ラスト・シャーマン

長緒 鬼無里

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第二章

第三話 守れなかったもの

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 月読つくよみ達一行は、しばらく河内国かわちこくへ滞在することとなった。
 河内王が、鉄の剣を彼の率いる兵達全員に用意するには、時間を要したからだ。
 旅を急ぎたい気持ちはあったが、少しでも戦いを有利にするために、鉄の剣は不可欠と判断したのだ。
 また、王は月読のために新しい船も造り始めてくれた。
 大陸からまだ馬が持ち込まれていなかったこの当時、狗奴国くなこくへの旅は、海を航行していくことが、陸路を行くよりも、時間的にも、兵士の体力温存のためにも、最も合理的であったのだ。
 河内王がここまでしてくれるには、月読と言葉媛ことのはひめとの結婚で、血縁関係になったことも大きかったが、女大王ひめのおおきみとして、幼くして大国を背負うことになった娘壹与いよを、倭国統一によって、早く解放してやりたいとの父親としての思いもあった。
 そして、これらの恩に対し、月読は、狗奴国への道すがら、出雲いずもの国に立ち寄り、鉄の材料であるはがねを仕入れる道筋を確保してくる事を約束したのだった。
 当時の倭国内において、出雲の国に住む渡来人が、唯一優れた鋼の生成技術を持っていた。
 現状は海外から仕入れている鋼を、国内で調達できれば、剣のみならず、農具なども短期間で安く作る事ができ、農作業の効率も格段に上がる。
 また、それらを売ることで、河内国も潤うはずなのだ。



 旅立つまでの間、月読の兵達は、大雨のたびに氾濫する河内湖の、排水用水路の掘削工事に汗を流した。
 それには、魏で土木技術を学んできたという牛利ぎゅうりが中心となって動いた。
 勿論、この国でも、大雨時は巫女の祈祷に頼るのが当然だったが、知恵によって災害を最小限に抑えることができるということが、少しずつ民達にも理解されていった。


 その日、工事の進み具合を確認するために、現場を訪れた月読の目に、見知らぬ男と語り合う牛利の姿が映った。
 肩を叩き合って、笑顔を交わす様子から、旧友と久しぶりに会った様子だった。
 月読が牛利の背後から近付くと、男の話す内容が聞き取れた。

「その後、許嫁いいなずけとは添遂げられたのか?」

 思わず月読は足を止めた。

「いや、あの方とは結ばれなかったよ」

「さすがに十年は待てなんだか」

 苦笑しながら男から目を逸らした牛利の視界に、月読の姿が入った。
 牛利は、一瞬驚いた表情を見せたが、男の方を向き直って言った。

「おい、頭が高いぞ。このお方は邪馬台国の皇子、月読命様だぞ」

 それを聞いて男は、慌ててひれ伏し、月読に深く頭を下げた。



「あの者は、魏に居た頃、張政ちょうせいから共に魏の学問を学んだ仲間です。旅の途中、偶然ここを通りがかったそうです」

 牛利は、月読に目を合わさずに淡々と語った。

「許嫁がいたのか」

「……」

「お前は結婚はしないと言っていたが」

 月読は、牛利には何か深い事情があると感じていた。

「よければ話してくれぬか。家臣のことを知りたいと思うのは、あるじとして当然であろう?」

 牛利は、しばらく唇を噛み締め、視線を外し、眉間に皺を寄せていたが、意を決したように、月読の方へ向き直った。

「私の許嫁は、男鹿おがの姉です。彼女は難升米なしめによって命を落としました」




 牛利は、難升米の母の実家である豪族の家に生まれた。
 彼の家は代々、邪馬台国の南の端で、山際の小さな集落を治めていた。
 その集落と川を挟んだ集落を治めていた豪族が、男鹿の実家であった。
 二つの家は互いに交流し合い、牛利と、男鹿の姉である弥鈴みすずは、親同士が許嫁と決め、本人達も、将来夫婦になることが自然なことであると思い育った。



 ところがある日、難升米が卑弥呼から魏へ赴く事を命じられ、身内の中でも腕の立つ牛利は、護衛として同行するよう要請を受けたのだ。
 当初は、魏の皇帝へ卑弥呼の言葉を届ければ、すぐ帰国できると聞いていたため、帰国後夫婦になることを約束し、牛利は異国へと旅立つこととなった。

