密使なのか?」

 月読は常々思っていた事を尋ねてみた。
 難升米の屋敷での戦いまでの経緯といい、共に戦い、今また共に旅をしている手練の男達といい、まるで以前から計画されていたかのような準備のよさに、彼は違和感を感じていたのだ。
 難升米の護衛をしていた牛利のもとに、自分に味方する者が集まるなど考えにくく、何か大きな力が働いている気がしていた。
 そして、考えられるとすれば、それは魏の存在であったのだ。

「まあ、密使というより、その協力者ですね」

 観念したように牛利は吐露した。

「魏から来た張政という役人がおりましたでしょう。あの者に協力して、難升米の動きを見張っていたのです。あのような欲が深く、忠誠心のない男が大王になれば、魏にとっても利が無いですからね。そのため、いつかは奴を討つつもりで、密かに兵を集めて鍛えておったのです」

 月読は、ようやく胸に支えていたものが流れ落ちた気がしたが、新たな疑問が浮かんできた。

「ではなぜ、姉上が亡くなられたあと、奴に好きにさせていたのだ」

「あなたや壹与いよ様が成長される時間が欲しかったのです。あなたが卑弥呼様の身替わりとなり、難升米に王位が移ることはありませんでしたから」

「すべて、お前達の計画通り……という訳か」

 月読は、少し面白く無さそうな表情で、吐き捨てるようにつぶやいた。
 何も知らずに難升米に踊らされている自分は、この男の目には、いかにも滑稽に映っていたに違いない。

「そこまで見通していたのなら……」

 言いかけた言葉を、月読は飲み込んだ。
 それなら自分と宇多子の結婚を阻止できなかったのか。
 そうすれば、彼女が命を落とす事もなかったのではと思ったのだ。
 しかし、それは自分の至らなさゆえのことであり、牛利を責めるのは筋違いだと思い直した。
 そんな月読の心を知ってか知らずか、牛利は白い歯を見せて笑うと、一歩前に出て山道を下りはじめた。

「そんなお前達の支える者が、なぜ私なのだろう」

 このような頼りがいのない自分に、味方する者がいる理由が理解できなかったのだ。
 もしかすると、今度は倭国の領有を目論む魏に利用されようとしているのかもしれないと、月読はいぶかし気な目で、前を歩く牛利の背中を見つめた。

「確かに危なっかしいご主人様です。すぐ人を信用されるのに、私の事はいつまでも疑っていらっしゃる」

 立ち止まって振り向いた牛利は、険しい山道を下る月読の足元に目を配りながら苦笑した。
 心を見透かされて、月読はばつが悪そうに、大男から目を逸らした。

「それでも、誰もがあなたを護って差し上げたいと思うのです。何人にも心を開かれなかった卑弥呼様も、あなたのことは、我が子のように見守っておられた。壹与様は勿論、難升米の娘である宇多子様でさえ、あなたの命を救おうとした。そういう星のもとに生まれた方なのでしょう。あなたは」

 牛利の話に、そばに居た共の者達も、微笑みながらうなづいた。

「我々は、あなたをお護りするためだけに、心を合わせてここに居るのです。仮にあなたがおられなければ、瞬時にばらけてしまうでしょう。同様に、この国も、あなた無しではひとつにまとまるとは思えません。うまく説明できませんが、それが神の末裔と言われる、王家の血が持つ力なのかもしれません」

 いつになく真剣なまなざしを月読に向けて、牛利はそう語った。 
  
 



「こたびは大変な目に合われましたな」

 河内国の王は、盃を傾けながら、月読に語りかけた。
 牛利の言うとおり、使者が既に事情を説明してくれたらしく、月読達は王からの歓迎を受け、豪華な食事を振る舞われた。
 邪馬台を出てから、まともな食事をとっていなかった一行は、久々に思う存分胃を満たすことができた。

「しかし何も、月読様ご自身が赴かなくても……。難升米の策略であったと説明すれば、民達もわかってくれたはずでしょう」

 壹与の父である王は、首を傾げて問いかけた。
 年齢は既に初老を迎えていたが、精悍さの感じられる、立ち居姿の美しい王だった。

「理由はどうあれ、民を欺いていたことは事実です。倭国統一の障害となっている狗奴国くなこくを打ち落とし、その地で朝廷を造り、凱旋することで民に許しを乞うつもりです」

 月読は、まっすぐな視線を王に向け、はっきりとした口調で語った。

「私も噂に聞いて、朝廷という政に興味があります。巫女の占いに頼るやり方は、もはや時代遅れなのかもしれません。新しい時代を迎えるための戦となれば、喜んで協力致しましょう」

 河内王は、そう言って側にいた男に手をあげ合図を送った。
 男は音も無く一旦退室すると、しばらくして、紫の布に包まれた太刀らしきものを、大事そうに掲げてきた。
 王はそれを手にすると、布越しに鞘を掴み、もう一方の手で柄を握ると、刃を引き抜いた。
 そしてそれを垂直に持って、月読に差し出した。