「お帰りをお待ちしています」

 幼い頃からずっと側にいた二人にとって、初めての長期間の別れであったが、弥鈴は笑顔で牛利を送り出した。
 まだ少年と少女だった彼らは、口づけだけを交わし、またすぐに会えると信じてその日は別れたのだった。


 しかし、魏の皇帝に謁見し、金印を賜っても、難升米は魏に留まり続けた。
 早々に金印を持ち帰り、卑弥呼の権力を確固たるものにしたくなかったのだ。
 そればかりか、魏と敵対する呉との国境近くに、居を構え、小競り合いがあるたびに、牛利を筆頭にして戦わせ、勝利するたびに皇帝から褒美を受け取る事で、贅沢な暮らしを続けていた。

 日々続く、生きるか死ぬかの戦いの中で、牛利は弥鈴に会える日だけを心の支えに生きていた。

「ここで死ぬ訳にはいかぬ」

 その思いが、時には彼を凶暴な殺人鬼に変貌させ、数えきれない数の敵を殺してきたのだ。
 そして、十年経ったある日、ようやく難升米は帰国の途に付くこととなった。
 幼かった月読が成長し、審神者さにわとして民の信頼を集め始めているとの噂を聞き、月読が大王に即位する前に倭国に戻る事にしたのだ。
 帰国後、牛利は、すぐにでも弥鈴のもとへ飛んで行きたかったが、暇をもらえず、焦る気持ちを抑えながら難升米に仕える日々を過ごしていた。



「お前の実家は、山に近かったな」

 ある日、難升米が不意に牛利に尋ねた。
 牛利がうなづくと、難升米は吐き捨てるように言った。

明後日みょうごにち、兎狩りに行く。お前の実家に泊まるゆえ用意しておけ」



 狩りを楽しんだ難升米は、夕刻、共の者達を引き連れて、牛利の実家を訪れた。
 直系でないとはいえ、王家の血を引く難升米を迎えることで、普段高貴な人間を迎える機会の少ない、田舎豪族の牛利の実家は混乱していた。
 そんな中で、牛利は調理場と客間を行き来しながら、酒や料理の指示に忙しく動いていた。

「牛利様」

 不意に背後から懐かしい声が聞こえ、牛利は振り返った。
 酒の入った瓶を抱えて、大人になった弥鈴がそこに居た。
 弥鈴は、大切な客を迎える彼の実家を手伝うため、訪れていたのだ。

「弥鈴……」

「おかえりなさいませ」

 大人になった弥鈴は、しっとりとした色香を帯びた瞳を彼に向けていた。
 この瞬間まで、牛利は、十年もの間弥鈴が待っていてくれているか、心の底では不安に感じていた。
 だが、そのひと言で、彼女が待ち続けてくれていたことを悟り、一層愛しさが込み上げて来た。
 しかしまずは、客人をもてなすことが先決と、難升米が眠りについたあと、ゆっくり会おうと約束し、それぞれの持ち場へ戻った。
 弥鈴は酒の瓶を持って、難升米のそばへ赴き、盃に酒を注いだ。
 忙しく動いていた牛利は、難升米の弥鈴へ向けたねっとりとした視線に気が付かなかった。
 その夜、牛利と弥鈴は改めて再会を喜び合った。
 そして、十年振りに口づけを交わし、契りを結んだ。



 数日後、弥鈴の父が難升米のもとへやって来た。
 横に寝そべりながら、難升米は弥鈴の父を睨みつけていた。
 難升米の傍らに座った牛利の目は、萎縮して肩を震わす弥鈴の父に注がれていた。

「わしの望みが聞けぬというか」

「……申し訳ございませぬが、娘には心に決めたお方がおりますゆえ……」

「それは誰かと聞いておる」

「……申し上げられませぬ……」

 牛利の実家を訪れたあと、難升米は弥鈴を側女そばめとして献上するようにと伝えるため、弥鈴の父に使者を送ったのだ。
 牛利と弥鈴の気持ちを知っていた弥鈴の父は、意を決して難升米のもとへ断りを入れに来たのだ。
 王の一族に断りを入れるなど、打ち首も覚悟の行為であった。
 その上、彼は、牛利の名を決して出そうとはしなかった。
 自分の命と引き換えにしても、娘の愛する人を守ろうとしたのだ。
 牛利は心の中で葛藤していた。
 いっそ名乗り出ようかと思いながらも、必死に自分を守ってくれている、弥鈴の父の思いを無にする事もできなかった。

「わかった。そこまでかたくなならば、仕方あるまい」

 難升米は意外にあっさりと、断りを受け入れた。
 弥鈴の父は、一瞬呆気にとられたようだったが、肩を大きく落とし、安堵したようにため息をついた。



 帰路につく弥鈴の父を、牛利は難升米の屋敷の門まで送った。

「早く娘を迎えに来てやってください」

 父は、牛利の手をとって、懇願するように言った。

「娘盛りに縁談を断り、あなた様を待ち続けた娘を、必ず」

「はい。必ず」

 牛利は意志の固い瞳を弥鈴の父に向けた。
 彼は近く難升米のもとを去り、郷へ帰る決心をしていた。
 その目を見て、父は安心したように笑顔を見せて、南へと帰って行った。




 それからしばらく経ったある夜、胸騒ぎがして牛利は目を覚ました。
 深夜の難升米の屋敷の庭を駆け抜け、鎧兜や太刀が納められた武器庫を覗くと、もぬけの殻だった。

「まさか」

 慌てて難升米の兵達が眠っているはずの小屋の扉を開け放ったが、そこに兵士らの姿はなかった。
 次に屋敷の門へ行き、門番を問いつめた。

「おい! 兵たちはどこへ行った?」

「何でも、南の豪族を取り壊しに行くとか」

「なんだって?」

 牛利の顔から一瞬で色が失われた。
 これまでの難升米のやり口を考えると、弥鈴を力ずくで手に入れるため、彼女の家を兵に襲わせるつもりに違いない。
 自分に知らせなかったということは、難升米は弥鈴の相手が自分だと気が付いていたのかもしれない。
 牛利は門番から銅剣を奪い取ると、脇目も振らずに南に向かって走りだした。


 牛利が弥鈴の屋敷に辿り着くと、既に屋敷のあちこちから炎が上がっていた。
 玄関先からおびただしい数の使用人や、護衛の兵達の死体が屋敷の奥へと続いていた。
 牛利は、目の合った難升米の兵士を手当り次第に切り捨てながら、奥へと進んで行った。
 見慣れた座敷に辿り着くと、数人の兵が弥鈴の両親を取り囲み、その胸を剣で突き刺していた。
 牛利は言葉にならない声を上げて、兵達を上下左右に切り裂いた。
 両親の向こうには炎が迫っていた。
 牛利は、弥鈴の父を抱き起こしたが、既に瀕死の状態だった。
 血に染まった手を伸ばして、父はさらに屋敷の奥を指差した。

「……弥鈴が……この……奥に……」

 父は牛利の手を握りしめて、声にならない言葉を目で語った。

(弥鈴を頼みます)

 牛利もその手を強く握り返して、何度も頷き、弥鈴の父は、それを見て安心したような表情を浮かべて息絶えた。
 その体を丁寧に床に置き、立ち上がろうとする牛利の足首を、何者かが掴んだ。
 瞬間に剣を構えたが、それは血だらけで床を這って近寄って来た弥鈴の母であった。
 彼女は、絶え絶えの息で、牛利に訴えかけた。

「……男鹿が……息子が……屋敷のどこかに……」

 弥鈴に歳のはなれた弟がいることは、彼女から聞いていた。
 牛利が魏に渡ってから生まれたと聞いていたので、まだ年端のいかない少年のはずだ。

「わかりました。必ず助け出します」

 牛利がそう答えた次の瞬間、母は口から血を吐き、牛利の足を掴む手から力が失われた。



「弥鈴!」

 牛利は声を張り上げながら、狂ったように太刀を振り回し、片っ端から兵士達を殺めていった。
 兵士の中には、これまで共に戦って来た仲間もいたが、もはや躊躇はなかった。
 屋敷の一番奥の部屋の入り口まで来たとき、二人の兵士が剣を手に襲いかかって来た。
 牛利はそばに倒れていた兵士の死体から剣を奪うと、両手に剣を構えた。
 片手で一人の腹を切り裂き、もう一方の手で、もう一人の首に刃を突き刺した。
 そして、部屋に足を踏み入れた彼が目にしたものは、胸に短剣を突き立て、横たわる弥鈴の姿だった。
 彼女は無理矢理連れ去られるくらいならと、自らの胸を刺したのだ。