「これは……」

 月読は太刀を受け取ると、左手を添えて目の前に水平に持ち、その刃を見つめた。
 月読が腰に挿している銅剣に比べて軽く感じられ、鈍色に光る刀身には、波のような美しい模様が浮かび上がっていた。

「これは鉄の剣です。新羅しらぎ鍛冶かじを連れて来て、この地で打たせました。これをあなたに差し上げましょう。あなたの兵にも」

 鉄の剣は、銅剣に比べて軽く、堅く、切れ味がよいとされ、これを武器としている狗奴国兵は圧倒的な殺傷力で周辺諸国を制圧していると言われている。
 しかしまだ倭国では製鉄技術が確立されておらず、輸入品に頼っている状態で、手に入れるには時間も費用も掛かっていた。
 その点では、朝鮮半島に近い狗奴国に比べ、邪馬台国周辺諸国ではまだ希少であったのだ。
 それが、この地で作られるようになると、状況は一変する可能性がある。

「決戦のその日までに、なるべく多くの太刀を用意しておきましょう。勿論、強力な兵と共に」

 月読は剣を一旦鞘に納め、丁寧に傍らに置くと、両手を前につき、額を床につけて感謝の意を示した。

「……あの子は……」

 不意に王は、それまでと異なり、少し濁した口調になった。

「壹与は、間もなく邪馬台国の大王になるそうですね。あの歳で……」

 その目は娘を案じる父の顔になっていた。

「幼くとも壹与は優秀な巫女です。これまでも邪馬台のために神託を受けてきてくれました。力となる者もそばに数多くおりますし、魏の金印も守ってくれるでしょう」

 月読は、半ば自分自身に言い聞かせるように言った。
 彼自身も、重責を残し、幼い少女をひとり置いてきたことに胸を痛めていたのだ。

「しかし、あなた様に助けを求めて来た時には、隣国王として力になってやっていただけませぬか」

 月読の問いかけに、王は何度も深く頭を上下に振った。

「あの子にはかわいそうな事をしました。甘えたい盛りに母に甘えることもできず、この国から追い出すようなことになってしまって」

 月読の姉であり、壹与の母である姉姫えひめが病で亡くなり、河内王が、新しく妻を迎えることで、先妻の子であった壹与は、居場所を失った。
 そしてある日、姉姫の死を知らせる使者と共に、忘れ形見としてやって来た壹与を見た卑弥呼が、少女の霊能力に目をつけ、そのまま邪馬台国に留め置いたのだ。
 居場所を失ったとは言え、邪馬台国王家の血を引く娘は、いずれ、この国にとって価値のある結婚もできたはずだ。
 王としては手放すつもりはなかったであろうが、忠誠を誓う邪馬台国の大王の決めた事には、逆らえなかったのであろう。

「しかし私もこの国の王。新しく妻をめとって、ひとりでも多く、子を残す使命があったのです。勿論、姉姫のことは愛していましたが、この国を守るために、この血を絶やすわけにはいかないのです」

「……」

「あなた様も、先日妃を亡くされたとか。しかし、その血を絶やしてはなりませぬ。あなた様の血は私のそれよりよっぽど尊い。私には側女そばめとの間にできた年頃の娘がおります。あなた様への忠誠の印に、もらって下さらぬか」


 月読は、宮殿の欄干に置いた腕に顔をうずめ、湖面を撫でてやって来る生暖かい風を感じていた。
 闇の中の湖は、昼間の輝きとうってかわり、真っ黒に澱んで見えた。

「月読様、どうかされましたか?」

 背後から牛利が声をかけ、月読の隣に並んで黒い湖に目を向けた。
 その夜は、王が月読のために、盛大な宴を催してくれたのだ。
 牛利は、そんな宴席からいつの間にか姿を消した彼を探して来たのだ。
 月読は湖を見つめたまま、小さくつぶやいた。

「お前は、妻はめとらぬのか?」

 月読の問いかけに、牛利は少し間をおいて応えた。

「私は結婚はいたしませぬ」

「なぜだ?」

「家族などいると、命が惜しくなります」

 月読は、思わず身を起こし、大男の顔を見上げた。

「私はあなたを護るためなら、いつでも盾になるつもりでいます。その覚悟がなくては私が私でなくなります」

「なぜそこまで……」

「言ったでしょう。あなた無しでは倭国はまとまりませぬ。この国を守るために、あなたを護るのです」

 月読には、どうしても、自分の存在にそんなに価値があるとは思えなかった。

「あなたがもしこの世を去れば、その子を、孫を、人々は崇めていくでしょう。そうして脈々とその血が受け継がれていくことで、この国の人々の心は安泰し続けていくのです」

「……」

「ですからあなたは私とは逆に、家族を、愛する人を数多くお作りください。何としても生き延びたいと思えるように。そして、その血を絶やさぬように。神の子孫である王家直系の血を持つお方は、もうあなたしかいないのですから」




 牛利を宴の席に戻し、ひとり再び湖を眺めていた月読は、懐から宇多子の櫛を取り出し、見つめた。
 一度はそれを湖に投げ入れようと、握った手を振り上げたが、思い止まりゆっくりと腕を下ろした。
 そしてその櫛を美豆良みずらに結った髪に挿すと、河内王の媛が待つ部屋へと向かって行った。
 