「弥鈴!」

 抱き上げると、まだ微かに息があった。
 弱々しい涙に濡れた瞳が牛利の顔に向けられたが、視線が定まらず、意識が朦朧としているようだった。
 しかし一瞬、彼女の視線が牛利の瞳を捕えた。

「……おかえりなさい……」

 消え入りそうな声でそう言って、弥鈴は微笑み、震える血に染まった手で牛利の頬に触れた。
 だが、その手は間もなく彼の頬に血の色の筋を描いて、床に落ちた。

「弥鈴!」

 牛利は動かなくなった女の体を何度も揺さぶり、反応がない事を思い知ると、堅く抱きしめた。
 十年という長い時間、彼を待ち続けてくれた女を守れなかった。
 これまで何百人と殺めてきた牛利であったが、ただ一人の命も守れなかった無力感を、この時心の底から感じていた。


「……ひっ……ひっ……」

 ふと微かにしゃくり上げる子どもの声が耳に入った。

「男鹿か……?」

 部屋の奥を見ると、血しぶきに染まった天幕が、微かに揺れている。
 弥鈴の体を床に寝かせ、剣を再び手に取った牛利は、一気に天幕を捲り上げた。
 そこには震える小さな少年の背中があった。
 少年は、涙で濡れた不安気な瞳を、肩越しに牛利に向けていた。

「来い。お前は何がなんでも生き残るんだ」

 牛利は右手に血の滴る刀を持ち、左の手のひらを少年に向かって差しだした。



 その後、この夜の出来事を咎められ、命も失うかもしれないと覚悟していた牛利であったが、難升米は彼に何の処分も下さなかった。
 難升米の兵を全滅させたのが牛利であることは、薄々気付いていたはずだが、生き残った者がいない以上、何が起こったのか、誰も語る事ができなかったのだ。
 もしくは、牛利ほどの戦闘能力を有した男を手放すのが惜しいと考えたのかもしれない。

 牛利は、男鹿を孤児を拾って来たと言い、小間使いとして難升米の屋敷に住まわした。
 その際、少年には決して自分の出どころを誰にも言わぬよう言い聞かせた。
 そして、時折剣の稽古をつけてやりながら、何度も語りかけたのだった。

「お前の家族の仇は、必ず私が討ってやる」

 大切な者を守れなかった彼にとって、男鹿を守り、彼に代わって仇を討つ事は、罪滅ぼしの意味もあったのだ。



 しばらく経ったある日、牛利に魏の言葉で話しかけてくる者があった。
 長年魏で過ごした彼は、魏の言葉でも不自由無く会話ができた。
 話しかけてきた男は、魏にいた頃、戦いの合間に学問を学んだ張政という名の魏の役人だった。
 牛利達と共に邪馬台にやって来たが、そのまま滞在し続けており、牛利は今でも、時折知恵を借りていた。

「おぬしに見せたいものがある」

 物陰に場所を移すと、張政は懐から紫色の布を取り出した。
 それを手のひらの上で開くと、小さな白く輝く物が現れた。

「……金印? いや、これは…?」

 帰国後、卑弥呼に謁見した際、難升米に代わって金印を献上した牛利には、見覚えのある形状であったが、色が違った。

「これは銀印じゃ。魏の皇帝より、預かって参った」

 張政は素早くそれをまた布で包むと、再び懐に納めた。

「これを難升米に渡そうと思うが、おぬしはどう思う?」

「何ですって?」

 思わず牛利は顔色を変えて、小さく叫んだ。
 先日の嵐の際、卑弥呼が命を落とし、以降月読が女王を偽り政を行っていたが、月読がまだ幼いため、実権は難升米が握っているようなものであったのだ。
 そんな男に魏の後ろ盾を意味する印など与えれば、一層権力を振りかざし、好き勝手するに違いない。

「正直な奴よのう。おぬしは難升米の臣下であろう」

「……」

「よいよい。わかっていておぬしに声をかけたのじゃ」

 張政は微笑みを浮かべて、戸惑いを隠せずにいる大男を見上げた。

「魏の皇帝は、呉との戦いに貢献した難升米に、これを与えようとされた。しかし、どうもあの人物に不信感を抱いておられてな。これを持つのにふさわしい人物であるか見定めて、渡すべきか判断するよう、仰せつかってきたのじゃ。逆に言えば、今後万が一この国の大王になった時、魏に忠誠を誓わない恐れがあると判断した場合、始末しろという事じゃ」

 牛利はごくりと喉を鳴らし、思わず拳を握りしめた。
 張政の口ぶりから、彼の判断は後者に違いないと思ったのだ。
 にわかに難升米に仇を討てる日が近付いた気がして、武者震いがした。
 そんな牛利の様子を見て、張政は落ち着いた様子で語り続けた。

「まあそう慌てるな。今はまだその時期ではない。今難升米を亡き者にしても、月読様も壹与様もまだ幼く、国が乱れる恐れがある。お二人の成長を待ち、その間に密かに強固な兵を用意しておくのじゃ。その大将をおぬしに頼みたい」

 牛利は一瞬落胆したが、彼も復讐を急ぐために国を乱すことは望まなかった。

「その仕事が済めば、次はおぬしに月読様の片腕となって、狗奴国を平定し、魏の政を習った朝廷を開いて欲しい」

「朝廷を……ですか?」

 牛利は、魏で暮らし始めた頃、巫女に頼らない朝廷での政を知ったとき、衝撃を受けたことを思い出した。

「魏の皇帝は、この国の人々の実直さを評価されている。しかし、巫女に頼っている政には不安を感じておられる。巫女の神託次第では、魏への忠誠も反故にされる恐れがあるのでな」

「しかし、この国に魏と同じやり方が通用するでしょうか」

 陸つながりで国がせめぎあう大陸と違い、小さな島国である倭国の民にとって、最大の敵は自然そのものだ。
 だからこそ、万物に神が宿るとし、それを敬うことで救われると信じている。
 そんな人々に神託を捨てる事など、できるのであろうか。

「確かに、この国の民達には、崇め奉る対象が必要のようじゃ。力でものを言わせるよりも、血の尊さに尊敬の念を抱くようじゃしな。だからこそ、神の血を引くと言われる月読様を、君主として朝廷を造るのじゃ」

 月読を君主にした朝廷。
 牛利も、それならこの国でも受け入れられるように思えた。

「大陸では、戦で勝利した者が王をかたるため、争いごとが常に絶えない。今も三つの大国がそれぞれ王を立て、血で血を洗う日々が続いている。そのことはおぬしも身を持って感じてきたであろう」

 難升米の指示で、魏と対立する呉との戦いの日々を過ごしていた牛利の脳裏に、無惨な戦場の様子が鮮やかによみがえって来た。
 毎日のように女子供関係なく、数えきれない数の罪の無い人々が殺害され、無造作に捨てられた死体で川が埋もれるほどになることもあった。

「この国ならば、魏よりも理想的な朝廷が造れるような気がするんじゃ。どうじゃ、共にこの夢を実現させぬか」

 牛利は大きくうなづき、まっすぐ異国の男の目を見据えた。





 牛利の話を聞き終えた月読は、しばらく言葉を失っていた。

「すまなかった。何も知らずお前のことを疑って……」

 ようやく言葉が出てきた月読は、そう言って牛利に深く頭を下げた。

「もったいない!よしてください」

 慌てて牛利は、月読に姿勢を戻すように促した。

「お前は、家族がいると、命が惜しくなると言っていたが……」

「同じ事です。弥鈴を失って、私にはもう何も失うものはありませぬ。数多あまたの命を奪ってきたこの穢れた命でもよろしければ、あなた様のために喜んで差し出します」

 月読は再び言葉を失い、牛利の瞳を見つめた。
 そしてしばらくして、真剣なまなざしを大男に向けて言った。

「いつか、邪馬台に戻ったら、お前の妻の生家のあった所にやしろを建てよう。そして、お前はその社を守り、穏やかに暮らすのだ」

 月読の言葉に、牛利は信じられないという表情で、何度も小さく首を振り続けた。
 何より、月読が弥鈴を自分の妻と呼んでくれた事が嬉しかった。
 この時、初めて天から二人のことを、夫婦として認められたような気がしたのだ。

「社を守る者がいなくては困る。だから、絶対にお前は死ぬな」

 月読は、牛利の腕を掴み、まっすぐ力強い視線で大男を見つめた。
 牛利は、思わずうれし泣きしている自分に気が付いた。
 どんなに苦しくても、哀しくても涙など出なかった自分が、こんなに涙もろいとは、この時初めて知った。
 そして、改めてこの若い皇子を、命を懸けて支え続けようと心に決めた。
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