 



「月読様が、河内国の言葉媛ことのはひめを妻に迎えられたそうでございます」

「……そう……」

 張政ちょうせいの報告を、壹与は顔色を変えずに受け止めた。
 壹与の傍らでその様子を見ていた男鹿おがは、立ち上がり、祈祷の間を後にする張政を追った。
 回廊に出ると、張政は立ち止まり、少年に向き合った。

「何も今ご報告申し上げなくても……」

 男鹿は、責めるような視線を異国の男に向けた。
 月読への想いから、神の声が聞こえなくなった壹与の気持ちを考えると、愛する人の結婚の報告など、惨いことに思えたのだ。

「おぬしは、何からあの方を護ろうとしているのじゃ」

「……」

「黙っていてもいずれわかる事。そしてこれから月読様は、各地で妻を得て行くであろう。血縁で国同士の結びつきを固め、跡継ぎをもうけていくこと、それがあの方の使命でもあるのじゃ。そのたびに、そのように壹与様に現実に向き合わせないつもりか」

 張政はいつになく厳しい口調でそう言うと、少年に背を向けて去って行った。




 男鹿が祈祷の間へ戻ると、壹与は声を押し殺しながら、口元に手を当てて泣いていた。

「私には何年思い続けても手の届かない方なのに、お姉様は昨日今日の出会いで妻になれるのね」

 河内国王の媛ということは、壹与の異母姉となる。
 見ず知らずの女が月読の妻になるより、少女の心は大きく乱れていた。
 男鹿は掛ける言葉も見つからず、少女の傍らに腰をおろし、いたわるように、無言でその泣き顔を見つめていた。
 不意に、壹与が男鹿の胸に飛び込んで来た。
 男鹿は驚き、広げた両手の行き場に迷った。

「お願い。今だけこうしてて」

 壹与は、男鹿の背中に回した手で、彼の衣を強く握りしめた。
 あの夜、不安な心を優しく受け止めてくれた腕に、もう一度甘えたい気持ちになったのだ。
 しばらく動きが固まっていた男鹿も、戸惑いながら両手で少女の体を包み込んだ。

「私でよろしければ、いつでも胸をお貸しします」

 壹与は、腕に一層力を込めて泣いた。
 男鹿も、力強く少女を抱きしめた。
 この時、届かない想いを抱え続ける切なさは、彼が誰よりもよくわかっていた。





 それからしばらくして、壹与は邪馬台国の女大王に即位し、同時に、男鹿は女王の審神者さにわに任命された。
 その際、下衆のままでは民の同意を得られないとのことで、大夫たいふ(貴族)の身分が男鹿に与えられた。
 髪を整え、真新しい衣を纏った男鹿は、審神者にふさわしい品格と美しさを兼ね備えていた。
 彼は、就任の日、神殿から地上へ延びる階段の頂上に立ち、集まった民達に向かい、遠くまで届く張りのある声で語った。

 「我は女大王ひめのおおきみ壹与様の審神者男鹿。前審神者まえのさにわ月読命つくよみのみこと様は、神託により、南へ旅立たれた。いずれ、宿敵狗奴国を倒し、倭国の大王おおきみとなってお帰りになられるであろう。その日まで、私が女大王の神託を皆に伝える」

 若き審神者の言葉を、民達は息を殺して聞き入っていた。
 月読が難升米の策略によって、国を追われたことは、人々の間ではもう周知の事であった。
 しかし、難升米の言葉に惑わされ、神の末裔とされる月読にひどい仕打ちをしたことを、人々は悔やみ、神の怒りに触れないかと恐れていたのだ。
 そのため、月読が、倭国を統一していずれ戻って来るとの神託に、誰もが安堵の表情を見せたのだった。

「女大王様の即位に際し、早速神託があった。国民総出で前女大王卑弥呼様の墓を作るようにと。神が求めているのは、ただの墓ではない。山のようにそびえ立つ墓である。それにより、お前達の皇子への無礼を許し、邪馬台を安泰へ導くと」

 勿論、これも神託ではなかった。
 幼い壹与を大王とする事への内外の不安を払拭するため、大事業を行い、権威を誇示しようと、張政が画策したことであった。
 山をひとつ作るなど、当時では誰も想像できない壮大な計画であった。
 だからこそ、人智を超えた神の言葉であるとの信憑性が高まったのだ。
 男鹿の語る神託を信じ、ひれ伏する民達を前に、少年はもう、後には戻れないと感じていた。
 神の言葉を偽り、民達に発してしまった。
 しかし後悔はなかった。
 彼の背後の御簾みすの陰には、壹与がいた。
 彼女もまた、後戻りできないことを悟っていた。
 でも、すべてを背負って前に立っている少年の背中を見ていると、不思議なほど心は穏やかだった。
 神への背徳と、報われない想いを、それぞれ抱えた二人は、幼いながらも少しずつ、強い絆を築きつつあったのだった。
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